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発病
71.
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湿った土の臭い
そして黴臭い畳の臭い
それはここに以前からずっと存在していて、遥か昔からここにあって、自分の中の何かがそれを知っていた。ここにいることを運命付けられたのは、遥か昔にここに自分を縛り付けたものがあったからだ。それがここにいるからここは永い年月かわりなくあり続け
ヒョウ…………
耳に届く乾いた掠れた哭き声に、怯える呼吸が凍りつく。それが闇の中から言葉もなく冷ややかな視線で、這いつくばった自分を見下ろしているのが分かる。そしてそれが次第ににじりよって来るのも、空気が凍っていくので感じ取れていた。
何で自分が…………?
怯え泣き出しそうになりながら、畳に爪たててそう問いかける。決して自分が選んだわけでも望んでもいないのに、何故これに自分はみいられてしまったのかと思う。何故こんなにも自分だけが付け狙われるのか。その思考に不意に闇の中のそれが、自分に顔寄せて耳元に囁く。
それは、お前が産まれたからだ…………
お前のせい。お前の存在のせい。また、その言葉に自分は酷く傷つけられていく。選んだわけでも望んだわけでもない、産まれたことすら自分の選択ではないのにお前が悪いのだというのか。そう思うと心が切り裂かれてしまいそうに苦しい。
ヒョウ……
人々には不吉なものに聞こえる哭き声に、凶兆の兆しを感じ取る。そしてこの空間の外では、大事が起きないよう祈祷が始まる気配がしていた。それが祈祷だと分かる理由は答えられないが、知っているからそうだと分かっているのだ。それは掴みどころがなく、立ち回りは巧みだが得体の知れない人物を喩えるのに似てるが、記憶しているというのが一番ふさわしい。
祈祷が始まっても扉は開かない。
そう何故か苦々しく思いながら、畳に爪をたてて自分は記憶を手繰り寄せる。周囲で篝火とともに始まった祈祷だと知っているものは、同時に婚姻のための結納に似ていると思う。
縛り付けて、結びつけ、取り込み、混じっていくための儀式だ。
やがてこれが廃れても逃げることが出来ない呪縛に変わるとも知らず、産まれ落ちるその日がやって来るまで縛り付けられる契約。それを自分と自分はここからただじっと耐えて永い年月を堪えることになるのだと、何故か今ならば分かる。
分かるから、こんな風に今更見せなくていい…………
そう心の中で響くだけで辺りの空気は、更に濃密な水の臭いに包み込まれていく。闇が自分にのし掛かってきて、この先自分がそれにのまれていくのが分かっているのに身動ぎすら出来ない。何故ならこれは既に
※※※
…………し………
夢現にそう闇の中で何かが囁くのを聞いていた。これが隣で眠る相手の声なのか、それとも夢の中の無意味な言葉の羅列なのかは、ぼやけた頭では理解が出来ない。それでも何かを囁くものが、闇の中にいるのが眠りきれない頭に分かる。まだ何か夢でもみていて話しているのかもしれないし、吐息が漏れるのに声が重なっているのかもしれない。ただ目覚め始めている頭と逆らって瞳が開こうとはしていないから、何もかもは闇の中に包まれているだけなのだった。
…り……………………
意味をなさない言葉の羅列。なのに頭はこんなにもハッキリと目覚めているのに、目を開いて辺りを確認するのを試す気になれない。それが何か周囲に違和感を感じているからなのだと今更気が付いた。肌にピリピリするような違和感が眠っている筈の体を包み込んでいて、それは何故か自分と共にいる相手も含めてジッと観察している気がするのだ。
…ぅ………………ん…………
それが目蓋の裏に広がる濃密な闇の中で蠢く。ニィと口を真横に開き歯を剥き出す顔が、何故か想像しようとしたわけでもないのに浮かび上がっていた。何故か歯を剥き出して奥歯をきつく噛み締めて、嗤っているのか怒っているのか分からない表情をしている。この奇妙な判別しがたい表情を、現実にもみたことがあると思うのは何故だろう。
か………………
もしこの声が闇の中で一緒に眠っている相手の口からでなく、その闇の中に浮かぶ奇妙な顔のものだとしたら。そんな馬鹿なことを考えてしまう自分に、馬鹿なことを考えるなと自分でも叱責したくなる。なるけれど声すら出せず、体を動かすことも出来ない。そんな最中目蓋の裏では何かが蠢く気配がしていて、それが奇妙な恐怖感に塗り変わっていく。
