9 / 9
第三章:恋の試練 ― 過去の断片と感情の揺れ
第9話:リリスの登場
しおりを挟む
翌朝、玲奈とルカは約束通り神殿の厨房で料理を作ることになった。神殿の厨房は玲奈が想像していたよりもずっと広く、まるで宮殿の厨房のような豪華さだった。大理石のカウンターや銅製の鍋、天井に吊るされた様々なハーブ。壁には古い調理器具がずらりと並んでいて、まさに異世界の厨房という雰囲気を醸し出している。
朝の光が大きな窓から差し込んで、厨房全体を暖かく照らしていた。空気には微かにハーブの香りが漂っていて、とても心地よい空間だった。
「何から始めましょうか?」
玲奈が張り切って聞くと、ルカは少し困ったような表情を見せた。
「実は、僕は料理をしたことがほとんどないんです」
「大丈夫です。私も得意ではありませんから、一緒に覚えましょう」
玲奈の明るい声に、ルカの表情も和らいだ。
二人は手を洗って、エプロンをつけた。玲奈の白いエプロン姿を見て、ルカは思わず見とれてしまう。いつもの上品なドレスとは違って、エプロン姿の玲奈にはより親しみやすい魅力があった。
「どうかしましたか?」
玲奈が首をかしげて聞く。
「いえ...とても似合っています」
ルカの素直な感想に、玲奈は頬を赤らめた。
「ありがとうございます。ルカさんもとても素敵です」
確かに、白いエプロンをつけたルカの姿は新鮮で、いつもの神秘的な雰囲気とは違った親しみやすさがあった。まるで普通の青年のように見えて、玲奈の心はさらにときめいた。
「では、まず材料を集めましょう」
玲奈がエルシアの記憶を頼りに、パンを作るための材料を集め始めた。小麦粉、卵、バター、砂糖、塩、そして発酵のためのイースト。一つ一つ確認しながら、ルカも手伝ってくれる。
「この小麦粉、とても良い香りがしますね」
ルカが袋の匂いを嗅いで感想を述べる。地球の小麦粉とは確かに違って、より豊かで甘い香りがした。
「エテルナ世界の小麦は特別なんです」
玲奈がエルシアの記憶を通じて説明する。
「愛によって育てられた小麦は、普通の小麦よりもずっと美味しいパンになるんです」
「愛によって育てられた...」
ルカは感慨深そうに呟いた。
「この世界のすべてが、愛と繋がっているんですね」
「はい。だからこそ、とても美しい世界なんです」
材料を大きなボウルに入れて混ぜ始めると、二人の手が時々触れ合う。そのたびにお互いドキッとして、頬を赤らめてしまう。まるで新婚夫婦のような初々しさがあった。
「あ、すみません」
玲奈が慌てて手を引っ込める。
「いえ、こちらこそ」
ルカも恥ずかしそうに答える。
そんなやり取りを繰り返しながら、少しずつパン生地が出来上がっていく。最初はぎこちなかった二人の動きも、だんだんと息が合ってきた。
「次は生地をこねるんですよね」
玲奈が記憶を頼りに作業を進めようとするが、思うようにいかない。生地が手にくっついてしまって、うまく形にならない。
「うまくいきませんね」
玲奈が困っていると、ルカが優しく微笑んだ。
「僕がやってみましょう」
ルカが玲奈の後ろに立って、彼女の手に自分の手を重ねた。
「こんな感じでしょうか」
二人の手が重なって生地をこねる。ルカの温かい体温が背中に伝わって、玲奈の心臓が早鐘を打つ。彼の息が首筋にかかって、頬がさらに赤くなってしまう。
「上手ですね」
玲奈の声は少し震えていた。
「君がいてくれるからです」
ルカの声が耳元で響いて、玲奈はさらにドキドキしてしまう。
生地を一緒にこねていると、だんだんと滑らかになってきた。最初は固かった生地が、二人の手によってふわふわの弾力のある生地に変わっていく。
「きれいになりましたね」
「はい。一緒にやると、こんなにうまくいくんですね」
そんな甘い雰囲気の中、突然厨房の扉が開いた。
「あら、面白いことをしているのね」
振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。外見は12歳程度だが、その瞳には年齢に似つかわしくない深い知恵が宿っている。金髪に紫の瞳という珍しい組み合わせで、小柄で可愛らしい外見をしているが、どこか普通ではない雰囲気を纏っていた。
