鵺の哭く刻

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そして新たな感染

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まるでお伽噺のように人間でないものの世界。そんな場所に何の変哲もない人間が紛れ込んでしまったとしたら、その人間はどうなるだろうか。『不思議の国のアリス』は文学や読み物として素晴らしくても、現実としてその世界に巻き込まれたら正直言うと冗談じゃないと思う。何しろ現実にチェシャ猫やら何やらを立体化して現実に存在させてみたら、さぞかし怖い生き物になるに違いない。そして書籍だからあの物語は面白いのであって、現実に物の怪やら何やらの世界を目にしたら普通の人間には堪えられない。それにもし堪えられるだとしたら、それは自分がその世界の住人だからに他ならないと思う。
滓は靄に変わり、霧となって辺りを包み込み、その中にまるでアメーバが進化するように人間とは違う作りのものを内包していた。それがその後でどうなったかは正直アキコには分からないし、それはこの物語には関係のないことだ。ただ山瀬のような滓の霧に飛び込んだアキコは、異世界のような花畑の先にその身体を保つための力の全てを使い尽くしていた。そして同時にそこで動き回り歩き回るのは、人間にはかなり消耗が激しい事なのだと知らないでいる。

菜の花畑…………

そうだと思っていたが、歩く内ここの空気がマトモな人間には害なのではと今更にアキコも思う。あの枯木の周囲にはそれを感じなかったが、あの場に青年を置いて一人で歩きだしてから喉の奥に焼けつく痛みを感じていた。肌を刺すような痛み、焼けていく指先、次第に身体が削げ落ちていく。そして視界にはこの世の人間ではない者達が、半身を透けさせて歩み去っていくのが瞳に写る。

ある意味ではここは水面の底なのだ。

ヤネオアキコが深く深く沈み落ちていった、その一番底にある水面の底。溶けて身の形すら失った後に辿り着く世界がここで、アキコである人間の身体は底を歩き回るには耐えきれない。ハラハラと崩れ落ち進んでいく崩壊を止めることも出来ず、それでもアキコにはその場所を歩き回り大事な我が子を探し歩くしか出来なかった。
そしてアキコの姿を失ったものは、完全に人間ではなくなっていく。
その後に残ったのは白銀の毛並みをした虎の体、普通の鵺よりは遥かに太く立派な蛇尾。爪は黒光りする黒曜石のようで、先端は鋭く尖る。ただそれにつく顔はまごうことなきアキコそのもので、それがこの鵺が生まれ落ちて与えられた本来の姿だった。それを聞いてアキコの顔でない鵺も居るだろうと大概は訝しがることだろうが、実はここまででも語っていない事実が一つある。
親子で顔が似る事はままあることだが、アキコと母親の顔は二十歳頃の写真をそれぞれ並べると、実は服装や背景や写真の古さで見分けるしかどちらのものか判別する方法がない。そして、アキコの祖母の二十歳頃の写真を並べてみると、更に奇妙なことに気がつく。ただ髪の毛の結いかたと長さ、そして洋装か和装かの、カラーか白黒かの差しかあげられなくなるのだ。それは可能な限り遡って比べても、アキコとミヨコの写真の顔は全く大差がない。

うわ、見てからでなんだけど、スタンプじゃない!気持ち悪っ!

母・ミヨコとアキコは、現存する一番古い祖母・テルの若い頃の写真を見つけて思わず口にしていた。自分達の同世代の写真を持ってきて、比べても結局は写真の印画紙の古さでしか判別できない顔に腹を抱えて笑うしかない程。どの写真を見ても、見間違うことがない瓜二つとしか表現できない系譜。
互いにそれぞれ両親の二つの遺伝子を与えられそれぞれに生まれてきた筈なのに、目鼻立ちが似ているとか言う問題ではない。しかも母の姉はミヨコとはまるで違う顔立なのに、ミヨコとテルの若い頃は瓜二つで同一人物に見える。そしてアキコもそれと同じ顔。タガ家には後は女の子は従妹だけだが顔は似ても似つかないし、方や他の母方の従姉妹は後は誰一人としてアキコと同じ顔をした人間はいない。ただ唯一目や鼻の顔のパーツが同じなのはアキコの弟だけなのだが、ミヨコとアキコのように判で押したような瓜二つでは流石になかった。

