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第十八章 美食家な地獄の帝王
崇拝への疑念
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ぶぶぶ……と蜂や蝿を思わせる不快な音を立て、ベルゼブブは空を舞う。すると、どこからともなく無数の虫が集まってくる。僕の握りこぶしほどの大きさのそれらは一直線に僕に向かってきた。
「そこで…… 止 ま れ !」
両手を突き出し、必死に目を見開く。魔物使いの力を使うには対象を目で見て声を聞かせる必要があるらしい。もう少し成長したならば、それも変わるかもしれない。けれど今は見つめて叫ばなければならない。
「止まれ、止ま……っ、あ、ぅ」
針を刺すような激痛が右眼と頭の中心に同時に走る。それは次第に激しさを増し、立っていることすら困難になる。力の使い過ぎだ。
『……この程度、か。まだ私のところに来るのは早かったようですね。サタンから逃げられたからといって、私からも逃げられると思ったら大間違いです。あんな嫁バカと違って、私は最高指揮官。頭脳派なんですよ』
「僕に…………降れ……っ!」
座り込んでベルゼブブを睨む、だが当然の如く力は通じない。
『さぁ愛し子達、ヘルシャフト様を捕まえなさい。治る程度の傷なら許容します。ですから──絶対に逃がすな』
無数の虫が僕を包み込むように飛び回り、ローブに集る。半狂乱になって腕を振り、虫を追い払ってナイを抱き締めた。
腕に痛みを感じ、穴の空いた皮膚を見る。いつの間にか噛まれていたのだ。一瞬噛まれただけでこうなるのなら、小さなナイは一溜りもない。
「ナイ君……出ないでね、絶対に食べさせたりしないから」
ナイをローブの中に隠して覆いかぶさる。虫がナイに触れないように、隙間ができないように、強く強く抱き締める。掠り傷一つ負わせないと勝手に誓った。すると突然、噛まれた腕の痛みが消える。
傷がふさがっていくのが見え、羽音が聞こえなくなった。顔を上げると防護結界が張られていた。
見ればローブに描かれた魔法陣が光り輝いている、何故か今、突然、魔法の効力が戻ったのだ。治癒も防護結界もある、痛覚も消えている。
『魔法、ですか、全く小賢しい。人間にそんな術を与えて、何が面白いのか……甚だ疑問だ、お前の趣味は』
ベルゼブブの声が怒気を帯びる、だがその声とは正反対に瞳は酷く冷たい。
『……そのガキを寄越せ、お前が持っていても仕方の無い代物だ』
「ダ、ダメ! この子だけは絶対に渡さない!」
『ああ、ヘルシャフト様。貴方様に言ったわけではありませんよ、どうかお静かに、私は今ソレと話をしたいのです』
ソレ……?
ベルゼブブの目は確実にナイを捉えている。僕はベルゼブブの言葉の意味を理解出来なくて、いや、理解したくなくて、叫んだ。
「邪魔なんだよ…… 退 け !」
僕の叫びを聞いてか、ベルゼブブの赤い複眼が見開かれ、口が薄く笑みを浮かべる。虫が僕の前から退いたのを確認し、ベルゼブブの横をすり抜け扉をくぐった。
ナイを抱きかかえて走りながら思考する、ベルゼブブの言葉の意味を、呪いが狂った原因を。
ベルゼブブはナイのことを知っていると言った、忌々しげに睨んでソレと呼んだ。
ベルゼブブは『またお前か』と言った、呪いが狂ったと聞いて、ナイを見て、激昴した。
あの金属の部屋のメモはナイが犯人だからナイを殺せという内容だった。まさか、あのメモは本当のことを書いていたのではないか。僕の中でナイへの不信感が膨れ上がり、自然と足が止まった。けれどナイへの庇護欲と依存がナイを離さなかった。
「ね、ねぇナイ君。ナイ君は……」
人間なの?
どこから来たの?
呪いを狂わせたのは君なの?
