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20代の話 Holic
35.蜥蜴の尻尾
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何の対策も講じないただの隠遁生活が状況どう好転させる可能性があるというのだろうか。結果として事態は何も変わらず、一時の溜飲を下げる為に見せた私のもう1つの顔はその患者にとって違う意味として変換されてとらえられたとしか思えなかった。
あからさまな無責任な病院の態度にシュンイチは酷く怒りはしたものの、名目上私と何のつながりもない彼にできることはただ一緒になって不気味に見送られ続けるメールを見て怒る位の事だけで、結局は何も代わりがない。その不気味な緊迫感と焦燥感が、堕胎した事とあいまって私自身の心の均衡を更に崩し始めていた。
我侭を通して関東にまで引っ越した私はもう戻れないと心のどこかで考えていた。そして、まだ心の中では彼を信じていたし、最終的にはいつかハッピーエンドが来ると願ってもいた。だが、その思いがあっても私に耐えるには重すぎて、一緒に背負ってほしい男に其処までの余裕がなかったような気がする。
緊迫感と焦燥感。そして罪悪感。
それはやがて私自身の全てに暗く重くのしかかり、謹慎が解けたはすの私の足を鈍らせる。
―――仕事に……行きたくない……。
それがやがて≪仕事にいけない≫に変わるまで、そう長い時間はかからなかった。それでも私は歯を食いしばって自分の感情を押さえ込み職場に通い続けたのだ。しかし、誰もそれをフォローする気配も見せず、唯一の理解者であった同時期に勤めた友人が先にその職場を退職した事で私は更に孤独の色を深める事になった。私が謹慎している間友人にも同じような事が起きて、彼女は謹慎するよりも転職することを選らんたのだ。
まるでひっそりと孤独にただ自分の責務だけをこなす毎日が私を疲弊させていく。
それが眼に見えて分かるほどに私を覆いつくした、冬の最中。
街の中で独り買い物をする肩に触れた手の感触に私は凍りついた。今まで自分は透析の前処置でやむを得ず触れることはあったが、向こうから触れることはなかったのにおぞましくすら感じるその手の主を見つめた。
冬の夕闇の中に見たそのイワキという患者の姿に私はまるで異世界のものでも見るような気持ちで、一瞬気が遠くなるような気がする。
暗く血のように赤い夕焼けのなか半分逆光に暗い色合いに見えた姿で、何故かかけた眼鏡のレンズか光を反射して輝く。それなのに相手がニヤニヤと笑いながら私を見ているのがわかる。
まるで自分が深い闇の其処、深海にでも落ちてしまうかのような感覚。それから我に返ったのは、無情にもその男の口から放たれる酒精を帯びた異臭と言葉のせいだった。
「アキさん料理好きなんだね、いつも色々食材を買ってる。」
私は息を呑むような悲鳴を上げる。
いまだに続くメールは読みもせずに消していた。
だが一度も直接接触してこない事で、日常生活のなかでは何もしてこないだろうと思い少し慣れがあったのは事実だ。家の中までは覗かれない、そう思えば少しの時間以外は安全地帯である家の中に篭ればいいとすら考えていた。直接何かされるわけてはないから、覗かれないように気を付ければ良いだけと、どこかで思っていた。
自分より一回りも年上の酒の匂いを撒き散らした男の息を傍に感じた瞬間、私の心の均衡は大きく音を立てて崩れていく。
―――もう耐えられない。
私は肩におかれた手を振り払って逃げる。
透析で水分制限もありアルコールの代謝も上手くできない体で酒を飲む患者の事などどうでもよかった。それは看護師としては間違っているかもしれないが、これ以上は自分の心が耐えられないと思った瞬間でもあった。私は無理を承知で翌日もう一度朝一番で配置換えを真剣に上司に申し出たのだった。
守って欲しかったのは私の生活だった。
守って欲しかったのは権利や当たり前に望めるはずの安心だった。
だが、それは結果として守られず、全て自分自身でどうにかするしかないと突き放されただけだ。
それをどうしたらいいのか、私はもうわからなかった。
自分のみを守る事を優先すれば仕事が成り立たないのは明確だ。上司のそっけない態度に悔し涙が滲むのを感じながら、私は重い口を開く。
「……辞職させてください。」