つまりは世代に一人

恐らくアキコが子供を産んで、その子供が女の子であればまたコピーのような瓜二つの子供が産まれていた筈だ。だけどアキコは唯一の子供を過去に堕胎して、二度と子供を授からないままだった。そしてその先を繰り返すための布石は、鵺が放たれたことで消滅したに等しい。
現実世界のあの土蔵は既に崩壊し、鵺の封じられていた大岩は今も沢で清流に洗われ続けている。そうして脆い地盤で起こる水害の災厄を、元々鵺が封じられた岩が無意識に自分自身に向かって災厄を惹き付け続けているのだ。そして架空の世界の土蔵の中に封じられていた鵺の根本…………はこうしてアキコになって外に出て、しかもただの鵺に戻る前に母性や様々なことを心に植え付けられてしまった。それでも鵺があの土蔵の中に居なくなったのだから二度とこの顔の子供が、ミヨコの系譜で生まれることはない筈だ。

シュンイチの母親の家系もそうだったようだか、それほど母親の血の中に潜むものは強い。

自分とは異なる『件』という存在が、この世界でどんな作用を引き起こすのかは分からない。鵺が生まれた時にはいなかったものでもあるから、どんな理の中に生きている存在なのかも知らないからだ。アキコの知識の中では『件』は生まれ落ち、災厄を予言して直ぐ死ぬという。それと災厄を呼ぶ『鵺』がこんな形で関わり交わるなんて事は、誰一人として考えもしなかったことだろうと思う。

予言…………か。

災厄を予言する生き物だとしたら、自分と関わる事は災厄であると予言しかねないのではないだろうか。それでも一度は婚姻を結ばせたと言うことは、予言するものは自分を災厄とはしなかったのだろうかとほろ苦く思う。

今更…………か、もうアキコはいない…………

母親の血のことばかり例に考えてきたが、血にこの呪いじみたものが顔立ちにも継がれるとしたら、顔の似ていない父方の系譜の呪いというものは本当は存在しないということなのかと考えも出来る。が、結果論としてはここからまた誰かに子孫ができたとしたら顔を継ぐ子供が生まれるのかもしれない。何しろ父方の祖母に顔が似ていて生存しているのは、アキコの父・タガアツシ一人だけ。兄弟であった叔父も伯父も祖父に似ていて、アツシとは顔つきも体つきも違う。つまりこちらもアキコか弟に子供が出来た時、祖母に似た子供が生まれ継がれていく可能性がないわけではなかった。

……でも、それもないだろう

そちらもないと信じられるのは、自分の蛇の尾のせいもあるのだ。恐らく他の同類の鵺より太く頑丈な蛇の尾は、恐らく元はアキコが胎内で育て続けたあの蛇に違いない。そうであれば父方の蛇の呪いもこの身が全て受けとめていて、全てはアキコ独りで終焉を迎える。

……こうして行方不明になって…………親不孝だわね…………

深い闇の底を歩きながら鵺は独り、そう思う。結局社会的にはアキコはヤネオに襲われた後、行方不明のままなのだ。アキコが行方不明になった事を知ったら彼らはきっと酷く嘆くだろうから、このアキコはとても親不孝な子供だ。直ぐ様力を貯めて人間に化けて向こうに行けたらいいのだろうが、正直に言えば消耗は激しくこれからどうなるかは分からない。もしかしたら鵺としても、長くはこの身体を保てないかもしれないのは感じている。

アキコの両親も大事だし、アキコの弟も可愛い。

こんな奇妙な事を考える鵺は、世の中でも一体だけ。しかもこの鵺は後生大事に男の魂と一緒にいたいなんて考えて、その上その男の子供を元の世界に帰すために力を使いきってしまったと来ている。
このほんの少し前に鵺はミウラカズキを幼馴染みのあの金髪の青年に託して、その空間の崩壊と共に深い闇の淵から鵺が生まれる前の世界に真っ逆さまに堕ちてきた。
そこは元々鵺が遥か太古に永劫の時を過ごしていた場所。
闇の底で大概の類は闇の底から這い出すようにして生まれ落ち、最初は何もかもが不定形だ。そこから次第に自分の特性や語り継がれた人間の言葉に反応したり、形のあるものを喰ったりして次第に形が生まれていく。そう思えば最初から自分達この闇の底に生まれたもの達は、人間にとんでもない力があるのは分かりきっているわけだ。ただ語り継ぐだけで不定形の滓に形を作れるなんて、自分達とは雲泥の差の力を持っているのに脆い体をした人間は向こう側で明るい世界に生きている。今更鵺がここに堕ちてきても異質感を感じるわけもないのは、言うなれば堕ちた先は自分の生まれ故郷も当然の場所なのだからだ。

