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進行
73.
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珍しく日の高い時間にシュンイチに誘われて街に出たアキコは、唐突に大きなシティホテルに連れて行かれていた。駅間近のそこは道なりに前を通る事はあっても中のレストランのブュッフェランチくらいしか入る機会の無いかなり大規模なホテルだ。ランチに来たのだとしたら、余り食欲がわかないので何とか取り止めて貰えるだろうか等と心の傍で考える。
「…………何しにきたの?」
ところがランチに来たわけではなかった。シュンイチはドンドン先に進んで、慣れない場所に緊張し小さな声で問いかけるアキコに笑いかけ人通りの少ない三階にある一角に手を引いていく。
一階にはレストランにランチに入ることはあっても、ホールや結婚式場やらしかない三階には初めて足を踏み入れた。それに目丸くするアキコに構わずに、どうやら予約していたらしいシュンイチが手を引いたままその奥にあるショールームのような一角に入っていく。すると中から和やかな表情をした女性スタッフが現れて、二人に向けて華やいだ声を上げた。
「お待ちしておりました。」
二人の目の前に広がるのは様々な色合いの鮮やかなドレス。
当然のように白が大部分だが、その白ですら幾つも色合いに種類があってクリームかかった白からサテンのような輝く白まで様々並んでいる。それ以外にも、赤、ピンク、黄色にオレンジ、水色、紫、水色、青。余りにも鮮やかな目の覚める色に包まれていて一瞬ポカンとしたアキコの手を引いたまま、中に連れ込んだシュンイチは悪戯っ子のように肩を竦めて笑う。
「今日は…………試着だけだけど、ね?」
アキコのスタイルをざっと眺めた女性スタッフから、提示された純白のウェディングドレスの眩さにアキコは暫し見とれる。そんなに細くないとつげても女性スタッフは大丈夫ですの一点張りで、でも確かに目の前に並べられたドレスは美しくて見惚れてしまう。その中でも一際豪奢なレースの刺繍で縁取られたシルクのドレスをシュンイチが指差して着てみたら?と声をかける。アキコは困惑しながらも奥に通されて、それを手際の良いスタッフの腕で着付けられるのを半分驚きながら見つめていた。
ホルターネックのデコルテがレースで透け、繊細なレースに散りばめられた宝石がライトを反射して目映く輝く。ウエストはキュッと編み上げられて、後ろはたっぷりとしたヒダのドレープが長く長く二メートルにもなるレースの裾となって後を追ってくる。まるで物語のお姫様のようなドレス。それを纏うのに確かにサイズは適切だし、自分でも驚きながらアキコは着付けられた鏡の中の自分の姿を眺めた。ズッシリと重みを感じるドレス姿で試着室から手を引かれて姿を見せたアキコに、シュンイチが目を丸くする。
「凄いお似合いですよ!」
そう言われても自分で似合うのかよく分からず、おずおずとシュンイチの顔を見上げるとシュンイチの方はスタッフに写真を撮ってもいいかと聞いている。何で写真?と思ったら、色々着てみて一番似合うのを探さないとと当然のようにように言うのだ。
「でも、それが一番似合うんじゃないかって俺は思うけど。………あの………凄く綺麗だ。」
照れたように微笑みながらそう言われて、思わずアキコは頬を染めてしまう。それにしてもそれからウエディングドレスだけでも、三枚か四枚試しに着てみることになったのには驚いてしまった。サテン地のマーメイドのようなドレスやプリンセスラインのフンワリしたドレス、重厚な刺繍が全体に施されたオフホワイトのエンパイアラインドレス。どれも綺麗で素晴らしいのは事実で驚くしかないが、実はアキコは自分が本当に花嫁衣裳をきることになるとは考えてもいなかった。
「アキ、綺麗だなぁ。それも似合う。」
「何でもお似合いになるから、新郎さまが目移りしちゃいますねー。」
スタッフにそんなことを言われてお世辞だと思うのに、シュンイチは否定もしない。シュンイチのほうがもう様々な事を考えていたことにアキコは驚かされてもいる。そんな不思議な気分のまま、アキコは初めて試着とはいえ自分が花嫁となる姿を垣間見た気がした。
