華闘記  ー かとうき ー

早川隆

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第十四章  乱舞

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ひととおり話し終わると、はふり弥三郎重正しげまさはふうと息をつき、その場で背筋をすっと伸ばして座り直した。そして、目の前に置かれた茶碗を手にとり、中を覗きながら掌のなかで二度三度と転がした。碗底に残っていた濃緑色の濁った液体と黒い茶葉のかすが渾然と、彎曲わんきょくした陶器の素地をあちこち転がり落ちるさまを、うっとりと眺めた。

又助も秀吉も、濃霧のなかをやっと抜け出した旅人のようにほっとして、深いため息をついた。三人ともしばらく口をきかず、座敷の外を流れる秋の風が、草木をかさこそ鳴らすのを聞いていた。秀吉の背後に控えていた佐吉が、才槌頭をかしげてなにごとか合図すると、ほどなく襖が空いて楚々とした足音がし、年若い小姓が急須を捧げて進み出た。彼は三者の碗を順番に満たしてから、天下人のほうへ丁寧に一礼し、去った。

「やっとこさ、尾張が統一されたようじゃの。弥三郎さん、あんたのお蔭じゃ。」
秀吉が言った。
弥三郎がにっこりと笑い、なにかを言いかけたが、又助が割り込んだ。
「最後だけは血を見ないで済んだな。池田と佐々は、賢明だった。」
「うむ。生き残りのためやはり潮目を見たのじゃろう。無理もない。やはり、特に勘十郎様が討たれたことが大きかったの。あれが潮目じゃ。そのあとは総見院様も無理をせず、ご自分を襲撃しに来た美濃一党をお許しになり、池田と佐々への処分も穏便にすることによって、まつろわぬ奴輩やつばらくまなく心服させたのじゃ。」

「統一を急がねばなりませんでした。なにぶん、ときがございませなんだ。」
弥三郎が答えた。
「ほんとうに、辛うじて間に合ったのでございます。尾張国内をまとめ、美濃からの影響を排除し、そして。」
「そして、東方からの脅威に備える。」
秀吉が、ニヤリとしながら引き取った。

「さようでござる。今川・松平とそれにくみする智多ちた沓掛くつかけ周辺の国人、土豪ども。彼らはすでに大高と鳴海の両城を押さえ、さらに軍を西進させてこれら前進拠点に併呑し、我らに公然と挑戦して参りました。」
狭間はざまでの合戦に、あんたは出たのかよ?」
秀吉が、弥三郎に聞いた。弥三郎は、無言のまま黙って首を振った。
「もはや、拙者の出る幕ではござらなんだ。尾張の統一は成り、有力な敵対勢力を、その内側から掘り崩して無力化するという拙者の役割は終わりました。外向きの戦は、(柴田)権六殿や(丹羽)五郎左ごろうざ殿、(佐久間)右衛門尉うえもんのじょう殿ら、配下に勇士をあまた抱える将らの受け持ち。」

弥三郎はやや寂しそうにそう言うと、又助のほうを見た。
「又助さん。あんたはたしか、あの合戦にも出られたはず。」
又助は、少し苦々しげに頷くと、言った。
「たしかに、出た。出はしたが、大した働きはしとらんよ。一軍の先頭を駆けようと思い清洲の城に詰めておったが、弓を抱えてうつらうつらと居眠りしとるうち、総見院様はすでに城を出て、ごく数名とともに駆けていってしまわれたと聞いた。慌てて追いかけたがよ。あとの祭りじゃ。先頭どころか、戦が始まるときにはケツの方じゃい。そのあとワーワー叫んで泥田のなかを逃げ惑う敵の残兵追い回し、雑兵首の二つ三つは獲ったがの。もちろん、なんの手柄にもならずじゃ。くそっ、今から思い出しても腹が立つ!」



「居眠りさえしてなきゃあ、今頃はあんたが筑前守だったかもしれんの!」
秀吉が快活に言い、笑った。
「しかし、まずは生きててなによりじゃて。あんたもその後、丹羽家の与力になり、今日まで息災に過ごしてきた。下手に大手柄立てるとよ、その後もずっとびくびくして、誰かに寝首を掻かれぬよう一刻たりとも気を抜かずに生きていく羽目になる・・・ちょうど、今の儂のようによ。」
天下人はそう言い、おどけながら首をすくめて見せた。まるで、大きな猿がなにか、巨大な誰かに躾けられた芸を演じているようだった。

