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悪化
101.
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アキコが選んだ心療内科に通い始めて僅か一ヶ月の間。
短いその期間でアキコに処方された薬は、アキコの今の体格から言うと規格外の量だったのだ。薬剤というものは、それを体内にいれて代謝して血液などで効果を示すモノなの。薬効によっては様々な臓器の動きを阻害することもあるので、必要に応じて体内への取り込みかたや薬効の時間などを考える必要性がある。特に安定剤のような種類も含めて、患者の体重や代謝して排出する能力と比較しながら処方する必要があるものなのだ。だがアキコの訴えに疑問もなく追加で睡眠導入剤を処方したその医師は、申し訳ないがあまり目端のきく腕のいい意思ではなかったのだろうと思う。そして同様に院外処方を出す薬剤師も、その医師の処方に慣れていたのかその内容の異常さには気がつかなかったようだ。勿論アキコも看護師の知識をフル活用して、薬を出してもらうよう上手く具合の悪さを強調しているので騙しているようなものなのだが。
現在では処方箋に用法外であったり対象の体格などに比較して過剰すぎると分かる処方をすると、基本的に薬剤師はそれを確認するために医師に連絡する。薬剤は正しい用法が必要なものであるという認識がここ数年高まった証拠でもあるし、現在の社会問題の一つにある自宅に大量の服用しなかった薬剤を備蓄してしまうことが発覚したからなのだろう。とは言え当時は処方に関してはそこまでではなく、貰おうとしているアキコが本来なら使うべきではないズル賢さを発揮している。
「眠れないです、一瞬ウトウトして、その後ずっと目が覚めます。」
「寝付きはいいです。でも、三十分で目が覚めてそれ以降寝付けなくなります。」
「不安で夜中に目が覚めて飛び起きます。そのまま眠れなくて、ずっと起きています。」
アキコの言葉に医師が頷き、更に追加の安定剤や睡眠導入剤を処方する。
自分自身が何のために本当ではないのにそう言い新しく処方を追加して出してもらっているのか。それをアキコが医師に言うわけがなかった。しかも続々と追加で出されるその処方には何一つ手をつける訳でなく、綺麗に整えて自分の持ち歩くバックの中に備蓄のように貯めているのも誰にも言う筈がない。
日常は最初から貰っていた数時間の眠りを与えてくれる薬だけを飲んで、僅かな短い眠りに落ちる。心を決めてからは辛くても、決して夜中に目が覚めても追加で薬を飲むことはない。目が覚めれば暗闇の中でバックの中の薬がどれくらい貯まっているかを頭の中で数えて、リビングのソファーで壁越しの男の鼾を聞きながら夜が明けるまで過ごすのだ。
飲んでいる抗鬱薬は、もう全く効き目すら感じられない。
やる気も活力も戻ることはなく、ただ日々疲労感だけが思い枷のように蓄積していく。住み処のような暗い寝室から出ることは、トイレと夜中に一人で目が覚めた後。そして男が放つ命令を聴く時だけになっていた。あんなに好きだった料理も、洗濯も掃除も最近はやる気にすらならない。何しろやろうとしても何をどうしたらいいかが分からなくなってしまって、ただボンヤリと立ち尽くすようになったのに男が激昂して殴り付けたからキッチンに立つことすら出来なくなったのはここ最近だ。流しの前に立つと冷や汗をかいて過換気のような呼吸になって目眩がするようになってしまったアキコに、男は演技だと何度も怒鳴り付け殴るようになった。そうしている内に料理をしても味が分からなくなって、訳の分からない料理をするようになったから男は作れと言わなくなったのだ。何しろ今ではアキコは一人では珈琲も入れられないし、トースト一枚マトモに焼くことも出来ない。料理を全くしなくなったから、食事は男が適当に与える物に頼るしかなくなった。気まぐれに餌のように男から投げ渡されるモノを暗闇で貪り噛み砕き、水気のないそれを飲み込む。時には三本入りの串団子のパックを投げ渡されることもあったし、時には冷めてはいても某有名チェーン店の牛丼のこともある。だが、大概は栄養価の分かりやすいブロック型の固形栄養材の黄色い箱だった。好まないドライフルーツ味のそれを犬のように噛み砕き、次に与えられる餌の時間までもつように寝室で息を潜める。殆ど動かないので吐くことは無くなったが、偏った食生活に腹部がつきだした姿は地獄絵図の餓鬼のようだ。