む………………ぃ…………
そうして強い恐怖の中、それがただ消えてしまうのを待つしかない。
※※※
アキコが仕事を休んでいる間に、粛々と結納が行われていた。
東北までやって来たシュンイチの両親とシュンイチに湖畔の温泉宿を準備したのは言うまでもなくアキコだったが、それは別段問題ではなかった。
「幾久しく…………」
そう口にして結納を終えたアキコは、抜けるような青空を見上げて考える。
結納を終えたからと言ってその瞬間何かが変わると言うわけではないし、アキコはアキコのままで影も体内の蛇も変わりはない。そんな風に考えてしまう自分の体の中に巣食うものを、いつかどうにかできるのだろうか。それともこれは永遠にこのままなのだろうか。
そうして休んでいる間にも何度か職場の上司との面談もあったし、綿密にされる面談にどこかゆくゆくは元の生活に戻れる者と信じて疑う事もないままでいた。だが、それは大いに甘い考えだったといえるのに、その時やっとアキコは気がついてしまう。
「ごめんなさい、これ以上守る事はできません。」
突きつけられた現実は容易くアキコ自身の儚い希望を打ち砕いたが、同時に考えれば直ぐにでも分かったことだった筈だ。でもそれにはまだ気がつかないアキコは、希望を失って言葉を失い黙り込むしかない。何度も繰り替えされてきたのであろう老医師の行為は、結局はその息子である院長や当人の妻である理事長達の間でもみ消されようとしている。アキコは呆然とその事実を目にして、その上司の顔を見つめるしかない。上司としても本意ではないのだろうが、こう言うしか出来ないのはその顔からも良く分かる。
それでもその後に慰謝料として一ヶ月分の給料を支払うと言われたのには、流石に憤慨するしかなかった。何しろアキコが休んでいるのは有給でもなく、ただの欠勤扱いなのだ。こうして働けなくなってしまった期間もあるし次の職場を決めるまでの生活費の問題もあるのに、提示されたのは高々一ヶ月分の給料の保証。しかも自己都合で退職と言うことにされては、失業保険だって受け取れないのはアキコだってここまでの経験から嫌と言うほど分かっている。
…………幸せになろうとすると、いつもこう…………
苦い思いでそう考えるが、ここでイイ人ぶる必要もないと気が付いた。ここで折れてもアキコは追い出される人間なのだから、イイ人になってもなにも得られないのだ。結果給料ではなく慰謝料という名の金銭を受け取りることにとりつけたけれど、その場で退職届だけでなく今後一切という出だしで始まる誓約書まで書かされるのに呆れてしまった。
まるで、自分の方が悪いみたい
今後一切この件については外部に漏らしません。今後一切貴院に接触は謀りません。まるで、アキコが悪人であると言いたげな文章だが、希望を砕かれて力を失ったアキコには慰謝料を支払わせるというので既に精一杯。しかも相手はこうアキコがごねることも想定済みで既に誓約書を準備していたのに、怒りを通り越して脱力すらしてしまう。その脱力のせいで希望なんてものが最初から無駄なことで、もう戻りようのなかった事に、ここまできて今更ながらにアキコも考えが至った。病院が切ってもいいのは老医師ではなく自分の方であるという事は、考えてみれば明白だったのだから。アキコは硬く唇を噛んで、1年半の間即戦力として自分を使っていた上司の姿を見つめる。その視線に気がついた相手も申しわけなさそうな表情を浮かべていることに気がついて、これは上司でもある看護師長にもどうにも出来なかった結果なのだと痛感した。
「ごめんね……アキさん。」
「…………いいんです。もう。」
彼女の表情を見た瞬間に最後の怒りすらも失せてしまったアキコは、仕事には文句は無かったという事に気がついて微かに苦い微笑を浮かべる。だが同時に相手が慰謝料と提示した金銭を迷うことなく茶封筒でだしてきた瞬間、最初から今日こうなる予定だったのだと更に気がついてしまう。金銭を取りに行くこともなく他に連絡することもなく取り出してきたということは、最初からアキコには口止め料が支払われて退職するのがここに来る前から決まっていたのだ。
仕事に何も文句がないのに、こんなことで辞めることになって………………、他には言わないように口止め料を払うから…………か。
