鵺の哭く刻

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そしてある意味では奇妙な偶然ともいえるのかもしれないが、過去に結納を交わしたのと全く同じ日。
アキコはもう一度過去に向き合うために、シュンイチと最後に過ごしていたアパートの部屋に両親と再び足を向けた。ほんの一ヶ月前まで実際にそこに住んでいた筈なのに、訪れたその家は随分過去の記憶の中にあって、しかも久々に目にしたアパートは外観は綺麗なのにどこか薄汚れて見える。そして久々に足を踏み入れた部屋の中も雑然とゴミ袋が積み重なり、何処かボンヤリとくすんで埃にまみれているようだった。何故かアキコはこの状況を予測でもしていたかのように驚きすらしない様子なのだが、両親は呆れたように眉を潜めてゴミの山を見つめる。というのもシュンイチ一人ではこの状況はありうるが、相手側の両親も来ていてこれをなんとも思わないとは考えていなかったのだ。

こんな部屋に客を通すのを恥ずかしく感じないのかしら

そうアキコの母親・ミヨコの不快感が、更に増しているのは聞かなくても分かっている。リビングのゴミを適当にシュンイチの書斎にしている部屋や寝室に押し込んでいるのは言うまでもないが、それでも三人ずつの二家族が向かい合って座るとリビングは手狭だった。それでも場所は違うが結納の時と同じく両家の親を交えたその場で、アキコは真っ直ぐに前を向き背筋を伸ばして座った。逆にシュンイチはアキコの視線から逃れるように目を伏せたままだ。そして目の前の男を以前とは全く違った様子でアキコは冷静に見つめているのに、シュンイチの方はオドオドと視線をあげもしない。

「………………体調はどうなんですか?入院してたんでしょう?」

口火を切った義理の母の言葉に答えたのは当人のアキコではなく、アキコの父・アツシだった。入院を伝えてからその後一度も彼からも彼の両親からも病状を心配どころか状況を問い合わせる連絡がなかった。(彼からの手紙はアキコが入院した翌日に、アキコが入院したとは知らずに書いていたものが届いたらしかった。先に目を通した母が憤慨して棄てようとしたのを父が一端保管し、アキコが落ち着いたのをみて読ませることに決めたそうだ。)それにアツシは憤慨していたが、怒りを包み隠した言葉は酷く事務的で冷たい感じすらうける。

「それで…………何時からそちらに戻っていたのですか?」

その言葉にアキコの両親がポカーンと呆気にとられている。今回の入院は兎も角シュンイチは、両親にアキコが実家に戻った事すらも伝えていなかったとここに来て発覚したのだ。同時にアキコが既に何回か自殺未遂を繰り返したことも伝わっていなかったし、アキコが病気で治療中なのも伝えられていなかった。ところがシュンイチの病休については両親は知っていたのだ。
彼自身の事は幾らか伝わっているのに、アキコの事は何一つ伝わっていない。
一見その場は平静を保ち穏やかだが、アキコの両親が怒っているのは横にいてもよく感じらる。同時にアキコを見ようともしない男の心中もアキコには目に見えて分かる気がした。両親にばらされたくないことを知っているアキコが以前とは違って、シュンイチの言うことを聞かないのではないかと、ここに来てアキコを目にしたシュンイチは怯えている。

「それで…アキコはどうしたいんだ?」

再び口火を切ったシュンイチの父に、アキコの父が鋭く言葉を遮る。

「………呼び捨てにはしないでいただけませんか?アキコはうちの子供です。」

義理の父の言葉に言い返したアツシの膝に、微かに諌めるようにアキコは手を置いて言葉を抑える。思っているよりずっと怒っているアツシが一瞬不満を匂わせたが、口を閉じたのをみてアキコは一つ息をついた。そしてアキコは真っ直ぐに射抜くかのような視線で、目の前の視線を合わせようとせず俯き体を丸める男を見た。

…………せめて一度位は私を見たらどうなの?

