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悪化
118.
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こうして、一人考える。
人工的な射干玉の暗闇ではなく、時間に合わせて日射しの入る室内。そこに敷かれた清潔な布団に横になり、子供の頃から見慣れた天井節を眺めながらアキコは無言のまま一人で言葉もなく考えている。耳に聞こえるのは、初夏の梢の揺れる音と微かな鳥の鳴く声。その中でアキコは自分が過ごしてきた筈の過去のことを考えていた。
………………確かに愛情は存在していた。
昔のアキコの記憶の中には、確かに彼を愛していたという思いはある。最初の出逢いやそれに伴う性的な感覚は兎も角、アキコはシュンイチを愛していたし、シュンイチの為になりたいと願ってもいた。だが、今にして思えばアキコ自身も愛情の表現の仕方が間違っていて、全てのことを与えるだけが愛情の表現と思いこんでいたように思える。そして、その愛情に相手は言わなくとも同等の愛情で返してくれるものだと思っていた。
自分の両親がそう見えていたから、夫婦はそうあるものなのだとアキコは過信していたのだ。
そして………………その認識の誤りを気が付いていたのに、正さなかった。
アキコ自身シュンイチからの愛情は何度もそうでないことに気がついていたのに、認識をけして変えようとしなかった。しかも、その認識のズレを感じていたのに、相手に伝えることもなかった。伝えずに何時かはそうするはずと思い続けて、そうならないことに一人で落胆してきたのだ。その頑なな考えと自己満足に似た愛情という名で過保護に相手の世話を焼きつづけたアキコも誤っていた。
アキコ自身にも過ちがあった事は、自分でも認める。
同時にアキコはもう一つについても考える。
しかし、その相手である夫はどうだったろうかと。
シュンイチの愛情はどうだったのだろう。SM調教という歪な形で示され、言葉と行為の暴力で形どられた愛情はシュンイチにとって本物だったのだろうか。何度も一からやり直すと口にして、一時の安定の後元の自堕落な生活に墜ちる事を繰り返す。そして、そのどれもがアキコのせいだとシュンイチは言った。
日々遊んでいるのも、女と会うことも寝ることも、アキコのせいだった。
最初アキコは都合のいい財布で、都合のいいダッチワイフだった。次にアキコは都合のいい飯炊きになって、都合のいいメイドで性奴隷に変わった。その次に都合のいい奴隷妻で、何時でも金を出せる都合のいいATMになった。シュンイチにとってアキコは結局常に都合のいい使い勝手のいいメイドなのだ。血の繋がる子供も拒絶した彼にとって、アキコは性行為の出来る母親の代用品なのだろうと今では思う。代用品だから簡単に、自分の罪も擦り付けることが出来たのだ。
だって母さんが管理するものだから、俺が使ってるのを管理しない母さんが悪い。俺が使うのを止めないのが悪い。
そして考えていけば、シュンイチの親もそうだった。けして自分達が悪いとは言わない。全部誰かのせいだった。俺のせいじゃない、私たちのせいじゃない、あの子がそうだから、あいつがそうだから、だから自分のせいじゃない。今更だが、きっと自分で責任をとるという認識はないのだ。こうなってしまうと母親がそう育てたのだから、当人がそう育ったと思うしかない。そこに自分が何とかしないとと思い込みやすいアキコが入ることで全てが悪循環に陥って更に悪化したのだ。
それにしても代用母との愛はシュンイチにとって幸せだったのだろうか。
深かった愛情が完全に憎しみに変わった瞬間を思い出すと、今のアキコもまだ自分の心が微かに波立つのを感じる。
深すぎた誤りに満ちる愛情
それと対になる深く暗い憎しみ
それを知った事でアキコは変ったし、今やっとそれを昇華させたのだとも言えた。
一度死の縁から戻ったアキコは全てを酷く冷静な気持ちで見ることができるようになったのだ。それはある意味で全てに決別を迎えようとする感情の片鱗なのかもしれない。そう考えてしまうと陽射しに溢れる部屋の中でアキコは静かにそっと涙を溢し、その唇から掠れたヒョウ…………という哭き声が尾を引くように流れ出していた。