誰がが来たら表面を取り繕って、妻のふりをしなければいけないかもしれない。もっとも最近は殆どこの家を訪ねてくる人なんかいない。仕事にいかなくなってからは携帯も前回私がウノのところに逃げたしたから、何か問題を起こすと困ると男が奪い取ってしまっていた。
こんなになってもアキコが逃げることは男にとって、問題なのだ。
流石に通院時は持たされるけど、その後使用した履歴があれば酷い目に遭わされるから使う気にもなれない。アキコは表面上は従順で大人しい奴隷で妻であり続けるよう努めて見せていたし、男の暴力にも抵抗する事もないただの飼い犬のようにベットの上で丸くなった。そうしながらアキコは普段男に何かを言ったりやったりするよりも、綿密に自分の願いを優先して行動している。アキコはすっかり狂った頭で、その癖元々持ち合わせた恐ろしいほどの手際の良さを発揮していた。完全に狂った病的な執念で、アキコ自身の願いを果たすための準備を短い時間でこなすのだ。
そう思い真っ暗な寝室のベットの上で丸くなったまま、ニヤリと一人で口角を歪ませていた。
※※※
珍しくアキコは家に一人で幸せに満たされていた。
電気一つついていない真っ暗な家の中は、物音もなくアキコだけの世界だ。
狂ったアキコは嬉しそうに音のない室内に耳をすます。
陽射しも落ち、微かにどこかの家の子供が騒ぐ声がする。そして、微かな調理の音、テレビの音、赤ん坊が泣く声、母親らしい女性の声と返事を返す子供の声。まるで異世界のようなその音に、アキコは寝室の暗闇の中で息を殺して耳をすます。
唐突に携帯が震えアキコは驚いて飛び上がる。
暫く震えが止まるまで息を潜めていると今度は自宅の固定電話が鳴りだした。オロオロと困ったように電話を眺めながら、どうしたらと考える。とればいいのだが、電話に出るなと男から命令されているのはわかっていた。それでも固定電話の留守電に聞き覚えのある声が話し出すのを聞いてアキコは物音もさせずにそっと暮明の中で電話に歩み寄っていく。それは自分の母親からの電話で、留守電が返答し始めると通話が終わる。そう思うと再びディスプレイに同じ電話番号が表示され電話が鳴り始める。ここまで繰り返し電話を掛けてくるなんて、もしかしたら緊急の用事かもしれないとふっと考えたアキコは恐る恐る受話器をとった。
「…………………もしもし……。」
『アキコ、よかった。今どうしてるの?』
それほど緊急性のある声音ではない母親の様子にはアキコはホッと安心する。もしかしたら、男に電話をして自宅を不在にしてることを聞いたのかもしれないとぼんやり思った。暫く前からアキコが仕事を休んでいることは、アキコの両親からかかってきた電話のついでに男から話されている筈だとは思う。
その日、実は男は職場の忘年会で一泊の旅行に出かけていた。
だからアキコは一人暗闇で穏やかに過ごしているのだが、そう素直に告げると母の声音が険しくなったのが分かる。本来なら精神的な病気で多量に薬を内服している妻を置き去りにすること自体間違っているのはよく分かっていたが、アキコ自身は逆に独りでいることのほうが幸せだった。男に殴られる心配もないし、恐くて落ち着かないこともない。だが両親は男がいないと言う状況を聞くと憤慨して、その怒りの様子に久々に人らしい反応だとアキコも思う。
…………こんな当然のこと
ふっと頭の中でそう考えた瞬間、アキコの瞳から何故か涙が溢れていた。もうアキコはウノに電話をすることも出来ず、来訪しなくなったコバヤカワともコイズミとも接点は皆無だった。後者が男の故意によるものくらいはアキコ自身も良く分かっていたが、既にそれもどうでもいいことだ。それにこうして酩酊する時間帯には車の運転も出来ないので、アキコ自身で殆ど外に出ることもない。
『迎えに行くから・週末に。』
