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海の底の妖精の里
12.ロウ・フォード
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シルキーの家の扉だと言われて踏み出した先は、再び島の集落の家のポーチだった。唐突な世界の変容に唖然としたロウは思わず、辺りを見回して何か変化がないものかと目を凝らす。しかし、どう見回しても島の煉瓦敷の小道と集落の住居しかない。振り返れば森の小道ではなく、古ぼけた一軒家が朝日の中音もなく建っているだけだ。
どうなってるんだか。
そう考えながらポケットに手を入れると、中に触れた物に気がついて引っ張り出す。片方には《フント》と掘りこまれた黒革の犬の首輪。もう片方には蓋も空かない金の懐中時計と残り少ない紙マッチ。どれもこれも今すぐ何かの役にたつものがないのに、思わず肩を落として溜め息をつく。再び荷物をポケットに押し込むと、ロウは一先ずカウフマンの店の裏の小屋にタバコを本当に置き忘れたかどうか確認することにした。
そうすればせめて紙マッチは役立つ。
溜め息混じりに背を丸めて歩き出す。カツンカツンと硬い煉瓦を踏む音に、微かに何処かに人の話し声がするのが紛れ込む。朝の潮風にのって聞こえる声は、女のものらしく時折高音が微かに聞こえる。
どうやら、住人には元気に話す年頃の女性もいるようだな。
パブにいた泣き女のような落ち込む姿をした女が、こんな風に高音の声で話をするとは思えない。ただし、女が酔っていない時には、酔った時と逆に陽気に話すタイプの可能性も無くはないのだが。カウフマンの店の横を通り抜ける時に何気なく店の中に視線を走らせたが、汚れたガラスの中はボンヤリとくすんで人の姿は確認出来ない。一先ずタバコが先決とロウは先を急いで足早に店の前を過ぎた。背後で微かに扉が開く音がしたような気もするが、潮風にさらされ音は掻き消されてしまう。
まあ、同じ島の中なんだから、何時かは出会うに違いない。
そう心の中で呟くと小屋の戸を軋ませて、ロウは寝床の小屋の中を眺め回した。戻ってきた小屋は相変わらず古ぼけていたが雨風をしのぐには十分。奥にはくすんだ硝子の嵌め込まれた窓から、朝日に照らされた教会の尖塔が見える。奥の壁には出た時と同じベッドに薄い毛布が乗っていて、上には萎れたタバコが箱ごと置き去りにされていた。
一休みしてから、動くとしよう。
一晩中駆けずり回った疲労に、ロウはゴロリとベットに横になりタバコを取り出す。よれたコートのポケットから紙マッチを探り出し、湿気った硫黄の臭いをさせてボゥッとオレンジの炎が咥えたタバコの先に灯る。紫煙を燻らせ始めた途端、潮風に窓ガラスが微かに震えた。
あの世界はトリップではなさそうだが、現実にしちゃ随分と奇想天外だな。
頭の中で呟くと天井に向けて、ポケットの中の物を思い出しながら紫煙がユックリ燻る。やがて根本迄燃え尽きたタバコを、窓ガラスに押し立て消すと窓際に放置された空き缶に投げ入れた。空き缶は小屋の漁具の持ち主にも同じように使われていたらしく、同じ銘柄のタバコの吸い殻が残っている。
まるで前からここにいてタバコを吸って暮らしてるみたいだな。
奇妙な錯覚が再び起こってロウは口元を歪ませ、腕をあげ腕時計を覗きこむ。
そうだった、壊れちまってたな。
時計盤の針は全て12を指して重なったまま、振ってもピクリとも動かないまま。忘れていたこととは思わず言えチッと舌打ちしたロウは、諦めて目を閉じ浅い眠りに落ちる。
※※※
軽やかな音楽にロウはふっと眠りの淵から目を覚ました。眼鏡越しの天井は薄暗く仄かな白い光が差し込んでいて、どうやら再び月の明かりが射し込んでいるようだと気がつく。埃を舞い上げながら古びたベットの上に起き上がると、くすんだ硝子から外を眺めた。