※※※
あの土蔵が目の前にある。
それだけでもうこれが夢の一部なのだと理解できるようになってしまった。何故なら実売自分は、もうここは過去の世界なのだと知っているからだ。この土蔵は既に水面の底に沈んでいて、中には何も存在しないがらんどう。過去には酷く恐ろしかった筈の土蔵は、夢の中でも乾いた廃墟に変わりつつあるし、土蔵の中に居たものがなんなのかも言うまでもない。だからこうしてここが夢に出てきても何も恐れることがなくなったのに、何故か奇妙な寂しさすら感じてしまう。この体内に密かに眠る蛇の存在ですらも、以前とは違って恐怖の対象ではなくなってしまったのと同じだ。
ヒョウ…………
哀しげに哭く声が辺りに響き、その水面のように揺らめく光の存在が自分の瞳の涙が光を反射しているのだと気が付く。二つの存在が一つになって結び付き、新たなモノに生まれ変わって……それに気が付いてしまったことに、奇妙な憂いを覚えている。
ヒョウ……
この哭き声が自分のものだと知ってしまったから、もう土蔵は恐怖の象徴ではなくなってしまったのだし体内にいた蛇ですら…………ただ残念なのはこれを知ってしまうと…………
※※※
そこまで思考していたのに、ふと目が覚めてアキコはパチパチと瞬きを繰り返す。思考の片鱗はあっという間に、何を考えていたかごと夢に溶けて消え去ってしまって気が付くとアキコは何を思考していたかすら思い出せない。そして思い出せないことすら思い出せなくなっているのを気にもしていないのは、夢というものはそんなものだと普通は思うからだ。
どんな夢だったかも、思い出せないけど
悪い夢ではないのは、それほど不快ではない気分だからと考える。そうしてユックリと身体を起こしながら、アキコは自分の現状を夢現から覚めて認識しなおす。死にかけた後遺症なのか以前のアキコと今のアキコはどうしても別人のような認識があって、目覚めて自分は何をどうしてきたのか確認しないと自分がアキコなのだと忘れてしまうのだ。
変なの…………思い出せば、ちゃんと自分がアキコだと分かるのに…………
それでも少しずつだがそれにかかる時間が短くなってきているから、やはりこれは死にかけた後遺症なのだとアキコは思う。そして自宅療養のお陰で熱も下がり体調も回復して更に動けるようになり、自分を冷静に見つめられるようになっていてアキコは日々を噛み締めながら改めてこの先を考える。
もう一度やり直したいとどこかで考えている?
そう自分に向かって心の中に問いかける。だが何度繰り返して見てもアキコの考えは一つも揺らぐ事はなく、あの時病室で繰り返したのと同じで即座にNOと叫び返す。
もう無理。だって、一緒にいたくない。
以前のようにヤネオにとついだからとか、変わるかもなんて甘い感情は浮かばない。十分待ったし堪えたし、もう無理だと自分が答えるのを聞きながら、大体にしてと自分が反論するのを聞くのだ。大体にして実家に帰ると言った時に何も言わず、あれから期間がたったけど何一つ向こうは動かない。確かに自分は携帯の電源を入れていないが、両親はアキコの入院についてはキチンと連絡したというし退院も伝えたという。入院中一度も顔を見たこともなければ連絡も来なかったし、退院してから実家には電話もかかってこない。
多分、こっちがかけなきゃ、かかってこない。
そして恐らく連絡もなければ、ワザワザ顔を出すこともないのは言われなくても分かっている。ヤネオシュンイチという人間だけでなく、彼の両親も我が子が入院してもそうだったのはアキコがよく知っているのだから。そんな矢先シュンイチからの手紙が一度来ていたのを知って僅かに驚きはしたものの、それに目を通しても結果としてはアキコの考えは変わる事はなかった。
《俺は変わりなく楽しくやっているし、ゲームの階級も上がったからアキに早く俺様の勇姿を見せたいよ。アキが早くゲームしに行くのについてきてくれるといいな。
早く戻ってきてください。早く仕事ができる様になって元通りの看護師にアキが帰れれば、きっとアキは元気になる。こっちに戻ったら前みたいに遊びについてきたら気晴らしになるよ。だから、早く戻ってきて仕事してください。それが一番元気になるはずだ………》
