鵺の哭く刻

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「僕だって………苦しんで苦しんで、………………何度か死のうとしたんです!」

そう唐突にその口から放たれた言葉にその場が凍りついたのを、シュンイチは周囲が自分の言葉に耳を貸しているのだと考えたようだった。ある意味それは正しい認識でもあるのだが、実際には逆効果の言葉でその先に続く言葉は尚更悪い。

「彼女が薬を飲んで酷く醜く膨れた腹をしてたのを知ってるから、………。」

呆気にとられる酷く稚拙な内容の言葉。そしてそれ以上にシュンイチが口にしたのは、その場にいたシュンイチとシュンイチの母親以外の全ての人間の心を凍りつかせる言葉だった。

酷く醜く膨れた腹をして…………

この言葉でシュンイチは決して死のうと思ったアキコの気持ちを理解はしないだろうし、アキコの行動を醜いと卑下したのにすらも気が付いていない。それに全く気が付かずに、シュンイチはまるで自分に酔った口調でその話を本当のことのように続けていく。

「…………それはやりたくないとは思ったけど、方法がなくて仕方がなく薬を飲んで死のうともしたし」

アキコは夫婦になりたかったが、求められた暴力対象と従属に限界を感じていた。悪いとしか言われず、アキコはいい子だとも認めてもらえない事が辛かったし、夫婦として愛されないことも、子供も無用の存在と切り捨てられたのも辛かった。同時に他の女性とセックスをしている男に、ただ自分が従順なその他大勢の一人の雌奴隷にされるのも嫌だった。これがもし例えばシュンイチがアキコだけしか見向きもせず、アキコを褒めながら唯一の奴隷にしていたのならもしかしたら結末は違ったかもしれない。

欲しかったのはたったそれだけ。

自分だけを愛して必要として欲しかったから、アキコは出来る限り尽くしてきた。だが、どんなに尽くしても結果としてシュンイチは何も満足はしないし、更に従属を求めて非常識な行為を強要し続けるだけなのだし、そして他の奴隷女を欲しがるのは変わらない。その上一般常識として当然の社会生活を放棄したシュンイチは、文字通りアキコのヒモになっていた。浪費家で無計画で、享楽的、どんなに尽くしても満足どころか褒めても貰えない搾取されるだけの日々に、アキコはどんな希望を見いだせばいいのだろう。そして目に見えて消耗して衰えていくアキコに、シュンイチは労りではなく暴力でもって更に恐怖で支配した。土蔵の中に閉じ込められた生け贄の白無垢の花嫁のように、シュンイチの親も薄々知っていてシュンイチが暴君であるのを容認し放置されてアキコは生きていく逃げ場を失ったのだ。そうして追い詰められてしたアキコが行った行為をシュンイチは目の前でただ醜いと卑下し、自分も仕方がないからそれをしたと告げる。それがどれだけアキコを人間としてすら扱っていなかったかを、明らかにしてしまっているのにすらシュンイチは気が付かないままなのだ。

普段より一錠か二錠多く飲んだことはあるのだろうけど、それくらいでしょうね。

だけど、シュンイチのそれが自死行為を意図してしたものではないのは、アキコは確信をもって知っているといえた。何故知っているかは言葉では説明できないが、それは奇妙な確信としてアキコは知っていて真実でもあった。しかも実際にそれを書面や何かで証明することも、本気ならばアキコには可能なのをシュンイチは気が付きもしない。シュンイチが同等の事をするためにはアキコと同じようにして薬を集めなければならないが、その薬を集めるための知識がシュンイチには全くないのだ。恐らく問いかけられても、どうやって薬を短期間で集めたかなんてシュンイチは答えられない。それに何故短期間と断定できるかと言えば、アキコがつい一ヶ月前までここで暮らしていたからだった。もし仮に何とか薬集めをこなしたとしても、アキコと同じことをしたのであれば当然救急車を呼ぶことになったりする。そうすれば相応の騒ぎとなっただろうから、シュンイチの両親が知らないのはあり得ない。つまりは今もここで一人で過ごしていられる訳がない。