教会に今夜は光は無しか。
目を覚ました時に聞こえていた軽やかな音楽の存在を、ロウは確認するように耳を澄ます。軽やかな音楽は昨日と同じもので、陽気なのにジュークボックスが古いせいか古ぼけて聞こえる。
ポケットから既に草臥れたタバコを一本取りだし口の端に咥え火も着けずに立ち上がった。小屋を出てコートに両手を突っ込んだロウは、視線を空へと向ける。雲もない夜空に満月が浮かんで、煉瓦敷の道を白々と青い光で照らしている。潮の臭いの強いところを見ると満潮なのかもしれないと、青い光に照らされた煉瓦の道を見下ろした。
まるで海の中のようだな。
コツリと音を立てて煉瓦の小路を踏むと、ヴェヒターのパブから溢れ落ちる。オレンジの光の先は汚れきった硝子で見通しが悪いが、人が中で動く気配がする。
どうやら、今夜も夜の方が盛況だな。
ロウは手慣れた仕草でマッチを取り出すと火を灯す。紫煙を燻らせながら集落をながめるが、今晩は電灯が着いていない。何気なく目を走らせながら、ロウは音楽の漏れる扉を押し開いた。
店にいる客は昨日と変わらす、男が二人に女が一人。カウンターの中は銀髪のヴェヒターが古めかしいパイプを燻らせている。扉の前のロウにパイプの先を向け、ヴェヒターがパイプを斜めに口を開く。
「いらっしゃい、旦那。ヴェヒター・カナッハのパブは、今夜もクルラホーンも満足の品揃えだよ。」
ロウは口の端を上げて紫煙を揺らし微笑む。三人の客は相変わらず客同士は語り合うわけでもなく、それぞれの酒を一人で楽しんでいるようだ。
「やあ、ヴェヒター、盛況だな。」
「いやいや、旦那。昔はもっと流行ったんだがね、ハッグが出てからはサッパリさ。」
昨日と同じ会話でヴェヒターが嗤う。満月の夜だから、ハッグが現れるかもなと笑うと、ヴェヒターが物騒なこと言わないでくれよとパイプを燻らせ返してくる。いつの間にか目の前に置かれた灰皿に、短くなったタバコを押し消してロウは店の中を見回す。
奥の丸いテーブルでは農夫のような白髪頭の男がまだ、今日はエールを飲んでいないのに気がついて、ロウはヴェヒターにエールを二本と告げる。冷えたエールを片手にロウが丸テーブルに歩み寄る。
「ミスター・バオアー、少しいいかね?良かったら、エールを一本奢るよ。」
「エールは好きだがね、お若いの。」
エールを受け取った白髪頭のバオアーは、視線をあげずに微かに溜め息をつく。深く日焼けした肌に刻み込まれた皺が、年月を感じさせる老人特有の斑を目立たせる。
「ミスター、以前一面黄色の花畑を訪れなかったかね?」
その言葉にバオアーが白髪と同じ色の眉をあげた。エールを手にした丸テーブルに、ポケットから黒の革の首輪を取り出す。
「花畑の中で、アスターに包まれて眠っている犬に助けられてね。黒いレトリバーなんだがね。」
バオアーが震える手で古ぼけた首輪を包み込むと、ロウの事を見上げた。
「暫く前エールを一本飲んで帰ろうとしたら、見たこともない花畑に紛れ込んだんだ。」
一面素晴らしい黄色の花でな、と農夫は懐かしげに呟く。
「一緒にいたフントは喜んで走り回って、気がついたら見失っとった。」
あの触れただけで舞い上がる花弁に視界を眩まされたなら、この老いた農夫が犬一匹見失うのは容易いだろうとロウは納得する。同時に花畑を喜んで駆け回る黒のレトリバーが目に浮かぶようだ。
「フントの眠っている場所は寂しげかね?」
「いいや、花が咲き乱れて大勢に囲まれて賑やかだ。」
「そうかね、アイツはおっちょこちょいでな。その癖寂しがり屋なんだ。そうか、賑やかか。」
深く青い瞳が涙で潤んだように見えるが、年老いた農夫は涙を流しはしない。喉を潤すようにグイとエールを一息に煽ると、盛大なゲップをして袖で口元を拭う。
「お若いの、あんたは何しにここに来たんだね?」
「人探しを頼まれてね。この島にはFがつく人がいるかね?」
