鵺の哭く刻

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悪化

123.

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ここにいると言う約束。
ここでその時を待つという約束。
それをしたからとあの時に即時の離婚を激しく拒絶したのは、実はシュンイチにしたら咄嗟の出任せだった。確かにその約束をしたのはしたのだと思うが、実際にあれは現実なのかと問われると疑わしいと頭の中では分かってもいる。

夢の中の約束なのではと心の中で分かってもいたが、でも不思議な事だけど約束したと思った…………

しかも約束の期間は具体的には何もなく、実際にはここで待つの『ここ』は=このアパートのことではないのだ。何故それを咄嗟に理由にして口にしたのかは分からないが、あの場所にはアキコがいると本能的にシュンイチは思っていた。アキコがいないとあの場所が存在する意味がない、それはあのアパートの部屋も同じだと思った瞬間口をついたのだ。でもそれが夢の中の話で、その場にいる誰とも現実に交わされた約束ではないのはシュンイチ自身にもよく分かっていた。ところが咄嗟に口をついて出た言葉と寸前までの涙で周囲は完全に絆された。まるで拘束力の無い筈の口らか出任せ紛いの言葉

誕生日までここで待つと約束した!

そう言いきったら結局、その場の全員が絆されて納得したのだ。約束なんかしていないアキコですら言葉を失って、折れたのにシュンイチ自身ですら驚いた位だった。まるで魔法のように押しきれたのは、あの約束が夢の中の妄想ではなく、何か拘束力を持つ不思議な力を持っているのかもしれない。何しろあの夢を頻繁に見るようになったのと前後してアパートでは縫いぐるみが動いたりなんて、奇妙な出来事ばかり起こり始めている。兎も角出任せの約束ではあるのだがお陰で少し猶予が出来たのは事実で、このままの状態で数ヵ月はここで過ごすことができる事になって安堵していた。

「シュン、聞きたいことがあるんだけど?」

アキコは何故かここに残る気もなくて、さっさと自分の両親の車に乗せられ、また連れ拐われてしまったのを歯軋りをしながら見送ったシュンイチに母親が小さな声で問いかける。母親がシュンイチの肩をもってくれたお陰で約束の力は増したようにも感じるし、それについては感謝も少しあったからシュンイチは大人しく何?と問い返す。

「シュン…………あの人は妊娠したの?」

ギクリとその問いかけにぎこちない反応をしてシュンイチは、自分とよく似た顔立ちの母親を見下ろす。まさかアキコがあの場で中絶の話を持ち出すなんて想定外だったし、あれはとっくに過去のとこで未だに根に持っているとは思いもしなかったとモゴモゴとシュンイチが呟くのに母親は不意に奥歯をキツく噛み締め歯を剥き出した。

お仕置きされる…………

ゾッとしてその顔をした母親から数歩後退ったシュンイチの目の前で、母親は表情を変えること無くマジマジと息子の顔を見上げた。

「…………それはお前の子供なの?」

その問いかけに対して咄嗟に出た言葉は「俺以外の男の子供な筈無いだろ?」の一言で、母親はそれに愕然とした顔を浮かべていた。そのままお仕置きされる訳でもなく父親と無言で帰途についた母の項垂れた姿を見送りながら、シュンイチは内心ではしまったとも思う。

自分の子供じゃないと説明すれば、お仕置きされなくてすんだ…………
 
そう頭の中で思うが実際にはお仕置きはされずに母親は帰ったのだし、この年の息子に母親がお仕置きなんて出きる筈もないだろと自分の心の中で呟く。それでも一人きりになると、シュンイチには強い不安と疑問が沸き上がってきたのだった。

なんの意味があるんだろうか…………

ここで過ごすことに、なんの意味があるのかは実はシュンイチは自分でもよくわからない。正直に言えばここに一人でいると縫いぐるみが動いたり、恐ろしい夢を見たりと録な思いをしないことを繰り返すばかりだ。最近では嫌な夢を頻繁にみてもいて眠りは浅く、現実との境界線はあいまいなのだ。それでも自分がここにこれまでの固執している理由は一つだけだと、ボンヤリと射干玉の暗闇の中で暗闇自体を眺めながら考えていた。