射干玉の闇の汚泥。

流れることもなければ、臭うこともなく、ただ淀むだけ。一度は完全に腐り果てた筈の汚泥はどうやら新たに撹拌されたらしく、何もかもが一度失われていて鵺は目を細める。ここからまた何百年・何千年と時をかけて同じよう繰り返されてここから不定形が生まれて這い上がり、同族を食い人間の恐怖や怒りを滓として食らって鵺のような新たな姿を作りあげていく。それがここに生まれたものの定めで、それに逆らうほどの気力は鵺には残されていない。もしかしたら、他の生まれ落ちたものに自分も食べられてしまうかもしれないが、それでもいいのは自分が鵺としては大きな変質をしてしまったからだろう。もう、最初の生まれた時の鵺とは別のもの。そうして、ここからまた生まれるものを眺めていく。

………………都市伝説みたいなものだ。

何もない暗闇をヒタヒタと虎の足で歩み、鵺は何も語ることもなく深く項垂れ視線を暗闇に落としたまま。生まれたばかりの頃にはただの餌でしかなかった生き物である人間達に向こうの世界で長く封じ込められ、そして長い年月を経て触れあって接してきた多くのもの。

同じようにここで産まれ、向こう側に出ていくモノは多いだろう…………。

何故ならこの闇の中で餌に出来るのは弱い同族ばかりで、共食いではこの体を焼くような飢餓感から永遠に解放されないからだ。飢餓に勝てないから向こうに這い出て行き、やがては血を味わい魂を食み自分達には足りないものに満たされる。そんな奇妙な生き物として存在した人ではないモノ、人外とも妖怪とも化け物とも呼ばれたものは、自分達とは違う人間と数多く接するうちに多様性を持つ。勿論生粋のまま長く過ごしているものもいるが、鵺だけでなく経立や様々なものがいて、この鵺は鵺の中でもまた特殊だ。

飢餓は勿論ある。でも…………私はもう二度と滓も血も…………魂も要らない…………

血が繋がらないとはいえ大事な息子の魂を口にして、この鵺は胸が張り裂けそうな程の哀しみを知ってしまっていた。子を失う心の痛みも、誰かを愛しく思う心も知っている。そんなこの鵺はその唯一の魂を手放すが出来なくて、鵺はその義理の息子の魂を思わず飲み込んだのだ。人間に封じ込まれて年月を重ねてきたが人の魂を食うのにこんなにも気を使い、飲んでからの苦痛に涙が止まらないのは鵺自身も今は何故か理解できている。

愛しいから、大事だから、私達も…………想いは人と何も変わらない

人間と同じ感情を知ったり得たりしたモノ達は闇の中には収まらず向こうに出て、それこそ童話の人魚姫のように恋しい者を傷つけることは出来ないから、やがては海の泡になって消え去っていくだけ。何しろ飢餓に狂いそうになっても、もう二度と大切なものを食む事は鵺には出来ないし、同じ経験を誰かにさせることも出来ない。何しろ関係のない他の者を食むにも、きっとその他の者を大切に思う者もいることまで理解してしまっている。
それでも鵺は今は化けることも皮を被ることも出来ないこの恐ろしい獣の姿ではあるが、上手く向こうに出られる道を探そうと密かに考える。探し出せたらもう一人・鵺がなんとか元の世界に向けて逃がすことの出来た大事な子供を物陰から見守るくらいは許してもらいたい。そう声もなくホトホトと涙を溢れさせながら、密かに思案する。
人面に白銀の毛並みをした虎の体、尾は太くうねる蛇、そんなも姿を一瞬だがカズキに見られそうになって、大事な子供と別れるというのに顔を伏せたまま言葉も交わせずに去ってきた。それを思うと哀しくて、一緒にいるもう一人の魂を抱き締めながら哭き続けるしかない。

………………頼むな?

何故かその時急に不意に己の胎内に納めてしまった魂の言葉が脳裏に過り、鵺は低く呻きながら不快感に毛を逆立ててキュウとその瞳を細めていた。何かが不快で何かが本能に障るのは、災厄の気配が我が子にヒタヒタと足音をたてて忍び寄っているからだ。それを見極めようと碧玉の瞳は青い光を放ち、息を殺して鵺は疲れきった力を振り絞る。
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