暫く考え込んだバオアーが首を傾げながら、ロウに気難しげに口をへの字に曲げて視線をあげた。どうやら、思い当たる名前がなかったようだ。
「F、ねぇ。マダム・リューグナーなら昔からここに住んどるから詳しかろう。」
「そのマダムは何処に?」
「井戸の傍の家だ。集落の中にある。」
飲みきったエールの瓶をカウンターに置いた男は、ごちそうさんと呟くと愛想もなく恭しい視線でロウを眺めてから立ち去った。ヴェヒターの前に戻ったロウはカウンターに肘を乗せて店内を見回した。昼間の店の印象とは大分違い、店舗の雑貨には白い覆いが被せられオレンジの光はボンヤリと店内を照らす。
「よかったね、旦那。バオアーが親しげに話すなんて久々だよ。」
「そのようだな。ヴェヒター。」
冗談混じりのバーテンダーとの会話はこれといって実りもなく、今夜はここではこれ以上何も得られる気がしない。ロウはエールを空けるとまだ少し冷たい瓶をカウンターに置き、ヴェヒターに片手を上げてカウンターに背を向ける。
「よい夜を、旦那。ハッグに夜道で会わないことを祈ってるよ。」
扉から漏れる光に背を向け夜の潮風の中に踏み出すと、思ったより冷たい海の風にロウはコートに両手を突っ込んだ。視線の先には静かな集落の建物が、月明かりの下に青白く静まり返っている。マダムの家を見つけたとしても、当のマダムは既に休んだ後だろう。一先ず家だけは確認しようと、井戸が何処にあるのか探しながらロウは固い煉瓦の道を歩き出す。コツリコツリと固い足音が、微かな潮騒の音の影で集落の間に響き渡る。
店が背後で遠退き住居の集落が近づくにつれ、ロウは微かに眼鏡の奥の目を細めた。
集落の中程に黒い人影が身じろぎもせずに、立ち尽くしている。黒いコートを襟を立てて着込んで、目深に被った中折れ帽子のせいで顔立ちは闇に沈む。
『お待ちしてました、ミスター・フォード。』
くぐもった声は歩み寄るロウに向けて放たれ、ロウはずり下がった眼鏡の真ん中を指で押し上げた。ほんの数歩前に立って相手が、割合背の高い自分とほぼ同じ長身で体の前に白い手袋を嵌めた手を黒檀のステッキに添えている。
「待たれるとは、またもや稀人かね、ヴァイゼ。」
『ええ、お察しの通り。稀人がまたもや紛れ込んでおります。』
ユルリとあげた中折れハットの奥は、奇妙な柔らかさを感じさせる仮面。相変わらず瞳の色も肌の色も見えない装いで、ヴァイゼはくぐもった声を放つ。
「ヴァイゼ。稀人は若い女か?」
ロウの言葉にヴァイゼは僅かに驚いたようだった。昼間聞いた若い女らしき声は、何かをカウフマンに問いかけているようだった。とすれば、島のことに詳しくない女だと考えられる。稀に出没した女なら、島の事を問いかけるのに選ぶなら島の唯一の店の店主だろう。
『ご名答でございます、ミスター。』
「お前の依頼主はその女か?ヴァイゼ。」
探し物に導くためと考えればその可能性も考えられるが、正直依頼主は島の人間のような気がしていた。ヴァイゼは案の定お答えしかねますとだけ告げる。潮の満ちる匂いが不意に強まって、ロウは思わず風を追うように視線を泳がせた。
『ミスター、お進みください。話はそれからに致しましょう。』
ヴァイゼが黒檀の杖で昨日とは違う家の横を示す。藪の中を示している杖の先は、誤りではなく確実に藪を示していた。
「待て。何で稀人を追わせる?それは是非答えてもらおうか。」
『稀人が進む先に問題がございます。稀人の選択次第で、この世界にとって裏側とも言える世界が崩壊するのです。』
「崩壊とは物騒だな。」
『ええ、物騒な話です。そのために稀人を追って頂くのが主人の依頼です。』
藪を真っ直ぐ指し示すのに、ロウは眼鏡の奥からその藪を見つめる。歩み寄ると藪の中にある石組が見えて、そこが井戸だと理解した。蔦と藪と立ち木で隠されているが、半分開いた蓋がある。覗きこむと割合と水面は高く、水は清んでキラキラと月明かりを反射していた。
