鮮明な月

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第十六章 FlashBack2

204.

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仁聖がそんな態度をあからさまにとった相手は、金子でもなければ何か不快感を持っていた相手でもないのだ。隠しもせず不機嫌そうに普段の愛嬌のある笑顔でも返答でもなくて、しかもそれを投げつけたのは一番大事な恭平。仁聖が恭平に対して、そんな態度をとる理由なんて本当は何一つなかった。それなのに恭平がなぜ不機嫌なのかと問いかけてきたのに仁聖が何も答えないでいたら、自分には問いかけられたくないのか?と心配そうに恭平が見上げてきた。それを考えた瞬間、不意に胸の奥がはぜたような感覚に堪らなくなった。

自分とは八つも年が違う、大人の榊恭平。

仁聖は彼に早く追い付きたいとずっと思っているのに、そのままでいいなんて何時も甘やかして抱き締めて微笑む唯一で大事な人。そんな恭平だからこそ仁聖のこの胸の奥の熾火のようにジリジリと炙られるような胸の痛みは、多分彼には永遠に分かって貰えないものなのだと思う。だって恭平は仁聖より年下には絶対にならないのだし、大人になりたい仁聖に微笑んで大人にならなくていいなんて言うのだから。

「恭平には…………言っても分かんないよ。」

胸の中にあった言葉を咄嗟に仁聖が突き放すように口にしてしまったら、恭平は驚いたように立ち尽くして瞳を見開いていた。そして暫しの逡巡の後に戸惑うように視線を足元に落として、そのまま更に黙り込んでしまったのだ。そんな恭平を見たことがなくて、仁聖も言葉に詰まってしまう。

何…………いってんの……俺………………

それを言ってしまってから、仁聖自身が何を言ってるんだと激しくて深い自己嫌悪に陥ってしまっている有り様。仁聖の様子がおかしかったから恭平は心配して声をかけてくれたのに、それに対して答えとして返していい言葉じゃないのは分かっている。こんな自分勝手な感情を、心配してくれているだけの恭平にぶつけるなんて八つ当たりにも程があるのだ。大体にして恭平としては同年代の友人と偶々出逢って会話を交わしていただけで、自分が勝手にそれに加われないからと仁聖が不満に感じていただけなのだから。

「仁聖……、帰ろう………………。」

そう小さく恭平が呟いて、その気まずい空気のまま帰途を再び歩き出したけれど、こんな風に黙り込んだままなんて初めてで居心地も悪い。それでも上手く話を変えることも出来ないまま二人は黙ったままでいて。基本的には普段喧嘩になってもどちらかが直ぐに謝ることが常の二人で、こんな風に気まずい空気のまま歩くなんて今までにはなかったのに気がついてしまう。謝らなきゃと思うのに臥せられたままの恭平の睫毛を横に見ると、何も言葉に出来なくて仁聖は唇を噛んで黙り込んでしまっている。綺麗で大人の横顔が今一体何を考えているのか仁聖には想像もつかなくて、重苦しい雰囲気を纏ったまま二人は並んで歩き続けていた。



※※※



比護耕作と会うのに夜の『茶樹』を指定したのは、それなりの意図があるのは言うまでもない。比護が何で三浦事件に探りをいれ始めたのか知る必要もあるし、宏太の身の回りの事を調べているなら久保田惣一や関係者はチラホラしてるだろう。それに久保田のテリトリーでなら宏太にとっては安全性も高いし、何よりも了が大人しく家で待つことを了承しなかったのだ。

分かってるよな?約束。

そう淡々とした口調で言った了が一人で宏太を外に出すつもりが毛頭ないのは聞かなくても分かったのだが、出来ることなら自宅に置いておきたかった。比護が何を調べたくて自分にアプローチをかけてきたのか、何となくなのだがこちらが調べた事から見え始めてきたところだったからだ。
そんなわけで目下客足の途絶えた『茶樹』のカウンターには宏太と了が並んでスツールに腰を掛けて、久保田は目の前で不機嫌を気配だけで発しながらティーポットを磨いている。因みに久保田が不機嫌なのは言うまでもなく、海外からの友人が自宅にきているとは言え松理を一人にしているからであって比護の事はまるで眼中にあるわけではない。ホールスタッフ二人は当に帰宅しているし、厨房の鈴徳は久保田家でおさんどんをしに不在中。客足の途絶えたのをいいことに深碧のドアの表はcloseに掛け変えられていて、事前にそれを伝えられていなければ店内の照明も落とされていて中には入ってこない筈。