その言葉をまるで待っていたかのように上司は彼女をひきとめもせず、その上即日寮を出て行くようにと言い渡した。唖然とした私が口を開く。
「まってください、引越し先が決まるまで少し猶予を頂かないと。」
「でも職員でもないのに寮にいたらおかしいでしょ?」
ふざけるなと口から啖呵を切りそうになって私は唇から血の味が滲むほどにきつく唇を噛んだ。
今更だが、目の前に悠然と座る上司が私が口にする前からそのつもりだった事がハッキリとわかった。最初から私を助ける気はなかったし、面倒な事も含め自分の存在を突き放す事で解決しようとしていたのだ。
その場の中で、以前他の部署のスタッフが給料の滞納で、退職したという噂を耳にしていたのを思い出しパズルのピースがはまっていく気がした。
目に見えないところで、嵌められていたのだ。私と比較すれば、もっと長い期間ここで働いたスタッフは多くいた。そちらはもっと現状の把握をしているから簡単に退職はしないだろうし、大体にしてなれた職場をみすみす辞めることもない。何より私と先に辞めた友人のようにまだ期間の短い勤務しかしていない方が退職金も払わなくてすむし、こちらから言い出せば後腐れなく辞めさせることができる状況だった。
経営不振で給料の支払い滞納が続いている病院で、収入源である患者を切るはずがない。それよりは蜥蜴の尻尾のように簡単に切れる状況にいたのが、私であり私の友人であり、他の職種の退職したスタッフ達だったのだろう。
私は必死に冷静さを保つよう勤めながら数日でいいから猶予を下さいと頭を下げる。気が狂いそうな怒りと悔しさで眼がくらむような気がした。そしてその後には、深く強い悲しみが心に影をさす。私は涙を堪えながら、同僚達の見つめる前で自分のロッカーの私物を、自分のバックに押し込む。
誰からも声をかけられたくなかったし、誰にも声もかけたくなかった。
―――馬鹿にして……。
自分が切り捨てられたのだという現実が痛かった。
何時かは生え変わるから切れてもかまわな蜥蜴の尻尾と同じ。私は燃えるような怒りの浮かぶ瞳で、今や元と名のつく同僚を一瞥し、其々の瞳の中に私が思っているのを肯定する光を見る。同情の思いが浮かぶ視線に、もう何も口を開こうともせずに踵を返した。
職場を出て病院の目の前でシュンイチに電話をかけて、全ての顛末を話す自分の声が何時になくヒステリックに聞こえてうんざりした。だが、いつもとは違ってただ全てを聞いていた彼は、私が息を切らして話を区切ると静かに言葉を紡ぐ。
「頑張ったね、アキ。」
その声は酷く私の心に響き、目から涙が溢れ出した。
誰も助けてくれなかったが、それでも唯一の相手に認めてもらえるものがあった事で、怒りや悔しさが涙に代わるのを感じる。これからどうしたらいいかも分からないが、少なくとも何か行動をおこさなければならない。
そう思った瞬間、電話の向こうで緊張した声が言葉を放った。
「一緒に住まないか?アキ。」
辞職を申し出て、僅か三日のうちに新しいマンションに引っ越すというのはありえないほどの強行軍だった。確かにもう職員でもない其処にいる必要性も感じなかったし、運よく彼の家の傍に二人で住むのに適当なマンションの空き室が見つかった。それを幸いに私は一先ず先にそのマンションに引っ越す事になった。
私とシュンイチは法律上は何も関係がないのだから住居を借りる際に、ハッキリと婚約者と彼が言うのに驚き眼を見張りながらも必要な手続きをその場で取った。実際には今は無職とはいえ、国家資格をもった看護師である私のほうが身分が安定していた。再就職もしやすい上に収入予定も貯蓄もあったので、私の職種と名前が不動産屋さんにスムーズに事を運ばせた事は事実だ。その上、私が即金で敷金・礼金を払えた事もその理由ではあったのだろう。そして更に運のいい事に運送屋も格安で三日とうい最短で引っ越してくれることになったのだ。
少しの間は上司にも病院自体にも裏切られたという気持ちが心に傷みは感じるかもしれないが、この場所から離れて監視の眼から逃れられれば新しい世界が開けるとも思えた。何より看護師自体が嫌になったわけでもないし、私自身まだ看護婦でありたいとも思っていた。。
それに、私にとって彼からの同棲の申し出はある意味、一歩また距離を縮めるような気もする。