帰途の電車の中でアキコは口止めのために支払われたその金銭を手にした事にすら、深い苦悩を感じでいた。もし慰謝料を受け取らずに訴えるとなったらどうなったのだろう、それにしても自分が選ぶ道はどうしてこうも間違いめいているのかという感情に涙が滲みそうだ。要らないものとされる気分をこうして何度味わったらいいのか、それとも幸せになれない人間にはマトモに勤めることも許されないのかと電車の扉にもたれながら考える。扉の硝子に反射して自分に寄り添う影を見とめても、既にそれに恐怖する気力もないアキコはボンヤリとそれが肩越しに顔を出すのを眺めていた。そしてふとその影の向こうから自分を見つめる視線に気がついたのは、その顔をどこかで見たような気がしたからだ。
どこでだっけ………………
自分と大差のないような年頃の人物が、何処で出会った人間かまでは思い出せない。それはアキコにしては珍しいことだけど、何処かで出会ったと言う意識までは拭えないのだ。キュウ……と目の奥に蠢く違和感に思わずアキコが目を閉じてしまったのは、この先を見たくないと何故かアキコ自身が思ったからで、再び目を開けるとそこにいた筈の人物はその場から姿を消している。電車は停まったわけではないが、人気はそれ程ないから歩いて移動するのは容易い。もしかしたらあの人物は誰かに似ているだけの人で、ジロジロと見るアキコの視線が気味が悪かったのかもと思わず苦笑いしてしまう。
…………帰りに…………喫茶店でもよろうか……
ほんの僅かな苦笑いにアキコは何とか気を取り直そうと、扉にもたれながらそんなことを考える。その傍には未だに影が寄り添っているけれど変えようのないその現実に何かする気にもなれないし、この影はアキコに関わるものにしか障らない。そう考えてしまえば、あの病院は関わったものになるのだろうかと意地悪く考えもする。
少なくとも…………あの老医師は関わった
そんな意地の悪い思考にアキコは再び苦く笑うしかないのだった。
※※※
「おかえり、どうなった?」
「…………ただいま……。」
仕事前でまだ寝ているかと思ったのに帰宅したらシュンイチが心配そうに歩み寄ってきて、アキコはことと次第を順番に話していた。結納から暫くたっていて時々両家の親からの連絡はあるが、その先の式や何かに関してはまだ何も決まっていない。そんな矢先にこのアキコの事件が起こってからというものの、シュンイチは酷くアキコを心配しているのだ。だが今回のこの相手は結局は昔から同じことを繰り返して来ていて、それを何度も金銭で解決し続けてきたというわけだから。
「何だよ!それ!!」
アキコから全ての話を聞いたシュンイチが自分よりも更に激昂した事に、アキコはある意味で新鮮な驚きすら感じた。激昂したシュンイチが相手を訴えるといって暫く聞かなかったのも事実だが、アキコ自身もう疲れきってしまい誓約書にもサインをしたとつげたのにシュンイチは更に不満げだ。でも裁判になればまた老医師に遭わなくてはならないのはもっと嫌だと、アキコが呟いた事でシュンイチは折れるしかなくて全ては終結を迎えることになったのだった。
自分の甘さと、それ以上の現実の厳しさは表面には出なかったが確実にアキコの気持ちを揺るがすことだった。
それでもアキコを気遣うシュンイチは、多くの時間を割いて傍にいてくれるようになっている。本来ならシュンイチ自身は苦手な部類である映画や美術館等に付き合って、アキコの気晴らしに出かけるよう誘ったり何かと気を配ってくれる。
「アキ、気にしなくていいんだよ?アキは何も悪くないんだから。」
そう言って毎夜のように魘されているというアキコの傍にただ横になってくれることもあった。アキコ自身は魘されている実感がないのだが、毎晩のように魘され時には泣いたりすると言われてアキコは目を丸くする。
「そんなに?」
「うん、だから心配。」
そういいながら頭を撫でて気遣うシュンイチに、アキコは少しだけ微笑みながらありがとうと囁く。誰かがそう言ってくれる事だけで大きく変わる気持ちもあってある意味では日常に波は無く、規則的で穏やかな時間を過ごしアキコはシュンイチだけのものになっていたとも言えた。
そして黴臭い畳の臭い
それはここに以前からずっと存在していて、遥か昔からここにあって、自分の中の何かがそれを知っていた。ここにいることを運命付けられたのは、遥か昔にここに自分を縛り付けたものがあったからだ。それがここにいるからここは永い年月かわりなくあり続け
ヒョウ…………
耳に届く乾いた掠れた哭き声に、怯える呼吸が凍りつく。それが闇の中から言葉もなく冷ややかな視線で、這いつくばった自分を見下ろしているのが分かる。そしてそれが次第ににじりよって来るのも、空気が凍っていくので感じ取れていた。
何で自分が…………?
