灯台守

早川隆

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第七章

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ギトの断崖は、なんと昨日、あの人間だか霊だかわからぬランニングシャツ姿の老人と春川が会話を交わした、その真下に落ち込んだ崖のことだった。

ここは轟島とどろきじまの南端に伸びる尾のほぼ先端にあたり、西側は特に奇巌きがんが複雑に錯綜して、昼なお陽の光が当たらぬ陰を数多く作り出している。もちろん、灯台官舎の敷地からここに降るのは物理的に不可能である。遠智おちに教えられた道は、いったん車道の付けられた緩やかな坂を降り、みぎわに近い鞍部あんぶを左折して反対側に廻り込むものだった。

道中、ただでさえゴツゴツした大岩に頻繁に視界を遮られるうえ、鬱蒼とした南国特有の緑の濃い樹木が、さらに別の植物や蔦が蛇のように巻きついた太い幹をあちこちからせり出させており、そこは、道でありながらそれはどこか外部からの出入りを峻拒しゅんきょしようという意思すら感じさせる不気味なところだった。

種類のわからぬ昆虫や羽虫がそこらじゅうをぶんぶんと音を立てて飛び、この世界から見捨てられた難所への珍しい訪問客を迎えた。春川はやがて、道の脇に建てられた粗末なバラックを発見した。それは、渋柿色に塗られた防火壁に囲われており、築70年は優に経っている。

おそらくは第二次世界大戦の前後に建てられたものであろうと、仕事柄、建築史に詳しい春川はあたりを付けた。その木質の劣化の度合いからとても人が住めるような感じはしないが、室外式の旧式洗濯機はつい最近まで使われていた様子だったし、壁に取り付けられている換気扇にはまだ蜘蛛が巣を張っていない。

これはおそらく、灯台の近くに住んでいたという尾口辰造の住処すみかに違いない。電気は引かれていない様子だから、おそらくは自前の発電機を動かして生活していたのであろう。

「こんなところに、わざわざ、なんで?」
春川はそう、ひとりごちた。屋外だが、どこか密閉されたように重苦しい周囲の空気が、その呟きを跳ね返して来るような気がした。

そしてなおしばらく汗にまみれながら歩をすすめ、やがて波音と一緒に、ひょいと岩陰から、黒い水面みなもが波打ちながらその姿を表した。しかし、春川の目は水面を見ていない。彼は、そこで高い岩棚にたたずむ、白装束姿の老婆の姿に釘付けになっていた。



古色蒼然とした装束に、何かわからぬ衣冠をつけ銀髪を垂らした老婆は、どこか放心したようにただ黒い水面をじっと見下ろしている。春川がやって来たことにも気づかぬようだった。そしてその周囲に目をやって、春川はぎょっとした。

一面、細かい四角に分割されたような特徴的な岩柱が、あたりを埋め尽くしていた。ギトの断崖とは、さっき遠智と話していた層状節理による幾何学的な造形作用によって形成された自然地形だったのである。しかしそれは天然のものだった。本当の人工物のような、すぱりとち切った潔さがない。それらは基本的に直線で形成されてはいるが、どことなく歪み、曲がり、全体としてなんとも落ち着かぬ不整合感をこちらに伝えてくるようである。

これは、数億年にもわたる地球の造山活動と風化、波浪の浸食活動によるいわば、神の気まぐれによってできた自然地形だ。断じて人口物ではない。春川はそう自らに言い聞かせて、心を落ち着かせた。遠智の言っていた人工物ではない。だからここは、普通の島の、普通の断崖だ。ひどく印象的で独特なかたちをしているが、あくまで既知の自然法則によって成った、説明可能な、普通の場所なのだ。



だから・・・自分はまだ、たぶん、世界のこちら側・・・・にいる。



春川はそう自らに強く言い聞かせた。自分はまだ、世界のこちら側にいる。こちら側の存在だ。だから・・・きっと、あちら側へと行くことはない。安心で安全な世界のこちら側で、これまで通り孤独に生きていける。その人生をまっとうする。そうして最後は、あの斎場で焼かれ塵屑ちりくずとなり、あの黒い高い煙突から吐き出され、地球重力のくびきから解放されて高く高く昇っていく。どこまでも、どこまでも昇っていく・・・。



ふと気づくと、老婆がこちらを見ていた。バサバサの銀髪、全ての方位にしわを這わせたような老いさらばえた顔貌で、急にそこに罅割ひびわれが起こると、歯の抜けた口のあいだから赤い舌が見えた。なにか言ったようにも思えたが、何と言ったかわからなかった。ただ彼女は笑って、春川の浅はかな考えをわらって、そして、まっすぐと指さした。

自分の目前に落ち込んだ崖の下を。そこに横たわり、不気味にちゃぷちゃぷと音を立てる黒い水面を。



そして春川は、その指の先にあるものを見た。



黒く波打つ海水の真下に、うっすらと、黄色く輝く石造りの幾何学的な四角いいわおのようなものがあった。その最上段は、浪が退くと一瞬間だけ露頂し、そしてすぐとまた水面下に隠れた。その下には階段状に段々がつき、そのままずっと下方に向かって落ち込んでいた。数段すると黒い海水に隠れて、そこから下の様子はもう見えない。

しかし春川には見えた。

彼を遥か彼方の深淵へといざなう、そのどこまでも続く石造りの階段が、直下の海底までまっすぐに伸びているのが、はっきりと見えたのである。
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