GATEKEEPERS  四神奇譚

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第三部

第十幕 沿岸部研究所敷地内

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唐突に麒麟の足元に姿を現して悌順が抱き止められたのは、意識を失っている香坂智美だった。抱き止められたその姿に、麒麟は眼を細めて顔を寄せたかと思うと小さくまるで泣くように澤江仁の口調でありがとうと囁く。それが何を意味するかは分からないが、それを切っ掛けにしたように潮の気配のする風が吹き込んで、辺りを包んでいた濃密な靄を切り払っていく。

「…………ここは……。」
《お前達が…………向こうに来た場所だ。》

智美を抱えながら辺りの、悌順はその言葉に人気もなく電気一つ点灯していない建物を見上げる。古めかしく彼らの両側を囲むように聳え立つ建物が唐突に靄の中に見えてきて、何故かお化け屋敷の廃墟に肝試しにやって来た気分になってしまう。
ほんの少しずつだが靄が流れ辺りがひらけていくと、そこは沿岸部の広大な敷地に建てられた東条の研究所。実際には三棟あった筈の真ん中の建物が存在した場所なのだが、四人は誰も上層の建物の外観を見ていない。そしてゲートごと地下を水没させた反動で密閉され気密性の高い建物が水圧に負けて崩壊したのだが、それは水を満たした悌順を初めとして四人には知るよしもない事だ。お陰で瓦礫と共に廃墟の様相は強く、勿論何処にも人気もないまま。

《他の奴等は上手く逃げた………。》
「他にも……?何人も撒き込まれているのか?」

東条の部下は全て地下で喰われたのは知っている。それ以外にここにいる者だけでなく他にも何人も捲き込まれていると知らないのは、意識を失ったままここに連れてこられ、いつの間にか向こう側の世界に移動していた信哉だけ。少なくとも地下のあの厳重な隔離室から志賀松理と鈴徳良二に助けられた三人は安堵の吐息を溢しながら、巻き込まれているのは誰なのかと問いかける信哉の背を見上げる。

《孝や、麻希子は透と一緒にいるし、衛は孝の両親達といる。》
「親父達迄、捲き込まれているのか?!」
「何で宮井や若瀬だ!!しかも衛?!」

身内が捲き込まれているのを初めて知った信哉と、教え子だけだなく幼馴染みの息子まで捲き込まれているのを知った悌順が揃って声あげて顔色をかえた。それを何とか詳しく説明させたくても、目の前の麒麟は彼等に説明する気もなく吐息のような静かな声で囁く。

《一人はもう無理だった……。》
「無理……?どういう意味だ?」
「捲き込まれた奴等は今何処に居るんだ?!」

ここまでの能力をもっている稀有な瑞獣は、金色の光を放つ瞳でふいと空を見上げる。彼らとは違い雨にすら濡れることのない金色の獣の視線は、既に関わってきた人間のことなど忘れつつあるように見えて四人は息を詰めた。

《そろそろ、いかないと…………。》

無理とはどういう意味だったのかと眉を潜めるのと同時に、信哉は麒麟の言葉に辺りの静けさに気がつく。潮の臭いが僅かにするが、潮騒の音は聞こえない。細かな雨の音に紛れる程に潮騒は凪いでいるのか、それとも麒麟の放つ威圧感に意図的に音が聞こえないのか。

「行くって…………そんな……。」

周囲に何も建物がないのか人の気配もない空気に、戸惑うような義人の声が響く。
麒麟の話からすればここには巨大なゲートが存在していた筈の場所だが、信哉にはゲートの気配は既に感じられないのだ。これかゲートが塞がれ存在しないのか、それとも自分達がそれを感じなくなったのかは今はまだ想像もつかないでいる。長い間感じて当然の日々を過ごしすぎていて、それを感じないのが何なのか分からなくなってしまっているのだ。

《……最後の一人は向こう側のモノになっていたから、連れてこれない。》

思い出したように麒麟の告げた向こう側のモノ。人間ではないもの、それは人外になった東条のことかと考えたのを遮るように、麒麟は音もなくフワリと空に浮かびあがった。
出来る限りの事を足掻いてしてくれたのは人間だった澤江仁であって、麒麟は異界の生き物で自分達とは感覚は相容れない。一人は無理だったの一言で終わらせる麒麟を無慈悲だと心の底で考えても、四人以外に十人以上もの人間を生かして、しかもここにいる七人をここまで麒麟が連れかえったのは事実だ。