怯え泣き出しそうになりながら、畳に爪たててそう問いかける。決して自分が選んだわけでも望んでもいないのに、何故これに自分はみいられてしまったのかと思う。何故こんなにも自分だけが付け狙われるのか。その思考に不意に闇の中のそれが、自分に顔寄せて耳元に囁く。
それは、お前が産まれたからだ…………
お前のせい。お前の存在のせい。また、その言葉に自分は酷く傷つけられていく。選んだわけでも望んだわけでもない、産まれたことすら自分の選択ではないのにお前が悪いのだというのか。そう思うと心が切り裂かれてしまいそうに苦しい。
ヒョウ……
人々には不吉なものに聞こえる哭き声に、凶兆の兆しを感じ取る。そしてこの空間の外では、大事が起きないよう祈祷が始まる気配がしていた。それが祈祷だと分かる理由は答えられないが、知っているからそうだと分かっているのだ。それは掴みどころがなく、立ち回りは巧みだが得体の知れない人物を喩えるのに似てるが、記憶しているというのが一番ふさわしい。
祈祷が始まっても扉は開かない。
そう何故か苦々しく思いながら、畳に爪をたてて自分は記憶を手繰り寄せる。周囲で篝火とともに始まった祈祷だと知っているものは、同時に婚姻のための結納に似ていると思う。
縛り付けて、結びつけ、取り込み、混じっていくための儀式だ。
やがてこれが廃れても逃げることが出来ない呪縛に変わるとも知らず、産まれ落ちるその日がやって来るまで縛り付けられる契約。それを自分と自分はここからただじっと耐えて永い年月を堪えることになるのだと、何故か今ならば分かる。
分かるから、こんな風に今更見せなくていい…………
そう心の中で響くだけで辺りの空気は、更に濃密な水の臭いに包み込まれていく。闇が自分にのし掛かってきて、この先自分がそれにのまれていくのが分かっているのに身動ぎすら出来ない。何故ならこれは既に
※※※
…………し………
夢現にそう闇の中で何かが囁くのを聞いていた。これが隣で眠る相手の声なのか、それとも夢の中の無意味な言葉の羅列なのかは、ぼやけた頭では理解が出来ない。それでも何かを囁くものが、闇の中にいるのが眠りきれない頭に分かる。まだ何か夢でもみていて話しているのかもしれないし、吐息が漏れるのに声が重なっているのかもしれない。ただ目覚め始めている頭と逆らって瞳が開こうとはしていないから、何もかもは闇の中に包まれているだけなのだった。
…り……………………
意味をなさない言葉の羅列。なのに頭はこんなにもハッキリと目覚めているのに、目を開いて辺りを確認するのを試す気になれない。それが何か周囲に違和感を感じているからなのだと今更気が付いた。肌にピリピリするような違和感が眠っている筈の体を包み込んでいて、それは何故か自分と共にいる相手も含めてジッと観察している気がするのだ。
…ぅ………………ん…………
それが目蓋の裏に広がる濃密な闇の中で蠢く。ニィと口を真横に開き歯を剥き出す顔が、何故か想像しようとしたわけでもないのに浮かび上がっていた。何故か歯を剥き出して奥歯をきつく噛み締めて、嗤っているのか怒っているのか分からない表情をしている。この奇妙な判別しがたい表情を、現実にもみたことがあると思うのは何故だろう。
か………………
もしこの声が闇の中で一緒に眠っている相手の口からでなく、その闇の中に浮かぶ奇妙な顔のものだとしたら。そんな馬鹿なことを考えてしまう自分に、馬鹿なことを考えるなと自分でも叱責したくなる。なるけれど声すら出せず、体を動かすことも出来ない。そんな最中目蓋の裏では何かが蠢く気配がしていて、それが奇妙な恐怖感に塗り変わっていく。
む………………ぃ…………
そうして強い恐怖の中、それがただ消えてしまうのを待つしかない。
※※※
アキコが仕事を休んでいる間に、粛々と結納が行われていた。
東北までやって来たシュンイチの両親とシュンイチに湖畔の温泉宿を準備したのは言うまでもなくアキコだったが、それは別段問題ではなかった。
「幾久しく…………」
そう口にして結納を終えたアキコは、抜けるような青空を見上げて考える。