※※※
結納の先なら結婚だけど、アキコはあの通りあんまり欲求を表に出さないから、シュンイチが言わないでいたら籍をいれるだけで十分としか思ってない気がする。シュンイチとしては、本心からきちんと結婚式をあげたいと思っていた。綺麗で可愛いウエディングドレスのアキコを両親から受け取って、皆の前で式を上げて、自分のものと宣言したいとも思っている。
言わないけど……そう思ってる、ずっと。
それ言えばいいのにとコイズミには言われたが、どうもそう言うことを口にするのができないのが自分だった。今までだってそんなことを誰かにしようと考えたこともないし、言うなんて尚更なのは言うまでもないことだ。でもアキコは特別で、大事にしたいと今は思っている。だからここ暫くまたあの笑顔を失ってしまったアキコを連れて、そこに向かったのはアキコに少しでも元気になって欲しかったし笑ってほしかったからだった。
純白のホルターネックのデコルテがレースで透け、繊細なレースに散りばめられた宝石がライトを反射して目映く輝く。ウエストは細くてキュッと編み上げられて、後ろはたっぷりとしたヒダのドレープが長く長く二メートルにもなるレースの裾となって後を追ってきて、まるで物語のお姫様だった。
「お似合いですねぇ!」
口々に感嘆の声をあげる着付けスタッフの言葉が、本当にお世辞じゃないのはよく分かる。何しろ化粧もしてないのにドレスと同じくらい白く透明な肌に、纏め上げた黒髪は艶やかで黒目勝ちの瞳、長い睫毛、フックラしたピンクの唇。それに本繻子のような光沢のあるシルクとレースの純白のウエディングドレス。誰もが感嘆の溜め息をついてしまうほど綺麗で可愛いお姫様の姿に、実は本人だけが今一つ理解できていないのが少しだけおかしくなる。
ホントに感覚がないんだろうな。
小さい時から可愛いと言われて来なかったのかコンプレックスが強いのか、アキコは会ってからずっと自分の容姿に関しての評価は最低ラインのままだ。どんなに説明しても納得できなくて理解できないから、ストーカーの時も爺医師の時も何でそんなことになったのか分からないのだった。アキコが微笑みながら優しくしたら相手は有頂天になるし、それが自分だけかもしれないと勘違いもするのは、アキコが真摯に献身的に何ともしてしまうからで同時にアキコが有能だからだ。
一度言ったら忘れないし、一度教えたら次は完璧にこなせる。
仕事でもきっとそれは変わらない筈だから、例えば以前話したことを当然のように記憶していて会話をしたり、以前の準備を何も言わずにしているアキコに自分を特別視しているの勘違いしたのだろう。そう思うと自分の腹の中で、ゾロリと澱のような欲望が蠢くのが分かる。腹立たしく、それでいて同時に嬉しくもある自分にしか手に入れられないかった無垢な花。そして誰も知らないがその無垢な花は、自分にだけ淫れて従順に従う可愛い奴隷でもあるのだ。それを知らない男にアキコがこんな風に傷つけられて、笑わなくなってしまうのが何よりも悔しい。
ヒョウ………………
そんなことを考えていると、時々この何かの哭き声がする気がした。音は近くて時には宵闇の中から、ベランダにでもとまっていて窓の直ぐ向こうに哭き声の主がいるのかと思う事もある。腕に抱き止めて眠っているアキコの旋毛を見下ろしながら、アキコが魘されているのを感じながら、この声を何度も聞いていた気がした。
まるで哭き声に魘されているみたいだ…………
そう感じてしまうのは哭き声が近くでするのと、アキコが魘され苦悩の様子でもがくのは大概同じ瞬間だからだった。それに気がついて尚更アキコを抱き締めて頭を撫でながらカーテン越しの暗闇に息を殺すと、それが何故か子供の啼き声のように甲高くなっていく。
ヒョーゥ…………ヒョーーウ…………
甲高くなりすぎて掠れた赤ん坊のように聞こえる哭き声に、何故かアキコが自分に言われるがまま中絶した事が頭をよぎっている。これにアキコが魘されるのは夢の中で赤ん坊の啼き声を聞いている気分になるからなのか、それともこんなことを考える自分の罪悪感なのか。