「全く…………何が知りたいんだか…………。」

不満そうな口調でポットを覗き込む久保田は溜め息混じりにくもってると呟き丹念にポットをもう一度磨き始めていて、白磁のポットにしか見えない了はそのくもりがどこにあるのと覗き込む。そんな矢先躊躇い勝ちに恐る恐るといった顔でドアを押し開けた男は、言うまでもなくあの落ち着きのない痩せぎすの金子物流の営業マン…………を装っていたフリーライターだという比護耕作だ。

「いらっしゃい。」

棒読みの久保田の声に僅かな怯む気配を伺わせはしたものの、カウンターの前の宏太の姿に比護はその場にいる他の二人を眺めて歩み寄った。誰かがいることに何も言わないところを見ると、外崎宏太と了以外にも、少なくとも久保田惣一に関してはある程度調べはしている様子だ。

「はじめまして、外崎さん……でいいかな。」
「挨拶はいい。何が知りたくて探り歩いてんだ?ん?」

珈琲を含んだのが初めてみたいに苦い顔をしているのに気がつけるのは、宏太をよく知っているし理解している了くらいなもの。本当は比護には逢わずに事を納めようと画策していたのだろう宏太は、苦々しい感情を声には出さずに淡々と問いかける。比護はそれには気がつかないでいるのか、宏太の横顔を眺めるとスツールに腰を下ろしてゴソリと小脇に抱えていたブリーフケースを探った。ガサリガサリと大量の紙束の音がして、比護のブリーフケースから引き出されたのが紙の束を挟んだクリアファイルのような物だと音で宏太は判断しながら眉を潜める。

紙束?目が見えねぇの知っててか?

バサリと音をさせてカウンターに置かれたファイルの硬質の音。そしてそれを滑らせて差し出したのは、久保田惣一と了の前らしく、惣一が目を細めて磨いていた白磁のポットを置いてファイルを手に取ったのが分かる。

「これは………………。」

パラパラと捲って目を走らせた惣一が低くそう呟くのに覗き込んでいる方の了はファイルの意味が分からない様子でいて、宏太に向かって比護は伺うような気配を滲ませながら口を開いた。

「………………それ、とあるフリーライターから私に送り届けられたものです。」
「…………それで?」

まだ内容を惣一が口にしない上に、盲目の宏太には紙媒体では何も分からない。それでも比護は言葉を止めることはせずにユックリと言葉を繋ぎながら、そのファイルが昨年の丁度今頃に手元に送られてきたのだと言う。

「あなたら……そのフリーライターのこと調べましたよね?外崎さん、久保田さん。」

その言葉に宏太の顔がそう来たかといいたげに、僅かにだが曇るのが了には分かる。宏太には今の言葉に思い当たる節があって、しかも恐らくはそれを何処かで予期もしていたのだろう、宏太は珈琲を一口口にしてから低く抑揚のない声で呟く。

「それ、竜胆貴理子のファイルか。比護さん。」

竜胆貴理子。最近では殆んど聞かれなくなったのだが前年の年末はこの名前は日々連呼されていて、近郊で暮らしている人間なら『竜胆貴理子』と聞いたら誰もが顔色を変える。年末に都立第三高校に侵入した爆弾テロの犯人の名前で、その女は爆死したとも逃げ回っているとも言われているが、今のところ遺体も発見されずにいた。爆弾テロと騒動の最中密かに色々な事件が起こってもいて事件の最中に了が街中で抱き合う榊恭平と源川仁聖を見たなんてこともあり、同時期に別な方面では宏太が三浦事件に関わってもいた訳なのだ。
その竜胆貴理子は密かに三浦だけでなく他の事件に関しても調査を長年行っていた形跡があって、その調査を纏めたファイルが実は幾つか残されていた。それの一部を持って三浦を含め様々な事件の捜査をしていたのが宏太の幼馴染みである遠坂喜一で、宏太も三浦事件の関係者である事もあって手を貸してきたのだが。