服装も独特で、古風なドレスのようでいて現代的な要素も混じっている。まるで時代を超越した存在のような印象を与える。
「あの、どちら様ですか?」
玲奈が驚いて聞くと、少女はにっこりと微笑んだ。その笑顔は無邪気でありながら、どこか計算されたような雰囲気もあった。
「私はリリス。よろしくね、玲奈」
「私の名前をご存知なんですか?」
「もちろんよ。あなたのことはよく知ってるわ」
リリスは厨房の中を興味深そうに見回した。その動きは子供らしく軽やかだが、観察眼は鋭く、まるで何かを探っているかのようだった。
「パン作りなんて、微笑ましいじゃない。まるで新婚さんみたい」
「新婚って...」
玲奈は真っ赤になった。確かに、さっきまでの二人の様子は新婚夫婦そのものだった。
「あなたは何者ですか?」
ルカが警戒するような声で聞いた。この少女からは、ただならぬ雰囲気を感じる。
「警戒しないで、ルカ。私はあなたたちの味方よ」
リリスの口調は子供らしいものと大人びたものが混在していて、不思議な印象を与える。まるで長い年月を生きてきた存在が、子供の姿を借りて話しているかのようだった。
「でも、ちょっと心配になったの。あなたたち、本当に大丈夫?」
「何がですか?」
玲奈が不安そうに聞くと、リリスの表情が少し真剣になった。
「あなたたち、もう演技じゃないでしょ?」
リリスの鋭い指摘に、玲奈とルカは言葉を失った。まるで心の奥底を見透かされたような感覚だった。
「最初は代役のつもりだったかもしれないけれど、今はもう本物の恋をしてる。違う?」
玲奈は何も答えられなかった。リリスの言う通りだったからだ。確かに最初は使命として始まった関係だったが、今では心の底からルカを愛している。
「それは...」
ルカも困惑している。自分でも気づかないうちに、代役を超えた感情を抱いていることを指摘されて動揺していた。
「別に悪いことじゃないのよ」
リリスは無邪気に笑った。
「むしろ、とても美しいことだと思うわ。本物の愛ほど美しいものはないもの。でも、問題もあるのよね」
「問題?」
玲奈の声に不安が混じった。
「代役を超えて本物の恋をするということは、運命も変わってしまうということ」
リリスの表情が少し真剣になった。
「最初の計画通りにはいかないかもしれないのよ。予定されていた未来とは違う道を歩むことになるかもしれない」
「どういう意味ですか?」
玲奈が不安そうに聞いた。
「それは、あなたたちが自分で見つけていくことよ」
リリスは再び子供らしい笑顔に戻った。
「でも、愛があれば何とかなるものよ。きっと。愛は時として、運命さえも変える力を持っているから」
「あの、リリスさんは一体...」
玲奈が聞きかけると、リリスは手をひらひらと振った。
「ただの通りすがりよ」
「通りすがり?」
「時々、面白そうなことが起こっていないかチェックしに来るの」
「面白そうなこと?」
「恋愛よ。特に、運命を変えてしまうような大きな恋愛」
リリスの目がきらりと光った。
「あなたたちの恋は、とても興味深いのよ。神の分身と記憶を継承した少女の恋。しかも、代役から始まって本物になった恋。こんなドラマチックな話、滅多にないわ」
「神の分身...」
ルカの表情が変わった。
「君は僕の正体を知っているのか?」
「知ってるけど、教えてあげない」
リリスがいたずらっぽく微笑んだ。
「自分で気づかなきゃ意味がないもの」
その時、パン生地の様子を見ていたルカが声を上げた。
「生地が発酵しすぎています」
「あ、大変!」
玲奈は慌てて生地のところに戻った。確かに、話に夢中になっている間に生地が膨らみすぎてしまっている。
「どうしましょう」
「大丈夫よ」
リリスが軽やかに近づいてきた。
「ちょっと手伝ってあげる」
リリスが生地に手を触れると、不思議なことに生地が適度な大きさに戻った。まるで魔法のようだった。
「え?今の...」
玲奈が驚いて聞くと、リリスはいたずらっぽく微笑んだ。
「気のせいよ」
「でも、確かに...」
「それより、オーブンの準備をしましょう」
リリスが話題を変えた。
三人でパンをオーブンに入れると、リリスは玲奈とルカの様子を観察するように見つめた。