新しい生活でこうしたいああしたいと思うことは様々あったが、何をおいても傍に誰かがいてくれると思うことが私にとっては一番嬉しかった。
「これ何処におけばいい?」
その言葉に荷物の梱包を説きながら私は視線をダンボールを運ぶ彼に向ける。私の心は少し仕事から離れ、危機感からも逃げた事で平静を取り戻し始めていて久々に晴れやかな微笑で其処においてと明るい言葉が零れ落ちた。その姿に彼も微かに嬉しそうに微笑む。
それから一ヶ月の間に彼も少しずつ荷物を運び込んで1ヵ月後には完全に同棲が始まる予定ではあった。
「荷物まとめに、昼間いってもいい?」
「うん。俺仕事だから分かるところお願いするよ。」
仕事が見つかるまでの間私は俊一の部屋の掃除も同時に行うことにしていた。今度はもっときちんと病院を見定めてから就職しよう、私は心からそう思いながらも、今は穏やかに落ち着いた水面を思わせるような瞳で微笑んでいた。
そんなある日、不意に二人で遊びにいこうと彼に誘われ、近郊のゲームセンターに足を運ぶ。あまり賑やかな場所が得意でない私の手を引いて、彼が珍しくあれやこれやと私に問いかけてくる。暫く連れ歩かれた後疲れたとベンチに座る私に缶ジュースを手渡して彼は何かを探すように姿を消した。
あんまり賑やかなの得意じゃないんだけど……
疲労感を感じながら賑やかな店内を見回す。缶ジュースの空き缶をゴミ箱に入れて再びベンチに腰掛ける。見える範囲に彼の姿はないし、暫く経つから探しにいった方がいいのかと一人悩んでいると不意に頭の後ろにポフンと柔らかい感触が被さってきた。
「え?」
訳もわからず両手をあげて、その真綿のような感触のものに触れる。モコモコしたそれを持ち上げ顔の前におろすと、見覚えのある熊のキャラクターのデフォルメされた姿が降りてきた。
「はは、やっぱり似合う。可愛い。」
「可愛い?うん、確かに可愛いね。」
「違うって、それ持ってるアキが可愛いよ。」
やっととれたと彼が溜め息をつきながら、横に座り私の頭を撫でる。私は熊の縫いぐるみを抱き締めたまま、頭を撫でられきょとんとしたまま彼の行動を見つめた。
「この間みつけてさ、アキが抱っこしてたら可愛いだろうなって思ったから。」
彼がそう言うのに初めて自分が可愛いと言われたことに気がついて、私は顔が朱に染まるのを感じる。それを彼は安堵したように微笑みかける。
そして1ヶ月穏やかな気持ちに戻りつつある自分を見つめながら彼の引越しの段取りもつけて私自身がまた新しい職場を見つけ、今度は何度か院内を観察した上で就職を決めたのは春先の4月の事だった。
あからさまな無責任な病院の態度にシュンイチは酷く怒りはしたものの、名目上私と何のつながりもない彼にできることはただ一緒になって不気味に見送られ続けるメールを見て怒る位の事だけで、結局は何も代わりがない。その不気味な緊迫感と焦燥感が、堕胎した事とあいまって私自身の心の均衡を更に崩し始めていた。
我侭を通して関東にまで引っ越した私はもう戻れないと心のどこかで考えていた。そして、まだ心の中では彼を信じていたし、最終的にはいつかハッピーエンドが来ると願ってもいた。だが、その思いがあっても私に耐えるには重すぎて、一緒に背負ってほしい男に其処までの余裕がなかったような気がする。
緊迫感と焦燥感。そして罪悪感。
それはやがて私自身の全てに暗く重くのしかかり、謹慎が解けたはすの私の足を鈍らせる。
―――仕事に……行きたくない……。
それがやがて≪仕事にいけない≫に変わるまで、そう長い時間はかからなかった。それでも私は歯を食いしばって自分の感情を押さえ込み職場に通い続けたのだ。しかし、誰もそれをフォローする気配も見せず、唯一の理解者であった同時期に勤めた友人が先にその職場を退職した事で私は更に孤独の色を深める事になった。私が謹慎している間友人にも同じような事が起きて、彼女は謹慎するよりも転職することを選らんたのだ。
まるでひっそりと孤独にただ自分の責務だけをこなす毎日が私を疲弊させていく。
それが眼に見えて分かるほどに私を覆いつくした、冬の最中。
街の中で独り買い物をする肩に触れた手の感触に私は凍りついた。今まで自分は透析の前処置でやむを得ず触れることはあったが、向こうから触れることはなかったのにおぞましくすら感じるその手の主を見つめた。
冬の夕闇の中に見たそのイワキという患者の姿に私はまるで異世界のものでも見るような気持ちで、一瞬気が遠くなるような気がする。