「それに、僕は何度か電車の線路に下りて死のうとして……大勢の駅員に止められたり……………。」

その言葉に衝撃を浮けたように息を飲んだそれぞれの捉え方が全く違うのに、シュンイチは一つも気が付いていない。シュンイチがしたことを哀れに思って息を飲んだのはシュンイチの母親ただ一人のみで、他の人間は全てその言葉の過ちに気が付いてもいないシュンイチに呆れるしかなかったのだ。
シュンイチはそんな事をしたらただではすまない事態を起こしたと、目の前でマトモな人間の目には明らかな嘘をついている。それがシュンイチの嘘であるのが当然のようにバレているのは、たった一ヶ月前まで一緒に住んでいたアキコにも隣で息子の言葉を聞いたシュンイチの父親の表情からも明白だった。何しろそんな事が現実にあったのだとしたら、尚更もうシュンイチはここで一人では暮らしていないだろう。

何度か……線路に降りて……死のうとして…………駅員に止められた?…………馬鹿なの?

少なくとも線路に故意に降りて電車の遅延などを引き起こしでもしたら、それは訴訟問題になりかねないのをシュンイチは知らないのだろうかと思う。何しろ自殺企図で線路に降りるようならば電車の遅延は必須、電車が走らない時間に線路に降りたって何も起きないから無駄、そんなことは当然分かりきっているのだ。それが偶々電車が来なくて未遂だったとしても、駅員に取り押さえられたのだとしたら誰一人それを知らないのは言葉の内容からはあり得ない。

何度も自殺未遂するような人間をそのまま放置するわけないでしょ?馬鹿なの?

電車に飛び込もうとそんな行為を何度もする人間を社会的に放置は出来ないのだから、確実に何度か取り押さえられたら身内に連絡をとっている筈。もっとも身近な妻が傍にいなければ両親や兄弟が、確実に呼び出される事をしていたのだとシュンイチは口にしたのだ。しかしそんなことを周囲が当たり前のように理解していることも、逆上して泣きじゃくりだしながら口にした者は一つも気がつかないでいる。

なんて…………浅はかな嘘をつくの?

呆れ果てた目で泣きじゃくる姿を眺めながら、アキコの瞳が赤い縁の眼鏡の向こうで冷淡に凍るのをシュンイチは何も気が付かずにいる。馬鹿げた嘘、せめてそう言うことを考えていたくらいなら取り繕うことも出きるだろうが、それを実行したなんてあり得なさすぎて笑いだしたくなってしまう。

ヒョウ…………

ほんの僅かに自分の体内、喉の奥からその哭き声が漏れたのに、目の前のシュンイチの体がピクッと震えるのを視界にいれていた。アキコと両親そしてシュンイチの父親はシュンイチ自身の言葉がこの茶番に幕を引いたことに溜め息を溢して、もうなんの利益にもならない無駄な話し合いを終えようとする。

「………もう離婚という方向で動くしかないという事ですね。」

ところかがその時驚くことにその茶番のような涙にあわせ、シュンイチを慰め始めたものがいたのだ。全ての幕を自分で引いた息子の姿に心底当惑した表情のシュンイチの父親は、その様子を横に尚更躊躇いがちにアキコと両親を見やった。全てはもう変えようのないことだと理解しているその目は、もう言う事もないというように改めて視線を伏せる。

「待ってよ、まだ時間がほしいんだ。」

不意に未だに自分に酔い泣きじゃくりながら言葉を挟んだシュンイチの姿に、周囲の殆どが微かに呆れたように見つめる。自分の自殺未遂の姿を醜いと卑下され、そしてここまで会話には全く離婚の意思を変える要素もない。それに何故シュンイチがここに来て時間を欲しがるのか、アキコには全く理解が出来ないのだ。

「ここで結論は出せない、だから約束どおり誕生日までは待ってほしい。」
「約束?」

思わず疑問の声をあげたアキコには、そんな約束なんてことは全く聞き覚えのないことだ。アキコがどんなに薬で緩慢になっていた時期があったとしても、何一つシュンイチとは約束なんかしていないし、大体にして誕生日まで何を待てと言うのかとあきれ果てる。しかも誕生日が自分のとつげたのには、更に呆れてしまう。

