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第二十五章 本拠地は酒色の国に

予測していなかった事態

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朝、人気ひとけの無くなったヴェーン邸。ベルゼブブ達を見送ったアザゼルは広く長い廊下を走っていた。ヘルの部屋に飛び込み、ベッドに飛び乗る。

「王様ー!  起きろよ王様!」

勝手に起きるまで放っておいた方が置いて行ったことへの追求が短くなるとは分かっていたが、アザゼルには誰も居ないこの瞬間を逃す選択肢は無かった。
やがて王となる魔物使いに何としてでも気に入られなければ。そう考えて、毛布を引き剥がした。

「可愛い幼女が夜這いならぬ朝這いに来たぜ?  据え膳食わぬは男の恥ってね、ほら、どっからでも食え…………おいマジでまだ起きねぇのかよ嘘だろ」

堕天使の力を振るえない子供の姿である以上、働きで気に入られるのは不可能。成長するまで待っていては他の者に席を奪われる。
ならば方法は一つしかない。幸運なことに魔物使いは思春期の少年、そして自分の身体は美幼女、少し誘惑すれば簡単に……のはずだったが、なかなか起きない。

「おーうーさーまぁー!  グロルになったら何も出来ないぞ!  アザゼルのうちに早く抱けよ!」

ヘルの寝起きの悪さは予想外だった。だが、腹の上で何度も飛び跳ねれば流石に起きる。

「ん……ん?  あれ、グロルちゃん?」

「やっと起きたか王様!  さぁ抱け!」

「…………アザゼルか、何?」

「早く抱けよ何してんだ!」

目覚めは最悪だ。毛布を剥がされ、腹の上で飛び跳ねられて、顔をべちべちと叩かれて。
僕は不機嫌なまま上体を起こす。アザゼルは少し下がって太腿の上に移動したらしい。何を言っていたか……「抱け」だったか。

「はーい抱っこ抱っこ。僕まだ眠いしこれするならグロルちゃんがいい。出直して」

軽く抱き締めて背をぽんぽんと叩く。

「違ぁーうっ!  今どき神父でもそんなボケかまさねぇぞ!」

「……なんだよ、うるさいな…………寝起きなんだからやめてよ」

「はぁ……いいか、王様。ここはベッド、男女がその上に居る。女は男に跨ってて、抱いてって言ってる。まさか本当に分からない訳じゃないよな?」

天使は明確な性別がない。それは堕ちても変わらない。しかし人の姿を持ち人界で活動する天使はどちらかに寄る場合が多い。

「……君は女の子が好きなんだと思ってたけど」

一人称や口調、その他言動は男性的と言えるだろう。

「あぁ……まぁ確かに女は好きだけど、男も好きだぜ。孕ませたいか孕みたいかの気分によるな!」

「…………どっちでもいいやもう。どっか行って」

「なんで!?  嘘だろ……俺今美幼女だぞ!」

「……見えないんだって」

アザゼルをベッドの上に丁寧に落とし、手探りでベッドを降りる。ぶにっと触手を踏みつけ、その手に支えられる。

「アルは?  もう起きたの?」

無数の手が寝巻きを脱がし、用意してあったらしい服を渡してくる。

「そ、そんなことより、朝飯食おうぜ朝飯」

「………………そんなこと?」

着替えを終え、無数の手を振り解き、アザゼルの声がする方に手を伸ばし、足首を掴んで引っ張る。

「お、おい、王様?」

「もう一回言ってみろ、そんなことって。アルの居場所がそんなことなの?  そーなんだね君にとっては!  でも、僕にとっては違う。ねぇ、もう一回、言ってみろよっ……!」

「あ、ああ、揚げ足取るなよ、ほら、思った通りの言葉って案外思いつかないだろ?  微妙に意味が違うことってあるだろ?  別に、あの狼を軽んじてるわけじゃ、無い、から……そ、そんな怒るなよ」

