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第二十章 偽の理想郷にて嘘を兄に
嘘の兄
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理想が現実になるゲームの中で、僕は兄の役になっていたライアーを刺した。現実に戻った僕は何故か椅子に拘束されておらず、ナイフを握ってライアーに馬乗りになっていた。
僕は訳が分からないながらもナイフを捨て、ライアーの首に手を当てる。弱々しい呼吸と脈を感じて、一先ず胸を撫で下ろす。
「ライアーさん、ライアーさん、起きて、何があったんですか」
僕がゲームをしている間に誰に襲われたのだろう、酷い出血だ。
「…………僕じゃないですよね、そうですよね。僕はゲームをしていて、椅子に、縛られてて」
椅子の拘束は解かれていた。
ナイフは僕の手に握られていた。
「違いますよね? 起きて、違うって言ってください。僕は、僕はあなたを殺してない! そうですよね!」
そう、殺していない。まだ死んでいない。けれどきっともうすぐ死ぬ。
「起きて、起きてよ、目を開けてよ。何か話してよ。ねぇお願い起きて、起きてったら……ライアーさん、起きて」
滅多刺しにされた腹部に胸部。誰がやったのかは考えたくない。
その手当は僕には出来ない。無意味に、むしろ悪化するかもしれないのに、僕はライアーの体を揺さぶり続けた。すると、ライアーはゆっくりと目を開いた。
「…………ヘル君?」
「ライアーさん! 良かった、大丈夫ですか? 何があったんですか? 誰がこんなこと……」
「ヘル、君。ごめんね」
「……な、なにが、です?」
「…………ボクじゃダメだったんだね。馬鹿みたい、浮かれて……」
咳き込んだライアーの口から血が零れる。溢れた血は彼の頬を伝って僕の手を赤く染めていく。
浅黒い肌に深紅の血が映える。苦しそうな表情も相まって、どんな芸術作品ですら足元にも及ばない美しさだ。
「ボクじゃ、キミのお兄ちゃんにはなれなかった」
「……ぁ、あの、僕……は、その……」
「…………これあげる」
ライアーは上着のポケットに手を入れ、黒い紐を指に絡め、それを僕の手に握らせた。
「……ネックレス?」
ゲームとは違う、なんの飾りっけもない黒い紐。あまり美しくない、赤い線が入った黒い多面体。
「そんなものしか、キミにあげられない。だから……ボクは、お兄ちゃんには、なれなかったんだ」
「…………ううん、すごく嬉しい」
僕はすぐにそのネックレスで首を飾り、ライアーに見せた。
「ありがとう、ライアー兄さん」
ライアーは目を見開いて、それから嬉しそうに笑ってくれた。
けれどすぐに血を吐いた。苦しそうに、痛そうに。
もう助からないのに、まだ生きている。
「…………ヘル。ボクの、弟。大切な、ボクの家族。愛してるよ、ずっと……」
「……うん。ありがとう、さよなら。兄さん」
僕はナイフを拾い、両手で握って、高く振り上げて────ライアーの首に突き立てた。引き抜くと大量の血が溢れ出して、目の前が赤く染まった。
僕は手探りに扉を開いて、ナイフを廊下に捨てて、裏口から外に出た。
恐いくらいに美しい月が水面に揺らめいている。その表情は伺えない。
「……兄さん、殺しちゃった」
ライアーの喉を切り裂いた時の返り血が僕の全身を赤く染めている。それは本来恐ろしい事のはずだけれど、今の僕にはライアーの存在の証明が出来ているようで、とても嬉しかった。
「…………兄さん」
優しい他人の兄は、もういない。僕が殺した。
どうして?
僕はゲームをしていただけなのに、どうして現実でもライアーは死んでしまったの?
僕はどうしてゲームの中でライアーを信じなかったの? どうして話を聞かなかったの?
