鮮明な月

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間章 アンノウン

間話23.知ってる

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「お前…………知ってる…………お前。」

両側を若い屈強な男に挟まれて座席に座らされているその男は、ブツブツと独りで同じ言葉を単調なリズムで繰り返している。先程まで人並み外れた行動をみせて竹林で暴れていたのが嘘のように、矢根尾俊一は取り押さえられた途端に大人しくなっていた。その矢根尾俊一を以前の都立総合病院のあの隔離室ではなく、改めて警察病院に移送を決めたのは上層部としては英断だと風間祥太は思う。
実際何故最初の隔離措置が都立総合病院だったのかといえば、夏前の事件で警察病院では隔離室にいれていた筈の三浦和希に逃げられただけでなく、関連して三人もの死者を警察の監視下という状況で出してしまったのだった。しかもその内二名は(一人は警察所長で、もう一人は一課の刑事だったのだが)現職の警察官で、後の一人は重要な事件の容疑者だ。その為警察の管理体制を疑問視されたのだが、風間に言わせれば都立総合病院だって管理体制には大差がない。何しろ前回、最初の三浦和希の脱走は、今回の矢根尾の逃走とは違って隔離室内からの脱走だったのだ。しかも、その隔離室からは三浦を監視をしていた筈の男の遺体も見つかった。今回の矢根尾の逃走は、看護師が矢根尾は活動力がないから大丈夫と過信して、誰の監視の目もないまま廊下に放置したのが原因ではある。

「知ってるぞ…………お前…………。」
「五月蝿い!黙れ!」

矢根尾の左隣に座っていた警官が低い読経のようなその声に思わず怒鳴り付けるのが聞こえて、風間は落ち着け・気にするなと機械的に口にしながら矢根尾のことを眺める。当の矢根尾は怒鳴られたのにまるで気がついていない様子で自分の足元を見据えて、自分の足の間の床に何かがいるようにブツブツと話しかけている風に見えた。

「知ってる…………知ってるんだ…………。」
「何をだ?矢根尾。」
「知ってる…………、知ってるぞ…………。」

以前矢根尾が街中で倉橋亜希子を奴隷呼ばわりして捕まえようとしていたのを、通りかかった風間が止めたことがあった。あの時も大概おかしなことを口走っていると思ったが、今ではこの通り会話すら通じなくなってしまっている矢根尾の姿。こんな風にに人が変わる原因は、一体なんだろうかとは風間も思う。恐怖なのか後悔なのか、それすらも分からないが、倉橋亜希子はあれから行方不明になり矢根尾は狂ったままになってしまった。

「知ってる…………お前が、したこと。」

何を知ってると言いたいのか。矢根尾が一体何を知っていて、誰に向かってこれを繰り返しているのか。あの時嵐の中の竹林で何があったのだろうとは、正直風間も知りたいとは思う。だが、それは全て闇の中に沈んで、矢根尾と消えた倉橋亜希子だけの秘密になってしまった。二度直接に会話をした事があったが倉橋亜希子は穏やかな人物で、困っている人や怪我をしているような人を放っておけない人物だった。少なくとも無惨に竹林なんかで殺されてしまうような人間には思えなかったのだ。

「倉橋……か。」

そう呟いた風間の声にピクリと何故か矢根尾の頭が反応して、その口元が両側の男達には見えないように俯いたまま奥歯を噛み締め歯を剥き出して笑いを形づくる。それは見えていればかなり異様な表情で嘲笑うかのようにも見えるのに、矢根尾は声をたてて笑うでもなくただ足元を凝視したまま表情を顔面に張り付かせて凍りつかせていた。

「もうどうでもいいから、早く移送してしまいましょう?」

どうせこの男からは何も得られないと分かっていると言いたげに口にした言葉に、素直に従うように車が音をたてて動き出す。そうして足元の闇を睨見つけたままはを剥き出した矢根尾を連れて、車はその場を走り去っていく。