アザゼルの声は怯えているように聞こえた。未成熟だからといって僕に負ける訳もないのに、何を怖がることがあるんだか。

「…………手、引いてくれる?  アルがここに居ないなら、アルのところ連れてって。フェルの触手はそういうの不得意そうだし」

部屋の名前と場所は理解しているようだが、動き回る個人はあまり認識出来ていないように思える。

「あ、あぁ、分かった……ほら」

僕の手のひらに収まる小さな手。この手を握っていると先程の対応に良心が痛む。グロルがグロルだけなら、役には立たないけれどもっと優しく出来るのに。

『……リ、r』

「ん?  アザゼル、何か言った?」

「いや何も……」

鈴のような声が聞こえた気がしたけれど、気のせいだろうか。

『テ……ケ……ニ、くゥ?』

いや、気のせいや勘違いではない。確かに何か聞こえた。

「ねぇ、誰か居るの?」

「どーしたんだ王様。ここにゃ俺と王様以外居ないぜ」

『肉、てケ……リ』

肉、ハッキリとそう聞こえた。アザゼルに伝えようとしたその時、僕の身体は突風に吹き飛ばされた。

「おっ、おいおいおいおい!  なんだよコレ!」

「痛た……な、何?  アザゼル?  どこ?」

「王様!  逃げろ、やばい!」

逃げろ?  どうして?  この家は結界のおかげで安全なはずなのに、何から逃げろと言うのだろう。

「見えないんだよ!  手、手ぇ引いてよ!」

だが、アザゼルの声は本当に焦っている者の声だ。僕は何か危険が迫っているのだと感じて必死に手を伸ばす。アザゼルでなくともフェルの予備触手が手を取ってくれるはずだ。

「我は五大元素のうち一つ、風を司る者。我が風により退け悪鬼!」

家の中だと言うのに強い風が吹き抜ける。

「……やばい全然効いてないし鼻血出てきた。これ以上やったら身体が死ぬ…………王様!  逃げるぞ!」

小さな手が僕の手を掴む。僕は転びそうになりながらも必死にアザゼルに着いて行った。

「アル!  アル?  ねぇアルどこ!  何か大変みたいなんだよ!  助けて、アル!」

聞こえるのは僕とアザゼルの足音に鈴に似た何かの声だけ。アルは来ない。

「アル……?」

「ダンピール!  おいダンピールどこだよ!  やべぇんだ早く来てくれ!  俺じゃどうにも……ぅあっ!?」

アザゼルが転び、僕も転ぶ。冷たい廊下に身を横たえ、打ち付けた膝を抱える。

「……悪ぃ、王様。足、挫いた」

「歩けないの?」

「…………まっすぐ走れ、そしたら……」

僕はアザゼルを抱え、立ち上がる。

「お、おい、王様!  置いて行けよ、俺抱えてたら追いつかれるぞ!」

状況は分からないが、膝の痛みを気にしている場合ではないとは分かった。アルからの助けが望めないことも、ここでアザゼルを置いて行けば彼女には酷い結末が待っていることも、察した。

「君のこと、見捨てられるほど嫌いじゃない!」

「…………ありがと、おーさま……」

きゅ、と服を掴む小さな手。中身が堕天使でもこの身体はグロルのものだ。ランシアのためにも、彼女を想っていたフェルのためにも、見殺しにする訳にはいかない。

「まだ真っ直ぐ、まだ、あっ傾いてる!  傾いてる!  壁に擦るぞ!」

「まっすぐ走るのって難しい……ねぇ、何が追ってきてるの?  何も、見えなくて……」

「黒くて、どろどろしてて、目ん玉と口と触手が大量にある奴だ!」

追い付かれたら喰われるのだろうか。今聞いた特徴は空腹時の兄と一致している気もする。

「あ……王様!  少し左に寄って、突っ走れ!」

考えている暇はない。足を絡ませて転んだりしないように気を使うだけで精一杯だ。
アザゼルの言う通り左に寄って走ると、誰かに抱き止められ、その誰かの背後に転がされる。

「ここより先は我が領域、我が同胞以外の立ち入りを禁ず……血界!」

バンっとガラス窓に雑巾を叩きつけたような音が鳴る。

「ダンピール!  助かったぜ、コレなんだ?」

「知るかよ。変なもん入れやがって」

「……ヴェーンさん?」

「おう、無事かガキ」

ヴェーンが結界を張ったのか。そんな真似が出来たとは知らなかった。

「……今ちょっとやばくてな。怒ったりせず聞いて欲しいんだ」

「な、何を?」

「…………俺と、このガキと、お前以外、今全員この家に居ない」

僕とアザゼルとヴェーン以外この家に居ない?
アルがいくら呼んでも助けに来なかったのはそれが理由?

「なんで居ないの!?」

「……ちょっとした用事だよ。明日か明後日には帰ってくる…………けど、血界はもうすぐ破られそう」

明日か明後日だって?  砂漠の国に行かなければならないのに、その期限も明後日なのに、全員が用事で居ないなんてありえない。

「……まさか」

思えば昨日のフェルの言動は怪しかった。長い時間起きていたのにアルが来なかったのもそうだ。

「捨てられた……?」

隠れているのに砂漠の国に行こうだなんて言うような僕に愛想を尽かして、僕が寝ている間に逃げてしまったのか。眼が無い僕には価値が無いと、見捨てて行ったのか。
悪魔や鬼達はそれでいい。けれど兄やフェル、アルまでそうだと言うのか?  兄が僕に興味を失くすなんて、アルが僕を捨てるなんて──

「嫌……アル、やだ、アル……」

──有り得ない。嫌だ。信じたくない。
僕はアザゼルを抱き締めたまま、身を丸めて状況も考えられずすすり泣いた。
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