アキコがそうだったように、男は社会生活のいやな部分から逃げて嫌な出来事から逃げてきた。そして自分が親に隠している全てを知ってて、それを話す事の出来るアキコからも今は逃げようとしている。全てを語れば確実に身の破滅になる事をアキコが握っている事に気がついているのかいないのかは別にして、この場でアキコが自分の言うことをきかない可能性に怯えているのだ。アキコが泣き出したりしないことに、既にシュンイチは違和感を感じていて恐れているに過ぎない。それが目に見えるような態度に、アキコは正直がっかりした。

「私は離婚するつもりです。」

静かに告げたアキコの声音に一瞬男は上目遣いに視線を上げ、その視線は明らかな困惑に満ちていた。その目に最後にはアキコが戻ると自分から言うと、シュンイチが信じ切っていたことに気がつく。アキコがこの場で頭を下げて戻らせてくださいと泣くと思っていたに違いなかった事を見抜いたアキコは、それにも改めて呆れるしかなかった。しかもシュンイチの父が当然のようにアキコに理由を問いかけたのに、素直に理由を口にしようとしたアキコを慌てて遮るシュンイチの言葉に場が凍りつく。

「それ以上言うと、俺が頭に来るかもしれないから止めておいた方がいいぞ。」

奥歯を噛みながら低く放たれた脅しにしか聞こえない言葉。それがどんなに場違いで誤ったものなのかシュンイチは気がつかない。その脅しがアキコの両親の怒りに更に油を注いだだけでなく、シュンイチの横にいる自分の父親にまで不信感を抱かせたのだ。そしてシュンイチは気が付いていないのだが、アキコはもうその場でシュンイチがどう出ようが構わなかったし、むしろ怒りだし普段のように殴ったら、その方が話が早いとすら思っていたのだ。

「…………やればいいわ、お互いの両親がいる前で理由を証明して見せる事になるだけよ。やりなさいよ。」

余りにも冷静なアキコの反撃は今まで男には一度も向けたことのない、以前の鋭利で聡明なアキコらしい姿だった。その姿に気圧されたシュンイチは思う通りにならない不快感に、奥歯をきつく噛み締めて無意識に歯を剥き出している。それにまるで感情の起伏すら起こさない様子で、アキコはただ静かにシュンイチのことを見つめ言葉を繋ぐだけに集中していた。もう、全ては結末に向かって走り出そうとしている事に気がついていないのはその場ではたった二人だけだ。それはシュンイチと彼の母親に他ならなかった。

「アキコ………さんの意思は変わらないんですか?私達はやり直して二人でいてくれたらと…。」

仕切り直したように義理の父の言葉が緊張を帯びたのは、アキコが明確な意思を示したからだけでなく、目の前で息子が私を脅すのを見てしまったからだろう。自分の息子を諌めて続けた言葉にアキコは静かに口を開く。

「今まで何度もやり直そうとしてきましたし、幾つも我慢してきました。全てをお話すれば離婚したいと思う私の気持ちは当然だと、そちらも思いますよ。」
「何を勝手なこと言ってるんだよ!」
「………今まで勝手だったのは貴方でしょ?私が話している時に口を挟まないで。」

ピシャリとはね除けるアキコの口調の冷静さと比例して、荒くなっていくシュンイチの語気に彼の父親の表情がますます曇る。今にも立ち上がり殴りかかりでもしそうな気配をにじませるシュンイチの歯軋りに周りが戸惑うのも構わず、アキコが話し続けられるのはそのシュンイチの様子にアキコは慣れきっているのだ。そしてアキコは以前のように現実から逃げもしない。それぞれに両家の親達が片方は自分達の息子を諌めようと、片方はその男が何か行為に出たら直ぐ様娘を守ろうと身を堅くするのが分かった。だが、もし暴力を振るうならそこで全ては終わるし、もし振るわなかったとしてもアキコが全てを暴露してしまっても終わる。男にとって今後の家族との自分の姿を思うなら、アキコに全て何一つ話させずに話を終結させることしかない。

「お母様方は知らないでしょうが、今まで何度かの浮気もありましたし、私は子供も中絶しました。もうそれだけでも女性として十分すぎる苦痛だと思います。」

アキコが静かに告げると、初めて彼の母親の表情が目に見えて曇る。実は当に孫がいたかもしれない事をシュンイチがやはり伝えている筈がないと薄々だがアキコは知っていた。この場でそれを暴露された事に歯軋りにが強くなり立ち上がりそうなシュンイチを初めて彼の父が諌め、味方のはずの父に諌められてシュンイチはアキコの言葉に牙をむいた。