結納を終えたからと言ってその瞬間何かが変わると言うわけではないし、アキコはアキコのままで影も体内の蛇も変わりはない。そんな風に考えてしまう自分の体の中に巣食うものを、いつかどうにかできるのだろうか。それともこれは永遠にこのままなのだろうか。
そうして休んでいる間にも何度か職場の上司との面談もあったし、綿密にされる面談にどこかゆくゆくは元の生活に戻れる者と信じて疑う事もないままでいた。だが、それは大いに甘い考えだったといえるのに、その時やっとアキコは気がついてしまう。
「ごめんなさい、これ以上守る事はできません。」
突きつけられた現実は容易くアキコ自身の儚い希望を打ち砕いたが、同時に考えれば直ぐにでも分かったことだった筈だ。でもそれにはまだ気がつかないアキコは、希望を失って言葉を失い黙り込むしかない。何度も繰り替えされてきたのであろう老医師の行為は、結局はその息子である院長や当人の妻である理事長達の間でもみ消されようとしている。アキコは呆然とその事実を目にして、その上司の顔を見つめるしかない。上司としても本意ではないのだろうが、こう言うしか出来ないのはその顔からも良く分かる。
それでもその後に慰謝料として一ヶ月分の給料を支払うと言われたのには、流石に憤慨するしかなかった。何しろアキコが休んでいるのは有給でもなく、ただの欠勤扱いなのだ。こうして働けなくなってしまった期間もあるし次の職場を決めるまでの生活費の問題もあるのに、提示されたのは高々一ヶ月分の給料の保証。しかも自己都合で退職と言うことにされては、失業保険だって受け取れないのはアキコだってここまでの経験から嫌と言うほど分かっている。
…………幸せになろうとすると、いつもこう…………
苦い思いでそう考えるが、ここでイイ人ぶる必要もないと気が付いた。ここで折れてもアキコは追い出される人間なのだから、イイ人になってもなにも得られないのだ。結果給料ではなく慰謝料という名の金銭を受け取りることにとりつけたけれど、その場で退職届だけでなく今後一切という出だしで始まる誓約書まで書かされるのに呆れてしまった。
まるで、自分の方が悪いみたい
今後一切この件については外部に漏らしません。今後一切貴院に接触は謀りません。まるで、アキコが悪人であると言いたげな文章だが、希望を砕かれて力を失ったアキコには慰謝料を支払わせるというので既に精一杯。しかも相手はこうアキコがごねることも想定済みで既に誓約書を準備していたのに、怒りを通り越して脱力すらしてしまう。その脱力のせいで希望なんてものが最初から無駄なことで、もう戻りようのなかった事に、ここまできて今更ながらにアキコも考えが至った。病院が切ってもいいのは老医師ではなく自分の方であるという事は、考えてみれば明白だったのだから。アキコは硬く唇を噛んで、1年半の間即戦力として自分を使っていた上司の姿を見つめる。その視線に気がついた相手も申しわけなさそうな表情を浮かべていることに気がついて、これは上司でもある看護師長にもどうにも出来なかった結果なのだと痛感した。
「ごめんね……アキさん。」
「…………いいんです。もう。」
彼女の表情を見た瞬間に最後の怒りすらも失せてしまったアキコは、仕事には文句は無かったという事に気がついて微かに苦い微笑を浮かべる。だが同時に相手が慰謝料と提示した金銭を迷うことなく茶封筒でだしてきた瞬間、最初から今日こうなる予定だったのだと更に気がついてしまう。金銭を取りに行くこともなく他に連絡することもなく取り出してきたということは、最初からアキコには口止め料が支払われて退職するのがここに来る前から決まっていたのだ。
仕事に何も文句がないのに、こんなことで辞めることになって………………、他には言わないように口止め料を払うから…………か。