『ねぇ、どうして?』
「…………君の、せいだろ」
『責任転嫁はよくないなぁ』
「なんでここにいるの、ナイ君」
いつの間にか背後に這い寄っていたナイは僕の前に回って、無邪気な笑顔を作ってみせる。
『教えてあげる。ボクはゲームをしているキミにナイフを握らせて拘束を外しただけだ。キミはキミの自由意志でライアーを殺したんだよ』
「…………違う」
『気に入らなかっだんだろう? 兄を騙る彼が。許せなかったんだろう? 兄のような愛し方をしてくれない彼が』
「違う! 僕は嬉しかったんだ……にいさまとは違って、僕に優しくしてくれてっ……本当に、最初から、僕の兄さんだったならって、本気で思ったんだよ!」
そうだ、僕の兄は彼であるべきだった。愛情表現は抱擁と愛撫だけで為されるべきだった、怒号と暴力などで為されるべきではなかった。
『キミは、彼に殴られたかった。そうやって愛されたかったんだ。お兄さんにされたように、キミは彼にボロ切れみたいになるまで嬲られたかったんだよ』
「……っ、そんなわけないだろ!? どこに殴られたがる奴がいるんだよ!」
『ここに居るよ、キミだ。キミは兄という存在は暴力で愛情を表すものだと認識している。幼いキミが受けた愛は兄からのものだけだ。キミは暴力でしか愛を感じられない。だから愛してくれないくせに兄を騙る彼が憎くて、怖くて、殺したんだ』
違う。僕はそんな人間じゃない。
何もかも分かったような口をきいて、勝ち誇った笑顔で、僕の思考を決めつける。
僕は何よりもナイが憎い。
『……そうそう、もう一つ言い忘れがあった。ここはル・リエー・イミタシオン。遥か深くに沈んだ理想郷の紛い物さ。だから、人間には合わない』
咆哮が響く。
波を作り出したその咆哮はカフェの方角から聞こえてきた。
『おっと、悪魔にも合わないみたいだね。それとも……ふふ、誰かが何かしたのかな? 彼のテレパシーはほとんどが海水に遮断されているけれど、強力なテレパスがそれを中継すればこの街くらいは覆えるんだ。ここでは人は狂ってしまうんだよ。記憶が混濁し、疑心暗鬼になり、凶暴性が増すんだ』
咆哮に作られた衝撃波で飛んできた巻貝や建物の破片が僕に──泡を作り出す首飾りに当たる。
『……優れたテレパスであるあの神父が中継器となれば、並の人間より耐性があるキミや悪魔にも夢は見せられる』
ヒビが入ったことで魔術的な効果が消え、泡が小さくなっていく。僕は泡の中に残った僅かな空気を全て一息で吸い込んだ。
『深い、暗い、冷たい、海の底。そんな理想郷の夢をキミはもう見たのかな?』
「 壊 せ 」
『……良い調子で育ってくれて嬉しいよ、新たなる支配者さん』
海が揺れる。
僕の声が──魔力が届いた範囲に居た全ての海洋魔獣がここに向かってきている。
僕はゴツゴツとした岩によじ登り首飾りを捨てる。
ナイは、ナイはどこだ。振り返って海の中を覗いてみても見当たらない。何よりもアレを壊したいのに、アレを殺させたいのに。
『どこ探してるのさ……っと! 積極的だねぇ』
ナイはいつの間にか背後に立っていた。僕は彼の腕を掴んで、背面にひねり上げた。
『痛いな、やめてよ。こんな子供に酷いじゃないか』
「ここだ、ここにいる! コイツを 殺 せ !」
僕の絶叫に呼応して、鋭い歯を持つ鮫型の魔獣が海面から飛び出した。僕はその魔獣にナイを差し出したが、あと少しというところで邪魔が入る。魔獣が蹴り飛ばされたのだ。
「ガキ! 大丈夫か!」
『まだ生きてるよ。でも腕が痛いなぁ』
月の光を背中から受けて、こちらを向いた男の顔は見えない。けれどその高い背と頭に生えた巨大な角には見覚えがあった。
「……ハートさん? どうして、なんで邪魔したんだよ!」
鹿の獣人、ハートだ。僕は無事を喜ぶことも再会を喜ぶこともせず、醜い感情を曝け出して彼を責めた。ハートは無言のまま、ナイの腕を掴んだ僕の手首を掴む。その力は強く、僕はナイの腕を離してしまった。
『あっはは、ありがと鹿っ子ちゃん』
「……っ、たい! 離してください! どうしたんですかハートさん! そいつは、そいつが全部悪いんですよ!」
