鵺の哭く刻

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そして新たな感染

179.

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低く細く…………哀しく哭きながら深く深く、地の底に沈んでいく『鵺』の物悲しい哭き声。そして、それに寄り添い共に涙を溢す男の魂と、そして『鵺』に喰らいつかれたまま身動きも出来ずに苦悩の呻きすら上げられない肉の塊。
それらが全て青い焔に包み込まれて、焔が土蔵の中を埋め尽くしていく。
焔のたてるはぜる音もなく、それでも一度に大きく燃え上がり鵺と男の魂と共に大蛇の体の残り滓を呑み込んでいた。それは全てが一塊になって何時しか大きな青い焔に包み込まれ、激しく燃えて土蔵の中を青白く照らして、何もかもが蒼い光に呑み込まれていく。焔は大きく立ち上がり土蔵の壁を這い上がっていき、そうして何もかもは燃え尽きて塵に変わる。

そう、全てが塵に……



※※※



キシキシと何かが軋む音がする。それがなんなのか今の自分にはまるで理解できないのは、自分が何者なのかすら理解できなくなっている自分に気がついているからだ。真っ白な四つ壁に囲まれて、何も考えることもなく日々を重ねているが、このままではいけないと何故か本能的に感じてもいる。
それでも何が問題なのかすら分からないから、ここから逃げ出すことも出来ず足掻くことすらできない。

名前…………、何故………………

必死に思い出そうとしてブツブツと呟いている言葉が、次第に壊れたレコーダーのように片言に変わっていくのを引き留められない。何しろまともな会話は影としか交わせないでいるし、影は皆まで言わなくとも自分のことを理解してしまうからなおのこと会話をすることが減っていくのだ。語彙が減り頭の中が溶けていくように、自分の事が分からなくなっていく。

なまえ………………しって、いる

それがどれくらいの期間なのかは分からない。ただ突然最近になって白い服の人間達が、白い壁の部屋から自分を連れ出すことが出てきていた。以前は知らなかったのだが車輪のついた椅子に乗せられ、この白い部屋から通路を通り抜け何日か何時間かおきに風呂に連れていかれている。いや、以前からこうだったのかもしれないし、覚えてなかっただけかもしれないが若い男のような白い服の人間が風呂場に連れていき別な服をきた人間に野菜の泥でも落とすように事務的に洗われ湯に浸けられる。だけどその扱いにどうこう感じることも出来ずに、ただ日々が過ぎていく。

だが、その日は違っていた。

何時もの風呂場ではなく別な場所に車つき椅子で運ばれた自分を、白服は突然置き去りにして何処かに消え去ったのだ。辺りは暗く長い通路で壁際には長椅子の腰かけ、そして何故か暗い通路のずっと先に白く輝く光が指している。ヨロリと立ち上がり床についた足は、ここ数ヵ月あの部屋にしかいなかったから酷く細くなっていだ。こうして歩き出すのに酷く時間がかかるけれど、それでも光に誘われて歩き出してしまったら先は近い。

よって………………

不意に何かが聞こえた気がして自分は目を細めて、闇の先の光に目を凝らす。光の中には目映くて判別が出来なかったが、何かがこちらを見つめて立ち尽くしていたのにやっと気がつく。それは人間の背丈ほどの牛に見えたが、牛にしては顔が酷く歪でバランスが悪い生き物のように感じてしまう。恐らく人間程しか顔の大きさがないのだろうと思うと、唐突にその顔はニィィと黒井顔の中で真っ白な歯を剥き出して見せたのだった。



※※※



全てが塵に還る。

青い焔が燃え尽きてしまえば何も残らない筈のそこは、やがて音もなく静まり返ってはいた。だが、土蔵の崩れ落ちる瓦解の音は、一向に響くことはない。勿論ここがマトモな常識の通じる場所ではないから音もなく崩れ落ちる可能性が無いわけではないのだが、物音一つないそこには何ら以前とかわりのない土蔵が静かに佇んでいた。
土蔵の外にはあの闇とは違う柔らかな光が満ちていて、微かな木々の葉擦れの音が音楽のようにサヤサヤと鳴っている。
土葬には一つも焔が焼け焦げの跡を残すことはない。
畳すら焦げることすらなくそこに残されたのは、埃っぽいボンヤリとした光が射し込む音のない呼吸音すらないヒヤリと静かな空間のみ。燐の燃えた臭いすらしない室内で、畳の上には気がつくと黒い燃え残った何かが残されていた。
そこから一体どれだけの時間が過ぎたかは誰にも分からないが、ふと室内にズリと何かの動く小さな音が響く。畳を擦るほんの僅かな音が、何もない筈の室内に微かに溢れ落ちる。