怒りを含んだ母の声音にアキコは嗚咽をこぼしがら、願いをかなえる日が決まった事を感じていた。
※※※
人はそれをしようとする時、確実な変化を見せるものだ。
傍目に見てもそれは明確なものではあるが、それは見ようとしなければ分からない変化でもある。人はそれを決行しようとする前に自分の身の回りのを整理するものらしい。今まで殆ど自発的に動くこともなかったアキコが、まるで以前のアキコのようにてきぱきと活動を始める。
勿論、前向きな意図で活動的になったのではなかった。
自分の持っていた大事なもの。
自分が集めていた大切だったもの。
そんな、自分にとって大切な本や絵を処分し始めたのだ。
最初に男から可愛いと与えられたぬいぐるみの後から、まるでアキコの時間を潰す代償のようにゲームセンターに行く度に与えられるようになったクレーンゲームのぬいぐるみ。それが既に棚に山のようになっていた物が綺麗サッパリ処分された。様々な物があっという間に煙のように部屋から消えて行くのに、一緒に住む夫である者が気がつかない筈はない。
数百にもおよぶアキコの蔵書が本棚から姿を消し、
数十にもおよぶアキコの趣味である映画のソフトが棚から姿を消し
幾つものぬいぐるみが何時の間にか消えていく。
そして残るのは捨てるに捨てられないアキコの思いだけが詰まったもの
アキコが過去に触れた強い感情の残った物だけが、大切にアキコの思いに包み込まれて取り残されていく。そして、アキコに押し付けた男の好む物だけが孤独に消え去って行く。それが男に見えないはずはなかった。大体にしてアキコは、それに気づかれ止められる事を危惧していたのだ。しかし結局最後まで、アキコの夫である男はそれに触れようとはしなかった。いや、あえて触れなかったのかもしれない。ふと一人部屋の中でそう気がついたアキコは心の中に沸き上がる激しい憎悪に気がついた。
苦しんでいるのに、あなたは見ないふりだ。
それは何故だろう。男の愛情とはそういうものなのだろうか。痛みと恐怖だけを与えるのが男の愛情なのだろうか。そう思いながら、十二月のまだ遠距離恋愛の最中救急車で運ばれた苦痛を感じた日と同じ夜。アキコは目的を果たすその時を迎えていた。
「明日両親が来た時、寝てると気がつかないかもしれないから仕事に行く時は鍵を開けていってね?」
翌日仕事だという男の背中にそう言うとパソコンのチャット画面から目も話さずにおざなりの返事が返される。もう一度丁寧にそう頼んだ声にを初めて男は訝しげに振り返り、アキコと視線があうと久々に優しい声音を投げかけてきた。
「今度の休みは一緒に遊びに行こうか?」
その言葉の影には、目の前のパソコンでたった今他の女と会話そしていることがまざまざと目に見えるような気がした。ばつが悪いから優しくする男なことくらい、もうとうの昔から知っている。
病気で役に立たない金づるだけの奴隷妻は、今や金づるとしても機能しなくなりつつあった。仕事を休むことで貰える傷病手当金で、家賃や光熱費を支払えば後は通院代程度しか手元には残らない。それでも目の前の男が度々、病気の妻の通帳から貯蓄を切り崩し遊興費として使っているのを知っている。親から貰った幾ばくの金銭は、とうの昔に遊興費に消えたこともアキコはちゃんと知っている。だけどそれを問いただすつもりもない。問いただせば奴隷としての役目を果たさないと、また理不尽な暴力にさらされるからだ。
今はその性的な欲求を満たす変わりの女性を求める男の底のない欲が見え隠れする。そして分かりきったことだが、それを追求すればあの奴隷誓約書を持ち出して来るのだ。これ以上奴隷としての束縛がありようもないのに、書類というおぞましい現実にサインをしろの責めが始まる。それはもうごめんだった。だから、アキコは無表情のまま男を見据えた。
「…そうだね。……それじゃ、寝るから、バイバイ。」
意図的に残した言葉を何も感じない男が適当な返事の後、パソコンでの交流を再開する。その姿を見つめながらアキコは踵を返し寝室に真っ直ぐ進む前に台所へ立ち寄る。そして、この時のために買っておいた冷えたビールを片手に寝室へと向かっていた。
これで終わり。
もう何も辛い事はなくなる。