恐る恐るという節でミヨコから差し出された手紙を開けて読んだのは、退院して二週間ほどたった頃。手紙を出してきたことには僅かながらに感心しそうだったのだが、開けて読んだ途端にその気が失せていくのはやむを得なかった。
読みにくく歪んだ文字に稚拙な文章。
何度か読み直して見てから、アキコは意味深に溜め息をついて目を細める。アキコが先に読んでまた以前のようになるのを危惧して、一度先に両親が目を通していたのだろう。既に開けられた封筒から、たった一枚だけ出てきた便箋には、それにしても残念というしかない文章が綴られている。
国語の先生でしょうが…………
キュウと目が異様に細まった気がして、その手紙を書くシュンイチの姿が何故か瞼の裏に浮かぶ気がした。当人としては必死で綴ったつもりだろうけど、あまりにも稚拙過ぎて心に何も響かない。しかもこれを当人が本気で書いているのが何故か文字から読み取れるのに、実は心底苛立っている自分に気がつく。
子供の手紙の方がまだまし、マイナス
幼い子供でも相手が病人なら《お加減はいかがですか?》と問いかける常用句を書くことかできる。しかも内容はさらに稚拙で、アキコに元に戻り同じ生活をして金を稼いで自分を養えと言っているに他ならない事を男は気が付いているのだろうかと冷淡に思考した。アキコに再び愛以上に憎悪を感じさせる生活を繰り返せという、これを怒らないで読めるとしたら、もう洗脳されているとしか思えないのは言う迄もなくて以前のアキコはそうだったのだ。アキコは酷く冷静にもう一度汚く稚拙な文字を見た。
奇妙なことだと分かっているが、瞼の裏に稚拙な文字を綴る相手の姿がハッキリと見えている。
まるで唐突にその力に目覚めて千里眼にでもなっているかのように、相手が未だあのアパートに独り暮らし、あの高額ゲームの為にゲームセンターにお金を落とす生活をしているのはよく分かった。しかも食事も作らず仕事もしないその生活は、傷病手当だけでは成り立たなくて両親に金銭をせびっている。
情けない………………
時折何かに怯えて安定剤を飲む。安定剤の服用法方が自己判断で一度に過剰用法になっていて、性欲も減退してしまった。だからセックスが出来なくて女遊びはしていない。友人はドンドン離れていって、残っているのはコバヤカワケイだけになりつつあるけど、コバヤカワケイはシュンイチを心配している訳じゃない。何故それがわかるかは見えるからとしか言えないけれど、これは誤ってはいないのはわかる。
それに怯えているのはアキコのもたらす物を失うのが嫌なだけ。アキコがしてきた彼の面倒を見てくれるものがいなくなるのが困るだけ。
自由と金銭と………自分が支配できる存在。
何一つ自由に出来ない稚拙な男に与えられた唯一の玩具の様な存在。
彼は自分がアキコにとっての唯一無二と考えていた。でもそれはこうしてみれば、逆も当てはまってしまう。
あなたにとって私もそうだった。でも、もう私はその呪縛を外してしまったから、もうあなたは私の唯一ではないの。だから、私はもう同じ事はしない。
アキコは静かな目でそれをもう一度読み上げて、心配そうな自分の両親に向かってひどく穏やかに微笑みながら視線を向けた。ミヨコは不安げな様子でアキコの手からその手紙をそっと取り上げる。
「アキコ、その手紙は捨てよう?ね?腹が立つものね。」
その言葉にアキコは尚更微笑みを深めて見せると、まだ少し掠れの残る声で穏やかに答えた。
「ううん、とっておいて。」
その言葉にミヨコが再びアキコが誤った選択をするのではないかと危惧しているのを恐れているのが分かる。だからアキコは全く違う理由があることを伝えるために、朗らかに笑い、母の手から取り上げた手紙をきちんと折り畳み封筒におさめた。自分で保管しておきたいが一瞬怒りに呑まれた時に自分は破り捨ててしまいそうだから、冷静に対応できるはずの母に渡すと口にする。
「離婚を拒んだ時に証明に使うから、とっておいてほしいの。」
アキコは真っ直ぐに過去に持ち合わせていた聡明さを取り戻しながら、迷うことなくそう口にして微笑んだ。いつか母と笑って破り捨ててやる日が来るけれど残念だがそこまでは大事に保管しておくしかないというアキコは、ほんの一ヶ月前とはまるで別人だった。