ギリギリと手首を締め上げられる、このままでは折れてしまう。
「…………悪いな」
ハートはそう呟いて、僕の鳩尾に膝を抉り込む。僕の足の力が抜けるのと同時に手は離され、僕は硬い岩の上に倒れ込んだ。
咳き込んでも、胃液を零しても、ハートはただ僕を見下ろすだけだった。逆光で見えないその顔は酷く冷たいように思えてならない。
「ハー……ト、さ……なん、で?」
「じゃあな。もう会わないことを祈ってるよ」
縋りつこうと伸ばした手は軽く蹴り払われて、僕は嗚咽を止められなくなった。ナイを抱えて去っていくハートの背を目で追うことも出来ず、魔獣で荒れる海の水飛沫を浴びていた。
僕は訳が分からないながらもナイフを捨て、ライアーの首に手を当てる。弱々しい呼吸と脈を感じて、一先ず胸を撫で下ろす。
「ライアーさん、ライアーさん、起きて、何があったんですか」
僕がゲームをしている間に誰に襲われたのだろう、酷い出血だ。
「…………僕じゃないですよね、そうですよね。僕はゲームをしていて、椅子に、縛られてて」
椅子の拘束は解かれていた。
ナイフは僕の手に握られていた。
「違いますよね? 起きて、違うって言ってください。僕は、僕はあなたを殺してない! そうですよね!」
そう、殺していない。まだ死んでいない。けれどきっともうすぐ死ぬ。
「起きて、起きてよ、目を開けてよ。何か話してよ。ねぇお願い起きて、起きてったら……ライアーさん、起きて」
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その手当は僕には出来ない。無意味に、むしろ悪化するかもしれないのに、僕はライアーの体を揺さぶり続けた。すると、ライアーはゆっくりと目を開いた。
「…………ヘル君?」
「ライアーさん! 良かった、大丈夫ですか? 何があったんですか? 誰がこんなこと……」
「ヘル、君。ごめんね」
「……な、なにが、です?」
「…………ボクじゃダメだったんだね。馬鹿みたい、浮かれて……」
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浅黒い肌に深紅の血が映える。苦しそうな表情も相まって、どんな芸術作品ですら足元にも及ばない美しさだ。
「ボクじゃ、キミのお兄ちゃんにはなれなかった」
「……ぁ、あの、僕……は、その……」
「…………これあげる」
ライアーは上着のポケットに手を入れ、黒い紐を指に絡め、それを僕の手に握らせた。
「……ネックレス?」
ゲームとは違う、なんの飾りっけもない黒い紐。あまり美しくない、赤い線が入った黒い多面体。
「そんなものしか、キミにあげられない。だから……ボクは、お兄ちゃんには、なれなかったんだ」
「…………ううん、すごく嬉しい」
僕はすぐにそのネックレスで首を飾り、ライアーに見せた。
「ありがとう、ライアー兄さん」
ライアーは目を見開いて、それから嬉しそうに笑ってくれた。
けれどすぐに血を吐いた。苦しそうに、痛そうに。
もう助からないのに、まだ生きている。
「…………ヘル。ボクの、弟。大切な、ボクの家族。愛してるよ、ずっと……」
「……うん。ありがとう、さよなら。兄さん」
僕はナイフを拾い、両手で握って、高く振り上げて────ライアーの首に突き立てた。引き抜くと大量の血が溢れ出して、目の前が赤く染まった。
僕は手探りに扉を開いて、ナイフを廊下に捨てて、裏口から外に出た。
恐いくらいに美しい月が水面に揺らめいている。その表情は伺えない。
「……兄さん、殺しちゃった」
ライアーの喉を切り裂いた時の返り血が僕の全身を赤く染めている。それは本来恐ろしい事のはずだけれど、今の僕にはライアーの存在の証明が出来ているようで、とても嬉しかった。
「…………兄さん」
優しい他人の兄は、もういない。僕が殺した。
どうして?
僕はゲームをしていただけなのに、どうして現実でもライアーは死んでしまったの?
僕はどうしてゲームの中でライアーを信じなかったの? どうして話を聞かなかったの?