「ねえ、あなたたち」
「はい」
「お互いのことを、どう思ってるの?」
突然の質問に、二人は戸惑った。
「それは...」
玲奈が答えに困っていると、リリスは続けた。
「正直に言ってみて。もう隠すことはないでしょう?」
その言葉に背中を押されて、ルカが意を決したように口を開いた。
「僕は...」
「僕は玲奈を愛しています。代役としてではなく、ルカとして玲奈を愛しています」
「私も」
玲奈も勇気を出して答えた。
「ルカさんを愛しています。これは私自身の気持ちです。エルシアさんの記憶ではなく、玲奈としての愛です」
「素晴らしい」
リリスが拍手した。
「とても美しい愛ね。純粋で真っ直ぐで、見ているだけで心が温かくなるわ。でも...」
「でも?」
玲奈が不安そうに聞いた。
「あなたが愛している人は、本当にあなたが思っている人?」
リリスがルカを見つめながら言った。
「どういう意味ですか?」
玲奈の声に動揺が混じった。
「ルカの正体について、まだ知らないことがあるんじゃない?」
「正体...」
玲奈は昨日読んだ創世記のことを思い出した。神の分身の話。もしかして、ルカが本当に...
「まさか、ルカさんが...」
「それは彼が自分で気づくべきことよ」
リリスは謎めいた微笑みを浮かべた。
「でも、ヒントをあげる。夢を見ない?変な夢を」
ルカの表情が変わった。
「君は...一体何者なんですか?」
「言ったでしょ?ただの通りすがりよ」
リリスは肩をすくめた。
「でも、あなたたちの幸せを願ってるのは本当よ。だからこそ、忠告してるの」
その時、オーブンからいい匂いが漂ってきた。
「パンが焼けたみたい」
玲奈が嬉しそうに言った。
「一緒に見ましょう」
三人でオーブンを開けると、そこには美しく焼き上がったパンがあった。金色に輝く表面は完璧で、とても初心者が作ったとは思えない出来栄えだった。
「すごい!とても美味しそう」
「君のおかげです」
ルカが玲奈に微笑みかけた。
「いえ、あなたがいてくれたからです」
「そして私のちょっとした魔法もね」
リリスが小さくつぶやいた。
「魔法?」
玲奈が聞き返すと、リリスは何でもないという風に手を振った。
「何でもないわ」
焼きたてのパンを切って、三人で味見をした。
「美味しい」
玲奈が感動の声を上げた。外はカリッとしていて、中はふわふわ。ほんのり甘い香りが口の中に広がって、とても幸せな気持ちになる。
「本当に美味しいですね」
ルカも同感だった。
「愛情がたっぷり込められてるから」
リリスが満足そうに頷いた。
「二人で作ったものは、やっぱり特別ね」
パンを食べながら、リリスは再び口を開いた。
「ねえ、あなたたちに忠告があるの」
「忠告?」
「これから、いろいろなことが起こるわ。辛いことも、悲しいことも。試練と呼べるようなことが次々と」
リリスの表情が真剣になった。
「でも、どんなことが起こっても、お互いを信じることを忘れないで」
「はい」
玲奈が頷いた。
「それが、あなたたちの愛を守る唯一の方法よ」
「なぜそんなことを?」
ルカが聞くと、リリスは少し悲しそうな表情を見せた。
「私は、たくさんの恋を見てきたの。美しい恋も、悲しい恋も」
「たくさんの恋を?」
「時代を超えて、世界を超えて。愛の物語は無数にあるけれど、その多くは悲劇で終わってしまう」
リリスの声に深い感情が込められていた。
「あなたたちの恋は特別よ。でも、だからこそ試練も大きいの」
リリスは立ち上がった。
「もう行かなくちゃ。でも、また会うわ」
「もう行ってしまうんですか?」
玲奈が寂しそうに聞いた。
「心配しないで。必要な時には現れるから」
リリスは扉に向かいながら振り返った。
「それと、今夜は月がとてもきれいよ。二人で見てみて」
「月?」
「きっと、大切なことを思い出すから」
そう言い残して、リリスは厨房から出て行った。まるで風のように、音もなく消えていった。
「不思議な子でしたね」
玲奈がつぶやいた。
「ただの子供ではありませんね」
ルカも同感だった。
「でも、悪い人ではなさそうです」
「ええ。むしろ、僕たちのことを心配してくれているような気がします」