どれからすべきなのか、どれもすべきではないのか、中途半端なまま口が止まる。
『どうしたの? 早く逃げようよ』
「……君は」
『ボクを守ってくれるんだよね? ボク、虫になんて食べられたくないよ』
「…………そう、だね。そうだ、逃げなきゃ」
疑問のために足を止めてはいけない、僕はまた走り出す。
『ね、ヘル君。ボクのこと信じられないの?』
「……そんな、ことは」
無い、なんて言えない。信用しきれない部分はある。
『ボクのことを信じてくれない人なんて、ボクは好きになれないな』
「…………え」
『キミに命を預けるなんて出来ないな。キミと一緒にいるなんて出来ないな』
深淵そのものの瞳からの視線が氷のように冷たくなっていく。
「ま、待って、そんな……嫌だ、君に見捨てられたら、生きていけない」
『……なら、ボクを信用しなよ』
生きていけない? どうしてそんなに依存しているの?
──分からない。
今日会ったばかりの子供にどうして嫌われたくないの?
──分からない。
もう何も、考えたくない。
「わ、分かったよ。僕、君を信じ……」
信じる、そう言おうとした口が塞がれる。僕の顔を掴んで嬉しそうに歪むその瞳には逆五芒星の魔法陣が描かれていた。
『やぁヘル、大当たりじゃないか、よく当てたね。偉いよ、流石は僕の弟だ』
『……早かったね』
ナイは僕の腕をすり抜け、兄を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
『馴れ馴れしく話しかけるな、道化野郎』
『ひどいなぁ、傷つくよ』
くすくすと笑って、両手を後ろに上目遣い。けれど僕はその可愛い仕草には似合ない、異常な雰囲気を感じ取った。
『よくもあんな雑な罠に引っ掛けてくれたね。思い出したくもないことまで掘り返されて、僕はとっても不愉快だ』
『よくもあんな雑な罠に引っ掛かってくれたよね。その間に色々愉しいことがあって、ボクはとっても愉快だよ』
兄は僕の口から手を離し、僕を抱き寄せてローブの内側に匿った。
僕は兄の胴に腕を巻く。腹の底で何を考えているかなんてどうでもいい、守ってくれるという事実が途方もなく嬉しい。
『ヘルに手を出さないでもらえないかな、僕のなんだよ』
『……あっはははは! ホント、面白いこと言うね、キミ』
『冗談のつもりじゃないんだけど?』
『へぇ……そう? そっかそっか、分かった』
意味の分からない会話に、ナイの豹変、追ってきているであろうベルゼブブ。その全てが恐ろしくて、焦った僕は兄の手を思い切り引っ張った。
「にいさま、早く逃げないと。ベルゼブブが来ちゃう……」
『ん、ああ、分かった。空間転移は準備してる、大丈夫だよ』
「そ、そうなの?」
『ヘルが心配することなんて何もないよ、僕が失敗するなんてありえないから』
兄がそう言った瞬間、ナイが狂ったように笑い出した。喉が裂けてしまいそうな、腹が破れてしまいそうな下卑た笑い声だ。その声を聞くと脳を直接撫で回されるような不快感と、生暖かい闇の底に沈んだような安心感がぐちゃぐちゃに混ざり合って頭の中を走り回った。
『失敗したことの方が多いよねぇ! 魔法の国も守れなくて、弟を見失って、狼に盗られて、何度も何度も取り返しては手放して! 失敗ばっかりじゃないかぁ! 自称天才!』
『……っるさい!』
激昴した兄はナイの首を締め上げ、壁に頭を叩きつける。
『ふ、ふふふ……そんなに見たいの? なら、見せてあげるね』
兄を止めようと腕を掴んだ手はずぶりと粘着質な液体の中に沈んでいく。兄はまた溶けている。辛うじて形を保ったままの兄の顔を見ると、その表情は見たこともないものだった。
