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海の姫は空を望む

第34話

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『太陽が見たいわ』


美しく長い蒼色の髪を靡かせて、その女は言った。


少し身動きをすると、体に繋がれた鎖が床に擦れるジャラジャラという不快な金属音が辺りに響く。女は疲れたような顔で、目の前に立つ男を眺めていた。その女は傷だらけの体に無理やり豪華な衣装を着せられていて、ドレスの下からは大きな魚のヒレらしきものが見える。


『無理だ、ここから出ることは許されていない』


長い金髪がどこからともなく吹いた風にサラリと揺れる。


緑色の目の真面目そうな青年は、その凛々しい顔にそっと影を落とした。


『……一生出ることは出来ない。陛下の命令の前では、王弟の私の願いなど塵にも等しい。済まない、ほんとうに済まない……』


『あなた達の王はとても勝手ね。海神の姫を連れ去って監禁なんて信じられない。』


美しい顔に呆れた色をのせた女は、辛そうな男を見て言った。


『私をこんなとこに連れてきて、一体何が目的なの?』


『……豊穣が、訪れると。豊穣を司る海神の人魚姫を国神にして、恩恵を得たいらしい。勝手なことだと承知しているが、何不自由なく過ごせるように手配する。』



『……太陽が、見たいわ。故郷の海に行きたい。ここは随分と、退屈だわ……』


男は黙って頭を下げると、そのまま地下の祭壇から廊下に繋がる扉を出ていった。










『また来たの?』


女は尾ヒレで水面を叩いて、ぱしゃりと飛沫を上げた。顔にかかった飛沫を払いながら、男は女のそばに近寄るとひとつの花を差し出した。


『……本物は見せられない、これで許してくれ。』


差し出された花を受け取った女は、見るもの全てを虜にするように無邪気に笑った。


『……太陽の花ね!』


男はほっと顔を緩ませると、つられて笑った。薄暗い洞窟の中に響く笑い声は、いつまでも続いていた。







『いらっしゃい、待ってたわ。』


女は手にすくった水を男に投げかける。


男が慣れた様子でかわすと、女は少し不満そうにむくれた。その様子を見て可笑しそうに笑う男にぽかぽかと殴りかかる様子は、傍から見れば仲のいい男女の逢瀬のようだった。


『まだ、退屈か?』


男は微笑みながら彼女を見たが、目は不安そうに揺れている。


女はそれをじっと見つめると、太陽のような満面の笑顔で笑い飛ばした。


『あなた毎日来るんだもの、楽しいに決まってるじゃない!』


男は柔らかな小さな声でそうか、と言うと、後ろ手に隠していた包みを取り出して開けた。女は興味津々でその様子を眺めている。


『食べてみろ、俺の一番好きなものだ。』


女が警戒したように男の顔を見ると、男は笑って包みの中からひとつをつまんで口に運ぶ。女はそれを確認すると、恐る恐る手に取り、意を決して一口で食べた。


『……!何これ、甘いわ!すごく美味しい!もっと食べていい?』


『ああ、いっぱいあるぞ。……ああ、そんなにはしゃぐと…ああ!』


子供のようにはしゃぐ女の尾ヒレが勢いよく跳ねて水面を叩く。男の注意も間に合わず、菓子の入った包みごと水の中に落としてしまった。女が潜ろうとするのを制し、男は水に手を差し伸べ、何事かを呟いた。


重力を無視した水が高く浮き上がると、ぷるぷると意思をもったように動き男の前へ包みを差し出した。男が水から包みを受け取ると、水は何事もなかったかのように元に戻った。女は驚いて言った。