全ては淡い雪のように溶けてこの世から消え去るのだから。
願い続けたそれだけの為にアキコは微かに歪んだ微笑を浮かべて、口に薬を含みビールで飲み下し始めた。
短いその期間でアキコに処方された薬は、アキコの今の体格から言うと規格外の量だったのだ。薬剤というものは、それを体内にいれて代謝して血液などで効果を示すモノなの。薬効によっては様々な臓器の動きを阻害することもあるので、必要に応じて体内への取り込みかたや薬効の時間などを考える必要性がある。特に安定剤のような種類も含めて、患者の体重や代謝して排出する能力と比較しながら処方する必要があるものなのだ。だがアキコの訴えに疑問もなく追加で睡眠導入剤を処方したその医師は、申し訳ないがあまり目端のきく腕のいい意思ではなかったのだろうと思う。そして同様に院外処方を出す薬剤師も、その医師の処方に慣れていたのかその内容の異常さには気がつかなかったようだ。勿論アキコも看護師の知識をフル活用して、薬を出してもらうよう上手く具合の悪さを強調しているので騙しているようなものなのだが。
現在では処方箋に用法外であったり対象の体格などに比較して過剰すぎると分かる処方をすると、基本的に薬剤師はそれを確認するために医師に連絡する。薬剤は正しい用法が必要なものであるという認識がここ数年高まった証拠でもあるし、現在の社会問題の一つにある自宅に大量の服用しなかった薬剤を備蓄してしまうことが発覚したからなのだろう。とは言え当時は処方に関してはそこまでではなく、貰おうとしているアキコが本来なら使うべきではないズル賢さを発揮している。
「眠れないです、一瞬ウトウトして、その後ずっと目が覚めます。」
「寝付きはいいです。でも、三十分で目が覚めてそれ以降寝付けなくなります。」
「不安で夜中に目が覚めて飛び起きます。そのまま眠れなくて、ずっと起きています。」
アキコの言葉に医師が頷き、更に追加の安定剤や睡眠導入剤を処方する。
自分自身が何のために本当ではないのにそう言い新しく処方を追加して出してもらっているのか。それをアキコが医師に言うわけがなかった。しかも続々と追加で出されるその処方には何一つ手をつける訳でなく、綺麗に整えて自分の持ち歩くバックの中に備蓄のように貯めているのも誰にも言う筈がない。
日常は最初から貰っていた数時間の眠りを与えてくれる薬だけを飲んで、僅かな短い眠りに落ちる。心を決めてからは辛くても、決して夜中に目が覚めても追加で薬を飲むことはない。目が覚めれば暗闇の中でバックの中の薬がどれくらい貯まっているかを頭の中で数えて、リビングのソファーで壁越しの男の鼾を聞きながら夜が明けるまで過ごすのだ。
飲んでいる抗鬱薬は、もう全く効き目すら感じられない。
やる気も活力も戻ることはなく、ただ日々疲労感だけが思い枷のように蓄積していく。住み処のような暗い寝室から出ることは、トイレと夜中に一人で目が覚めた後。そして男が放つ命令を聴く時だけになっていた。あんなに好きだった料理も、洗濯も掃除も最近はやる気にすらならない。何しろやろうとしても何をどうしたらいいかが分からなくなってしまって、ただボンヤリと立ち尽くすようになったのに男が激昂して殴り付けたからキッチンに立つことすら出来なくなったのはここ最近だ。流しの前に立つと冷や汗をかいて過換気のような呼吸になって目眩がするようになってしまったアキコに、男は演技だと何度も怒鳴り付け殴るようになった。そうしている内に料理をしても味が分からなくなって、訳の分からない料理をするようになったから男は作れと言わなくなったのだ。何しろ今ではアキコは一人では珈琲も入れられないし、トースト一枚マトモに焼くことも出来ない。料理を全くしなくなったから、食事は男が適当に与える物に頼るしかなくなった。気まぐれに餌のように男から投げ渡されるモノを暗闇で貪り噛み砕き、水気のないそれを飲み込む。時には三本入りの串団子のパックを投げ渡されることもあったし、時には冷めてはいても某有名チェーン店の牛丼のこともある。だが、大概は栄養価の分かりやすいブロック型の固形栄養材の黄色い箱だった。好まないドライフルーツ味のそれを犬のように噛み砕き、次に与えられる餌の時間までもつように寝室で息を潜める。殆ど動かないので吐くことは無くなったが、偏った食生活に腹部がつきだした姿は地獄絵図の餓鬼のようだ。