「あんたに送られたのは、あんたも関係者だからか?」
「…………関係者?宏太どういうことだい?」

比護に関して惣一にはまだ何も連絡していなかったから、惣一は比護耕作と聞いても何も気が付かない。何しろ宏太にしても比護耕作が自分を調べていると聞いて、暫く比護自身を調べていても暫く気が付かなかったのだ。それでも宏太が比護にそう問いかけたのに、比護は自分のことも調べられたのには気が付いた様子を伺わせた。
そして竜胆が彼に送りつけたファイルの殆んどの内容は、竜胆が表だって関わった唯一の訴訟である事故に関するものだ。竜胆貴理子はフリーライターに転身する前には、船舶航海のためのプログラミングを作成したシステムエンジニアだった。そして前歴の調べられない彼女が唯一裁判での証人として法廷に立った、恋人でもある航海士が引き起こした豪華客船の沈没事故。最初はプログラムの問題とされていたものが、後に夜間航海の最中プログラムを停止させられ船舶は岩礁に船底を乗り上げ修復の不可能な状態となった。そしてそのまま僅か数十分で浸水し、海溝の底に半分以上の乗船客とせんいんとともに沈んだ。

「あんた、船舶事故の航海士の弟だろ?」

その船舶の航行プログラムを停止した男が比護博臣といい竜胆貴理子の婚約者でもあったのを知っているのは、既に船舶事故事態が風化している現状ではかなり珍しい。何しろ宏太自身が知っているのは密かにその船舶会社に投資を行っていて当時裁判を見に行ったからでもあって、流石に比護耕作の方はそこまで知っているとは思っていなかったらしい。だが、それを口にしたことで比護の疑問は更に膨らんだ様子だ。

「…………それで、今更、俺に何を聞きたいんだ?あんたは。」
「あんたが三浦を貶めた理由。」

その言葉に思わず宏太が口をつぐむ。
比護耕作が竜胆ファイルから何を読み取ってこう問いかけているのか、それは聞かなくても分かる気がしてはいた。様々な証明の結論として竜胆のプログラムが問題だったのではなく、諸悪の根元は何かを考えてプログラムを停止した比護博臣だとされ、その後比護の身内は周囲の糾弾に怯え姿を消した筈だ。そして実はその事件だけでなく、他にも多人数を死傷させた事件の首謀者である男が、密かにこの街には闇の中につい半年ほど前まで存在していた。

進藤隆平

多くの事件の首謀者で暗躍し、そして三浦和希の生物学上の父親でもあり、三浦を殺人鬼にするだけではなく完全なモンスターに作り替えてしまった。件の当人もモンスターとも言える行動と意図で悪意の塊として君臨し、そしてアッサリと表舞台から降りた途端に首を括られ死んだのだ。
比護博臣に何があってプログラムを停止したかは船舶を引き上げることも出来ないから証明は不可能だ。だが、船内には進藤が殺したい人間リストに上がっていた人物が乗船していて、国外へと外洋航海に切り替わる最後の碇泊港で進藤と思われる人間が下船したところまでは密かに調べがついてもいる。つまりは可能性ではあるのだが比護博臣は何らかの進藤の悪事を発見し、それを阻止しようとしてプログラムを停止したのかもしれない。それを竜胆貴理子は調べあげ、弟である比護耕作にファイルを送ったのだ。とはいえ事故からは既に年数が経ち船は海溝の底、それでも比護が宏太に問いかけたいのは宏太が何らかの調査で船舶事故の内情を知っているのではないかということ。

船舶会社への投資は、その事故のせいで大損だった

だから宏太は裁判を傍聴したのだが、比護はそこに別な理由が存在するのだと思っているに違いない。
恐らくは投資の理由が宏太の元妻の父親の経営し宏太が勤めてもいた会社・片倉と関係していて、そこに対抗する社の動きを見て片倉に当て付けで投資したのとか?更には元々進藤が絡んできて船舶会社への投資は失敗すると知っていて、宏太が投資したのだろうとか?そして三浦が進藤の息子である事を最初から知っていて、貶め、進藤の狙いどおりの存在に仕立て上げたのだろうとか?

つまりは進藤の計画の一端を俺がやったんだろうと。

そう後から大局で見れば、外崎宏太自身も自分がどれだけ進藤に上手く使われたかは分かってもいる。何とか足掻いてそれから逃れようとしたけれど、助けられずに失ってしまったものは数えきれなくてどれだけ苦い思いをしたか。それを口で説明なんて出来る筈もないし、苦く、そして痛みすら生々しくて、息がつけないほど

「宏太。」

不意にその思いを振り払うような柔らかな声に引き戻されて、宏太は我に帰ると声に視線を向けていた。気が付かぬ間に痛い程キツく握り締めていたらしい宏太の手を、ソッと開こうと指を絡める了の指先を感じて宏太は不意に泣きたいと感じていた自分に気がつかされる。それに自分よりもずっと先に気が付いている了の方が、泣けない宏太の変わりに泣き出しそうな心配そうな声で自分の名前を呼ぶのだ。
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