弥三郎も、笑いながらこう旧友を慰めた。
「さようでござる。その時、突如駆け出した総見院様に遅れずいて行った、勇敢な小姓どもが五名おりました。彼らがその後どうなったか、ご存知でしょう?何事も目立たず、程好いくらいにしておくのが一番でござるよ。」
又助は渋面を作ったまま、いとも苦々しげに先ほど注がれた茶をすすった。

うしろで、才槌頭が軽くこほんと咳をした。秀吉はハッと気づき、彼のほうを振り返った。
「おっ、と。つい時を過ごし過ぎた。弥三郎さんの話が面白すぎての。いや、はや、なんという話じゃ。」
そう言うと慌しげに立ち上がり、手にした扇で尻を払った。
「わしゃあ、これから別のつとめがあるでよ。だが、弥三郎さん。それから又助さん。あんたたちとは、まだまだ昔語りがしたいんじゃ。どうじゃろ、今夜ひと晩この城に泊まり、明日また続きを聞かせてくれんじゃろうか?」

弥三郎と又助は、互いに顔を見合わせた。たしかに、襖の合わせ目からこぼれてくる光はやや鈍色を増し、もはやそれが夕照の荊棘いばらの先端であることを示している。ほどなく黄昏刻がやってくるであろう。
「いくら警固をつけてもよ、とにかくここは戦さ場のうちじゃて。夜だと、いってえ道中、何が起こるかわからぬ。あしたは早ようから話せば、まだ明るい安全なうちに送り届けることもできるて。な、是非、ご両人とも。そうしませい。そうしませい。」

「では、お言葉に甘えて。」
弥三郎が言うと、又助も頷いて、答えた。
「実は、帰りは夜をまたぐかもしれぬと予め言い置いてある。差し支えはござらぬ。」
「そうか、そうか!それは誠に結構なことじゃ。夕餉ゆうげは佐吉に用意させるで。明日も楽しみじゃのう。弥三郎さんから、いったい、次はどんな話が飛び出してくるか。」

「先に申した通り、拙者、尾張一統の大役を果たしあとは、特に大きな働き、しておりませぬ。これからあとは、ひどく退屈な話になりかねませぬが。」
弥三郎が苦笑しながら言ったが、秀吉はそれを鼻でわらった。
「ふっ、今さら、誰がそんな戯言ざれごと信じるかよ!実は、あんたが常に総見院様の影にいて、何事か重要な役を果たしておったことは、うすうす勘づいてはいたんだがよ。弥三郎さん、あんた、儂が思うていたより、はるかとんでもない・・・・・・人じゃった!明日は、そのあたり全部教えてもらうぜえ、覚悟せい。」

そうおどけて言うと、佐吉に促されるまま急ぎ座敷を出ていこうとした。だが、弥三郎は、ふと気づいたように手でその動きを制し、天下人の歩みを妨げた。
「おっ、と。大切なことを忘れておりました。このこと・・・このことだけは、本日の話の最後にぜひと申し上げておかなければ。いましばし、ほんのいましばらくの間だけ、拙者の昔語りにお付き合い願えませぬか。」



立ち去ろうとした秀吉は不審な表情を浮かべたが、やがて頷くと、黙って座りなおした。
「そうか。そりゃ、無論のことじゃ。そんなに大切な話と、弥三郎さんが言うなら。」
「有り難きしあわせ。又助さんも、よう聞いといてもらいたい。」
「うむ。もちろんじゃ。」

二人が腰を下ろすのを見届けると弥三郎は、
「踊りのことでござる。」
唐突にそう言った。
「尾張の統一がその終盤に差し掛かった夏のある日、総見院様が、津島天王に踊りを奉納すると、そう仰られました。」
「踊り?」
秀吉がいぶかしげに聞いた。

「さよう。津島天王の夏の祭礼も終わり、町に立った露店なども残らず畳まれて、ようやくあたりが閑散とした頃合いに、誠に唐突なことでございました。」
「うむ。たしかに奇妙なことじゃの。」
「我らも首をひねりましたが、もちろん、それにははっきりとした目的がございました。津島衆への、示威と威圧でございます。」