よって…………くだ……んの…………如し…………
唐突にその言葉が頭に閃いたのに、シュンイチは凍りついていた。『従って、前記記載のとおりである』を意味する、因って件の如しという文言が何故今ここで頭に閃くのか。そして不意に眼前に闇の塊が顔を付き出した気がして、シュンイチは全身を粟立たせていた。悲鳴をあげたくても噛み締めてしまった歯を剥き出し、呻くことも息をつくことも出来ない。そして何故か目の前の影は自分の真似をして、同じ顔をして見せたかと思うとグゥッと剥き出した歯を見せつけるようにシュンイチの目を覗き込む。すえた腐臭にも似た酸っぱい臭いがツンッと鼻に付き、影がその臭いを放ち自分に詰め寄るのが分かる。
よってぇ………………件の如し…………ぃ。
何を前に記して、その通りと繰り返しているのか。文言を繰り返しているのは、目の前の影で、その影の顔である暗闇を覗き込んでいると、何故か頭の中には人の形にも成りきらない胎児が浮かぶ。
胎児…………
アキコと自分の子供。だと何故か心の中で思うが、それとこの不気味な影の繋がりが分からない。胎児はまだ人間の形ではなくて、まるで毛の無い四つ足の獣のように見えて、そのイメージのせいでこの影がそれと結びつけてくるのかと思う。それにしたってこの恐怖に自分は何故のまれているのだ。
…………あれは、稀有…………
何故か目の前の影が歯を剥き出したまま口にする声が響いていて、その先を聞きとりながら自分は狂い始めているのではないかと思う。思うけれどこの言葉に続く恐怖から逃れることも出来ないのは、これは……
「…………ぅ……ん?…………。」
不意にその声に影が飛び散り霧散して、シュンイチをのみ込んでいた恐怖も一瞬で消し去られていく。それが腕の中のアキコの眠りの中の声だとシュンイチも気がついたが、それに何かする前に不意にシュンイチにも強くて激しい眠気が襲いかかってきていた。
そうしてあっという間にアキコを抱き締めたまま眠りに落ちていて、次に目が覚めた時にはあの恐怖をもたらしたもの自体が夢の中のものだったのだとシュンイチは思う。何しろあっという間に霧散してそこに居たことすら痕跡もないのだし、何かを囁かれていたけれど、その内容も霧散してしまって記憶にない。
残っているのは『よって件の如し』という言葉だけだ…………
時々この言葉を自分の母親や、母方の親戚が何気なく使うことがあったのをシュンイチはふと思い出す。母親の親戚は昔から続く古い家系で北九州で商売をしてきた一族でもあるのだから、何かと証文を作る機会が多くてこの言葉を使うことか多かったのだろうと子供の頃に聞いていたのだ。
公的な証明を必要とするようなことが身の回りに起きてるからかな
結納も結婚もだし、そんな風に考えればシュンイチは、自分にも少しはストレスがかかっているのに違いないと思う。それにアキコの今の様子だって、病み上がりのシュンイチにはストレスになっているに違いない。
よって…………
無意識にその言葉を頭の中で繰り返そうとした自分を引き留めて、シュンイチは頭の中身を必死に振り払うようにアキコの事を考える。純白のドレスを着たアキコは本当に美しくて可愛らしかったし、そのアキコが自分のものになるのだと思えば件の如しなんて言葉なんてどうでもいいこと。そう思うのに何故かあれが胎児と同時に花嫁姿のアキコとも結び付いていくのが、忌々しいほど腹立たしい。
嫁に貰うから、子供なんて簡単に結び付けるなんて俺も…………
子供は欲しくない。正直シュンイチの考えは変わらないのは事実で、アキコにはそれは口にしたことがない。何故子供が欲しくないのかは説明が出来ないが、自分の子供時代にいい思い出がないからかもしれないと思う。自分の子供時代は勉強ばかりで何もかも楽しみというものがないし、今から産まれた子供達は自分より更に勉強ばかりの人生なのだし。そう言い訳染みている理由を頭の中で正当化しても、それが周囲の人々とは同じでもないのは分かっている。
ヤハタさんとこには子供が出来てるし、コイズミだって子供が欲しいと言う。
