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1話
第5話 責任取りなさい、モブ執事!
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――まぶしい。
瞼を開けた瞬間、差し込む朝の光に思わず顔をしかめた。
いつの間にか、眠ってしまったようだ。
酒が抜けきらず、頭は茫然としたまま。体を動かすことすら億劫だった。
布団はやけに重く、肌に触れる空気は妙にひんやりしている。
……ん? ちょっと待って。
裸じゃない、これ!?
慌てて飛び起き、体を確認する。確かに何も着ていない。
急に動いたせいで頭がぐらりと揺れ、激しい頭痛が襲った。
「アガッ!……うぐぐぅ…」
言葉にならない呻き声を上げ、頭を抱えて俯く。
そのとき、布団の上に何か光るものが落ちているのに気づいた。
拾い上げると、それは小さなカフスボタン。
この世界でよく使われている、袖口を留めるためのアクセサリー。
私も例に漏れず愛用しているけれど、目の前にあるそれはどう見ても男性用だった。
銀を使った、飾り気のないシンプルなデザイン。
私はそのカフスボタンを指先で転がしながら、昨夜のことを思い出していく。
――昨夜の記憶が、少しずつ。
しかも嫌な順番で、蘇ってくるのだった。
***
酒をしこたま飲んだ私は、すっかり酔っていた。
日頃のストレスと、破滅フラグが完全に消えたことへの安堵。
そしてジルという味方が出来たことで気が緩み、酔った勢いで緊張の糸がぷつりと切れた。
この世界に来てからずっと張りつめていたものが、酒によって一気に崩れ落ちた――そんな夜だった。
そうなった私がやる事はただ一つ。
盛大に泣くことだ。
「うぅっ……うぅ……私、頑張ったんだよぉ……ここまでずっと一人でっ!」
酒瓶を抱えたまま、ぐずぐずと涙を流す。
長いソファーには、隣に座ったジルが背筋を正したまま、静かにこちらを見ていた。
「……はい。オフィーリア様はよく耐えてこられました。
誰にも見せず、ただ一人で――それでも歩みを止めなかった。
どうか今宵ばかりは、その涙を惜しまず流してくださいませ。
その証こそ、オフィーリア様が生き抜いてきた証明にございます」
そう言いながら、白いハンカチを差し出してくる。
その仕草に優しさを感じた途端、さらに涙が溢れ出していった。
「うぅぅ……ジルが……ジルが優しいよぉ。モブ執事なんて言ってごめんねぇ」
私は散々泣きわめいていた。
たぶん、ジルに甘えていたんだと思う。
いつもはその無表情な顔や、観察魔な所にイライラしてるくせに。
都合よくジルに吐き出して、楽になろうとしていた。
――あぁ……思い出したくない事を思い出してしまった。
それでも、その夜のジルはどこか優しかった。
私は泣きじゃくっていたから表情までは読めなかったけど、
声だけは確かに、いつもより温かかった。
私が泣いていると、ジルはふいに立ち上がった。
「ジル……どこ、行くの?」
「恐れ入ります。グラスを倒してしまいましたので、拭くものをお持ちしようかと」
そう言ってジルはどこかに行こうとする。
私に背を向けて。
ずっと私を支えると言っていたジルが。
その背中を見ていると、あの言葉が全部嘘だったんじゃないかと疑いたくなってしまう。
胸に、針のような痛みが込み上げてくる。
――酔った私の頭には、一瞬の不安が何倍にも膨れ上がった。