「津島衆じゃと?」
秀吉と又助は同時に声を上げた。そして、顔を見合わせた。
「津島は、総見院様、いや織田弾正忠だんじょうのちゅう家のまさにおひざ元ではないか!いわば身内のようなもの。それを威圧するとは、いったい如何したことかい。」
又助が、弥三郎へ目を戻して聞いた。当時まだ秀吉は軽輩で、そのときの事情はよくわからない。しかしすでに士分だった又助は知っていた。津島衆の支持と連帯が、当時の織田上総介信長にとって、どれほど大切なものであったか。その津島衆に向かって、さきの裏切者、池田や佐々に対してと同様に、こともあろうに威圧とは。

複雑な思いの塗り込められた又助の視線を、弥三郎は正面から受け止めた。
「さよう。お察しの通りです。池田や佐々と同様、津島衆の一部にも、よからぬ曲事を画策する向きがございました。」
「誰じゃ、それは?津島衆の大半はただの川商人かわあきんどじゃ。それか祠官しかん (神主)に過ぎぬ。武家など誰もおらぬぞ。」
「しかし、その川商人たちのなかに、国外の武家と通じ、国内の敵対諸勢力を焚きつけ、ひそやかに何かを通謀していた者が居たとすれば?」
弥三郎はニコッと笑い、まるで又助を試すかのように問いかけた。



しばらく黙り、横から彼を見つめる天下人の視線をも無視して考え込んだ又助であったが、やがて悟り、うなるように名を絞り出した。
道空どうくう殿か・・・堀田ほったの。」
ここで秀吉が口を挟んだ。
「その名はもちろん、儂も知っとるでよ!堀田は、いまも続く名家ではないか。まさに津島衆の中心じゃ。それにたしか・・・。」
「さよう。ただの川商人ではなく、有力な武具調達の担い手でもございました。そして彼は、長良川を下り来る材木その他の商荷を介して美濃とつながり、総見院様と、亡き御正室の歸蝶きちょう様とを結びつけた男でもございます。」

「そうか。あの蝮の道三の娘を、総見院様に嫁がせたのだったのう。確か、正徳寺で道三と総見院様が会盟した際にも、両家のあいだをつないで大いに活躍したとか。日々の商いの重要な相手じゃ。道三亡きあと、その道三を弑した息子と繋がるのも、商いの利を保つためには必要なことじゃろうて。」
「まさにその通りでござる。堀田道空殿は、おそらくは美濃の意を受け弾正忠家の監視の目をかすめ敵対勢力にも密かに武具を売りつけており、尾張が不穏であればあるほど儲かるお立場でございました。同時に、津島天王社の祠官職の連枝れんしであり、押しも押されもせぬ津島衆のまとめ役でもございました。目と鼻の先に在った勝幡しょばた城の織田弾正忠家を担ぎ、首尾よくこれを使って尾張の統一を成し遂げましたが、同時に、この期に及んでもなお美濃斎藤家と無視し得ぬ濃密な繋がりを保ち続けていたのです。」
「その繋がりを断ち切っておかねば、また、いつ、何がどうなるか・・・。」

「わかったものではござらぬ。」
弥三郎はその言葉を一気に引き取った。
「このこと拙者はあずかり知らず、全く総見院様お一人の発案でございました。しかし、誠に結構な策でございました。まさに、これこそが最後の総仕上げ。我ら、総見院様のおそば近くに控えおりし者共、皆々勇んで戦支度に取り掛かったのでございます。」



矢弾やだまを使わぬ、最後の戦じゃな?」
秀吉が、ニヤニヤとしながら言った。
「さてさてどのような戦支度であったのか。さぞや見ものだったであろう。」

「拙者は、さぎになり申した。」
弥三郎は言った。
「む、鷺じゃと?あの、川で虫や小魚をついばむ鷺のことか?」
又助が聞き返すと、弥三郎は頷き、こう補足した。
「白鷺になり申した。全身、白衣に身を包み、足には萌黄色の脚絆を巻きつけ、頭には高くんがった首と長いくちばし張子はりこを被り、首の後ろには防暑のため同じく真白な垂布たれぬので覆い、まさに鷺そのものの扮装をしたのでござる。」
「張子を被ったのか?前が見えぬではないか。」
「無論、目にあたる箇所には穴を開けており申す。なにしろ戦支度です。敵が見えずば、戦になりませぬ。」