暗く血のように赤い夕焼けのなか半分逆光に暗い色合いに見えた姿で、何故かかけた眼鏡のレンズか光を反射して輝く。それなのに相手がニヤニヤと笑いながら私を見ているのがわかる。
まるで自分が深い闇の其処、深海にでも落ちてしまうかのような感覚。それから我に返ったのは、無情にもその男の口から放たれる酒精を帯びた異臭と言葉のせいだった。
「アキさん料理好きなんだね、いつも色々食材を買ってる。」
私は息を呑むような悲鳴を上げる。
いまだに続くメールは読みもせずに消していた。
だが一度も直接接触してこない事で、日常生活のなかでは何もしてこないだろうと思い少し慣れがあったのは事実だ。家の中までは覗かれない、そう思えば少しの時間以外は安全地帯である家の中に篭ればいいとすら考えていた。直接何かされるわけてはないから、覗かれないように気を付ければ良いだけと、どこかで思っていた。
自分より一回りも年上の酒の匂いを撒き散らした男の息を傍に感じた瞬間、私の心の均衡は大きく音を立てて崩れていく。
―――もう耐えられない。
私は肩におかれた手を振り払って逃げる。
透析で水分制限もありアルコールの代謝も上手くできない体で酒を飲む患者の事などどうでもよかった。それは看護師としては間違っているかもしれないが、これ以上は自分の心が耐えられないと思った瞬間でもあった。私は無理を承知で翌日もう一度朝一番で配置換えを真剣に上司に申し出たのだった。
守って欲しかったのは私の生活だった。
守って欲しかったのは権利や当たり前に望めるはずの安心だった。
だが、それは結果として守られず、全て自分自身でどうにかするしかないと突き放されただけだ。
それをどうしたらいいのか、私はもうわからなかった。
自分のみを守る事を優先すれば仕事が成り立たないのは明確だ。上司のそっけない態度に悔し涙が滲むのを感じながら、私は重い口を開く。
「……辞職させてください。」
その言葉をまるで待っていたかのように上司は彼女をひきとめもせず、その上即日寮を出て行くようにと言い渡した。唖然とした私が口を開く。
「まってください、引越し先が決まるまで少し猶予を頂かないと。」
「でも職員でもないのに寮にいたらおかしいでしょ?」
ふざけるなと口から啖呵を切りそうになって私は唇から血の味が滲むほどにきつく唇を噛んだ。
今更だが、目の前に悠然と座る上司が私が口にする前からそのつもりだった事がハッキリとわかった。最初から私を助ける気はなかったし、面倒な事も含め自分の存在を突き放す事で解決しようとしていたのだ。
その場の中で、以前他の部署のスタッフが給料の滞納で、退職したという噂を耳にしていたのを思い出しパズルのピースがはまっていく気がした。
目に見えないところで、嵌められていたのだ。私と比較すれば、もっと長い期間ここで働いたスタッフは多くいた。そちらはもっと現状の把握をしているから簡単に退職はしないだろうし、大体にしてなれた職場をみすみす辞めることもない。何より私と先に辞めた友人のようにまだ期間の短い勤務しかしていない方が退職金も払わなくてすむし、こちらから言い出せば後腐れなく辞めさせることができる状況だった。
経営不振で給料の支払い滞納が続いている病院で、収入源である患者を切るはずがない。それよりは蜥蜴の尻尾のように簡単に切れる状況にいたのが、私であり私の友人であり、他の職種の退職したスタッフ達だったのだろう。
私は必死に冷静さを保つよう勤めながら数日でいいから猶予を下さいと頭を下げる。気が狂いそうな怒りと悔しさで眼がくらむような気がした。そしてその後には、深く強い悲しみが心に影をさす。私は涙を堪えながら、同僚達の見つめる前で自分のロッカーの私物を、自分のバックに押し込む。
誰からも声をかけられたくなかったし、誰にも声もかけたくなかった。
―――馬鹿にして……。
自分が切り捨てられたのだという現実が痛かった。
何時かは生え変わるから切れてもかまわな蜥蜴の尻尾と同じ。私は燃えるような怒りの浮かぶ瞳で、今や元と名のつく同僚を一瞥し、其々の瞳の中に私が思っているのを肯定する光を見る。同情の思いが浮かぶ視線に、もう何も口を開こうともせずに踵を返した。
職場を出て病院の目の前でシュンイチに電話をかけて、全ての顛末を話す自分の声が何時になくヒステリックに聞こえてうんざりした。だが、いつもとは違ってただ全てを聞いていた彼は、私が息を切らして話を区切ると静かに言葉を紡ぐ。