ジルの背中に向かって「嘘つき!」と罵ってやりたい。
でも、それ以上に――今は縋りつきたい。
不安が胸を溢れかえって、抑えられない。
……もしかしたら、ジルは私に愛想を尽かしたのかもしれない。
私の中身が、ただのつまらない庶民のOLだと気づかれてしまったのかもしれない。
ジルがどこかに行ってしまうのを、私は止められない。
結局、私には何もないのだから。
ジルが興味を失えば、最初から無かったことになる。それだけの関係。
――それでも。行かないで欲しい。
もう一度、独りで戦う私に戻るなんて、耐えられない。
涙が止まらず、気づけば夢中でジルの腕を掴んでいた。
あまりに強く掴んだからだろう、ジルは驚いたように振り返り、目が合った。
酒に浮かされた頭では、それが現実なのか幻なのかも分からなかった。
「……ジル、行かないで。傍にいて。私を、独りにしないで…」
涙があとからあとから零れ落ちる。
声が震えて、うまく言葉にならない。
それでも伝えなきゃ。今すぐ言わなきゃ、ジルは行ってしまう。
掴む手に、自然と力が籠る。
「もうやだ……っ…独りは……だから、ずっと傍に――」
言い終わる前に、暖かいものに包まれていた。
目の前に広がるのは、ジルの執事服の布地。
酔った頭では、抱きしめられているのだと気づくまでに少し時間がかかった。
そして、頭上から落ちてきた声。
「……独りになどいたしません。
たとえ長い夜が続こうとも、明けるまで寄り添いましょう」
その言葉に、先ほどまでの不安が嘘みたいにほどけていく。
……嬉しい。
独りじゃないことが、こんなに安心できるなんて知らなかった。
顔を上げると、こちらを見つめるジルの瞳とぶつかった。
いつもの無表情なのに、不思議と冷たさは感じない。
切れ長の瞳は静かで、奥底に隠された光が、今だけはわずかに揺れている。
端正な輪郭も、きっちり整えられた口元も――こんな至近距離で見つめるのは初めてかもしれない。
近いせいか、微かな吐息まで伝わってきて……やけに心臓が落ち着かない。
鉄の仮面みたいだと思っていたのに。
こうして見ていると、その奥にちゃんと熱を宿した人間の顔なんだと気づいてしまう。
思わずジルの顔に触れる。
手に伝わる温もり――確かに、人間だ。
けれど、触れても微動だにしない様子に、胸の奥がざわついた。
まるで、私が何をしても気にしないみたいに。
ああ……そういえば、前に言っていた。
ジルは「私が何をしても困らない」と。
ぼんやりと考えながら頬に触れると、親指がジルの薄い唇をかすめた。
その瞬間、私の口から勝手に言葉が漏れる。
「……ジル、キスして」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からない。
この前のお茶会の会話を思い出したのか。
それとも、不安を紛らわせたかったからか。
酒で茫然とした頭には、もっともらしい理由なんて浮かんでこなかった。
ジルはただ、じっと私を見つめている。
動かないまま――その瞳の奥に、普段は隠された何かが揺れているように見えた。
「……ジル?」
呼びかける声は、自分でも驚くほどか細かった。
確かめるように名前を呼んだ途端、唇に柔らかな熱が触れた。
何が起きたのか理解するより先に、体が固まる。
ぼんやりとした頭の中に、じんわりとした温度だけが広がっていく。
夢みたいに曖昧で、けれど確かに重なっている感触。
……これは、キス……?