『ねぇ、どうして?』
「…………君の、せいだろ」
『責任転嫁はよくないなぁ』
「なんでここにいるの、ナイ君」
いつの間にか背後に這い寄っていたナイは僕の前に回って、無邪気な笑顔を作ってみせる。
『教えてあげる。ボクはゲームをしているキミにナイフを握らせて拘束を外しただけだ。キミはキミの自由意志でライアーを殺したんだよ』
「…………違う」
『気に入らなかっだんだろう? 兄を騙る彼が。許せなかったんだろう? 兄のような愛し方をしてくれない彼が』
「違う! 僕は嬉しかったんだ……にいさまとは違って、僕に優しくしてくれてっ……本当に、最初から、僕の兄さんだったならって、本気で思ったんだよ!」
そうだ、僕の兄は彼であるべきだった。愛情表現は抱擁と愛撫だけで為されるべきだった、怒号と暴力などで為されるべきではなかった。
『キミは、彼に殴られたかった。そうやって愛されたかったんだ。お兄さんにされたように、キミは彼にボロ切れみたいになるまで嬲られたかったんだよ』
「……っ、そんなわけないだろ!? どこに殴られたがる奴がいるんだよ!」
『ここに居るよ、キミだ。キミは兄という存在は暴力で愛情を表すものだと認識している。幼いキミが受けた愛は兄からのものだけだ。キミは暴力でしか愛を感じられない。だから愛してくれないくせに兄を騙る彼が憎くて、怖くて、殺したんだ』
違う。僕はそんな人間じゃない。
何もかも分かったような口をきいて、勝ち誇った笑顔で、僕の思考を決めつける。
僕は何よりもナイが憎い。
『……そうそう、もう一つ言い忘れがあった。ここはル・リエー・イミタシオン。遥か深くに沈んだ理想郷の紛い物さ。だから、人間には合わない』
咆哮が響く。
波を作り出したその咆哮はカフェの方角から聞こえてきた。
『おっと、悪魔にも合わないみたいだね。それとも……ふふ、誰かが何かしたのかな? 彼のテレパシーはほとんどが海水に遮断されているけれど、強力なテレパスがそれを中継すればこの街くらいは覆えるんだ。ここでは人は狂ってしまうんだよ。記憶が混濁し、疑心暗鬼になり、凶暴性が増すんだ』
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『……優れたテレパスであるあの神父が中継器となれば、並の人間より耐性があるキミや悪魔にも夢は見せられる』
ヒビが入ったことで魔術的な効果が消え、泡が小さくなっていく。僕は泡の中に残った僅かな空気を全て一息で吸い込んだ。
『深い、暗い、冷たい、海の底。そんな理想郷の夢をキミはもう見たのかな?』
「 壊 せ 」
『……良い調子で育ってくれて嬉しいよ、新たなる支配者さん』
海が揺れる。
僕の声が──魔力が届いた範囲に居た全ての海洋魔獣がここに向かってきている。
僕はゴツゴツとした岩によじ登り首飾りを捨てる。
ナイは、ナイはどこだ。振り返って海の中を覗いてみても見当たらない。何よりもアレを壊したいのに、アレを殺させたいのに。
『どこ探してるのさ……っと! 積極的だねぇ』
ナイはいつの間にか背後に立っていた。僕は彼の腕を掴んで、背面にひねり上げた。
『痛いな、やめてよ。こんな子供に酷いじゃないか』
「ここだ、ここにいる! コイツを 殺 せ !」
僕の絶叫に呼応して、鋭い歯を持つ鮫型の魔獣が海面から飛び出した。僕はその魔獣にナイを差し出したが、あと少しというところで邪魔が入る。魔獣が蹴り飛ばされたのだ。
「ガキ! 大丈夫か!」
『まだ生きてるよ。でも腕が痛いなぁ』
月の光を背中から受けて、こちらを向いた男の顔は見えない。けれどその高い背と頭に生えた巨大な角には見覚えがあった。
「……ハートさん? どうして、なんで邪魔したんだよ!」
鹿の獣人、ハートだ。僕は無事を喜ぶことも再会を喜ぶこともせず、醜い感情を曝け出して彼を責めた。ハートは無言のまま、ナイの腕を掴んだ僕の手首を掴む。その力は強く、僕はナイの腕を離してしまった。
『あっはは、ありがと鹿っ子ちゃん』
「……っ、たい! 離してください! どうしたんですかハートさん! そいつは、そいつが全部悪いんですよ!」
ギリギリと手首を締め上げられる、このままでは折れてしまう。
「…………悪いな」
ハートはそう呟いて、僕の鳩尾に膝を抉り込む。僕の足の力が抜けるのと同時に手は離され、僕は硬い岩の上に倒れ込んだ。
咳き込んでも、胃液を零しても、ハートはただ僕を見下ろすだけだった。逆光で見えないその顔は酷く冷たいように思えてならない。
「ハー……ト、さ……なん、で?」
「じゃあな。もう会わないことを祈ってるよ」
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