人工的な射干玉の暗闇ではなく、時間に合わせて日射しの入る室内。そこに敷かれた清潔な布団に横になり、子供の頃から見慣れた天井節を眺めながらアキコは無言のまま一人で言葉もなく考えている。耳に聞こえるのは、初夏の梢の揺れる音と微かな鳥の鳴く声。その中でアキコは自分が過ごしてきた筈の過去のことを考えていた。
………………確かに愛情は存在していた。
昔のアキコの記憶の中には、確かに彼を愛していたという思いはある。最初の出逢いやそれに伴う性的な感覚は兎も角、アキコはシュンイチを愛していたし、シュンイチの為になりたいと願ってもいた。だが、今にして思えばアキコ自身も愛情の表現の仕方が間違っていて、全てのことを与えるだけが愛情の表現と思いこんでいたように思える。そして、その愛情に相手は言わなくとも同等の愛情で返してくれるものだと思っていた。
自分の両親がそう見えていたから、夫婦はそうあるものなのだとアキコは過信していたのだ。
そして………………その認識の誤りを気が付いていたのに、正さなかった。
アキコ自身シュンイチからの愛情は何度もそうでないことに気がついていたのに、認識をけして変えようとしなかった。しかも、その認識のズレを感じていたのに、相手に伝えることもなかった。伝えずに何時かはそうするはずと思い続けて、そうならないことに一人で落胆してきたのだ。その頑なな考えと自己満足に似た愛情という名で過保護に相手の世話を焼きつづけたアキコも誤っていた。
アキコ自身にも過ちがあった事は、自分でも認める。
同時にアキコはもう一つについても考える。
しかし、その相手である夫はどうだったろうかと。
シュンイチの愛情はどうだったのだろう。SM調教という歪な形で示され、言葉と行為の暴力で形どられた愛情はシュンイチにとって本物だったのだろうか。何度も一からやり直すと口にして、一時の安定の後元の自堕落な生活に墜ちる事を繰り返す。そして、そのどれもがアキコのせいだとシュンイチは言った。
日々遊んでいるのも、女と会うことも寝ることも、アキコのせいだった。
最初アキコは都合のいい財布で、都合のいいダッチワイフだった。次にアキコは都合のいい飯炊きになって、都合のいいメイドで性奴隷に変わった。その次に都合のいい奴隷妻で、何時でも金を出せる都合のいいATMになった。シュンイチにとってアキコは結局常に都合のいい使い勝手のいいメイドなのだ。血の繋がる子供も拒絶した彼にとって、アキコは性行為の出来る母親の代用品なのだろうと今では思う。代用品だから簡単に、自分の罪も擦り付けることが出来たのだ。
だって母さんが管理するものだから、俺が使ってるのを管理しない母さんが悪い。俺が使うのを止めないのが悪い。
そして考えていけば、シュンイチの親もそうだった。けして自分達が悪いとは言わない。全部誰かのせいだった。俺のせいじゃない、私たちのせいじゃない、あの子がそうだから、あいつがそうだから、だから自分のせいじゃない。今更だが、きっと自分で責任をとるという認識はないのだ。こうなってしまうと母親がそう育てたのだから、当人がそう育ったと思うしかない。そこに自分が何とかしないとと思い込みやすいアキコが入ることで全てが悪循環に陥って更に悪化したのだ。
それにしても代用母との愛はシュンイチにとって幸せだったのだろうか。
深かった愛情が完全に憎しみに変わった瞬間を思い出すと、今のアキコもまだ自分の心が微かに波立つのを感じる。
深すぎた誤りに満ちる愛情
それと対になる深く暗い憎しみ
それを知った事でアキコは変ったし、今やっとそれを昇華させたのだとも言えた。
一度死の縁から戻ったアキコは全てを酷く冷静な気持ちで見ることができるようになったのだ。それはある意味で全てに決別を迎えようとする感情の片鱗なのかもしれない。そう考えてしまうと陽射しに溢れる部屋の中でアキコは静かにそっと涙を溢し、その唇から掠れたヒョウ…………という哭き声が尾を引くように流れ出していた。
※※※
あの土蔵が目の前にある。