二人は残ったパンを片付けながら、リリスの言葉について考えていた。特に、「あなたが愛している人は、本当にあなたが思っている人?」という言葉が心に引っかかっている。
「ルカさん」
「はい」
「リリスさんの言葉、気になりませんか?」
「気になります。でも、僕にもよく分からないんです」
ルカは困ったような表情を見せた。
「最近、確かに変な夢を見るんです」
「どんな夢ですか?」
「光に包まれた人が現れて、何かを話しかけてくるんです。でも、目が覚めると内容を思い出せない」
玲奈は不安になった。それは神様の記憶が蘇っているサインかもしれない。
「もしかして...」
「分からない。でも、一つだけ確実に言えることがあります」
「何ですか?」
「君を愛している気持ちに嘘はありません」
ルカの真剣な表情に、玲奈の不安は少し和らいだ。
「私も同じです」
二人は手を握り合った。
その夜、リリスの言葉通り、月は美しく輝いていた。玲奈とルカは神殿の屋上で、その月を見上げていた。
「本当にきれいですね」
「はい。でも、なぜか少し切ない気持ちになります」
ルカの表情には、深い感情が宿っていた。
「何かを思い出しそうで、でも思い出せない。そんな感じです」
玲奈はルカの手を握った。リリスの忠告を思い出す。どんなことが起こっても、お互いを信じることを忘れてはいけない。
「大丈夫です。私がずっと一緒にいます」
「ありがとう」
二人は月を見つめながら、静かに寄り添っていた。美しい月夜の下で、新たな謎と出会い、そして愛を確認した一日が終わろうとしていた。
でも、リリスの言葉が示す通り、二人の前にはまだ多くの試練が待っているのだった。
朝の光が大きな窓から差し込んで、厨房全体を暖かく照らしていた。空気には微かにハーブの香りが漂っていて、とても心地よい空間だった。
「何から始めましょうか?」
玲奈が張り切って聞くと、ルカは少し困ったような表情を見せた。
「実は、僕は料理をしたことがほとんどないんです」
「大丈夫です。私も得意ではありませんから、一緒に覚えましょう」
玲奈の明るい声に、ルカの表情も和らいだ。
二人は手を洗って、エプロンをつけた。玲奈の白いエプロン姿を見て、ルカは思わず見とれてしまう。いつもの上品なドレスとは違って、エプロン姿の玲奈にはより親しみやすい魅力があった。
「どうかしましたか?」
玲奈が首をかしげて聞く。
「いえ...とても似合っています」
ルカの素直な感想に、玲奈は頬を赤らめた。
「ありがとうございます。ルカさんもとても素敵です」
確かに、白いエプロンをつけたルカの姿は新鮮で、いつもの神秘的な雰囲気とは違った親しみやすさがあった。まるで普通の青年のように見えて、玲奈の心はさらにときめいた。
「では、まず材料を集めましょう」
玲奈がエルシアの記憶を頼りに、パンを作るための材料を集め始めた。小麦粉、卵、バター、砂糖、塩、そして発酵のためのイースト。一つ一つ確認しながら、ルカも手伝ってくれる。
「この小麦粉、とても良い香りがしますね」
ルカが袋の匂いを嗅いで感想を述べる。地球の小麦粉とは確かに違って、より豊かで甘い香りがした。
「エテルナ世界の小麦は特別なんです」
玲奈がエルシアの記憶を通じて説明する。
「愛によって育てられた小麦は、普通の小麦よりもずっと美味しいパンになるんです」
「愛によって育てられた...」
ルカは感慨深そうに呟いた。
「この世界のすべてが、愛と繋がっているんですね」
「はい。だからこそ、とても美しい世界なんです」
材料を大きなボウルに入れて混ぜ始めると、二人の手が時々触れ合う。そのたびにお互いドキッとして、頬を赤らめてしまう。まるで新婚夫婦のような初々しさがあった。
「あ、すみません」
玲奈が慌てて手を引っ込める。
「いえ、こちらこそ」
ルカも恥ずかしそうに答える。
そんなやり取りを繰り返しながら、少しずつパン生地が出来上がっていく。最初はぎこちなかった二人の動きも、だんだんと息が合ってきた。
「次は生地をこねるんですよね」
玲奈が記憶を頼りに作業を進めようとするが、思うようにいかない。生地が手にくっついてしまって、うまく形にならない。
「うまくいきませんね」