帰途の電車の中でアキコは口止めのために支払われたその金銭を手にした事にすら、深い苦悩を感じでいた。もし慰謝料を受け取らずに訴えるとなったらどうなったのだろう、それにしても自分が選ぶ道はどうしてこうも間違いめいているのかという感情に涙が滲みそうだ。要らないものとされる気分をこうして何度味わったらいいのか、それとも幸せになれない人間にはマトモに勤めることも許されないのかと電車の扉にもたれながら考える。扉の硝子に反射して自分に寄り添う影を見とめても、既にそれに恐怖する気力もないアキコはボンヤリとそれが肩越しに顔を出すのを眺めていた。そしてふとその影の向こうから自分を見つめる視線に気がついたのは、その顔をどこかで見たような気がしたからだ。
どこでだっけ………………
自分と大差のないような年頃の人物が、何処で出会った人間かまでは思い出せない。それはアキコにしては珍しいことだけど、何処かで出会ったと言う意識までは拭えないのだ。キュウ……と目の奥に蠢く違和感に思わずアキコが目を閉じてしまったのは、この先を見たくないと何故かアキコ自身が思ったからで、再び目を開けるとそこにいた筈の人物はその場から姿を消している。電車は停まったわけではないが、人気はそれ程ないから歩いて移動するのは容易い。もしかしたらあの人物は誰かに似ているだけの人で、ジロジロと見るアキコの視線が気味が悪かったのかもと思わず苦笑いしてしまう。
…………帰りに…………喫茶店でもよろうか……
ほんの僅かな苦笑いにアキコは何とか気を取り直そうと、扉にもたれながらそんなことを考える。その傍には未だに影が寄り添っているけれど変えようのないその現実に何かする気にもなれないし、この影はアキコに関わるものにしか障らない。そう考えてしまえば、あの病院は関わったものになるのだろうかと意地悪く考えもする。
少なくとも…………あの老医師は関わった
そんな意地の悪い思考にアキコは再び苦く笑うしかないのだった。
※※※
「おかえり、どうなった?」
「…………ただいま……。」
仕事前でまだ寝ているかと思ったのに帰宅したらシュンイチが心配そうに歩み寄ってきて、アキコはことと次第を順番に話していた。結納から暫くたっていて時々両家の親からの連絡はあるが、その先の式や何かに関してはまだ何も決まっていない。そんな矢先にこのアキコの事件が起こってからというものの、シュンイチは酷くアキコを心配しているのだ。だが今回のこの相手は結局は昔から同じことを繰り返して来ていて、それを何度も金銭で解決し続けてきたというわけだから。
「何だよ!それ!!」
アキコから全ての話を聞いたシュンイチが自分よりも更に激昂した事に、アキコはある意味で新鮮な驚きすら感じた。激昂したシュンイチが相手を訴えるといって暫く聞かなかったのも事実だが、アキコ自身もう疲れきってしまい誓約書にもサインをしたとつげたのにシュンイチは更に不満げだ。でも裁判になればまた老医師に遭わなくてはならないのはもっと嫌だと、アキコが呟いた事でシュンイチは折れるしかなくて全ては終結を迎えることになったのだった。
自分の甘さと、それ以上の現実の厳しさは表面には出なかったが確実にアキコの気持ちを揺るがすことだった。
それでもアキコを気遣うシュンイチは、多くの時間を割いて傍にいてくれるようになっている。本来ならシュンイチ自身は苦手な部類である映画や美術館等に付き合って、アキコの気晴らしに出かけるよう誘ったり何かと気を配ってくれる。
「アキ、気にしなくていいんだよ?アキは何も悪くないんだから。」
そう言って毎夜のように魘されているというアキコの傍にただ横になってくれることもあった。アキコ自身は魘されている実感がないのだが、毎晩のように魘され時には泣いたりすると言われてアキコは目を丸くする。
「そんなに?」
「うん、だから心配。」
そういいながら頭を撫でて気遣うシュンイチに、アキコは少しだけ微笑みながらありがとうと囁く。誰かがそう言ってくれる事だけで大きく変わる気持ちもあってある意味では日常に波は無く、規則的で穏やかな時間を過ごしアキコはシュンイチだけのものになっていたとも言えた。
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