それだけでもうこれが夢の一部なのだと理解できるようになってしまった。何故なら実売自分は、もうここは過去の世界なのだと知っているからだ。この土蔵は既に水面の底に沈んでいて、中には何も存在しないがらんどう。過去には酷く恐ろしかった筈の土蔵は、夢の中でも乾いた廃墟に変わりつつあるし、土蔵の中に居たものがなんなのかも言うまでもない。だからこうしてここが夢に出てきても何も恐れることがなくなったのに、何故か奇妙な寂しさすら感じてしまう。この体内に密かに眠る蛇の存在ですらも、以前とは違って恐怖の対象ではなくなってしまったのと同じだ。
ヒョウ…………
哀しげに哭く声が辺りに響き、その水面のように揺らめく光の存在が自分の瞳の涙が光を反射しているのだと気が付く。二つの存在が一つになって結び付き、新たなモノに生まれ変わって……それに気が付いてしまったことに、奇妙な憂いを覚えている。
ヒョウ……
この哭き声が自分のものだと知ってしまったから、もう土蔵は恐怖の象徴ではなくなってしまったのだし体内にいた蛇ですら…………ただ残念なのはこれを知ってしまうと…………
※※※
そこまで思考していたのに、ふと目が覚めてアキコはパチパチと瞬きを繰り返す。思考の片鱗はあっという間に、何を考えていたかごと夢に溶けて消え去ってしまって気が付くとアキコは何を思考していたかすら思い出せない。そして思い出せないことすら思い出せなくなっているのを気にもしていないのは、夢というものはそんなものだと普通は思うからだ。
どんな夢だったかも、思い出せないけど
悪い夢ではないのは、それほど不快ではない気分だからと考える。そうしてユックリと身体を起こしながら、アキコは自分の現状を夢現から覚めて認識しなおす。死にかけた後遺症なのか以前のアキコと今のアキコはどうしても別人のような認識があって、目覚めて自分は何をどうしてきたのか確認しないと自分がアキコなのだと忘れてしまうのだ。
変なの…………思い出せば、ちゃんと自分がアキコだと分かるのに…………
それでも少しずつだがそれにかかる時間が短くなってきているから、やはりこれは死にかけた後遺症なのだとアキコは思う。そして自宅療養のお陰で熱も下がり体調も回復して更に動けるようになり、自分を冷静に見つめられるようになっていてアキコは日々を噛み締めながら改めてこの先を考える。
もう一度やり直したいとどこかで考えている?
そう自分に向かって心の中に問いかける。だが何度繰り返して見てもアキコの考えは一つも揺らぐ事はなく、あの時病室で繰り返したのと同じで即座にNOと叫び返す。
もう無理。だって、一緒にいたくない。
以前のようにヤネオにとついだからとか、変わるかもなんて甘い感情は浮かばない。十分待ったし堪えたし、もう無理だと自分が答えるのを聞きながら、大体にしてと自分が反論するのを聞くのだ。大体にして実家に帰ると言った時に何も言わず、あれから期間がたったけど何一つ向こうは動かない。確かに自分は携帯の電源を入れていないが、両親はアキコの入院についてはキチンと連絡したというし退院も伝えたという。入院中一度も顔を見たこともなければ連絡も来なかったし、退院してから実家には電話もかかってこない。
多分、こっちがかけなきゃ、かかってこない。
そして恐らく連絡もなければ、ワザワザ顔を出すこともないのは言われなくても分かっている。ヤネオシュンイチという人間だけでなく、彼の両親も我が子が入院してもそうだったのはアキコがよく知っているのだから。そんな矢先シュンイチからの手紙が一度来ていたのを知って僅かに驚きはしたものの、それに目を通しても結果としてはアキコの考えは変わる事はなかった。
《俺は変わりなく楽しくやっているし、ゲームの階級も上がったからアキに早く俺様の勇姿を見せたいよ。アキが早くゲームしに行くのについてきてくれるといいな。
早く戻ってきてください。早く仕事ができる様になって元通りの看護師にアキが帰れれば、きっとアキは元気になる。こっちに戻ったら前みたいに遊びについてきたら気晴らしになるよ。だから、早く戻ってきて仕事してください。それが一番元気になるはずだ………》
恐る恐るという節でミヨコから差し出された手紙を開けて読んだのは、退院して二週間ほどたった頃。手紙を出してきたことには僅かながらに感心しそうだったのだが、開けて読んだ途端にその気が失せていくのはやむを得なかった。