「他にも衆が居ったのだな?」
「いかにも。平手内膳殿はみずから赤鬼になられました。浅井備中守の御家来衆で踊りに秀でた者が黒鬼に。餓鬼には滝川家の御家来が、そして地蔵には織田藤左衛門とうざえもん家の御家来衆が扮し、前野将右衛門殿、伊東夫兵衛殿は弁慶となられ、また同じく弁慶の扮装で美濃生まれの市橋伝左衛門殿も加わられました。これは、もちろん美濃方との通謀がほぼ露見していることを示すための、敢えての人選でございます。その他、飯尾定宗殿も弁慶になられましたな。定宗殿は、その後まもなく鷲津の砦でお討死なされました。いかにも口惜しいことでございます。」

「こと細かに、よう覚えておるのう。もう今より二十年以上も昔のことであろうに?しかも、戦のようなものとはいえ・・・ただの踊りじゃ。」
秀吉はそう、敢えて挑発するように言った。が、弥三郎はただ苦笑してこう返した。
「ただの踊りでございます。されど、それはまさに最後の戦でございました。そして、誠に楽しい思い出でもござった。あの血塗られた尾張統一戦の終盤、まるで針の山の上をそろりそろりと渉るような長く厳しく辛い時の終わり、我らはただ弾けるように笑いさざめき、そして乱舞し、皆でただ、まっしぐらに敵のほうへと向かって進んだのです。」

言いながら弥三郎は、くっく、と笑った。いかにも愉快でたまらないといった風に。笑い止まず、なかなか次の句が継げない。しばらくして、やっと続けた。
「我らはまず、なんの先触もなく津島の社の前に集まり、舞を奉納いたしました。なに、神前に捧げる厳粛な舞の作法など、誰も大した心得など有りはしませぬ。各人各様に適当に調子を合わせ、勝手な風流ふりゅう踊りなどしておっただけの話でございます。そしてそこから隊伍を組み、鉦や太鼓を打ち鳴らし、笛など吹いて賑々しく大橋を押渡り、天王川の向こう岸へと向かいました。なんの騒ぎかと、ぞろぞろと沢山の町衆がついてきて、やがて我ら同様に笑いさざめき、無茶苦茶に舞い始めました。まさに乱舞です。向こう岸に豪壮な邸宅を構える津島七人衆どもは、さぞびっくり仰天したに違いありませぬ。それはまさに戦、多くの一揆衆を従えた、賑々しき、まさに織田上総介による一大奇襲であったのです。」



「総見院様は、派手好みじゃ。それに、突拍子もない思いつきをすぐと実行なされる。」
秀吉が、感極まったように言った。
「この十数年、儂はつねにそれに泣かされ、小突き回されて来た。それは、いかにも総見院様らしい戦の仕方じゃ。して、堀田道空は、いったいどんな顔をしとったんじゃい?」

「目を真丸に。」
弥三郎は、大笑いしながら答えた。
「転がるように邸宅から出てきて、真丸な目で、天女のお姿に扮した総見院様の前に跪きました。そして何事か言いかけましたが、総見院様は構わず、そのまま隊列ごとずい、と堀田邸に乗り込み、宏大な庭園を踊りながらグルグルと廻り、おろおろする道空殿の頬を扇で軽くひと叩きしてから、帰路につきました。」

「引っ叩いたのか。」
又助が苦笑しながら言った。
「さよう。まるで、悪戯をした童を大人が嗜めるかのように、まだ年若い総見院様が初老の道空殿をひと叩きしました。そしてすかさず拙者が、宙に向け鷺の鳴き真似を致しました。」
「どのように?」
「ただ、ぎゃあ、と。それはまるで、叩かれた道空殿が悲鳴を上げたようにも聞こえました。我らのあとについて邸内に入り込んできたたくさんの町衆が大笑いし、一斉に泣き真似を始めました。拙者はただ、調子を合わせて鷺の鳴き真似をしただけにも関わらず、町衆がよってたかって道空殿を、ただの間の抜けた戯気たわけ者にしてしまったのです。」

「愉快な奇襲だの。一滴の血も流れず、ただ決着がついてしまったわけか。」
「みなの愉快で楽しげな笑い声とともに。道空殿にはいささか気の毒なことでしたが、奇襲は大成功。その後ほどなくして、津島五ヶ村の長老たちが踊りの返礼をしに清洲を訪ねて参り、その先頭には、頭を丸めた道空殿がおられました。」
「なるほど。それにて一件落着と。池田や佐々の処分とおなじじゃ。道空は、おそらく、余裕綽綽よゆうしゃくしゃくの総見院様の威圧に、しんから震え上がった。だから、もう刃向かうことはない。総見院様はそう睨まれたのじゃな。そしてそのご判断は、正しかった。」
「そういうことでございます。その後、いまに至るまで、津島衆で織田家に刃向かった者は居りませぬ。津島はその後も尾張の金城湯池であり続け、ただ総見院様に莫大な冥加みょうがの金を積み上げ、覇業の推進に大いなる力となったのです。」