《…………あれは……元々向こうのモノだ、向こうに帰っただけだ。》

心を見透かされてそう告げられ、それが間の子か何かで人間ではなくなってしまったのだと麒麟は言うのだ。それではやはり東条のことなのかと眼を丸くする信哉に麒麟は視線を下ろすと金色に輝く瞳を緩ませて、唐突にその何もない筈の宙にに崖でもあるように空中を蹴りあげる。

「待て!麒麟!!…………仁は…………っ?」

思わず信哉が口にした言葉に一瞬だけ視線を向けた麒麟は何も答えることもなく、見る間に光球に変わってまるで彗星が天に昇って行く。そうして雲を矢のように貫いた光が音もなく雲を一瞬白く塗り替え、見上げたままの四人を置き去りに全ては元の世界に塗り変わる。

こんなにもアッサリと、何もかもが…………

これで四神の全てが、終わるのだとしたら自分達はどうなるのか。四人が心の中で戸惑いを感じた瞬間、雨脚がほんの少しだけ強まった気がした。

「ただ……し?」

それを遮るように掠れた三浦和希の声が、雨の中に弱く響くのに四人は我に返る。既にそこには四人とそれぞれに抱えられた三人だけで、そこにあの麒麟がいた気配は何一つない。こんなアッサリと全てが終わってと何より苦々しく義人は感じながら、礼慈を抱えながら忠志と背負われた幼馴染みを見やる。解放感も達成感も、何一つ感じないこの状況に虚脱感が生まれ始めていた。
忠志と和希の同じような雨に濡れた金髪は、こうしてみるとまるで双子のようだ。

「気がついたのか?和希。どこか痛むか?」
「腕が痛む……。」

そえ背負われていた和希が声をあげたのに、背から下ろしながら忠志がそれ肩が外れてんだろと呆れたように言う。和希の方もそれは知っている風で、確かにダランとした腕は関節に異常がありそうだし手指にも異常がありそうだと義人が考えると同時に、不意に背筋にザワリと悪寒が走ったのに気がついた。

「和希?他にも痛むのか?」
「な、んか…………変、だ。」

呻きながらしゃがみこんだ幼馴染みに、当然のように屈みこむ忠志はまだ義人の感じている悪寒には気がついていない。雨の中同じように悪寒に気がついた信哉が視線を返したと同時に、その苦痛の呻きが更に強まっていた。



※※※



そこは鵺が産まれ落ち元々遥か太古に永劫の時を過ごしていた場所、闇の底で大概の類は底から這い出すように生まれ最初は不定形だ。別段、異質感を感じるわけもなく、言うなれば故郷も当然の場所だった。
射干玉の闇の汚泥。
流れることもなければ、臭うこともなく、ただ淀む。一度は腐り果てた筈の汚泥は新たに撹拌されたらしく、何もかもが失われただけだ。ここからまた何百年と時をかけて同じようにして不定形が生まれて、這い上がり人間の恐怖や怒りを食らって鵺のような姿を作りあげていく。

都市伝説みたいなものだ。

ヒタヒタと虎の足で歩み鵺は何も語ることもなく、項垂れ視線を落としたまま。他のモノとこの鵺が違うのはここには無いものがあるのを、長い年月で知り尽くしてしまっているということだ。生まれたばかりの頃には餌でしかなかった生き物達に向こうの世界で長く封じ込められ、そして触れあった多くのもの。

同じようにここで産まれ、向こう側に出ていくモノは多い。

何しろこの闇の中で餌と出来るのは弱い同族ばかりで、共食いでは飢餓感から解放されないからだ。飢餓に勝てないから向こうに行き、血潮を味わい魂を食み自分達には足りないものに満たされる。そんな奇妙な生き物として存在した人ではないモノ、人外とも妖怪とも化け物とも呼ばれたものは、自分達とは違う人間と接するうちに多様性を持つようになっていた。勿論生粋のまま長く過ごしているものも大半だが、この鵺は鵺の中でもまた特殊だ。

飢餓は勿論ある。でも…………私はもう二度と滓も血も……魂も要らない…………

血が繋がらないとはいえ大事な息子の魂を口にして、この鵺は胸が張り裂けそうな程の哀しみを知っていた。この鵺が子を失ったのは実は二度目なのだが、二度目はその魂を手放すが出来なくて鵺はその息子の魂を思わず飲み込んだ。人間に封じ込まれて年月を重ねてきたが人の魂を食うのにこんなにも気を使い、飲んでからの苦痛に涙が止まらないのは鵺自身も今は何故か理解できている。