「浮気は、ここ一年はしてないじゃないか。」
「…………一年しなかったら全部チャラだと思える神経が分からない。しかも、その一年はあなたも病気で休職中よね?」

病気で休職中に女遊びなんかしてたら、人間としてどうかと思うと瞳が言っているのに男は更に口を開こうとする。だからアキコはあからさまに溜め息をついた。

「口を挟まないでと、私は言ったわよ?…………貴方は私の意見を何時もそうやってへし折って、一度も私の言葉を聞こうともしなかったわね。」

アキコにあっという間にやり込められて拳を震わせるその姿を、アキコは泣く事もせず今までとは違う冷ややかな目で見つめた。やるならやればいいというその瞳にある決意にやっと気がついたのかシュンイチは激しく戸惑う表情を浮かべ押し黙る。そして、そこでやっと自分の今後も含め身を守る為に話されたくない事実がアキコに握られていることに気がつく。それをアキコにあっさりと見抜かれるほどハッキリと顔色が代わり、周囲とそれに気が付いて心配そうにシュンイチの様子を探る。今更アキコが握っている切り札とも言える隠されている事実の存在に気がついたように、彼はアキコの顔をまじまじと見つめた。

「……………貴方は私が言う理由はもう分かるでしょう?」

正面から静かにそういったアキコの瞳を見ながら、彼は冷静になるどころか逆上したかのように頬を染めて歯ぎしりしながらアキコを見据えた。言葉の中に含まれる二人しか知らない現実に、義理の両親である二人は戸惑う表情を浮かべる。そして彼は、アキコの言葉に動揺を見せなかったアキコの両親の姿に何処まで話したのかを伺うように睨み付けた。

「貴方は私達の娘の事を知ろうしなかった、私達の子として育ってきた娘を理解しようとしなかったんだよ。」

実際にはアキコは何も両親には話していない。ただ両親が冷静に二人を見て、何か二人だけで隠していることがまだあるのだと判断しただけの事だ。それをどう判断したのかアツシが諭すようにそう口にした瞬間、予想外にその男は逆上の余り唾を飛ばす勢いで口を開いた。

「いいえ!理解してます。俺は彼女が大事だったし、彼女がまた戻ってくると思ったからここで頑張ってるし。」
「大事だったら、何故君は一度もアキコを守ろうとしてくれなかったんだ?」
「守りました!ここに住んでいたんだし!」
「清潔にもせず、暖かい食事も与えず、綺麗な衣類も与えて貰えず、放置されていたでしょう。」
「それはアキの仕事です!!」

言葉の矛盾にアツシが呆れ果て、それは彼の父も同じに感じ取ったのが分かった。明らかな矛盾を平気で叫びたてる息子を止めようと、父親の手がかかるが彼はそれをはね除け喋り続ける。

「アキコは病気で家事も何もできなかった。出来ないのを知っていて放置していたでしょう?餌のように物を投げ与えていたじゃないですか。」
「それは……僕も病気だから!」
「病気か。だったら、尚更ここに私達の娘を戻す事はもっと出来ない。また同じ事が起こる。」
「それは分かりませんっ!だって彼女はここで元のように仕事をしたら、また元気になるんです!」

矛盾を叫び堂々巡りをするやり取りに呆れ果てながらアキコは彼を眺めた。離婚したいという言葉を完全に忘れ去って、よくもまぁここまで矛盾した意見を言い続けられるものだと思うが、恐ろしいのはそれをシュンイチが微塵も疑おうとすらしないことだ。同じことを感じたのだろうアキコのの父・アツシは、溜め息混じりに彼を無視してシュンイチの父に視線を向けた。

「アキコは死にかけたんだ、私達は親として娘を一番に守りたい。」

自分を無視したアツシの言葉に更に逆上を深めたシュンイチを見つめたアキコは、自分の父の言葉をそこで止めるよう手を握った。瞳の奥が何故かキュウと細まっていく奇妙な感覚がして視界が変わり、その目には目の前の男には自分達の言葉がどんなに説明しても理解できないという事がアキコには考えなくても分かっている。

私が元のように稼げば自分は安穏と暮らせる。私が再び前と同じ生活をすれば自分の世話をしてくれる。

そう信じて疑う事もない。
何故なら今までのアキコは何をしても戻ってきたのだから。例え暴力を振るっても、言葉で傷つけても、浮気をしても、結局死にかけてすらも戻ってきたのだから、今度もそうだと信じて露ほども疑わない。それなのにアキコは思っていたのと逆にもうここに戻らないと宣言し、それを阻むならシュンイチが両親に話していないことをばらすと明らかに脅かしたのだ。今まで従順な奴隷だったはずのアキコが、最悪の場面で反抗することがシュンイチには理解できないない。そして、余りの逆上に涙を流しながらその後口にした自分の言葉が、この先の全てをほぼ決定付ける言葉になった事をシュンイチは気が付くこともない。

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