『ミスター、お急ぎください。稀人は大分先へ進んでおります。』
ヴァイゼに促され何処にいけとといいかけた瞬間、頭上の月が真っ直ぐに井戸の中に落ちたように輝いた。月明かりに目が眩んだ途端、背中を硬い杖が押し体勢が前のめりに崩れる。
『さ、どうぞ、ミスター・フォード』
疑問を感じる間もなく、ロウはの体は宙に投げ出され真っ逆さまに井戸の中に向かって落ち始めていた。
『お進みください、ミスター・フォード。私との話はその後で致しましょう。』
急き立てられるようなヴァイゼの声が遥か頭上から追いかけるように、落ちてきたのをロウは苦々しく聞いていた。
どうなってるんだか。
そう考えながらポケットに手を入れると、中に触れた物に気がついて引っ張り出す。片方には《フント》と掘りこまれた黒革の犬の首輪。もう片方には蓋も空かない金の懐中時計と残り少ない紙マッチ。どれもこれも今すぐ何かの役にたつものがないのに、思わず肩を落として溜め息をつく。再び荷物をポケットに押し込むと、ロウは一先ずカウフマンの店の裏の小屋にタバコを本当に置き忘れたかどうか確認することにした。
そうすればせめて紙マッチは役立つ。
溜め息混じりに背を丸めて歩き出す。カツンカツンと硬い煉瓦を踏む音に、微かに何処かに人の話し声がするのが紛れ込む。朝の潮風にのって聞こえる声は、女のものらしく時折高音が微かに聞こえる。
どうやら、住人には元気に話す年頃の女性もいるようだな。
パブにいた泣き女のような落ち込む姿をした女が、こんな風に高音の声で話をするとは思えない。ただし、女が酔っていない時には、酔った時と逆に陽気に話すタイプの可能性も無くはないのだが。カウフマンの店の横を通り抜ける時に何気なく店の中に視線を走らせたが、汚れたガラスの中はボンヤリとくすんで人の姿は確認出来ない。一先ずタバコが先決とロウは先を急いで足早に店の前を過ぎた。背後で微かに扉が開く音がしたような気もするが、潮風にさらされ音は掻き消されてしまう。
まあ、同じ島の中なんだから、何時かは出会うに違いない。
そう心の中で呟くと小屋の戸を軋ませて、ロウは寝床の小屋の中を眺め回した。戻ってきた小屋は相変わらず古ぼけていたが雨風をしのぐには十分。奥にはくすんだ硝子の嵌め込まれた窓から、朝日に照らされた教会の尖塔が見える。奥の壁には出た時と同じベッドに薄い毛布が乗っていて、上には萎れたタバコが箱ごと置き去りにされていた。
一休みしてから、動くとしよう。
一晩中駆けずり回った疲労に、ロウはゴロリとベットに横になりタバコを取り出す。よれたコートのポケットから紙マッチを探り出し、湿気った硫黄の臭いをさせてボゥッとオレンジの炎が咥えたタバコの先に灯る。紫煙を燻らせ始めた途端、潮風に窓ガラスが微かに震えた。
あの世界はトリップではなさそうだが、現実にしちゃ随分と奇想天外だな。
頭の中で呟くと天井に向けて、ポケットの中の物を思い出しながら紫煙がユックリ燻る。やがて根本迄燃え尽きたタバコを、窓ガラスに押し立て消すと窓際に放置された空き缶に投げ入れた。空き缶は小屋の漁具の持ち主にも同じように使われていたらしく、同じ銘柄のタバコの吸い殻が残っている。
まるで前からここにいてタバコを吸って暮らしてるみたいだな。
奇妙な錯覚が再び起こってロウは口元を歪ませ、腕をあげ腕時計を覗きこむ。
そうだった、壊れちまってたな。
時計盤の針は全て12を指して重なったまま、振ってもピクリとも動かないまま。忘れていたこととは思わず言えチッと舌打ちしたロウは、諦めて目を閉じ浅い眠りに落ちる。
※※※
軽やかな音楽にロウはふっと眠りの淵から目を覚ました。眼鏡越しの天井は薄暗く仄かな白い光が差し込んでいて、どうやら再び月の明かりが射し込んでいるようだと気がつく。埃を舞い上げながら古びたベットの上に起き上がると、くすんだ硝子から外を眺めた。