常に何かに勝ち誇り、全てを見下していた兄。そんな兄の怯えた顔は僕によく似ていた。初めて見たその表情に僕はただただ疑問を覚えた。
「……にいさま?」
人の形を保てなくなった兄の四肢、ナイは落とされ兄はその場に崩れ落ちた。僕は兄の顔を覗き込んだが、その瞳には僕が映らない。いや、何も映せなくなっていた。
「そこで…… 止 ま れ !」
両手を突き出し、必死に目を見開く。魔物使いの力を使うには対象を目で見て声を聞かせる必要があるらしい。もう少し成長したならば、それも変わるかもしれない。けれど今は見つめて叫ばなければならない。
「止まれ、止ま……っ、あ、ぅ」
針を刺すような激痛が右眼と頭の中心に同時に走る。それは次第に激しさを増し、立っていることすら困難になる。力の使い過ぎだ。
『……この程度、か。まだ私のところに来るのは早かったようですね。サタンから逃げられたからといって、私からも逃げられると思ったら大間違いです。あんな嫁バカと違って、私は最高指揮官。頭脳派なんですよ』
「僕に…………降れ……っ!」
座り込んでベルゼブブを睨む、だが当然の如く力は通じない。
『さぁ愛し子達、ヘルシャフト様を捕まえなさい。治る程度の傷なら許容します。ですから──絶対に逃がすな』
無数の虫が僕を包み込むように飛び回り、ローブに集る。半狂乱になって腕を振り、虫を追い払ってナイを抱き締めた。
腕に痛みを感じ、穴の空いた皮膚を見る。いつの間にか噛まれていたのだ。一瞬噛まれただけでこうなるのなら、小さなナイは一溜りもない。
「ナイ君……出ないでね、絶対に食べさせたりしないから」
ナイをローブの中に隠して覆いかぶさる。虫がナイに触れないように、隙間ができないように、強く強く抱き締める。掠り傷一つ負わせないと勝手に誓った。すると突然、噛まれた腕の痛みが消える。
傷がふさがっていくのが見え、羽音が聞こえなくなった。顔を上げると防護結界が張られていた。
見ればローブに描かれた魔法陣が光り輝いている、何故か今、突然、魔法の効力が戻ったのだ。治癒も防護結界もある、痛覚も消えている。
『魔法、ですか、全く小賢しい。人間にそんな術を与えて、何が面白いのか……甚だ疑問だ、お前の趣味は』
ベルゼブブの声が怒気を帯びる、だがその声とは正反対に瞳は酷く冷たい。
『……そのガキを寄越せ、お前が持っていても仕方の無い代物だ』
「ダ、ダメ! この子だけは絶対に渡さない!」
『ああ、ヘルシャフト様。貴方様に言ったわけではありませんよ、どうかお静かに、私は今ソレと話をしたいのです』
ソレ……?
ベルゼブブの目は確実にナイを捉えている。僕はベルゼブブの言葉の意味を理解出来なくて、いや、理解したくなくて、叫んだ。
「邪魔なんだよ…… 退 け !」
僕の叫びを聞いてか、ベルゼブブの赤い複眼が見開かれ、口が薄く笑みを浮かべる。虫が僕の前から退いたのを確認し、ベルゼブブの横をすり抜け扉をくぐった。
ナイを抱きかかえて走りながら思考する、ベルゼブブの言葉の意味を、呪いが狂った原因を。
ベルゼブブはナイのことを知っていると言った、忌々しげに睨んでソレと呼んだ。
ベルゼブブは『またお前か』と言った、呪いが狂ったと聞いて、ナイを見て、激昴した。
あの金属の部屋のメモはナイが犯人だからナイを殺せという内容だった。まさか、あのメモは本当のことを書いていたのではないか。僕の中でナイへの不信感が膨れ上がり、自然と足が止まった。けれどナイへの庇護欲と依存がナイを離さなかった。
「ね、ねぇナイ君。ナイ君は……」
人間なの?
どこから来たの?
呪いを狂わせたのは君なの?