玲奈が困っていると、ルカが優しく微笑んだ。
「僕がやってみましょう」
ルカが玲奈の後ろに立って、彼女の手に自分の手を重ねた。
「こんな感じでしょうか」
二人の手が重なって生地をこねる。ルカの温かい体温が背中に伝わって、玲奈の心臓が早鐘を打つ。彼の息が首筋にかかって、頬がさらに赤くなってしまう。
「上手ですね」
玲奈の声は少し震えていた。
「君がいてくれるからです」
ルカの声が耳元で響いて、玲奈はさらにドキドキしてしまう。
生地を一緒にこねていると、だんだんと滑らかになってきた。最初は固かった生地が、二人の手によってふわふわの弾力のある生地に変わっていく。
「きれいになりましたね」
「はい。一緒にやると、こんなにうまくいくんですね」
そんな甘い雰囲気の中、突然厨房の扉が開いた。
「あら、面白いことをしているのね」
振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。外見は12歳程度だが、その瞳には年齢に似つかわしくない深い知恵が宿っている。金髪に紫の瞳という珍しい組み合わせで、小柄で可愛らしい外見をしているが、どこか普通ではない雰囲気を纏っていた。
服装も独特で、古風なドレスのようでいて現代的な要素も混じっている。まるで時代を超越した存在のような印象を与える。
「あの、どちら様ですか?」
玲奈が驚いて聞くと、少女はにっこりと微笑んだ。その笑顔は無邪気でありながら、どこか計算されたような雰囲気もあった。
「私はリリス。よろしくね、玲奈」
「私の名前をご存知なんですか?」
「もちろんよ。あなたのことはよく知ってるわ」
リリスは厨房の中を興味深そうに見回した。その動きは子供らしく軽やかだが、観察眼は鋭く、まるで何かを探っているかのようだった。
「パン作りなんて、微笑ましいじゃない。まるで新婚さんみたい」
「新婚って...」
玲奈は真っ赤になった。確かに、さっきまでの二人の様子は新婚夫婦そのものだった。
「あなたは何者ですか?」
ルカが警戒するような声で聞いた。この少女からは、ただならぬ雰囲気を感じる。
「警戒しないで、ルカ。私はあなたたちの味方よ」
リリスの口調は子供らしいものと大人びたものが混在していて、不思議な印象を与える。まるで長い年月を生きてきた存在が、子供の姿を借りて話しているかのようだった。
「でも、ちょっと心配になったの。あなたたち、本当に大丈夫?」
「何がですか?」
玲奈が不安そうに聞くと、リリスの表情が少し真剣になった。
「あなたたち、もう演技じゃないでしょ?」
リリスの鋭い指摘に、玲奈とルカは言葉を失った。まるで心の奥底を見透かされたような感覚だった。
「最初は代役のつもりだったかもしれないけれど、今はもう本物の恋をしてる。違う?」
玲奈は何も答えられなかった。リリスの言う通りだったからだ。確かに最初は使命として始まった関係だったが、今では心の底からルカを愛している。
「それは...」
ルカも困惑している。自分でも気づかないうちに、代役を超えた感情を抱いていることを指摘されて動揺していた。
「別に悪いことじゃないのよ」
リリスは無邪気に笑った。
「むしろ、とても美しいことだと思うわ。本物の愛ほど美しいものはないもの。でも、問題もあるのよね」
「問題?」
玲奈の声に不安が混じった。
「代役を超えて本物の恋をするということは、運命も変わってしまうということ」
リリスの表情が少し真剣になった。
「最初の計画通りにはいかないかもしれないのよ。予定されていた未来とは違う道を歩むことになるかもしれない」
「どういう意味ですか?」
玲奈が不安そうに聞いた。
「それは、あなたたちが自分で見つけていくことよ」
リリスは再び子供らしい笑顔に戻った。
「でも、愛があれば何とかなるものよ。きっと。愛は時として、運命さえも変える力を持っているから」
「あの、リリスさんは一体...」
玲奈が聞きかけると、リリスは手をひらひらと振った。
「ただの通りすがりよ」
「通りすがり?」
「時々、面白そうなことが起こっていないかチェックしに来るの」
「面白そうなこと?」
「恋愛よ。特に、運命を変えてしまうような大きな恋愛」