それなのに塾の講師をしている自分がこんなにも子供が欲しくないのは、子供なんて嫌いだし、子供のせいで自分の時間が失われるなんてごめんだからだ。そう頭の中で繰り返している自分に、低く掠れた声が再び『よって件の如し』と呟くのが聞こえていた。
「…………何しにきたの?」
ところがランチに来たわけではなかった。シュンイチはドンドン先に進んで、慣れない場所に緊張し小さな声で問いかけるアキコに笑いかけ人通りの少ない三階にある一角に手を引いていく。
一階にはレストランにランチに入ることはあっても、ホールや結婚式場やらしかない三階には初めて足を踏み入れた。それに目丸くするアキコに構わずに、どうやら予約していたらしいシュンイチが手を引いたままその奥にあるショールームのような一角に入っていく。すると中から和やかな表情をした女性スタッフが現れて、二人に向けて華やいだ声を上げた。
「お待ちしておりました。」
二人の目の前に広がるのは様々な色合いの鮮やかなドレス。
当然のように白が大部分だが、その白ですら幾つも色合いに種類があってクリームかかった白からサテンのような輝く白まで様々並んでいる。それ以外にも、赤、ピンク、黄色にオレンジ、水色、紫、水色、青。余りにも鮮やかな目の覚める色に包まれていて一瞬ポカンとしたアキコの手を引いたまま、中に連れ込んだシュンイチは悪戯っ子のように肩を竦めて笑う。
「今日は…………試着だけだけど、ね?」
アキコのスタイルをざっと眺めた女性スタッフから、提示された純白のウェディングドレスの眩さにアキコは暫し見とれる。そんなに細くないとつげても女性スタッフは大丈夫ですの一点張りで、でも確かに目の前に並べられたドレスは美しくて見惚れてしまう。その中でも一際豪奢なレースの刺繍で縁取られたシルクのドレスをシュンイチが指差して着てみたら?と声をかける。アキコは困惑しながらも奥に通されて、それを手際の良いスタッフの腕で着付けられるのを半分驚きながら見つめていた。
ホルターネックのデコルテがレースで透け、繊細なレースに散りばめられた宝石がライトを反射して目映く輝く。ウエストはキュッと編み上げられて、後ろはたっぷりとしたヒダのドレープが長く長く二メートルにもなるレースの裾となって後を追ってくる。まるで物語のお姫様のようなドレス。それを纏うのに確かにサイズは適切だし、自分でも驚きながらアキコは着付けられた鏡の中の自分の姿を眺めた。ズッシリと重みを感じるドレス姿で試着室から手を引かれて姿を見せたアキコに、シュンイチが目を丸くする。
「凄いお似合いですよ!」
そう言われても自分で似合うのかよく分からず、おずおずとシュンイチの顔を見上げるとシュンイチの方はスタッフに写真を撮ってもいいかと聞いている。何で写真?と思ったら、色々着てみて一番似合うのを探さないとと当然のようにように言うのだ。
「でも、それが一番似合うんじゃないかって俺は思うけど。………あの………凄く綺麗だ。」
照れたように微笑みながらそう言われて、思わずアキコは頬を染めてしまう。それにしてもそれからウエディングドレスだけでも、三枚か四枚試しに着てみることになったのには驚いてしまった。サテン地のマーメイドのようなドレスやプリンセスラインのフンワリしたドレス、重厚な刺繍が全体に施されたオフホワイトのエンパイアラインドレス。どれも綺麗で素晴らしいのは事実で驚くしかないが、実はアキコは自分が本当に花嫁衣裳をきることになるとは考えてもいなかった。
「アキ、綺麗だなぁ。それも似合う。」
「何でもお似合いになるから、新郎さまが目移りしちゃいますねー。」
スタッフにそんなことを言われてお世辞だと思うのに、シュンイチは否定もしない。シュンイチのほうがもう様々な事を考えていたことにアキコは驚かされてもいる。そんな不思議な気分のまま、アキコは初めて試着とはいえ自分が花嫁となる姿を垣間見た気がした。
※※※
結納の先なら結婚だけど、アキコはあの通りあんまり欲求を表に出さないから、シュンイチが言わないでいたら籍をいれるだけで十分としか思ってない気がする。シュンイチとしては、本心からきちんと結婚式をあげたいと思っていた。綺麗で可愛いウエディングドレスのアキコを両親から受け取って、皆の前で式を上げて、自分のものと宣言したいとも思っている。