理解が追いつくより早く、唇は離されていた。
ぼんやりとジルを見ると、彼はわずかに顔を背け、口元に手を添えている。
その仕草は、いつもの無表情よりもずっと複雑に見えた。
「……オフィーリア様。これ以上はなりません。進めば、私の務めを踏み外してしまいます」
淡々と告げられた言葉に、胸が締めつけられる。
――あぁ、そうか。
ジルは執事だから、私の言葉には逆らえない。
たとえ嫌いな相手であっても、主に命じられれば従う。
今のキスもその一つ。ただ“務め”で従っただけ。
優しさだと思ったものは全部、私の勘違い。
これは、ただの仕事。
それに付け込んで、私はキスを強要した。
罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。
ジルの存在に救われていながら、私は彼の尊厳を踏みにじっている。
――最低だ。私は、なんて最低な人間なんだ。
自分が醜すぎて涙が出る。
結局どこまで行っても、私は薄汚い悪役令嬢。
「……ごめんなさい」
声が震える。それでも言わずにはいられない。
ジルはこんな謝罪で許してくれないかもしれない。
それでも、伝えなければ。
「ジルの……嫌がる事して……っ……ごめんなさい」
ジルの顔が見られない。
どうせいつもの涼しい顔をしているんだろう。
けれどもし、その顔に嫌悪の色が浮かんでいたら――
私は、もう立ち直れない。
ただ祈るように、謝ることしかできなかった。
ふいに震える肩を抱き寄せられた。
俯いた頬に手が添えられ、指先がそっと涙を拭う。
顔を上げた瞬間、ジルの瞳とぶつかった。
その瞳は、どこか悲しそうで――胸の奥まで締めつけられる。
「……嫌など、するものですか」
その一言に、胸の重みがほどけていく。
“嫌じゃない”――それだけで、どれほど救われるのか。
ほっとして、安心のあまり笑みが零れた。
次の瞬間、距離が音もなく詰まる。
彼の手が頬に触れていると思ったら、唇が重なっていた。
柔らかいのに、どこかぎこちない。
そこに伝わる微かな震えから、ジルの迷いが伝わってくる。
私はその震えに応えるように、そっと腕を彼の首に回した。
安心させるように吐息を漏らすと、触れ合う唇はさらに深くなっていく。
……たぶん、もう後戻りできない。
そう思いながらも、私はただジルの温度に身を委ねていた。
***
二日酔いの頭で私は全てを思い出した。
思い出した瞬間、頭を抱える。
「や……やってしまった!!!」
そう、文字通り、やってしまったのだ。
私は酔いと勢いに任せて――ジルと。
あの鉄面皮のモブ執事と。
穴があったら入りたい! そして、入ったら一生出たくない!
よりにもよってジルとなんて。
せめて、あと腐れのない相手にしておけば良かったものを!
あーもー! これからどんな顔してジルに会えば良いのよ!
枕に顔を押し付けて叫びたい。
布団の中でジタバタ暴れたい。
……でも、その衝動すら二日酔いの頭痛に押し潰される。
いや、そんなことより――まず謝らなければならない相手がいる。
私はそっと、祈るように手を合わせた。
「オフィーリアたんごめんなさい。私の不注意で貴女の体を穢してしまいました」
この体は悪役令嬢オフィーリアのもの。
私はそれを借りているだけのオタクOL。
それなのに、どこぞのモブ執事に身を委ねてしまった。
ゲームプレイ時は、オフィーリアが可哀想すぎて何度もオフィーリア生存ルートを探したのに!
グッズが出れば攻略キャラよりオフィーリア限定で集めていたのに!
絶望フラグを折りまくった学園生活で、あんなに守ると誓っていたのに!!
そんな私が――こんなうっかりでオフィーリアの体に傷をつけるなんて。
謝っても謝り切れない。
謝ったところで返事なんて無いけど。
そんなことを考えていると、不意にノックの音がした。
……まずい。メイドが朝の支度に来た? それにしては早すぎる。
裸のまま、どうやって誤魔化そうか焦っていると声が聞こえてきた。
「オフィーリア様。失礼いたします」
ジルの声。
私の返事を待たずに、ドアは開かれた。
――本当に。なんて失礼な執事なんだ。
ジルは音もなくドアを閉め、私が起きていることを確認すると「おや……」と声を上げた。
「すでにお目覚めでございましたか。てっきりまだ夢の中かと存じました」
「な……何の用よ」
顔が、見られない。
なんとか声を出したけれど、ジルがそこにいるだけで昨夜のことが頭をよぎる。
熱くなる頬を隠すように、思わず顔を逸らした。
「失礼いたします。カフスボタンを落としてしまったようで。
メイドに見咎められては、余計な憶測を呼びかねませんので」
……声も表情も、いつも通りすぎて腹が立つ。
昨日のこと、何とも思ってないのか、この執事は。
私は拾っていたカフスボタンをジルに投げつけた。
不満を込めたつもりだったのに、彼はあっさりと指先で受け止める。
「これで満足でしょ。さっさと出て行って」
これ以上、顔を合わせているのが辛い。恥ずかしい。
早くどこかに行ってほしかったのに――ジルは何かに気づいたように歩みを進めた。
慣れた手付きでドレッサーから手鏡を取り、ベッドサイドにやってくる。
その顔は、やはりいつもの鉄面皮だった。
「オフィーリア様。本日は首筋の隠れるお召し物をお選びくださいませ。
……昨夜の名残が、あまりに鮮やかにございますので」
「……は?」
言いながら手鏡を渡される。
そこに映っていたのは、二日酔いで険しい顔をした私と――首元に赤々と残る、無惨な跡。
頭から火が出るかと思うほど驚き、慌てて首を押さえた。
「あああああんた! こんな所に跡なんかつけて、何考えてるのよ!