誰がが来たら表面を取り繕って、妻のふりをしなければいけないかもしれない。もっとも最近は殆どこの家を訪ねてくる人なんかいない。仕事にいかなくなってからは携帯も前回私がウノのところに逃げたしたから、何か問題を起こすと困ると男が奪い取ってしまっていた。
こんなになってもアキコが逃げることは男にとって、問題なのだ。
流石に通院時は持たされるけど、その後使用した履歴があれば酷い目に遭わされるから使う気にもなれない。アキコは表面上は従順で大人しい奴隷で妻であり続けるよう努めて見せていたし、男の暴力にも抵抗する事もないただの飼い犬のようにベットの上で丸くなった。そうしながらアキコは普段男に何かを言ったりやったりするよりも、綿密に自分の願いを優先して行動している。アキコはすっかり狂った頭で、その癖元々持ち合わせた恐ろしいほどの手際の良さを発揮していた。完全に狂った病的な執念で、アキコ自身の願いを果たすための準備を短い時間でこなすのだ。
そう思い真っ暗な寝室のベットの上で丸くなったまま、ニヤリと一人で口角を歪ませていた。
※※※
珍しくアキコは家に一人で幸せに満たされていた。
電気一つついていない真っ暗な家の中は、物音もなくアキコだけの世界だ。
狂ったアキコは嬉しそうに音のない室内に耳をすます。
陽射しも落ち、微かにどこかの家の子供が騒ぐ声がする。そして、微かな調理の音、テレビの音、赤ん坊が泣く声、母親らしい女性の声と返事を返す子供の声。まるで異世界のようなその音に、アキコは寝室の暗闇の中で息を殺して耳をすます。
唐突に携帯が震えアキコは驚いて飛び上がる。
暫く震えが止まるまで息を潜めていると今度は自宅の固定電話が鳴りだした。オロオロと困ったように電話を眺めながら、どうしたらと考える。とればいいのだが、電話に出るなと男から命令されているのはわかっていた。それでも固定電話の留守電に聞き覚えのある声が話し出すのを聞いてアキコは物音もさせずにそっと暮明の中で電話に歩み寄っていく。それは自分の母親からの電話で、留守電が返答し始めると通話が終わる。そう思うと再びディスプレイに同じ電話番号が表示され電話が鳴り始める。ここまで繰り返し電話を掛けてくるなんて、もしかしたら緊急の用事かもしれないとふっと考えたアキコは恐る恐る受話器をとった。
「…………………もしもし……。」
『アキコ、よかった。今どうしてるの?』
それほど緊急性のある声音ではない母親の様子にはアキコはホッと安心する。もしかしたら、男に電話をして自宅を不在にしてることを聞いたのかもしれないとぼんやり思った。暫く前からアキコが仕事を休んでいることは、アキコの両親からかかってきた電話のついでに男から話されている筈だとは思う。
その日、実は男は職場の忘年会で一泊の旅行に出かけていた。
だからアキコは一人暗闇で穏やかに過ごしているのだが、そう素直に告げると母の声音が険しくなったのが分かる。本来なら精神的な病気で多量に薬を内服している妻を置き去りにすること自体間違っているのはよく分かっていたが、アキコ自身は逆に独りでいることのほうが幸せだった。男に殴られる心配もないし、恐くて落ち着かないこともない。だが両親は男がいないと言う状況を聞くと憤慨して、その怒りの様子に久々に人らしい反応だとアキコも思う。
…………こんな当然のこと
ふっと頭の中でそう考えた瞬間、アキコの瞳から何故か涙が溢れていた。もうアキコはウノに電話をすることも出来ず、来訪しなくなったコバヤカワともコイズミとも接点は皆無だった。後者が男の故意によるものくらいはアキコ自身も良く分かっていたが、既にそれもどうでもいいことだ。それにこうして酩酊する時間帯には車の運転も出来ないので、アキコ自身で殆ど外に出ることもない。
『迎えに行くから・週末に。』
怒りを含んだ母の声音にアキコは嗚咽をこぼしがら、願いをかなえる日が決まった事を感じていた。
※※※
人はそれをしようとする時、確実な変化を見せるものだ。
