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第二十九章 愛し仔の為の弔辞
無償の愛
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ヘルが大神の元へ飛び出した後、木陰では。
『……アレは私なのか』
『自分の前の身体に焼き付いた感情の塊や、そのもんとちゃう』
アルはじっと大神を──以前の自分の死体を見つめていた。
『しばらく二人にしたった方がええやろな。焼き付けは未練晴らしたら消えること多いわ。あにさん、手ぇ出しなや』
『……分かってるよ』
エアは面白くないと顔を背ける。王は何が何だか分からないと口を開けていたが、口を挟まないだけの賢さはあった。
『…………なぁ、鬼。あの私は……純粋だな』
アルは自らの首にかかった宝石を見る。前足で不器用につついて、激しく変わっていく色を眺めた。
『私は、ヘルに醜い感情を押し付けて、こんな物まで与えさせたのに……』
自分が今抱いている愛情は恋心。けれど目の前の死体は母性本能でヘルを愛している。いつあの美しい愛を失ったのだろう……と、アルは視線を石から大神に移した。
『焼き付けやからそう見えるだけや。死に際の強い感情の塊、アレは本質とちゃう。昔の自分そのもんとちゃうねん』
『……私は、ここで堕天使と出会ったのは覚えている。けれど殺されたのは覚えていない。それに……今さっき、奴は「魔物使いでなくとも愛している」と言った。私はそれを言い切る自信が無い、ヘルが魔物使いでなくなったら見つけられないんだ!』
初めに死んだ時、アルのコアは少し欠けた。二度目に死んだ時、砕け散ったコアを集めはしたものの細かな欠片は拾えなかった。賢者の石として作り直し記憶の再生も図ったが、十分とは言えない。
『私だって奴に負けないくらいヘルを愛している! けれどっ、その感情は……酷く醜い、独占欲だ』
『……そんなもんやろ。奴さんも大して変わらんて』
例えそうだとしても、アルにはそう見えない。
首に下げたヘルからの愛の証も、今目の前で大神の為に嗚咽するヘルを見ていたら信じられなくなる。そしてその不信感がまた自己嫌悪を煽る。
アルは心を落ち着かせようと石を眺める──が、石は先程までとは打って変わってドス黒い煙が渦巻くような模様を出していた。
今目の前に居るアルを救うことは出来ない。酒呑が言うにはこのアルは死体に感情が焼き付いただけの存在で、生き物ではないのだ。
『……ヘル。何か辛い事があったんだな? 話せ……とは言わない。だが、やって欲しいことがあるなら言ってくれ』
僕に優しく声をかけ続けてくれるアルは僕との約束を果たす為だけに動いていたのだ。僕に会う為だけに人を喰らっていたのだ。
『ここには貴方以外に誰も居ないのか? 独りでこんな所まで来たのか?』
優しい言葉は僕の心に返し付きの針となって突き刺さっていく。心が痛くて優しさを拒絶して、拒絶した事で自分を嫌って心は裂けていく。
『……寂しかったんだな? 大丈夫、私はもう貴方の傍から離れないよ』
「…………ねぇ、アル」
『あぁ、何だ、ヘル。何でも言え、私に出来る事なら全て叶えてやるからな』
「………………殺して」
頭を掻き毟っていた手を首に移す。ガリガリと引っ掻いて皮膚を剥がす。
『ヘル? 何だ、何をしているんだ? 貴方の血の匂いがするんだ……怪我をしているのか?』
「……美味しそうでしょ? 食べていいよ。そうすれば、きっと……生き返れるはず……」
僕の血肉に宿る魔力なら、焼き付けを魂として定着させることだって可能なはずだ。そうでなくては困る、そうでなければ助けられない。
『馬鹿を言うな! 自傷しているのか? 今すぐやめろ!』
その剣幕に一瞬怯む。どん、と体当たりをされ、僕は仕方なく腕を下ろした。首に創った傷を舐められ、甘やかな痛みを覚える。そして自分が生きていることを認識し、潰れたままのアルの目に死を感じた。
「……ごめんなさい」
『…………私にとって貴方は大切な人なんだ、そう易々と傷付けないでくれ』
「ごめんなさいっ……ごめんなさい、アル……」
『分かればいいんだ。怒ってはいないよ』
どこまでも優しいアルを抱き締め、僕はその耳元で全てを説明した。コアだけを持ってアルを作り直した事を、今は一人ではない事を、君はもう死んでいて焼き付け現象でしかないんだと言う事を。
『……コアが無い事には気が付いていた、身体が腐っているのも分かっていた。でも……それでも、貴方との約束を果たしたかったんだ。貴方が心配だった』
アルは予想以上に冷静に全てを受け止めた。
『…………私は貴方の傍に居たのか?』
「うん……ずっと」
『そうか、なら良かった。こんな死体はもう要らなかったんだな。迎えに来てくれたのかだなんて、馬鹿な事を言った。手間を掛けさせて済まなかった』
強く抱き締めるとパキポキと骨が折れる。毛を掴むと皮膚ごと剥がれる。それでもアルはその痛みを感じず、詰まることなく話す。
本当に死んでいるんだ。
『……今は何処に居るんだ?』
「そこ……」
アルが居る方を指差すと兄はアルにかけた魔法を解き、アルを送り出した。目の前にアルが──崩れかけた死体と美しい生き物が並ぶ。
『…………強くなっているようだな』
『……ああ』