「…………気持ちは変わりませんから、待つ理由がありません。」

離婚する意思は変わらないとつげるのに、目の前の男は頑としてその言葉を覆そうとはしないで約束をしたのだと言い張る。自分の誕生日までは自分はここで待つしアキコが帰ってくる場所を守ると言い張るその理由は、離婚の意思は揺るがないと告げてまでいる到底アキコには理解できないものだった。

「だって約束したんだ、誕生日まで待ってるって。」

何を待つと言うのかと問いかけても待つと約束したの一点張りで、そこまでは夫婦でいる約束なのだと繰り返すシュンイチに、アキコの両親も彼の父親も呆気にとられ雄弁に約束を掲げているつもりの姿を信じられないものを見る視線で見る。

「そうしましょう。そうするのがいいわよ。」

そして更に何故かシュンイチの母親がそれに大喜びで賛同したのを、当惑しきった視線でアキコの両親が見ているのがアキコにもよく分かっていた。

こうなったら、意地でも動かない気だ…………

車で訪れていたから実家までは長い帰途で道中を後部座席に座ったアキコは、疲労の強く滲む顔で窓の外を呆然として眺めていた。結局この日の話し合いで進展はないまま。アキコが何も得たものはなく、ただ残り数ヶ月……シュンイチの誕生日までは三ヶ月と半月もあるのだが…………じっとヤネオでいることに堪えて過ごさなくてはならない事が決まったのは本音では苦痛としかいえない。勿論裁判にすぐ持ち込むという方法も無くはないが、そう決意しなかったのはアキコがこの程度で完全に疲労困憊してしまったからでもある。

それでもアキコはアキコとして意見を発した。

迷う事もなく、隠す事もなく、話す気になって話せばもっと多くのことを暴露することはできるのだとアキコ自身が理解もしている。何しろ最初の出会いから二人は歪な愛を交わしてきた。それにそれ以降ずっと、二人がその関係の延長線上に暮らし続けて来たことも。二人が結婚してからはそれは完全な暴力にすりかわって、日々堪えてきたことも。
子供をおろしたことも。
同棲した後に他の女性と性行為をしているのに気が付いて出ていこうとして殴られたことも。
日々奴隷として扱われ、奴隷の誓約書を書かされそうになったことも。
殴られ気を失ったこともあったのだ。
冬に冷や水をかけられ放置されたこともあった。
それだけではなくシュンイチが親達には必死に隠していてアキコに罪を擦り付けたこともあるのを、あえて口にはしなかったのだ。

ああ…………でも、泥棒扱いだけは訂正すればよかった。

そう思ってしまうのは、あれが一番アキコの心を深く手酷く傷つけたからだ。あのゲームの回数を示すことの出きるカードの束を見せればシュンイチの浪費を証明するのは実はとてつもなく簡単だった。一枚につき100回の実績まで記録されるゲームのカードが50数枚も、ご丁寧にキッチンの入り口にある固定電話の傍に重ねてあった。一回500円のゲームが100回だから、一枚が終わるのは5万円(因みにカード発行には一枚300円の手数料だが、それは面倒だから計算にいれていない)の価値を費やしている。一枚5万円のカードが50枚以上、つまりは軽く250万円以上も注ぎ込んで得たのが、架空の大佐だか少佐だかいう階級なわけだ。そこまで書けたならもっと上の階級になればいいのに、それすら出来ないのは結局シュンイチが下手なのだとアキコは密かに思う。とは言えお陰で泥棒扱いされたわけで、離婚を切り出す切っ掛けになったと思うと、アキコは苦く車の音に紛れるように小さな笑いを溢した。

だが、アキコはそうしなかった。

それを切り札にすることは出来る。今後まだ離婚をごねるのであれば、それらを披露するしか無いかもしれないが、今日はしなかった。憎みはしたが一時愛情があったのは確かなのだ。だから、シュンイチを破滅に落とす事はあえてしなかった。してしまえば、シュンイチはあの両親からも見放されかねないと思ったのだ。それにアキコがそうしなくても、もう既に彼は一人で生きていくには余りにも稚拙で愚かすぎる事を父親には証明して見せたのだから。
アキコは夏の日差しのに目を細めながら一つ深く息をついて、まだ完全に治ったとはいえない体に蓄積した疲労にウトウトと微睡む。

何も得られなかった…………でも

それでもアキコは新しい一歩を踏み出した事は間違いなかった。
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