傍目に見てもそれは明確なものではあるが、それは見ようとしなければ分からない変化でもある。人はそれを決行しようとする前に自分の身の回りのを整理するものらしい。今まで殆ど自発的に動くこともなかったアキコが、まるで以前のアキコのようにてきぱきと活動を始める。
勿論、前向きな意図で活動的になったのではなかった。
自分の持っていた大事なもの。
自分が集めていた大切だったもの。
そんな、自分にとって大切な本や絵を処分し始めたのだ。
最初に男から可愛いと与えられたぬいぐるみの後から、まるでアキコの時間を潰す代償のようにゲームセンターに行く度に与えられるようになったクレーンゲームのぬいぐるみ。それが既に棚に山のようになっていた物が綺麗サッパリ処分された。様々な物があっという間に煙のように部屋から消えて行くのに、一緒に住む夫である者が気がつかない筈はない。
数百にもおよぶアキコの蔵書が本棚から姿を消し、
数十にもおよぶアキコの趣味である映画のソフトが棚から姿を消し
幾つものぬいぐるみが何時の間にか消えていく。
そして残るのは捨てるに捨てられないアキコの思いだけが詰まったもの
アキコが過去に触れた強い感情の残った物だけが、大切にアキコの思いに包み込まれて取り残されていく。そして、アキコに押し付けた男の好む物だけが孤独に消え去って行く。それが男に見えないはずはなかった。大体にしてアキコは、それに気づかれ止められる事を危惧していたのだ。しかし結局最後まで、アキコの夫である男はそれに触れようとはしなかった。いや、あえて触れなかったのかもしれない。ふと一人部屋の中でそう気がついたアキコは心の中に沸き上がる激しい憎悪に気がついた。
苦しんでいるのに、あなたは見ないふりだ。
それは何故だろう。男の愛情とはそういうものなのだろうか。痛みと恐怖だけを与えるのが男の愛情なのだろうか。そう思いながら、十二月のまだ遠距離恋愛の最中救急車で運ばれた苦痛を感じた日と同じ夜。アキコは目的を果たすその時を迎えていた。
「明日両親が来た時、寝てると気がつかないかもしれないから仕事に行く時は鍵を開けていってね?」
翌日仕事だという男の背中にそう言うとパソコンのチャット画面から目も話さずにおざなりの返事が返される。もう一度丁寧にそう頼んだ声にを初めて男は訝しげに振り返り、アキコと視線があうと久々に優しい声音を投げかけてきた。
「今度の休みは一緒に遊びに行こうか?」
その言葉の影には、目の前のパソコンでたった今他の女と会話そしていることがまざまざと目に見えるような気がした。ばつが悪いから優しくする男なことくらい、もうとうの昔から知っている。
病気で役に立たない金づるだけの奴隷妻は、今や金づるとしても機能しなくなりつつあった。仕事を休むことで貰える傷病手当金で、家賃や光熱費を支払えば後は通院代程度しか手元には残らない。それでも目の前の男が度々、病気の妻の通帳から貯蓄を切り崩し遊興費として使っているのを知っている。親から貰った幾ばくの金銭は、とうの昔に遊興費に消えたこともアキコはちゃんと知っている。だけどそれを問いただすつもりもない。問いただせば奴隷としての役目を果たさないと、また理不尽な暴力にさらされるからだ。
今はその性的な欲求を満たす変わりの女性を求める男の底のない欲が見え隠れする。そして分かりきったことだが、それを追求すればあの奴隷誓約書を持ち出して来るのだ。これ以上奴隷としての束縛がありようもないのに、書類というおぞましい現実にサインをしろの責めが始まる。それはもうごめんだった。だから、アキコは無表情のまま男を見据えた。
「…そうだね。……それじゃ、寝るから、バイバイ。」
意図的に残した言葉を何も感じない男が適当な返事の後、パソコンでの交流を再開する。その姿を見つめながらアキコは踵を返し寝室に真っ直ぐ進む前に台所へ立ち寄る。そして、この時のために買っておいた冷えたビールを片手に寝室へと向かっていた。
これで終わり。
もう何も辛い事はなくなる。
全ては淡い雪のように溶けてこの世から消え去るのだから。
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