教会に今夜は光は無しか。
目を覚ました時に聞こえていた軽やかな音楽の存在を、ロウは確認するように耳を澄ます。軽やかな音楽は昨日と同じもので、陽気なのにジュークボックスが古いせいか古ぼけて聞こえる。
ポケットから既に草臥れたタバコを一本取りだし口の端に咥え火も着けずに立ち上がった。小屋を出てコートに両手を突っ込んだロウは、視線を空へと向ける。雲もない夜空に満月が浮かんで、煉瓦敷の道を白々と青い光で照らしている。潮の臭いの強いところを見ると満潮なのかもしれないと、青い光に照らされた煉瓦の道を見下ろした。
まるで海の中のようだな。
コツリと音を立てて煉瓦の小路を踏むと、ヴェヒターのパブから溢れ落ちる。オレンジの光の先は汚れきった硝子で見通しが悪いが、人が中で動く気配がする。
どうやら、今夜も夜の方が盛況だな。
ロウは手慣れた仕草でマッチを取り出すと火を灯す。紫煙を燻らせながら集落をながめるが、今晩は電灯が着いていない。何気なく目を走らせながら、ロウは音楽の漏れる扉を押し開いた。
店にいる客は昨日と変わらす、男が二人に女が一人。カウンターの中は銀髪のヴェヒターが古めかしいパイプを燻らせている。扉の前のロウにパイプの先を向け、ヴェヒターがパイプを斜めに口を開く。
「いらっしゃい、旦那。ヴェヒター・カナッハのパブは、今夜もクルラホーンも満足の品揃えだよ。」
ロウは口の端を上げて紫煙を揺らし微笑む。三人の客は相変わらず客同士は語り合うわけでもなく、それぞれの酒を一人で楽しんでいるようだ。
「やあ、ヴェヒター、盛況だな。」
「いやいや、旦那。昔はもっと流行ったんだがね、ハッグが出てからはサッパリさ。」
昨日と同じ会話でヴェヒターが嗤う。満月の夜だから、ハッグが現れるかもなと笑うと、ヴェヒターが物騒なこと言わないでくれよとパイプを燻らせ返してくる。いつの間にか目の前に置かれた灰皿に、短くなったタバコを押し消してロウは店の中を見回す。
奥の丸いテーブルでは農夫のような白髪頭の男がまだ、今日はエールを飲んでいないのに気がついて、ロウはヴェヒターにエールを二本と告げる。冷えたエールを片手にロウが丸テーブルに歩み寄る。
「ミスター・バオアー、少しいいかね?良かったら、エールを一本奢るよ。」
「エールは好きだがね、お若いの。」
エールを受け取った白髪頭のバオアーは、視線をあげずに微かに溜め息をつく。深く日焼けした肌に刻み込まれた皺が、年月を感じさせる老人特有の斑を目立たせる。
「ミスター、以前一面黄色の花畑を訪れなかったかね?」
その言葉にバオアーが白髪と同じ色の眉をあげた。エールを手にした丸テーブルに、ポケットから黒の革の首輪を取り出す。
「花畑の中で、アスターに包まれて眠っている犬に助けられてね。黒いレトリバーなんだがね。」
バオアーが震える手で古ぼけた首輪を包み込むと、ロウの事を見上げた。
「暫く前エールを一本飲んで帰ろうとしたら、見たこともない花畑に紛れ込んだんだ。」
一面素晴らしい黄色の花でな、と農夫は懐かしげに呟く。
「一緒にいたフントは喜んで走り回って、気がついたら見失っとった。」
あの触れただけで舞い上がる花弁に視界を眩まされたなら、この老いた農夫が犬一匹見失うのは容易いだろうとロウは納得する。同時に花畑を喜んで駆け回る黒のレトリバーが目に浮かぶようだ。
「フントの眠っている場所は寂しげかね?」
「いいや、花が咲き乱れて大勢に囲まれて賑やかだ。」
「そうかね、アイツはおっちょこちょいでな。その癖寂しがり屋なんだ。そうか、賑やかか。」
深く青い瞳が涙で潤んだように見えるが、年老いた農夫は涙を流しはしない。喉を潤すようにグイとエールを一息に煽ると、盛大なゲップをして袖で口元を拭う。
「お若いの、あんたは何しにここに来たんだね?」
「人探しを頼まれてね。この島にはFがつく人がいるかね?」