せ、責任取りなさいよ!」
口走りながら、自分でも支離滅裂だと思った。
責任って……どうやって取るんだ、これ。
私の怒鳴り声をよそに、ジルは淡々と口を開く。
「責任の形となるかは分かりかねますが――」
そう言いながら、ジルは指先でネクタイを緩めた。
さらに、シャツのボタンへと手を掛ける。
いつも完璧に整えられた執事服を、自ら崩していく姿に、なぜかこちらの方が羞恥で息苦しくなる。
目を逸らせないまま見ていると、ジルは自分のシャツを開いて見せてきた。
そこには赤く小さな――けれど確かな跡が残されていた。
羞恥で固まった私に、ジルはわずかに口角を上げた。
初めて見るその笑みは、まるで悪戯好きの少年のようだった。
「偶然か、それとも必然か。……お揃い、でございます」
最大級の煽りに、私は反射的にクッションを掴んで投げつけた。
瞼を開けた瞬間、差し込む朝の光に思わず顔をしかめた。
いつの間にか、眠ってしまったようだ。
酒が抜けきらず、頭は茫然としたまま。体を動かすことすら億劫だった。
布団はやけに重く、肌に触れる空気は妙にひんやりしている。
……ん? ちょっと待って。
裸じゃない、これ!?
慌てて飛び起き、体を確認する。確かに何も着ていない。
急に動いたせいで頭がぐらりと揺れ、激しい頭痛が襲った。
「アガッ!……うぐぐぅ…」
言葉にならない呻き声を上げ、頭を抱えて俯く。
そのとき、布団の上に何か光るものが落ちているのに気づいた。
拾い上げると、それは小さなカフスボタン。
この世界でよく使われている、袖口を留めるためのアクセサリー。
私も例に漏れず愛用しているけれど、目の前にあるそれはどう見ても男性用だった。
銀を使った、飾り気のないシンプルなデザイン。
私はそのカフスボタンを指先で転がしながら、昨夜のことを思い出していく。
――昨夜の記憶が、少しずつ。
しかも嫌な順番で、蘇ってくるのだった。
***
酒をしこたま飲んだ私は、すっかり酔っていた。
日頃のストレスと、破滅フラグが完全に消えたことへの安堵。
そしてジルという味方が出来たことで気が緩み、酔った勢いで緊張の糸がぷつりと切れた。
この世界に来てからずっと張りつめていたものが、酒によって一気に崩れ落ちた――そんな夜だった。
そうなった私がやる事はただ一つ。
盛大に泣くことだ。
「うぅっ……うぅ……私、頑張ったんだよぉ……ここまでずっと一人でっ!」
酒瓶を抱えたまま、ぐずぐずと涙を流す。
長いソファーには、隣に座ったジルが背筋を正したまま、静かにこちらを見ていた。
「……はい。オフィーリア様はよく耐えてこられました。
誰にも見せず、ただ一人で――それでも歩みを止めなかった。
どうか今宵ばかりは、その涙を惜しまず流してくださいませ。
その証こそ、オフィーリア様が生き抜いてきた証明にございます」
そう言いながら、白いハンカチを差し出してくる。
その仕草に優しさを感じた途端、さらに涙が溢れ出していった。
「うぅぅ……ジルが……ジルが優しいよぉ。モブ執事なんて言ってごめんねぇ」
私は散々泣きわめいていた。
たぶん、ジルに甘えていたんだと思う。
いつもはその無表情な顔や、観察魔な所にイライラしてるくせに。
都合よくジルに吐き出して、楽になろうとしていた。
――あぁ……思い出したくない事を思い出してしまった。
それでも、その夜のジルはどこか優しかった。
私は泣きじゃくっていたから表情までは読めなかったけど、
声だけは確かに、いつもより温かかった。
私が泣いていると、ジルはふいに立ち上がった。
「ジル……どこ、行くの?」
「恐れ入ります。グラスを倒してしまいましたので、拭くものをお持ちしようかと」
そう言ってジルはどこかに行こうとする。