どれからすべきなのか、どれもすべきではないのか、中途半端なまま口が止まる。
『どうしたの? 早く逃げようよ』
「……君は」
『ボクを守ってくれるんだよね? ボク、虫になんて食べられたくないよ』
「…………そう、だね。そうだ、逃げなきゃ」
疑問のために足を止めてはいけない、僕はまた走り出す。
『ね、ヘル君。ボクのこと信じられないの?』
「……そんな、ことは」
無い、なんて言えない。信用しきれない部分はある。
『ボクのことを信じてくれない人なんて、ボクは好きになれないな』
「…………え」
『キミに命を預けるなんて出来ないな。キミと一緒にいるなんて出来ないな』
深淵そのものの瞳からの視線が氷のように冷たくなっていく。
「ま、待って、そんな……嫌だ、君に見捨てられたら、生きていけない」
『……なら、ボクを信用しなよ』
生きていけない? どうしてそんなに依存しているの?
──分からない。
今日会ったばかりの子供にどうして嫌われたくないの?
──分からない。
もう何も、考えたくない。
「わ、分かったよ。僕、君を信じ……」
信じる、そう言おうとした口が塞がれる。僕の顔を掴んで嬉しそうに歪むその瞳には逆五芒星の魔法陣が描かれていた。
『やぁヘル、大当たりじゃないか、よく当てたね。偉いよ、流石は僕の弟だ』
『……早かったね』
ナイは僕の腕をすり抜け、兄を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
『馴れ馴れしく話しかけるな、道化野郎』
『ひどいなぁ、傷つくよ』
くすくすと笑って、両手を後ろに上目遣い。けれど僕はその可愛い仕草には似合ない、異常な雰囲気を感じ取った。
『よくもあんな雑な罠に引っ掛けてくれたね。思い出したくもないことまで掘り返されて、僕はとっても不愉快だ』
『よくもあんな雑な罠に引っ掛かってくれたよね。その間に色々愉しいことがあって、ボクはとっても愉快だよ』
兄は僕の口から手を離し、僕を抱き寄せてローブの内側に匿った。
僕は兄の胴に腕を巻く。腹の底で何を考えているかなんてどうでもいい、守ってくれるという事実が途方もなく嬉しい。
『ヘルに手を出さないでもらえないかな、僕のなんだよ』
『……あっはははは! ホント、面白いこと言うね、キミ』
『冗談のつもりじゃないんだけど?』
『へぇ……そう? そっかそっか、分かった』
意味の分からない会話に、ナイの豹変、追ってきているであろうベルゼブブ。その全てが恐ろしくて、焦った僕は兄の手を思い切り引っ張った。
「にいさま、早く逃げないと。ベルゼブブが来ちゃう……」
『ん、ああ、分かった。空間転移は準備してる、大丈夫だよ』
「そ、そうなの?」
『ヘルが心配することなんて何もないよ、僕が失敗するなんてありえないから』
兄がそう言った瞬間、ナイが狂ったように笑い出した。喉が裂けてしまいそうな、腹が破れてしまいそうな下卑た笑い声だ。その声を聞くと脳を直接撫で回されるような不快感と、生暖かい闇の底に沈んだような安心感がぐちゃぐちゃに混ざり合って頭の中を走り回った。
『失敗したことの方が多いよねぇ! 魔法の国も守れなくて、弟を見失って、狼に盗られて、何度も何度も取り返しては手放して! 失敗ばっかりじゃないかぁ! 自称天才!』
『……っるさい!』
激昴した兄はナイの首を締め上げ、壁に頭を叩きつける。
『ふ、ふふふ……そんなに見たいの? なら、見せてあげるね』
兄を止めようと腕を掴んだ手はずぶりと粘着質な液体の中に沈んでいく。兄はまた溶けている。辛うじて形を保ったままの兄の顔を見ると、その表情は見たこともないものだった。
常に何かに勝ち誇り、全てを見下していた兄。そんな兄の怯えた顔は僕によく似ていた。初めて見たその表情に僕はただただ疑問を覚えた。
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