リリスの目がきらりと光った。
「あなたたちの恋は、とても興味深いのよ。神の分身と記憶を継承した少女の恋。しかも、代役から始まって本物になった恋。こんなドラマチックな話、滅多にないわ」
「神の分身...」
ルカの表情が変わった。
「君は僕の正体を知っているのか?」
「知ってるけど、教えてあげない」
リリスがいたずらっぽく微笑んだ。
「自分で気づかなきゃ意味がないもの」
その時、パン生地の様子を見ていたルカが声を上げた。
「生地が発酵しすぎています」
「あ、大変!」
玲奈は慌てて生地のところに戻った。確かに、話に夢中になっている間に生地が膨らみすぎてしまっている。
「どうしましょう」
「大丈夫よ」
リリスが軽やかに近づいてきた。
「ちょっと手伝ってあげる」
リリスが生地に手を触れると、不思議なことに生地が適度な大きさに戻った。まるで魔法のようだった。
「え?今の...」
玲奈が驚いて聞くと、リリスはいたずらっぽく微笑んだ。
「気のせいよ」
「でも、確かに...」
「それより、オーブンの準備をしましょう」
リリスが話題を変えた。
三人でパンをオーブンに入れると、リリスは玲奈とルカの様子を観察するように見つめた。
「ねえ、あなたたち」
「はい」
「お互いのことを、どう思ってるの?」
突然の質問に、二人は戸惑った。
「それは...」
玲奈が答えに困っていると、リリスは続けた。
「正直に言ってみて。もう隠すことはないでしょう?」
その言葉に背中を押されて、ルカが意を決したように口を開いた。
「僕は...」
「僕は玲奈を愛しています。代役としてではなく、ルカとして玲奈を愛しています」
「私も」
玲奈も勇気を出して答えた。
「ルカさんを愛しています。これは私自身の気持ちです。エルシアさんの記憶ではなく、玲奈としての愛です」
「素晴らしい」
リリスが拍手した。
「とても美しい愛ね。純粋で真っ直ぐで、見ているだけで心が温かくなるわ。でも...」
「でも?」
玲奈が不安そうに聞いた。
「あなたが愛している人は、本当にあなたが思っている人?」
リリスがルカを見つめながら言った。
「どういう意味ですか?」
玲奈の声に動揺が混じった。
「ルカの正体について、まだ知らないことがあるんじゃない?」
「正体...」
玲奈は昨日読んだ創世記のことを思い出した。神の分身の話。もしかして、ルカが本当に...
「まさか、ルカさんが...」
「それは彼が自分で気づくべきことよ」
リリスは謎めいた微笑みを浮かべた。
「でも、ヒントをあげる。夢を見ない?変な夢を」
ルカの表情が変わった。
「君は...一体何者なんですか?」
「言ったでしょ?ただの通りすがりよ」
リリスは肩をすくめた。
「でも、あなたたちの幸せを願ってるのは本当よ。だからこそ、忠告してるの」
その時、オーブンからいい匂いが漂ってきた。
「パンが焼けたみたい」
玲奈が嬉しそうに言った。
「一緒に見ましょう」
三人でオーブンを開けると、そこには美しく焼き上がったパンがあった。金色に輝く表面は完璧で、とても初心者が作ったとは思えない出来栄えだった。
「すごい!とても美味しそう」
「君のおかげです」
ルカが玲奈に微笑みかけた。
「いえ、あなたがいてくれたからです」
「そして私のちょっとした魔法もね」
リリスが小さくつぶやいた。
「魔法?」
玲奈が聞き返すと、リリスは何でもないという風に手を振った。
「何でもないわ」
焼きたてのパンを切って、三人で味見をした。
「美味しい」
玲奈が感動の声を上げた。外はカリッとしていて、中はふわふわ。ほんのり甘い香りが口の中に広がって、とても幸せな気持ちになる。
「本当に美味しいですね」
ルカも同感だった。
「愛情がたっぷり込められてるから」
リリスが満足そうに頷いた。
「二人で作ったものは、やっぱり特別ね」
パンを食べながら、リリスは再び口を開いた。
「ねえ、あなたたちに忠告があるの」
「忠告?」
「これから、いろいろなことが起こるわ。辛いことも、悲しいことも。試練と呼べるようなことが次々と」
リリスの表情が真剣になった。
「でも、どんなことが起こっても、お互いを信じることを忘れないで」
「はい」