私に背を向けて。
ずっと私を支えると言っていたジルが。
その背中を見ていると、あの言葉が全部嘘だったんじゃないかと疑いたくなってしまう。
胸に、針のような痛みが込み上げてくる。
――酔った私の頭には、一瞬の不安が何倍にも膨れ上がった。
ジルの背中に向かって「嘘つき!」と罵ってやりたい。
でも、それ以上に――今は縋りつきたい。
不安が胸を溢れかえって、抑えられない。
……もしかしたら、ジルは私に愛想を尽かしたのかもしれない。
私の中身が、ただのつまらない庶民のOLだと気づかれてしまったのかもしれない。
ジルがどこかに行ってしまうのを、私は止められない。
結局、私には何もないのだから。
ジルが興味を失えば、最初から無かったことになる。それだけの関係。
――それでも。行かないで欲しい。
もう一度、独りで戦う私に戻るなんて、耐えられない。
涙が止まらず、気づけば夢中でジルの腕を掴んでいた。
あまりに強く掴んだからだろう、ジルは驚いたように振り返り、目が合った。
酒に浮かされた頭では、それが現実なのか幻なのかも分からなかった。
「……ジル、行かないで。傍にいて。私を、独りにしないで…」
涙があとからあとから零れ落ちる。
声が震えて、うまく言葉にならない。
それでも伝えなきゃ。今すぐ言わなきゃ、ジルは行ってしまう。
掴む手に、自然と力が籠る。
「もうやだ……っ…独りは……だから、ずっと傍に――」
言い終わる前に、暖かいものに包まれていた。
目の前に広がるのは、ジルの執事服の布地。
酔った頭では、抱きしめられているのだと気づくまでに少し時間がかかった。
そして、頭上から落ちてきた声。
「……独りになどいたしません。
たとえ長い夜が続こうとも、明けるまで寄り添いましょう」
その言葉に、先ほどまでの不安が嘘みたいにほどけていく。
……嬉しい。
独りじゃないことが、こんなに安心できるなんて知らなかった。
顔を上げると、こちらを見つめるジルの瞳とぶつかった。
いつもの無表情なのに、不思議と冷たさは感じない。
切れ長の瞳は静かで、奥底に隠された光が、今だけはわずかに揺れている。
端正な輪郭も、きっちり整えられた口元も――こんな至近距離で見つめるのは初めてかもしれない。
近いせいか、微かな吐息まで伝わってきて……やけに心臓が落ち着かない。
鉄の仮面みたいだと思っていたのに。
こうして見ていると、その奥にちゃんと熱を宿した人間の顔なんだと気づいてしまう。
思わずジルの顔に触れる。
手に伝わる温もり――確かに、人間だ。
けれど、触れても微動だにしない様子に、胸の奥がざわついた。
まるで、私が何をしても気にしないみたいに。
ああ……そういえば、前に言っていた。
ジルは「私が何をしても困らない」と。
ぼんやりと考えながら頬に触れると、親指がジルの薄い唇をかすめた。
その瞬間、私の口から勝手に言葉が漏れる。
「……ジル、キスして」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からない。
この前のお茶会の会話を思い出したのか。
それとも、不安を紛らわせたかったからか。
酒で茫然とした頭には、もっともらしい理由なんて浮かんでこなかった。
ジルはただ、じっと私を見つめている。
動かないまま――その瞳の奥に、普段は隠された何かが揺れているように見えた。
「……ジル?」
呼びかける声は、自分でも驚くほどか細かった。
確かめるように名前を呼んだ途端、唇に柔らかな熱が触れた。
何が起きたのか理解するより先に、体が固まる。
ぼんやりとした頭の中に、じんわりとした温度だけが広がっていく。
夢みたいに曖昧で、けれど確かに重なっている感触。
……これは、キス……?