読みにくく歪んだ文字に稚拙な文章。
何度か読み直して見てから、アキコは意味深に溜め息をついて目を細める。アキコが先に読んでまた以前のようになるのを危惧して、一度先に両親が目を通していたのだろう。既に開けられた封筒から、たった一枚だけ出てきた便箋には、それにしても残念というしかない文章が綴られている。
国語の先生でしょうが…………
キュウと目が異様に細まった気がして、その手紙を書くシュンイチの姿が何故か瞼の裏に浮かぶ気がした。当人としては必死で綴ったつもりだろうけど、あまりにも稚拙過ぎて心に何も響かない。しかもこれを当人が本気で書いているのが何故か文字から読み取れるのに、実は心底苛立っている自分に気がつく。
子供の手紙の方がまだまし、マイナス
幼い子供でも相手が病人なら《お加減はいかがですか?》と問いかける常用句を書くことかできる。しかも内容はさらに稚拙で、アキコに元に戻り同じ生活をして金を稼いで自分を養えと言っているに他ならない事を男は気が付いているのだろうかと冷淡に思考した。アキコに再び愛以上に憎悪を感じさせる生活を繰り返せという、これを怒らないで読めるとしたら、もう洗脳されているとしか思えないのは言う迄もなくて以前のアキコはそうだったのだ。アキコは酷く冷静にもう一度汚く稚拙な文字を見た。
奇妙なことだと分かっているが、瞼の裏に稚拙な文字を綴る相手の姿がハッキリと見えている。
まるで唐突にその力に目覚めて千里眼にでもなっているかのように、相手が未だあのアパートに独り暮らし、あの高額ゲームの為にゲームセンターにお金を落とす生活をしているのはよく分かった。しかも食事も作らず仕事もしないその生活は、傷病手当だけでは成り立たなくて両親に金銭をせびっている。
情けない………………
時折何かに怯えて安定剤を飲む。安定剤の服用法方が自己判断で一度に過剰用法になっていて、性欲も減退してしまった。だからセックスが出来なくて女遊びはしていない。友人はドンドン離れていって、残っているのはコバヤカワケイだけになりつつあるけど、コバヤカワケイはシュンイチを心配している訳じゃない。何故それがわかるかは見えるからとしか言えないけれど、これは誤ってはいないのはわかる。
それに怯えているのはアキコのもたらす物を失うのが嫌なだけ。アキコがしてきた彼の面倒を見てくれるものがいなくなるのが困るだけ。
自由と金銭と………自分が支配できる存在。
何一つ自由に出来ない稚拙な男に与えられた唯一の玩具の様な存在。
彼は自分がアキコにとっての唯一無二と考えていた。でもそれはこうしてみれば、逆も当てはまってしまう。
あなたにとって私もそうだった。でも、もう私はその呪縛を外してしまったから、もうあなたは私の唯一ではないの。だから、私はもう同じ事はしない。
アキコは静かな目でそれをもう一度読み上げて、心配そうな自分の両親に向かってひどく穏やかに微笑みながら視線を向けた。ミヨコは不安げな様子でアキコの手からその手紙をそっと取り上げる。
「アキコ、その手紙は捨てよう?ね?腹が立つものね。」
その言葉にアキコは尚更微笑みを深めて見せると、まだ少し掠れの残る声で穏やかに答えた。
「ううん、とっておいて。」
その言葉にミヨコが再びアキコが誤った選択をするのではないかと危惧しているのを恐れているのが分かる。だからアキコは全く違う理由があることを伝えるために、朗らかに笑い、母の手から取り上げた手紙をきちんと折り畳み封筒におさめた。自分で保管しておきたいが一瞬怒りに呑まれた時に自分は破り捨ててしまいそうだから、冷静に対応できるはずの母に渡すと口にする。
「離婚を拒んだ時に証明に使うから、とっておいてほしいの。」
アキコは真っ直ぐに過去に持ち合わせていた聡明さを取り戻しながら、迷うことなくそう口にして微笑んだ。いつか母と笑って破り捨ててやる日が来るけれど残念だがそこまでは大事に保管しておくしかないというアキコは、ほんの一ヶ月前とはまるで別人だった。
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