※※※



何があったのかと聞いて、またショックで記憶が無くなるなんて可能性を思うと下手なことは聞けない。だけど実際のところ気にかかっているのは事実で、クタッと胸の上に脱力している了のことを抱き締めながら宏太は考え込む。
記憶喪失なんて良くいうが、実際の診断名は解離性健忘という。解離性健忘の『解離』とは、特定の心理や行動が、普段の意識から切り離されてしまう状態を言う。大きなショックやストレスのかかることから精神を守るための、無意識的防御機制と定義されているのだ。解離のともなう精神疾患『解離症』はいくつかあり、記憶、同一性(自我や人格)、知覚、意識、行動などのうち一つ、または複数に混乱がみられるのだというが、解離性健忘は記憶が解離するタイプの解離症というわけだ。
解離性健忘の主な特徴は、心的外傷(戦争、天災、事故、犯罪、虐待といった強い精神的衝撃)や、強いストレスとなる出来事の記憶(数時間~数日間の記憶)を思い出せなくなること。薬物や他の病気、外傷などの影響ではないし、それは精神的な衝撃によって引き起こされるのだというが。

了がショックを受けたのは……矢根尾と至近距離で鉢合わせただけなのか……?

確かに以前矢根尾を遠目に見ただけで了は嘔吐し意識を失っているのだから、それが突然至近距離に現れたら強い衝撃ではありそうだ。だが、それで何故自分のことだけ限局して、記憶から抹消することになるのかが分からない。まるで宏太に関する事だけ消せと命令されているみたいに自分だけ忘れて、坂城恭平も結城晴も記憶にはあった。名前の次に傷ついたのはそこだ。

「何で…………俺だけ………………なんだよ。」

思わずそう呟きながら、胸の上の了の柔らかな髪の毛に顔を埋める。何で外崎宏太だけを限局して忘れるなんてことになるのか。ハッキリ言わせてもらうと、生まれてこのかたこんな苦悩に追い込まれた経験なんてなかった。一番大事な存在に無惨に切り捨てられるなんて、二度と経験したくない。

「くそ…………。何でだよ………………。」
「…………ぉた…………。」

しまったとは思うが胸の上なのだから了に、宏太の独り言は簡単に耳に聞こえたにちがいない。モソモソと胸の上で身動ぎして視線をあげた了が、宏太の顔をボンヤリと眺めているのが視線の熱で感じ取れる。

「ごめん、こぉた。」
「…………謝んな…………。」

謝られると思わず理由を問い詰めたくなるのは、ただ単に自分が納得できないからなのだと分かっている。こんな風に不条理だと不満を持つなんて経験が今まではなったから尚更原因を追求したくなってしまうのは、宏太自身だって我が儘なのだとも思うし分かっているからこそこれ以上了に負担もかけたくないのだ。そうすると謝るなとしか言えないけれど、胸の上で顔をあげた了はジィッと宏太のことを見つめたままでいる。

「こぉた…………?」

そっと躊躇うような了の声がした後、延び上がってチュと唇に了のものが触れた。その行為事態が実はとんでもなく腹の底にズンと響くのに宏太が思わず顔を背けると、了は少しおかしそうに声をたてて笑いながら宏太の肩に顔を押し付ける。

「俺………………さ?知ってるぞって言われたんだ…………。」
「あ?………………矢根尾にか?」

躊躇い勝ちな言葉の先で了が微かに頷く。あの時了が街中で矢根尾と鉢合わせたのを宏太は知っていて当然と了が考えているのは分かるし、それでも思い出すのが怖いのか微かに体が震えているのに宏太は確りとその体を抱き止める。

「お前のこと、知ってるって言われて、目の前が真っ暗になった…………。知られてても、どうしようもないのに、また何かされるのかって…………。女々しいな…………俺。」

知っている。お前と呼ばれ、知っていると言われた。つまりそれは過去自分が矢根尾の性欲処理に使われた人間だと当の矢根尾が知っているのだと、了は絶望したのだというのだ。あの時は体内に捩じ込まれた訳ではなかったが、今はバイセクシャルの了は宏太と暮らしていて男の逸物を受け入れることが可能で。成人している男なのだから抵抗して逃げ出せばいいたけなのに、まるであの時の子供に戻ってしまったようにただ絶望に飲まれたのだ。そしてもし無理矢理されて快感を少しでも感じてしまったら?そんなことを考えてしまった事すら嫌悪感があって、絶望は暗く了のことを飲み込んでいく。

「それで…………矢根尾とことも…………矢根尾にされたことも、それに関係したことも全部消えたらいいのにって…………思ったんだ…………。そしたら……綺麗な…………。」