言わないけど……そう思ってる、ずっと。
それ言えばいいのにとコイズミには言われたが、どうもそう言うことを口にするのができないのが自分だった。今までだってそんなことを誰かにしようと考えたこともないし、言うなんて尚更なのは言うまでもないことだ。でもアキコは特別で、大事にしたいと今は思っている。だからここ暫くまたあの笑顔を失ってしまったアキコを連れて、そこに向かったのはアキコに少しでも元気になって欲しかったし笑ってほしかったからだった。
純白のホルターネックのデコルテがレースで透け、繊細なレースに散りばめられた宝石がライトを反射して目映く輝く。ウエストは細くてキュッと編み上げられて、後ろはたっぷりとしたヒダのドレープが長く長く二メートルにもなるレースの裾となって後を追ってきて、まるで物語のお姫様だった。
「お似合いですねぇ!」
口々に感嘆の声をあげる着付けスタッフの言葉が、本当にお世辞じゃないのはよく分かる。何しろ化粧もしてないのにドレスと同じくらい白く透明な肌に、纏め上げた黒髪は艶やかで黒目勝ちの瞳、長い睫毛、フックラしたピンクの唇。それに本繻子のような光沢のあるシルクとレースの純白のウエディングドレス。誰もが感嘆の溜め息をついてしまうほど綺麗で可愛いお姫様の姿に、実は本人だけが今一つ理解できていないのが少しだけおかしくなる。
ホントに感覚がないんだろうな。
小さい時から可愛いと言われて来なかったのかコンプレックスが強いのか、アキコは会ってからずっと自分の容姿に関しての評価は最低ラインのままだ。どんなに説明しても納得できなくて理解できないから、ストーカーの時も爺医師の時も何でそんなことになったのか分からないのだった。アキコが微笑みながら優しくしたら相手は有頂天になるし、それが自分だけかもしれないと勘違いもするのは、アキコが真摯に献身的に何ともしてしまうからで同時にアキコが有能だからだ。
一度言ったら忘れないし、一度教えたら次は完璧にこなせる。
仕事でもきっとそれは変わらない筈だから、例えば以前話したことを当然のように記憶していて会話をしたり、以前の準備を何も言わずにしているアキコに自分を特別視しているの勘違いしたのだろう。そう思うと自分の腹の中で、ゾロリと澱のような欲望が蠢くのが分かる。腹立たしく、それでいて同時に嬉しくもある自分にしか手に入れられないかった無垢な花。そして誰も知らないがその無垢な花は、自分にだけ淫れて従順に従う可愛い奴隷でもあるのだ。それを知らない男にアキコがこんな風に傷つけられて、笑わなくなってしまうのが何よりも悔しい。
ヒョウ………………
そんなことを考えていると、時々この何かの哭き声がする気がした。音は近くて時には宵闇の中から、ベランダにでもとまっていて窓の直ぐ向こうに哭き声の主がいるのかと思う事もある。腕に抱き止めて眠っているアキコの旋毛を見下ろしながら、アキコが魘されているのを感じながら、この声を何度も聞いていた気がした。
まるで哭き声に魘されているみたいだ…………
そう感じてしまうのは哭き声が近くでするのと、アキコが魘され苦悩の様子でもがくのは大概同じ瞬間だからだった。それに気がついて尚更アキコを抱き締めて頭を撫でながらカーテン越しの暗闇に息を殺すと、それが何故か子供の啼き声のように甲高くなっていく。
ヒョーゥ…………ヒョーーウ…………
甲高くなりすぎて掠れた赤ん坊のように聞こえる哭き声に、何故かアキコが自分に言われるがまま中絶した事が頭をよぎっている。これにアキコが魘されるのは夢の中で赤ん坊の啼き声を聞いている気分になるからなのか、それともこんなことを考える自分の罪悪感なのか。
よって…………くだ……んの…………如し…………