理解が追いつくより早く、唇は離されていた。
ぼんやりとジルを見ると、彼はわずかに顔を背け、口元に手を添えている。
その仕草は、いつもの無表情よりもずっと複雑に見えた。
「……オフィーリア様。これ以上はなりません。進めば、私の務めを踏み外してしまいます」
淡々と告げられた言葉に、胸が締めつけられる。
――あぁ、そうか。
ジルは執事だから、私の言葉には逆らえない。
たとえ嫌いな相手であっても、主に命じられれば従う。
今のキスもその一つ。ただ“務め”で従っただけ。
優しさだと思ったものは全部、私の勘違い。
これは、ただの仕事。
それに付け込んで、私はキスを強要した。
罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。
ジルの存在に救われていながら、私は彼の尊厳を踏みにじっている。
――最低だ。私は、なんて最低な人間なんだ。
自分が醜すぎて涙が出る。
結局どこまで行っても、私は薄汚い悪役令嬢。
「……ごめんなさい」
声が震える。それでも言わずにはいられない。
ジルはこんな謝罪で許してくれないかもしれない。
それでも、伝えなければ。
「ジルの……嫌がる事して……っ……ごめんなさい」
ジルの顔が見られない。
どうせいつもの涼しい顔をしているんだろう。
けれどもし、その顔に嫌悪の色が浮かんでいたら――
私は、もう立ち直れない。
ただ祈るように、謝ることしかできなかった。
ふいに震える肩を抱き寄せられた。
俯いた頬に手が添えられ、指先がそっと涙を拭う。
顔を上げた瞬間、ジルの瞳とぶつかった。
その瞳は、どこか悲しそうで――胸の奥まで締めつけられる。
「……嫌など、するものですか」
その一言に、胸の重みがほどけていく。
“嫌じゃない”――それだけで、どれほど救われるのか。
ほっとして、安心のあまり笑みが零れた。
次の瞬間、距離が音もなく詰まる。
彼の手が頬に触れていると思ったら、唇が重なっていた。
柔らかいのに、どこかぎこちない。
そこに伝わる微かな震えから、ジルの迷いが伝わってくる。
私はその震えに応えるように、そっと腕を彼の首に回した。
安心させるように吐息を漏らすと、触れ合う唇はさらに深くなっていく。
……たぶん、もう後戻りできない。
そう思いながらも、私はただジルの温度に身を委ねていた。
***
二日酔いの頭で私は全てを思い出した。
思い出した瞬間、頭を抱える。
「や……やってしまった!!!」
そう、文字通り、やってしまったのだ。
私は酔いと勢いに任せて――ジルと。
あの鉄面皮のモブ執事と。
穴があったら入りたい! そして、入ったら一生出たくない!
よりにもよってジルとなんて。
せめて、あと腐れのない相手にしておけば良かったものを!
あーもー! これからどんな顔してジルに会えば良いのよ!