『……水に愛されているのね。』


男は苦笑して頭をかいた。


『……ちょっとだけだ、強くない。』


男があまりにも寂しそうな目をするので、女は可愛そうになって男のそばに寄り添った。


静かな水で満たされたそこは、まるで2人だけの世界のようで、2人はいつまでもそこにいた。





数年の間、男は毎日女のもとへ通った。女は男の土産が楽しみで、しかし土産がなくても、男に会えるだけで楽しかった。


男の兄は王であり、人魚姫を地下に連れてきてからというもの治世は安定していた。人魚姫は海神としての力を国のために使っていたが、男以外を決して近づけさせなかった。



女は、時折懐かしむように海のことを話していた。男はその話を聞くのが好きだった。


男は時折、自分の苦しい胸の内を女に吐露した。女は優しく男の話に耳を傾けた。




彼らは幸せだった。







『……大丈夫か?』


少し顔色の悪い女の背をさすり、男は心配そうに顔を覗き込んだ。よく見ると体は以前より痩せていて、尾ヒレも艶やかに光っていたのが、今は石のように硬くなっている。


『どこか悪いのか。すぐに医者を……』


『いいの。無駄よ、もう長くないわ。』


悲しそうに笑う女をかき抱くと、男は痛ましい顔で涙を零した。


『……人魚は繊細なの。故郷を離れた人魚はそう長く生きることが出来ない。故郷を離れてもこんなに長く生きれたのはあなたのおかげよ、ありがとう。……死んだら私の魂はここに囚われる。本当に、国を守る神になるのよ。』


苦しそうな女の弱々しい鼓動で、男は女の命が長くないことを感じた。


『何千年囚われるのかしら。あなたが死んでもずっと囚われているのかしら。……あなたと天には……昇れないのかしら……』


真珠のようにキラキラと輝く涙をこぼし、女は男にすがりついた。


『神になんてなりたくない!海が見たかった、もう一度海が見たかった!太陽が見たかった!空の青さを感じたかった!あなたと海に……行きたかった……』


ぼろぼろと泣く女の髪を梳きながら、男は痛いくらいに女を抱きしめた。


『ごめん、ごめんな、いつか迎えに行くから。だからそれまで待っていてくれ。海に行こう、そこから空へ昇ろう。青い絨毯を旅しよう、色々な場所へ行こう。約束する。辛い思いをさせてすまない、来世でともに幸せになろう。』


女は嬉しそうに笑うと男の瞳を見上げた。


『あなたの目、私の故郷の色だわ。……美しい、海の色……』


女はそれきり動かなかった。男はそばで一日中女の名前を呼び続けた。


洞窟の中には、男の泣き声が響き渡っていた。




人魚姫の魂が洞窟に囚われると、王は洞窟に祭壇を作った。彼らがいつも腰掛けていた場所に、それはそれは豪華な祭壇を作った。


次に王は、男を人魚姫に捧げる貢物に決めた。


『人魚姫は大層お前を気に入っていた。きっと喜ばれるだろう!』


男がいくら頼み込んでも聞かず、男は祭壇で水の生贄となった。体を縛られ、宝剣で一突きにされた男の血は、祭壇を真っ赤に染め上げた。男の魂は贄として人魚姫の所へ届くことはなく、また天国へ昇ることもなかった。


水に愛されていた男が生贄になることを大層悲しんだ水は、せめて次の誰かが男を天国へあげてくれることを祈って彷徨う男の魂を宝剣へ封じた。


囚われた男と女の魂は、空と海のようで、近いようで遠いその距離を縮めることは出来なかった。




時は幾千年も流れ、ある時また、王家に水に愛された子が生まれた。水は男を助けて欲しくて、幾度も幾度も水に愛された子に話しかけた。


しかし、幾千年の時の間に、真に祝福と対話することは失われてしまっていた。


次に水に愛された子は祝福の願いをほんの少し聞き取ることが出来たが、貧しい生まれの子だった。城に近づくことも許されなかった。



優しい水の祝福は悲しんだ。早くあの可哀想な子達が助かればいいのに、と幾度も祈った。


ある時、王家に水に愛された子が生まれた。歴代で最も愛された“あの子”によく似た、可愛い子。


その子は太陽の名を持ち、皆に愛される賢い子に育った。しかし、また声は届かない。




どうすればいい?どうすれば声が届く?



水は考えた。



そうだ、なら声を届けてもらおう。




太陽の名を持った子には、弟がいた。不思議な星のもとに生まれた、運命の子。


緑の癒しの祝福を持った、大地に愛された子、水と繋がりが深い子。




お願い、お願い。早く助けてあげて。


お願い、お願い。




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