唐突にその言葉が頭に閃いたのに、シュンイチは凍りついていた。『従って、前記記載のとおりである』を意味する、因って件の如しという文言が何故今ここで頭に閃くのか。そして不意に眼前に闇の塊が顔を付き出した気がして、シュンイチは全身を粟立たせていた。悲鳴をあげたくても噛み締めてしまった歯を剥き出し、呻くことも息をつくことも出来ない。そして何故か目の前の影は自分の真似をして、同じ顔をして見せたかと思うとグゥッと剥き出した歯を見せつけるようにシュンイチの目を覗き込む。すえた腐臭にも似た酸っぱい臭いがツンッと鼻に付き、影がその臭いを放ち自分に詰め寄るのが分かる。
よってぇ………………件の如し…………ぃ。
何を前に記して、その通りと繰り返しているのか。文言を繰り返しているのは、目の前の影で、その影の顔である暗闇を覗き込んでいると、何故か頭の中には人の形にも成りきらない胎児が浮かぶ。
胎児…………
アキコと自分の子供。だと何故か心の中で思うが、それとこの不気味な影の繋がりが分からない。胎児はまだ人間の形ではなくて、まるで毛の無い四つ足の獣のように見えて、そのイメージのせいでこの影がそれと結びつけてくるのかと思う。それにしたってこの恐怖に自分は何故のまれているのだ。
…………あれは、稀有…………
何故か目の前の影が歯を剥き出したまま口にする声が響いていて、その先を聞きとりながら自分は狂い始めているのではないかと思う。思うけれどこの言葉に続く恐怖から逃れることも出来ないのは、これは……
「…………ぅ……ん?…………。」
不意にその声に影が飛び散り霧散して、シュンイチをのみ込んでいた恐怖も一瞬で消し去られていく。それが腕の中のアキコの眠りの中の声だとシュンイチも気がついたが、それに何かする前に不意にシュンイチにも強くて激しい眠気が襲いかかってきていた。
そうしてあっという間にアキコを抱き締めたまま眠りに落ちていて、次に目が覚めた時にはあの恐怖をもたらしたもの自体が夢の中のものだったのだとシュンイチは思う。何しろあっという間に霧散してそこに居たことすら痕跡もないのだし、何かを囁かれていたけれど、その内容も霧散してしまって記憶にない。
残っているのは『よって件の如し』という言葉だけだ…………
時々この言葉を自分の母親や、母方の親戚が何気なく使うことがあったのをシュンイチはふと思い出す。母親の親戚は昔から続く古い家系で北九州で商売をしてきた一族でもあるのだから、何かと証文を作る機会が多くてこの言葉を使うことか多かったのだろうと子供の頃に聞いていたのだ。
公的な証明を必要とするようなことが身の回りに起きてるからかな
結納も結婚もだし、そんな風に考えればシュンイチは、自分にも少しはストレスがかかっているのに違いないと思う。それにアキコの今の様子だって、病み上がりのシュンイチにはストレスになっているに違いない。
よって…………
無意識にその言葉を頭の中で繰り返そうとした自分を引き留めて、シュンイチは頭の中身を必死に振り払うようにアキコの事を考える。純白のドレスを着たアキコは本当に美しくて可愛らしかったし、そのアキコが自分のものになるのだと思えば件の如しなんて言葉なんてどうでもいいこと。そう思うのに何故かあれが胎児と同時に花嫁姿のアキコとも結び付いていくのが、忌々しいほど腹立たしい。
嫁に貰うから、子供なんて簡単に結び付けるなんて俺も…………
子供は欲しくない。正直シュンイチの考えは変わらないのは事実で、アキコにはそれは口にしたことがない。何故子供が欲しくないのかは説明が出来ないが、自分の子供時代にいい思い出がないからかもしれないと思う。自分の子供時代は勉強ばかりで何もかも楽しみというものがないし、今から産まれた子供達は自分より更に勉強ばかりの人生なのだし。そう言い訳染みている理由を頭の中で正当化しても、それが周囲の人々とは同じでもないのは分かっている。
ヤハタさんとこには子供が出来てるし、コイズミだって子供が欲しいと言う。
それなのに塾の講師をしている自分がこんなにも子供が欲しくないのは、子供なんて嫌いだし、子供のせいで自分の時間が失われるなんてごめんだからだ。そう頭の中で繰り返している自分に、低く掠れた声が再び『よって件の如し』と呟くのが聞こえていた。
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