枕に顔を押し付けて叫びたい。
布団の中でジタバタ暴れたい。
……でも、その衝動すら二日酔いの頭痛に押し潰される。
いや、そんなことより――まず謝らなければならない相手がいる。
私はそっと、祈るように手を合わせた。
「オフィーリアたんごめんなさい。私の不注意で貴女の体を穢してしまいました」
この体は悪役令嬢オフィーリアのもの。
私はそれを借りているだけのオタクOL。
それなのに、どこぞのモブ執事に身を委ねてしまった。
ゲームプレイ時は、オフィーリアが可哀想すぎて何度もオフィーリア生存ルートを探したのに!
グッズが出れば攻略キャラよりオフィーリア限定で集めていたのに!
絶望フラグを折りまくった学園生活で、あんなに守ると誓っていたのに!!
そんな私が――こんなうっかりでオフィーリアの体に傷をつけるなんて。
謝っても謝り切れない。
謝ったところで返事なんて無いけど。
そんなことを考えていると、不意にノックの音がした。
……まずい。メイドが朝の支度に来た? それにしては早すぎる。
裸のまま、どうやって誤魔化そうか焦っていると声が聞こえてきた。
「オフィーリア様。失礼いたします」
ジルの声。
私の返事を待たずに、ドアは開かれた。
――本当に。なんて失礼な執事なんだ。
ジルは音もなくドアを閉め、私が起きていることを確認すると「おや……」と声を上げた。
「すでにお目覚めでございましたか。てっきりまだ夢の中かと存じました」
「な……何の用よ」
顔が、見られない。
なんとか声を出したけれど、ジルがそこにいるだけで昨夜のことが頭をよぎる。
熱くなる頬を隠すように、思わず顔を逸らした。
「失礼いたします。カフスボタンを落としてしまったようで。
メイドに見咎められては、余計な憶測を呼びかねませんので」
……声も表情も、いつも通りすぎて腹が立つ。
昨日のこと、何とも思ってないのか、この執事は。
私は拾っていたカフスボタンをジルに投げつけた。
不満を込めたつもりだったのに、彼はあっさりと指先で受け止める。
「これで満足でしょ。さっさと出て行って」
これ以上、顔を合わせているのが辛い。恥ずかしい。
早くどこかに行ってほしかったのに――ジルは何かに気づいたように歩みを進めた。
慣れた手付きでドレッサーから手鏡を取り、ベッドサイドにやってくる。
その顔は、やはりいつもの鉄面皮だった。
「オフィーリア様。本日は首筋の隠れるお召し物をお選びくださいませ。
……昨夜の名残が、あまりに鮮やかにございますので」
「……は?」
言いながら手鏡を渡される。
そこに映っていたのは、二日酔いで険しい顔をした私と――首元に赤々と残る、無惨な跡。
頭から火が出るかと思うほど驚き、慌てて首を押さえた。
「あああああんた! こんな所に跡なんかつけて、何考えてるのよ!
せ、責任取りなさいよ!」
口走りながら、自分でも支離滅裂だと思った。
責任って……どうやって取るんだ、これ。
私の怒鳴り声をよそに、ジルは淡々と口を開く。
「責任の形となるかは分かりかねますが――」
そう言いながら、ジルは指先でネクタイを緩めた。
さらに、シャツのボタンへと手を掛ける。
いつも完璧に整えられた執事服を、自ら崩していく姿に、なぜかこちらの方が羞恥で息苦しくなる。
目を逸らせないまま見ていると、ジルは自分のシャツを開いて見せてきた。
そこには赤く小さな――けれど確かな跡が残されていた。
羞恥で固まった私に、ジルはわずかに口角を上げた。
初めて見るその笑みは、まるで悪戯好きの少年のようだった。
「偶然か、それとも必然か。……お揃い、でございます」
最大級の煽りに、私は反射的にクッションを掴んで投げつけた。
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リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
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