愛しいから、大事だから、人と何も変わらない

こんな風に人間と同じ感情を知ったり得たりしたモノ達は、この闇の中で収まらずやがてはまだ向こうに出て消え去っていく。今は化けることも皮を被ることも出来ないこの獣の姿ではあるが、上手く向こうに出られる道を探そうと鵺は思う。探し出せたらもう一人・鵺がなんとか逃がすことの出来た大事な子供を物陰から見守るくらいは許してもらいたいと、ホトホトと涙を溢れさせながら思案する。
人面に白銀の毛並みをした虎の体、尾は太くうねる蛇、そんなも姿を一瞬だが見られそうになって、大事な子供と別れるというのに顔を伏せたまま言葉も交わせずに去ってきた。約束したのに、我が子ともう一人の子供を守ると。

………………頼むな?

何故かその時急に不意に己の胎内に納めてしまった息子の言葉が脳裏に過り、鵺は低く呻きながら不快感に毛を逆立ててキュウとその瞳を細めていた。



※※※



右の腕が奇妙な動きをしていて、痛みが鋭く抉るように神経を走っていた。数年前自殺未遂を起こした和希が自分の喉を貫いた時、忠志が咄嗟にそれを引き留めようと手を加減なく握り引き剥がしたせいで手の骨は脆くも砕けてしまった。しかも、その後の治療中に暫く意識がなかったことも合間ってリハビリが上手く行かなかったから、指は拘縮した腱のせいで上手く動かない。

「う、ああああっ?!ああっ!!!」

それでも病院から脱走して何とか使っているうちにそれほど気にならないほどには動かせていた右の手が、三浦和希の意図とは違って雨の中でまるで鬼の腕のように指先から膨らみ始めた。しかもそれはその変容に激しい痛みを生じさせていて、呻き声と共に身悶える和希に忠志と信哉が駆け寄る。

「な、何なんだよ!これっ!!」

麒麟は既に姿を消してしまったというのに、突然起こり始めた異変に和希の体を押さえ込むので二人は手一杯だし、礼慈と智美を抱きかかえている義人と悌順には近寄ることも出来ない。投薬でこの力を得たという三浦和希のことを考えると、立場は違うが木崎蒼子や、同じく投薬で力を得た雲英や東条の最後が頭を過った。

「義人!!礼慈達を遠くに連れていけ!!」

咄嗟にそう叫ぶしか出来ないのは、自分達の力が今までとは違うのも薄々分かっているからだった。麒麟に力を受け渡した自分達が、今檮杌や窮奇のような人外とどれだけ戦えるかなんて想像も出来ない。目の前で勝手に動きまるで伸びて、蛇のように長くなっていく右腕は異様な光景で吐き気を催しそうだった。

「和希っ!!」

肘までが膨れ上がり変色し始めた腕に、咄嗟に考えうる手段はは切断くらい。だが人間の体を傷つけることなんかしたことはないし、これは何処までが人間の体なのか、それとも人外なのか。それに自分達は麒麟に力を渡したが、そんな迷いに飲まれる時間は丸でなかった。

「許せよ!!」

そう叫んでどこまで出来るか分からずに、再び金気の力を解放した信哉の体は微かに白銀に光を放つ。次の瞬間雨を振り払うように振り下ろされた手刀が描いた弧線で、音もなく肘の少し上で分断された腕がボトリと地面に落ちた。次の瞬間それはまるで、おぞましい巨大な蛇のように地面をのたうち回る。痛みに呻くことすら出来ずに呆然とする和希を引き摺るようにして庇いながら忠志が、その腕を咄嗟に力一杯蹴りつけるとそれは表現しようのない雄叫びを上げながら数メートル転がった。

《ぅぉおああああぁあ!!》

雄叫びと共に腕だったものは見る間に膨れ上がって、人の身の丈ほどもある蛇に姿を塗り替えていく。指だった場所がまるで塊のようにくっついて蛇の頭に変わり、それは中の骨を牙にかえてガハリと口を開いて見せた。今までの流れなら人間の姿をしていなければ知性はそれほど高くない筈だが、それは確かに人間の声を発して鎌首を持ち上げ信哉と和希の腕を袖を裂いて縛る忠志の姿を見下ろした。

《よ……ん、かみぃ………………。》

低く呻きながら言葉を形作る異形は確かに人間の言葉で、しかも聞いたことのある声で彼らに向かって怨念めいた声を放つ。それは向こうの世界で暗い湖面の底に既に消え果てた東条の声で、信哉も忠志も唖然としてそれを見上げていた。
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