暫く考え込んだバオアーが首を傾げながら、ロウに気難しげに口をへの字に曲げて視線をあげた。どうやら、思い当たる名前がなかったようだ。
「F、ねぇ。マダム・リューグナーなら昔からここに住んどるから詳しかろう。」
「そのマダムは何処に?」
「井戸の傍の家だ。集落の中にある。」
飲みきったエールの瓶をカウンターに置いた男は、ごちそうさんと呟くと愛想もなく恭しい視線でロウを眺めてから立ち去った。ヴェヒターの前に戻ったロウはカウンターに肘を乗せて店内を見回した。昼間の店の印象とは大分違い、店舗の雑貨には白い覆いが被せられオレンジの光はボンヤリと店内を照らす。
「よかったね、旦那。バオアーが親しげに話すなんて久々だよ。」
「そのようだな。ヴェヒター。」
冗談混じりのバーテンダーとの会話はこれといって実りもなく、今夜はここではこれ以上何も得られる気がしない。ロウはエールを空けるとまだ少し冷たい瓶をカウンターに置き、ヴェヒターに片手を上げてカウンターに背を向ける。
「よい夜を、旦那。ハッグに夜道で会わないことを祈ってるよ。」
扉から漏れる光に背を向け夜の潮風の中に踏み出すと、思ったより冷たい海の風にロウはコートに両手を突っ込んだ。視線の先には静かな集落の建物が、月明かりの下に青白く静まり返っている。マダムの家を見つけたとしても、当のマダムは既に休んだ後だろう。一先ず家だけは確認しようと、井戸が何処にあるのか探しながらロウは固い煉瓦の道を歩き出す。コツリコツリと固い足音が、微かな潮騒の音の影で集落の間に響き渡る。
店が背後で遠退き住居の集落が近づくにつれ、ロウは微かに眼鏡の奥の目を細めた。
集落の中程に黒い人影が身じろぎもせずに、立ち尽くしている。黒いコートを襟を立てて着込んで、目深に被った中折れ帽子のせいで顔立ちは闇に沈む。
『お待ちしてました、ミスター・フォード。』
くぐもった声は歩み寄るロウに向けて放たれ、ロウはずり下がった眼鏡の真ん中を指で押し上げた。ほんの数歩前に立って相手が、割合背の高い自分とほぼ同じ長身で体の前に白い手袋を嵌めた手を黒檀のステッキに添えている。
「待たれるとは、またもや稀人かね、ヴァイゼ。」
『ええ、お察しの通り。稀人がまたもや紛れ込んでおります。』
ユルリとあげた中折れハットの奥は、奇妙な柔らかさを感じさせる仮面。相変わらず瞳の色も肌の色も見えない装いで、ヴァイゼはくぐもった声を放つ。
「ヴァイゼ。稀人は若い女か?」
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「崩壊とは物騒だな。」
『ええ、物騒な話です。そのために稀人を追って頂くのが主人の依頼です。』
藪を真っ直ぐ指し示すのに、ロウは眼鏡の奥からその藪を見つめる。歩み寄ると藪の中にある石組が見えて、そこが井戸だと理解した。蔦と藪と立ち木で隠されているが、半分開いた蓋がある。覗きこむと割合と水面は高く、水は清んでキラキラと月明かりを反射していた。
『ミスター、お急ぎください。稀人は大分先へ進んでおります。』
ヴァイゼに促され何処にいけとといいかけた瞬間、頭上の月が真っ直ぐに井戸の中に落ちたように輝いた。月明かりに目が眩んだ途端、背中を硬い杖が押し体勢が前のめりに崩れる。
『さ、どうぞ、ミスター・フォード』
疑問を感じる間もなく、ロウはの体は宙に投げ出され真っ逆さまに井戸の中に向かって落ち始めていた。
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誤字・脱字・文章修正 随時行います。
短編タグが長編に変更になることがございます。
*タイトルの「神々の寵愛者」→「神々の愛し子」に変更しました。
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