「それもこれも、珍妙な仮装と、民を巻き込んでの大乱舞による威圧が効いてのこと。なるほど、とても面白く、また奥の深い話だ。下手に槍を向けるより、そうしたほうが遥に効果的なのじゃな。この秀吉、いまだ総見院様より教えられることが多いわい。」
その総見院の一族より容赦なく天下を簒奪さんだつしつつある、新たなる覇王は大きく頷いた。

しかしそのあと、ふと気づいて、大きく首を傾げた。



秀吉は、真剣なおももちで弥三郎に訪ねた。
「しかしその後、織田家は、あちこちで血塗られた大戦や、背筋も凍るような鏖殺おうさつを繰り返すことになろう?幸いにも、この藤吉郎秀吉が関わった戦では、さほど多くの血は流しておらぬ。しかし、かの柴田権六はじめ、惟任十兵衛、惟住五郎左、その他、滝川、佐久間、原田、森。これら綺羅星きらぼしのごとき織田家の諸将が、この日の本じゅうに散らばって、あちこちで為したこと。それらは、総見院様によるその教訓とは、まるで逆さまのことではないか。弥三郎さんよ、それについて、あんたはどう思う?」

弥三郎は寂しそうに笑い、俯いて、やがて顔を上げ秀吉の目を正面から見据えて言った。
「そのこと、明日お話いたしましょう。とくとお話いたしましょう。先ほど、大した話はもうないと申したは、お気づきの通りの偽りでござる。ここに参った時には、話すつもりなどございませなんだが、この際でござる。話すには、拙者にとってとても辛うござるが。しかしきっと・・・きっと、今後の筑前守殿の御為おんためになる話でござる。」

「そうか。それは楽しみじゃのう。」
秀吉は言い、又助のほうを見やった。又助は、悲しげに語る旧友の小さくしおれた背中を、脇から心配そうに見ていた。



「拙者が、筑前殿をお引き止めしてまで、津島の踊りの話をしたのには、それとは別の訳がございました。」
唐突に、弥三郎が言った。
「斯様なことを、話すつもりではなかった・・・さすがは人たらしの羽柴筑前。うまく口車に乗せ、この儂からいろいろと聞き出しおった。不覚をとったのう。見事じゃ。」

口調までが変わった。突如の豹変に、座敷に居た秀吉と又助、そして佐吉までもが青くなっている。別人のように変じた弥三郎は、構わず続けた。
「儂が言いたかったのは、総見院様のことだ。天女に扮した、あのときの織田上総介信長のことだ・・・頭に天冠を戴き、長く垂らした緑髪、軽やかな絹の舞衣まいぎぬ、上になかば透けた羽衣をひらひらとまとい、錦の紐で縛った大口袴を履き、右手には神代のような翳扇かざしおうぎ・・・あのお姿よ!あの神々しさ、美しさよ!地上の浅ましきおぬし等に、儂はただそれだけを伝えたかったのじゃ!」

又助が、一気にほとばしるその口舌をさえぎるようにぴしゃりと言った。
「待て、弥三郎!いくら朋輩とて、その言いざまは無礼であろう!」
佐吉も続けて叫んだ。
「控えられよ!筑前守の御前でござるぞ!」



はっと気がつき、弥三郎はまたもとの穏やかな面持ちに戻った。
「これは・・・また、なんとしたことを。言うているうち熱に浮かされ、目の前が見えなくなってしまう、これは拙者の病でござる。誠にご無礼仕った。筑前守様、なにとぞお許しあれ。また又助殿、ご注意いただき、こころより御礼申し上げる。」

そう言って、深々と腰を折って一礼した。佐吉がこの無礼な小領主の処分を問いたげに主のほうを見たが、秀吉は表情を消し、ただ淡々とこう言って場を収めた。
「病か。ご自愛なされよ。総見院様は、たしかに見目麗しきお人であった。このさるとは、果たしておんなじ人間かと情けなくなるくらいにのう。天女に扮されたのであれば、確かにお美しかったであろう。まるでまなこに浮かぶようじゃ・・・それでは、また明朝にな。今夜は、ゆるりとくつろがれよ。」




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