………………起きて…………

柔らかな声。
そうまるで幼子を起こす母親のような柔らかで優しい声。

………………起きなさい…………ほら…………

眠りの中でその声を聞き付けながらも、もう少し眠りの中に引きこもっていたいと抗う。けれど、抗おうとしても優しく何度も何度も声をかけられ、眠りの底から起こされてしまうのに塊が僅かに畳の上で揺れる。モソリと畳を擦る音をたてて影から這い出したのは真っ白な肌をした指先で、それが表に這い出した途端ただ黒い塊だった燃え残りは古びた打ち掛けに変容していた。
古びていて少し褪せてはいるが仕立てのいい銀糸の刺繍が施された見事な着物。施された刺繍は見事で古くは目出度い時に纏う花嫁の打掛だったのだろうけれど、今はただの色褪せた白地の着物に過ぎない。それが何時のものかも、何故黒い塊から変容したかも誰も答えを持ち合わせてはいないのだが、今はそれがコンモリとした山になっていて、その下から探るように畳の上に指が滑り出している。
古びた畳の臭いと微かにショウノウの臭い、他に分かるのは土間の土の臭い。
それが仄かな光にフワリと漂う中で誘われたように、それはソッと着物の下から這い出してその半身を起こす。ここが何処かと誰かに問いかけなくても、古びた土蔵の中だというのは何度か瞬きをして見わたしただけでちゃんと理解できている。理解できているが、それが何故自分に理解できるかを考えるのは改めて生まれたばかりの頭にはやや面倒だった。それにそれをここで何時までも考えていても何も得られないことは、誰かに聞かなくても分かる。

ここの事を考えるよりも、この先にしないといけないことがある。

それを考えながら、ふと畳についていた自分の手に気がついて、不思議そうに首を傾げていた。
持ち上げて伸ばした手を思わず弱い光に翳してヒラヒラとかえすがえす眺めている視線は、まるでその手を初めて見たようで端から見ると途轍もなく奇妙な姿に見えたことだろう。

ない………………

だが事実としてその手がそこにあること自体が、それにしてみたら有り得ないものだと既に思い出してしまっていた。自分の中に残る記憶ではその腕は歪な大きな歪んだ指先で、しかも最後には世にも巨大な蛇に獲られて欠損していた筈のものだったのだ。ところが奇妙なことに自分の記憶にあるものが、今のそこには何一つない。指を握り潰されてもいなければ欠損もない、そこにあるのは滑らかな指と白い肌をした手だけで動きも滑らかだし、違和感も何もない手に目を細めてしまう。
古ぼけてはいるが居心地のいいと感じる空間に、暫しそのまま座り込んで解放されたままの扉を眺めつつ自分は首を捻っていた。少し以前と違うように感じるのは、肌の色が白い自分よりこの腕は一際色が白く抜けるような白い肌のような気がする。両方を並べてみればその色の差はよく分かるが、そして何よりこの手を何処かで見た気がすると更に首を捻ってしまう。

誰か…………そうだ、頭………………

ホッソリと華奢で、抜けるように白い肌。反対の手に思わず触れた指の感触は記憶の底を大きく揺さぶっていて、扉の外に視線を向けさせる。
思わず一人考え込む。
扉は解放されていて、外が明るい。
自分にはここに留められる理由が存在していないのだ。

もし、条件をつけられたのなら、あの扉は閉じている筈。

何故それが分かるかと問われると答えられないが、真っ白な指先がそれを教えてくれていて。自分はそれを素直に信じることも出来るのは、ジワジワとそれがこれ迄とは違って記憶の中できっかりと繋がっていくからだった。

自由に出ていってもいいということだろうし、ここにいてもいいということなのだろう。

もう一度会いたい人の殆どがいなくなってしまったのだろう世界を頭の中では理解してもいて、それでもここから自分は出ていくのだろうかとボンヤリと考え込む。ここに一人永遠にいても構わないのだろうけれど。指先を見下ろしてソッと唇を愛しげに押し当てると、トクンと何かが脈打つのを感じてしまう。