玲奈が頷いた。
「それが、あなたたちの愛を守る唯一の方法よ」
「なぜそんなことを?」
ルカが聞くと、リリスは少し悲しそうな表情を見せた。
「私は、たくさんの恋を見てきたの。美しい恋も、悲しい恋も」
「たくさんの恋を?」
「時代を超えて、世界を超えて。愛の物語は無数にあるけれど、その多くは悲劇で終わってしまう」
リリスの声に深い感情が込められていた。
「あなたたちの恋は特別よ。でも、だからこそ試練も大きいの」
リリスは立ち上がった。
「もう行かなくちゃ。でも、また会うわ」
「もう行ってしまうんですか?」
玲奈が寂しそうに聞いた。
「心配しないで。必要な時には現れるから」
リリスは扉に向かいながら振り返った。
「それと、今夜は月がとてもきれいよ。二人で見てみて」
「月?」
「きっと、大切なことを思い出すから」
そう言い残して、リリスは厨房から出て行った。まるで風のように、音もなく消えていった。
「不思議な子でしたね」
玲奈がつぶやいた。
「ただの子供ではありませんね」
ルカも同感だった。
「でも、悪い人ではなさそうです」
「ええ。むしろ、僕たちのことを心配してくれているような気がします」
二人は残ったパンを片付けながら、リリスの言葉について考えていた。特に、「あなたが愛している人は、本当にあなたが思っている人?」という言葉が心に引っかかっている。
「ルカさん」
「はい」
「リリスさんの言葉、気になりませんか?」
「気になります。でも、僕にもよく分からないんです」
ルカは困ったような表情を見せた。
「最近、確かに変な夢を見るんです」
「どんな夢ですか?」
「光に包まれた人が現れて、何かを話しかけてくるんです。でも、目が覚めると内容を思い出せない」
玲奈は不安になった。それは神様の記憶が蘇っているサインかもしれない。
「もしかして...」
「分からない。でも、一つだけ確実に言えることがあります」
「何ですか?」
「君を愛している気持ちに嘘はありません」
ルカの真剣な表情に、玲奈の不安は少し和らいだ。
「私も同じです」
二人は手を握り合った。
その夜、リリスの言葉通り、月は美しく輝いていた。玲奈とルカは神殿の屋上で、その月を見上げていた。
「本当にきれいですね」
「はい。でも、なぜか少し切ない気持ちになります」
ルカの表情には、深い感情が宿っていた。
「何かを思い出しそうで、でも思い出せない。そんな感じです」
玲奈はルカの手を握った。リリスの忠告を思い出す。どんなことが起こっても、お互いを信じることを忘れてはいけない。
「大丈夫です。私がずっと一緒にいます」
「ありがとう」
二人は月を見つめながら、静かに寄り添っていた。美しい月夜の下で、新たな謎と出会い、そして愛を確認した一日が終わろうとしていた。
でも、リリスの言葉が示す通り、二人の前にはまだ多くの試練が待っているのだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
悪役令嬢のビフォーアフター
すけさん
恋愛
婚約者に断罪され修道院に行く途中に山賊に襲われた悪役令嬢だが、何故か死ぬことはなく、気がつくと断罪から3年前の自分に逆行していた。
腹黒ヒロインと戦う逆行の転生悪役令嬢カナ!
とりあえずダイエットしなきゃ!
そんな中、
あれ?婚約者も何か昔と態度が違う気がするんだけど・・・
そんな私に新たに出会いが!!
婚約者さん何気に嫉妬してない?
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
【完結】メルティは諦めない~立派なレディになったなら
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
レドゼンツ伯爵家の次女メルティは、水面に映る未来を見る(予言)事ができた。ある日、父親が事故に遭う事を知りそれを止めた事によって、聖女となり第二王子と婚約する事になるが、なぜか姉であるクラリサがそれらを手にする事に――。51話で完結です。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる