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7月

82.ユリ ル・レーブ

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手術からもう3日目で母の調子は凄くよくて手術したなんて嘘みたいに元気だ。少し傷口のつきかたが充分でないのと、血液検査の結果が良くないのでもう少し入院が必要と説明されたみたい。一応看護師さんやお医者さんの言う事には従順ぽいけど、病室からいなくなると文句ばかり言っている。患者さんっていうのはみんなこういう感じなのかな?陽気過ぎて思わず苦笑してしまうけど、朝も夜も関係なくお仕事をしている看護師さんやお医者さんには凄く申し訳ない気もする。

ママが凄く元気だから、パパもお仕事に行ったし雪ちゃんも今日は仕事で来ない。衛も昨日の夜雪ちゃんと家に帰った。私も今日はこれから夏期講習に行く予定だし、今日はもう雪ちゃんとは会わないかもしれない。
変わらぬ愛や永遠を誓った筈の結婚の理由が、愛情でないとしたら神様はどうするんだろう?雪ちゃん達は結婚式をあげた訳じゃないから、神様は雪ちゃんと奥さんの誓いを聞いてないのかもしれない。だから、本当は愛しあってなくても夫婦になれたのかな。世界の中には同じように、愛しあってなくても夫婦になる人がいるんだろうか?何か理由があって夫婦になっている人が沢山いるんだったら夫婦って何だろう。パパとママは何時も仲良しだし喧嘩をすることがあっても、パパは今回みたいにママが倒れた時は心配して傍から離れなかった。雪ちゃんだって奥さんが病院に居る時は傍にいたって聞いてる。でも、世の中には矢根尾みたいな旦那さんに虐められて逃げ出した奥さんもいるんだ。
それも凄く気になって、私の心には何かがひっかかったままだ。昨日の夢はもう覚えていないけど、いった何だったんだろう。心にひっかかった棘みたいな疑問と昨日の衛のいった言葉が奇妙な感じで頭に残ってる。

雪の怖い夢

確かに何か怖い夢を見た気がする。
幼い時に見るお化けの夢みたいに何だか不気味で怖い夢を見ていた気がするんだ。でも、隣に寝ていただけの衛はどうしてそう感じたんだろう。そう言われれば少し奇妙だ。もしかして私は大きな寝言でも叫んだんだろうか。それで起きたんだったら、きっと衛は半べそかくくらいに凄く怖かったんだ。

「麻希子?大丈夫?」

母の声に私は我に帰る。
ヒンヤリとした消毒液の匂いの中で、私は作り笑いをして見せながら大丈夫と口にした。
平凡だったはずの私の日常。でも、本当にそれだけなんだろうか、私はふとそんな事を感じて凄く不安になっていた。


講習に少し遅れそうで私は慌てながら玄関ホールに向かっていた。その時視界の端に、見覚えのある姿に気がついて思わず立ち止まる。
外来に受診する患者さんの波の中で俯いてトボトボと歩くのは間違いなく香苗で、私は困惑しながら立ち尽くした。視線を足元に落とした香苗は、青ざめて顔色が悪くて今にも倒れてしまいそうに見える。やっぱりこの間病院の玄関まで来ていたのは自分が病院にかかるためで、私に出くわしたから逃げていったんだと分かった。声をかけるべきかかけないべきか少し迷いながら、私は香苗が外来患者に紛れ込むのを眺める。沢山の科の診療をしているから、その姿が見えなくなるのはあっという間で私は諦めたように玄関から夏の暑さの中に駆け出していた。



※※※


「麻希ちゃん!」

私の姿に早紀ちゃんが心配顔で駆け寄ってくる。講習に出るよってLINEをしておいたら、今日は選択の講習がないのに早紀ちゃんと孝君が連れだって学校まで来てくれた。何か凄くそれに感動してしまって私は思わず駆け寄ってくる早紀ちゃんに抱きついて泣き出してしまった。孝君と一緒に来た事に気がついたのは泣き止んで暫くしてからのことだったのは、ここだけの話。暫くして落ち着いた私は照れ笑いしながら、3人揃って並んで歩き出す。

「それで、お母さんの調子は?大丈夫なのか?」
「うん、もう、元気になってきて歩いてる。」
「良かったねぇ。麻希ちゃん。」

孝君まで心配してくれたのに再びウルウルしてしまう私に、早紀ちゃんが一緒に潤んだ瞳を向ける。暑さをしのぐように3人で『茶樹』に自然と足が進み深碧のドアを開く。ママの話が少し一段落して、早紀ちゃんから講習のプリントを受け取った私はふと思い出したように香苗の事を2人に告げた。

「病院で?風邪とかか?」
「一人でいたの?」

そう言われれば前も今日も香苗は一人だった。この間は会った途端走って逃げてしまったし、今朝だってお母さんとかお家の人の姿は見えなかった。高校生だから病院位一人でかかれるとは思うけど、何となくスッキリしない気はする。私だったら風邪で近くの昔からある若瀬クリニックにかかるだけでも、ママについてきてもらっちゃう。大体にして前にそのクリニックで香苗と香苗のママと鉢合わせしたことだってある。そっか、風邪だったら若瀬のお爺ちゃん先生に診てもらえばいいのに、何で総合病院なのか疑問なんだ。
そう素直に言うとアイスコーヒーを飲みながら、孝君が宙を眺めるようにして若瀬クリニックと総合病院の事を思い浮かべる。ここら辺に住んでいるなら大体の子は、若瀬クリニックに1度はかかったことがあると思う。

「若瀬クリニックだと内科と呼吸器と小児科だろ?」
「最近はアレルギーも診てくれるよ?お爺ちゃん先生の他に若先生がいるもん。」

私がアトピーで診て貰っているのは若先生の方だ。早紀ちゃんも同じらしく頷いていて、そうかと孝君が言う。

「総合病院に行かなきゃならないのは、整形とか外科、耳鼻科、眼科、循環器科、皮膚科、心療内科とか?」
「そうね、後は神経内科と泌尿器科かしら。」

3人で頭を付き合わせて居るとふいっと間に影が射し、思わず視線が上がる。

「科目なら、あと産婦人科っていうのもあるけどぉ?」

早紀ちゃんによく似た面差しで松理さんが首を傾げながら、私達3人を見下ろしていた。唐突に姿を見せた松理さんの姿に孝君が唖然としているのを横に、何故か私は松理さんの言葉がしっくりくる気がして少し青ざめる。
矢根尾の話していた言葉とか態度がうっすら脳裏に甦り、同時に今朝見た香苗の青ざめた顔が浮かぶ。
もしかして、そうだったら香苗はどうする気なんだろう、そう心の中で私は呟いた。


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