言葉にするのは正直胸がモヤモヤするのだ。綺麗な体なんて表現女々しいと思うし、無駄な考えなのだとは了だって分かっている。あの男よりもっと淫らで性的なことを今の方がしているのだし、元はずっとあの程度のことと考えてきた筈なのだから。それでも一番嫌な記憶から逃げようとしたら、その先の全てが意図も容易く破片に砕けてしまったのは分かった。

矢根尾にされたことのせいで、誰からも淫乱な人間だと思われたから、忘れたい。

だけどその後の了の自由奔放さも淫乱な人間だったからで、その先をも止めて右京に出逢ったのも同じで、その先に出逢った宏太とのことも記憶が断片になってしまって。でもそれで分かったのは、矢根尾のことを忘れられても、砕けてしまったら自分が自分ではなくなってしまった気がした。

「…………ごめん、やな、思いさせて…………こぉた。」

ほんの数日だけど、宏太が何度も傷つく顔をしたのに今は気がついている。それに何で不機嫌だったかも、何であの時の了に声もかけずに出ていったかも、元通り記憶を繋いだ了にはちゃんと分かる。何しろ記憶が断片的でも目で追っていたのは宏太の姿ばかりなのだと、我に帰ったら気がついてしまうのだ。

「…………記憶が無くても?」
「……ん。だって、気になる、し。」

断片的に、性的な記憶は抜けても、結局目で追ってしまうのは宏太ばかりで。結局は何一つ変えようがないのは、自分は記憶が云々はもう無意味なんだと思ってしまった。

「宏太……のこと、しか、気になんないし…………惚れてる、し。」

宏太を傷つけてしまったことに謝りたかったのと一応はそれについての言い訳なのかもしれないが、ポチポチと胸の上でそんなことを言い出した了。上目遣いなのだろう視線の熱と吐息が鎖骨の辺りと顔を交互に動いていて、時々宏太がどんな反応なのか心配そうに眺めているのが分かっている。

分かってるか?お前。

ここでそれをじっとしたまま聞かされているのは、地味に拷問のようだ。拷問とは言っても別段苦痛だと言いたいわけではなくて、何なんだその初々しい恋でもしているような発言と行動。よく了からは宏太の方がおかしいと言われるが、どう考えても今の了の方が可愛くて宏太は悶絶しそうになっている。

「ごめんな?宏太…………俺、でも宏太のこと、愛して……る……から。」

プチンと理性の糸が限界を迎えて、迷わず胸の上の了を抱き上げ空かさず押し倒したのは言うまでも…………ないだろう?



※※※



「倉橋と言います。」

穏やかでにこやかな微笑みを浮かべた相手に、男はドキマギしながら自己紹介を始めていた。いや、ドギマギするのは仕方がない。目の前にいるのは艶やかな黒髪に赤い縁の眼鏡をかけた若々しい美女で、フックラとした肉感的な唇に、長い睫毛に黒目勝ちの瞳。スレンダーな体でスーツの上からでも分かる完璧な体のラインは、思わず淫らな行為を妄想してしまう素晴らしさだ。

ああ、あの胸元…………

既製品のスーツのシャツでは恐らく合わないのだろう。それでも着ているブラウスの前のボタンの盛り上がりは下の大きな胸を強調していて、顔から僅かに視線を落とすと胸に視線が落ちるのだ。しかも勧めた椅子に腰かけた時、それがタユンと柔らかそうに上下に揺れたのも見落とさなかった。
面接だというのにこんな不謹慎な思考回路でとは思うが、思わずこのまま淫らなことを妄想させてしまうのは相手の放つ空気感からだ。いや、そういうのは真面目に面接を受けに着ている彼女には失礼だとは思うが、ボタンを外して胸元に逸物を挟み………………

「あの…………。」

戸惑いながら首を傾げ、問いかけてくる相手に慌てて話し始めたが。話している方は、完全に上の空。頭の中では目の前の机の上に淫らな格好で誘いかけてくる相手が性行為を求める言葉を放つ。

早く……ぅ

何故こんな妄想に耽っているのか、実は自分でもよく分からないでいる。自分は今までに一度もこんな風に欲望を感じたことはないし、ここは仕事場でしかも面談の相手にこんなふうに。頭の中がグルグルと渦巻いていくのを感じていた自分に、不意に目の前の彼女は妖艶な微笑みをその美しい唇に敷いて内緒話をするような仕草で口を開く。

ヒョウ…………

その口から奇妙な哭き声のような声が溢れ落ちたのに、男はまるで気がつかない。
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