アキが…………戻ってくるのを待つ

冷静な心の何処かにはアキコはもうここには戻ってこないと理解しているのに、頑なにアキコは戻ってくると信じて疑わない一面がシュンイチの中には折れずにまだ存在していた。どうしてそうも頑なに信じているのか自分でも答えを出せない。あの暗がりの土蔵の中に閉じ込められてその考えだけを便りに生きているみたいに、その思考からどうしても離れることが出来ないのだ。そしてその理由はただ一つで

ここからやり直さないと、全て駄目になる

何故かそう信じていた。ここからやり直してアキコを手に入れ直してシュンイチの願い通りの暮らしをする、そうしないと全てが駄目になると何故かひたすらにシュンイチは信じてるのだ。ここでアキコを奪われたから、是が非でもここで取り戻さないとならない。生活を仕切り直すのも何もかもここからでないと、そう頑なに信じてここで変わりのない暮らしを続ける。
あの話し合いの最中シュンイチの母親はあんな風にシュンイチを寄り添い慰めたのに、終わったらこうして父と一緒にさっさと帰途についた。あんなに過保護にしていた筈のシュンイチに食事を奢ることも金銭すら渡すこともなしに父と共に帰途についた母親の姿に、シュンイチは闇の中で正直呆れてしまう。結局母親はあの場で良い人ぶって一応シュンイチを庇ってみせただけで、本音ではシュンイチの事などどうでもよかったのだ。

結局…………自分が手に入れないとならないのはアキだけだ

母親ではなくアキコをもう一度手に入れて、前のようにアキコを飼いならし元通りの暮らしをここでするのだ。母親は結局は父親のもので、自分を代用品にしていただけなのだと分かっていた。だからシュンイチにはアキコが必要だし、アキコにも自分が唯一無二の存在の筈だから、こんな風に焦らしはするだろうが結果としては元に戻るはず。何もかも元通りになって、ハッピーエンドでシュンイチが願うままの暮らしに戻るだけと心の中で繰り返す。

その願い通りとは……どんな暮らしなのだ?

不意に低く掠れた声が頭の中で問い掛けてきて、シュンイチはふと射干玉の闇の中でそれについては考え込む。その声はどこか聞き覚えがあるようで全く聞き覚えがないような気もするが、それでもその問いかけにはキチンと答えないとならない気がしていた。

願い通りとはなんなのだ?

ここからやり直す願い通りの暮らし、それが何なのかをハッキリさせる事が必要なのだとそれは言う。言えばその通りになるのかもしれない。ここで待つと告げたことが真実に変わったように、だからシュンイチは願い通りとは何なのかを頭の中で一人悶々と思い浮かべる。



※※※



夏から秋・長い時間は我慢と苦痛との戦いの時間だった。

何しろアキコの方からは何も行動できず・相手を刺激しない為にも尚更何もせず、ただ自分の体と心を癒す事だけに力を注いでいるわけなのだ。八月のあの時にはアキコには全ては終わっていたのに、それに気がつかなかったシュンイチの願いでこの空白の時間が生まれていた。体力を取り戻すためと懐かしい実家の周りの道を歩きながら、アキコは新鮮な空気を吸い込み一人シュンイチの口にした事を考える。
何故自分の誕生日までなのか理由が分からなかったし、そんな約束をした覚えはなかったが、もしかしたらそうとられるような発言を過去に何時かしたのか。でもどちらにせよアキコ自身の気持ちは変わらないし、意思表示は既にしていた。シュンイチがあんな風に言い出した理由はわからないが、こちらの意思は変わらないし下手に刺激して可笑しな行動をされるのは御免だ。
だから一先ず体を癒す。
自分でやっておいたことなのにこう考えるのはなんだが、数分間の呼吸停止をして窒息した体のダメージはかなり大きいのだ。表面的には無傷でもそこまでの生活でも内臓にはかなり負担がかかっていて、それは自業自得とは言え今後も自分で対処を必要とするに違いない。だから、三ヶ月半の期間をそれに費やすのは、やむを得ないことでもあった。

まあ、その間に何か起きるかどうか…………

本音としては一般的な女性としても妻としては、心の中では何かあるのを期待していた一面があったのかもしれない。もしかしたらシュンイチから何かこの状況を改善するために、何らかの行動をとる可能性を期待したのかもしれなかった。でも結局は数日たって数週間がたって何も行動がないのに、やっぱりと落胆すると同時に安堵もしている。