「頑張ったね、アキ。」
その声は酷く私の心に響き、目から涙が溢れ出した。
誰も助けてくれなかったが、それでも唯一の相手に認めてもらえるものがあった事で、怒りや悔しさが涙に代わるのを感じる。これからどうしたらいいかも分からないが、少なくとも何か行動をおこさなければならない。
そう思った瞬間、電話の向こうで緊張した声が言葉を放った。
「一緒に住まないか?アキ。」
辞職を申し出て、僅か三日のうちに新しいマンションに引っ越すというのはありえないほどの強行軍だった。確かにもう職員でもない其処にいる必要性も感じなかったし、運よく彼の家の傍に二人で住むのに適当なマンションの空き室が見つかった。それを幸いに私は一先ず先にそのマンションに引っ越す事になった。
私とシュンイチは法律上は何も関係がないのだから住居を借りる際に、ハッキリと婚約者と彼が言うのに驚き眼を見張りながらも必要な手続きをその場で取った。実際には今は無職とはいえ、国家資格をもった看護師である私のほうが身分が安定していた。再就職もしやすい上に収入予定も貯蓄もあったので、私の職種と名前が不動産屋さんにスムーズに事を運ばせた事は事実だ。その上、私が即金で敷金・礼金を払えた事もその理由ではあったのだろう。そして更に運のいい事に運送屋も格安で三日とうい最短で引っ越してくれることになったのだ。
少しの間は上司にも病院自体にも裏切られたという気持ちが心に傷みは感じるかもしれないが、この場所から離れて監視の眼から逃れられれば新しい世界が開けるとも思えた。何より看護師自体が嫌になったわけでもないし、私自身まだ看護婦でありたいとも思っていた。。
それに、私にとって彼からの同棲の申し出はある意味、一歩また距離を縮めるような気もする。
新しい生活でこうしたいああしたいと思うことは様々あったが、何をおいても傍に誰かがいてくれると思うことが私にとっては一番嬉しかった。
「これ何処におけばいい?」
その言葉に荷物の梱包を説きながら私は視線をダンボールを運ぶ彼に向ける。私の心は少し仕事から離れ、危機感からも逃げた事で平静を取り戻し始めていて久々に晴れやかな微笑で其処においてと明るい言葉が零れ落ちた。その姿に彼も微かに嬉しそうに微笑む。
それから一ヶ月の間に彼も少しずつ荷物を運び込んで1ヵ月後には完全に同棲が始まる予定ではあった。
「荷物まとめに、昼間いってもいい?」
「うん。俺仕事だから分かるところお願いするよ。」
仕事が見つかるまでの間私は俊一の部屋の掃除も同時に行うことにしていた。今度はもっときちんと病院を見定めてから就職しよう、私は心からそう思いながらも、今は穏やかに落ち着いた水面を思わせるような瞳で微笑んでいた。
そんなある日、不意に二人で遊びにいこうと彼に誘われ、近郊のゲームセンターに足を運ぶ。あまり賑やかな場所が得意でない私の手を引いて、彼が珍しくあれやこれやと私に問いかけてくる。暫く連れ歩かれた後疲れたとベンチに座る私に缶ジュースを手渡して彼は何かを探すように姿を消した。
あんまり賑やかなの得意じゃないんだけど……
疲労感を感じながら賑やかな店内を見回す。缶ジュースの空き缶をゴミ箱に入れて再びベンチに腰掛ける。見える範囲に彼の姿はないし、暫く経つから探しにいった方がいいのかと一人悩んでいると不意に頭の後ろにポフンと柔らかい感触が被さってきた。
「え?」
訳もわからず両手をあげて、その真綿のような感触のものに触れる。モコモコしたそれを持ち上げ顔の前におろすと、見覚えのある熊のキャラクターのデフォルメされた姿が降りてきた。
「はは、やっぱり似合う。可愛い。」
「可愛い?うん、確かに可愛いね。」
「違うって、それ持ってるアキが可愛いよ。」
やっととれたと彼が溜め息をつきながら、横に座り私の頭を撫でる。私は熊の縫いぐるみを抱き締めたまま、頭を撫でられきょとんとしたまま彼の行動を見つめた。
「この間みつけてさ、アキが抱っこしてたら可愛いだろうなって思ったから。」
彼がそう言うのに初めて自分が可愛いと言われたことに気がついて、私は顔が朱に染まるのを感じる。それを彼は安堵したように微笑みかける。
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