でも、もしかして………………

自分がこうしているのなら、もしかして。そう頭の中で有り得ないと思いながらも、微かな希望に縋りつくのはこの手が自分の中で脈打つからだった。そうして、やがて考え込むのにも飽きたのか立ち上がったそれは打ち掛けを翻すようにして、光の中に足を踏み出していく。

もしかして、もう一度………………

その瞳はまるで『鵺』と男の魂が放った青い焔のように、ユラリと青く輝きを放っているのにそれは気がつかないままだった。



※※※



射干玉の闇に響き渡る、物悲しげな声で一声高くヒョウ…………と哭き声を放って歩きだしている。
夜の街
人の気配
ざわめく音
沢山の気配に満ち溢れたそこに、人の哭き声のように聞こえるこの声は僅かな人間にしか聞き取れないモノのようだ。時にそれは人を振り返らせ訝しげに眉を潜ませるのだが、以前と違うのか使い方を知らないのか人を引き付けはしない。
戻ってきて真っ先にしたのは、彼女を探すことだった。
勿論彼女に何が起こったのかは知っていて彼女はあの時自分が助け出した筈なのに、あれからこの街に戻ってきていない。しかも色々と調べたら彼女は元夫に殺害されたなんてニュースがまことしやかに流されていて、その上彼女は遺体すら見つけて貰えない悲劇の人にされてしまっていた。それがどうこう言うつもりはないが、自分は彼女のことを何も知らなかったのにも気がついてしまう。

母のように姉のように

自分を慈しんだ彼女しか知らない。彼女がどんな半生を送って録でもない男の妻になり、そして自分と出会う今に至るのか知りもしない事が、何故か腹立たしくて仕方がないのだ。

もう一度、ちゃんと………………

それが今では自分の存在意義になっていて、彼女のことを知っている人間を探し回りながら、彼女を殺したと言われている男もまだ生き残っているのも知っていた。

ヤネオシュンイチ…………

その男の事も決して許せないし、彼女の事は絶対に諦めない。そうしてもう一度射干玉の闇に響き渡る、物悲しげな声で一声高くヒョウ…………と哭き声を放って自分は闇の中を歩きだしている。



※※※



冷たい夜の空気の中、自分が何故固く冷えた土を素手で掘り起こしているのか分からない。でも何かに呼ばれ引き寄せられるように、孟宗竹の林の中這いつくばってそこを両手で掻き分けていくのをやめられないでいる。

よって…………

光の先には『件』がいた。何故名前を知っているのかは分からないが、お前はここにいかないとならないとその異形は牛の身体についた人間の顔で告げる。人間の顔には何処か見覚えがあるのだが、それが誰なのかは思い出せない。それでも奥歯を噛み歯を剥き出して託宣された言葉は、予言になって自分を突き動かしていた。場所ハッキリと伝えられなかったのに、引き寄せられ、歩かされ、ここに辿り着いて土を掘り返し始めて。

よってえええぇ………………

竹林を抜けていく風が何故か『件』の予言の声に聞こえていて、急がなくてはと爪が傷むのも構わず固い土を掘り起こし続けていたのに。こんな時に限って周囲にある筈のない人気が囲んできて、自分の事を邪魔をする。『件』の予言に従って白い壁の部屋から出され一人で置き去りにされた後、あそこからここまでどれだけ時間がかかったことか。それだけでも焦っているのに、ここから何かを掘り出す前に邪魔をする人間が現れるなんて。その瞬間カツリと指先に何か固いものが触れて、それを闇の中で探ると土の奥にボタンのような物がある。それでも邪魔をする奴らの動きから逃れている内に、それを確認する事が出来ないまま、何人もの男達に組み伏せられてわめきたてていた。

駄目だ、やめてくれ!それを自分で取り出さないと…………

そう思ったのに全ては遅かった。『件』は再び自分の耳元に寄り添うようにして、耳に同じ言葉を繰り返している。

知っているぞ?お前がやったこと、知ってるぞ?

何をと問いかけても無駄なことは分かっている。何しろこれは予言の『件』で、これが口にしたことは覆すことが出来ないのだ。つまり自分はまたもや選択を失敗したのだと、項垂れるしか出来ない。何もかも全て過ちだと、『件』は自分に知らしめようと首元にのし掛かり囁き続けるのだ。
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