何も起きないのは…………自分の考えが間違いじゃない証明よね…………。

穏やかな故郷の空気の中で大きく深呼吸をするようにアキコは青空を見上げた。北東北の夏は関東に比べれば遥かに短く、暑いには暑いが既に秋が終わる気配がしている。空には何百と蜻蛉が飛び、蝉と秋の虫が同時に合唱していた。

あの死の淵でアキコは本来視るべきでないモノを見てしまっていたのだと思う。

お陰で宵闇に時折自分の体の中で目覚めるものの感触に未だに夜中に目を覚ますが、以前のような激しい渇望は存在しなくなっていた。勿論時には体内を蠢く蛇を感じるが、それが何を意味しているのか知っているからアキコは怯えることもなければ渇望を感じることもない。
昔と変わらぬ闇の中に横になれば、それが呼び掛ける声がする。
言葉もなく闇の中に目を凝らすとキュウと眼球の奥が糸のように細く狭まる感覚と、瞼の裏に広がる奇妙な光景。時には目の裏の向こう側が見えることもあるが、何も見えない事もある。でも以前と違うのは少しずつアキコ自身がそれを操れるようになってきていることだった。

これが何を欲しがっているのか…………

射干玉の闇の中でアキコは、微かに苦く笑いながらヒョウ…………と低く掠れた声で哭く。その哭き声は低く物悲しく尾を引いて瞼の裏の光景に響き渡り、それが真実なのかただの幻覚なのかという境をアキコに忘れさせてアキコ自身の中に宿った新たな芽を刺激する。

恐ろしい……夢をみている

それはアキコと同じで自業自得なのだと、男の苦悩を目の裏の世界で眺めながら思う。慈悲を与えてやるつもりもなければ自分から助けてやろうとももう思えないのは、男が今までアキコにしてきたことと、アキコを裏切って悪人と貶めたのを許すことはないからだ。
 
せめて許しを乞うくらいはした方がいいだろうけど、そんな意識もないだろう

肩に女の顔を乗せて常に歯軋りを聞きながら暮らしていることも知らず、一人何か約束に縛られ人工的な射干玉の闇の中で横になっている男を見下ろす。男の中では願い通りの暮らしを取り戻すと呪文のように呟いているが、その願い通りの意味がわからないのにアキコは低く哭きながら問いかける。

問いかけても…………録な答えはでないけれど…………

そう知りながらも、それでも穏やかに緩やかに日々を過ごして、アキコは秋の空気を感じながら体調を整えるのに力を注ぐ。そんな故郷で穏やかに過ごしていたアキコにシュンイチからのメールが届いたのは、スッカリ冬の気配が忍び寄りつつある秋の終わりのことだった。

《アキの誕生日を一緒に祝いたいから、30日にそっちにいく。一緒に誕生日を祝おう、ホテルの予約をしてくれれば…………》

思わず三十日?そう首をかしげてから、文面を途中で読むことすら気力が失せていくのに気がつく。これがその月初めにとっくに過ぎ去っているアキコの誕生日に向けたメールなのが、言うまでもなくわかりはしたのだが。相手が仕事で忙しくて日にちを逃したとか言う意味ではないと考えるのは、相手が休職中なのを知っているのとアキコと違って相手が期日を記憶するのが不得手だからだろう。
大体にしてアキコの誕生日は言った通りその月頭。そのメールが届いたのは既にそれから半月も過ぎていたしシュンイチがアキコの誕生日を覚えていないのは十分すぎる程に理解できたが、しかもアキコにこちらで泊まるホテルを予約しろと言う神経はなおのこと理解に苦しむ。

《私の誕生日はとうに過ぎましたし、祝ってもらうこともありません、結構です。》

大体にして八月から何もコンタクトがない状況で、しかもアキコの誕生日は恐らく忘れていて。
とうに過ぎてしまっているのに、唐突に誕生日だけ祝おうと言われて喜べる訳がないとアキコは逆にそれを読んで笑ってしまったほど。互いの関係回復のためにシュンイチは何もしてないのに、しかも付き合って始めて向こうから誕生日祝おうと言われたのがこの終末期的な状況。まあマトモな女の子だったとして、これでどうやって仲直りできると思えるのだろう。そしてそのアキコの返答メールに対して、シュンイチの反応は何一つなく、謝罪も何も帰ってこなかったのだった。
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