『ヘルを頼む……など、言わなくても果たされるな』
『勿論』
『…………私のように約束を破るなよ』
アルがいつ約束を破ったと言うんだ。約束を破っているのはいつだって僕の方だ。
『……なぁ、貴様のその美しい愛情は……恋心か?』
『分かっているだろう? 貴様は、私は、ヘルに名前を呼ばれた時から……存在を求められた時から、彼の虜だ』
『………………そうだったな』
アルは互いに額を寄せ合う。
『……好いた男をこの先も守れる喜び、噛み締めろよ』
『……好いた男の為に死ねたんだ、もう起きるなよ』
そして、ふらと僕の元にボロボロの身体が倒れ込んでくる。
「…………アル?」
潰れた瞳は瞼に隠されて、冷たい身体は少しも動かず、優しい声も聞こえてこない。
「……まだ、何も言ってない。まだっ……何も、してあげられてない」
再臨した大神はただの死体に戻った。
焼き付けは消え、魂すら持たない獣は何処にも行けない。
死は、無だ。
「………………アル」
『……あぁ、何だ?』
「…………乗っていい?」
胴に黒蛇が巻き付く。ふわりと浮かび、漆黒の翼の間に納められる。強靭な身体は抱き締めても砕けず、美しい銀毛は掴もうとちぎれもしない。生きていればこんなにも強いアルも、僕の為に死ねばあんなにも脆くなってしまう。
「……ねぇ、アル。今度からは……僕が君を守るからね」
もう二度と焼き付けは起こさせない。もう二度と死体にはさせない。
僕はそう誓い、心地好い揺れと優しい体温の眠りの誘いに乗った。
僕はその日不思議な夢を見た。
幼い日、母に殺されかけて、兄が助けてくれて──その後部屋で殴られて、その一連の様子を父が眺めている、よくあった日の夢だ。
そこまではよく見る夢だった。
蹲って暴力に耐えていると、不意に止む。飽きたのかと顔を上げると銀色の毛皮があった。
誰かが兄と僕の間に割って入ったようだ。
部屋の灯りも窓からの陽光も消える、光を吸い込む漆黒の翼に遮られる。その心地好い闇に酔い始めると腹に蛇が巻きつく。
『…………ヘル』
耳元で優しい声が僕の名前を呼んだ。
それと同時に周囲の音と兄の怒声が消えた。
『……愛しているよ』
低く甘い声だけが耳に届く。僕の脳を蕩かす。
『私だけは貴方から離れない』
兄に付けられた傷が消える。手足が伸びて、幼い日の僕は居なくなる。
『ずっと、此処で、二人きりで……』
僕は僕を甘やかし続ける優しい声の主の首に腕を回す。喉に耳を当てるとそこから息遣いと声が聞こえた。
「……どこにも行かない?」
『ああ、この尾を解かない』
きゅ、と胴を締め付ける尾が存在を主張する。
「……僕を嫌いにならない?」
『ああ、毎日こうやって愛を伝えよう』
翼に作られた安息の闇が更に狭くなる。
「…………僕、君に愛されていていいの?」
『当然だ。愛されてはいけない人間など居るものか』
頬に生温く濡れたものが押し当てられる──子供に毛繕いをするように優しく舐められている。
アルが僕の望む言葉と望む行為だけを繰り返す。
あぁ、なんて素晴らしい夢だろう。
自分を正当化するためだけにアルの虚像を作り出して、慰められて喜んでいる。
あぁ、なんて浅ましい人間だろう。
どんな夢を見ようと、何を思い込もおうと、僕がアルを置き去りにしたのは変わらないし、美しいアルを醜い死体にした罪は償われない。
死体になっても、魂すら持たなくても、人を喰らってまで僕を待っていたアルに何も言えなかった、何も出来なかった、何の恩も愛も返せなかった。
僕にはアルに愛される資格なんてない。
僕はアルに愛されていないと生きていけない。
あぁ、早く魔物使いとして成熟しないかな。そうすれば人間と魔物を繋ぐ架け橋になれる、それさえ果たせば僕に意味はなくなる、そうなったら僕はようやく……自由に、無に還るんだ。
『……アレは私なのか』
『自分の前の身体に焼き付いた感情の塊や、そのもんとちゃう』
アルはじっと大神を──以前の自分の死体を見つめていた。
『しばらく二人にしたった方がええやろな。焼き付けは未練晴らしたら消えること多いわ。あにさん、手ぇ出しなや』
『……分かってるよ』
エアは面白くないと顔を背ける。王は何が何だか分からないと口を開けていたが、口を挟まないだけの賢さはあった。
『…………なぁ、鬼。あの私は……純粋だな』
アルは自らの首にかかった宝石を見る。前足で不器用につついて、激しく変わっていく色を眺めた。
『私は、ヘルに醜い感情を押し付けて、こんな物まで与えさせたのに……』
自分が今抱いている愛情は恋心。けれど目の前の死体は母性本能でヘルを愛している。いつあの美しい愛を失ったのだろう……と、アルは視線を石から大神に移した。
『焼き付けやからそう見えるだけや。死に際の強い感情の塊、アレは本質とちゃう。昔の自分そのもんとちゃうねん』
『……私は、ここで堕天使と出会ったのは覚えている。けれど殺されたのは覚えていない。それに……今さっき、奴は「魔物使いでなくとも愛している」と言った。私はそれを言い切る自信が無い、ヘルが魔物使いでなくなったら見つけられないんだ!』
初めに死んだ時、アルのコアは少し欠けた。二度目に死んだ時、砕け散ったコアを集めはしたものの細かな欠片は拾えなかった。賢者の石として作り直し記憶の再生も図ったが、十分とは言えない。
『私だって奴に負けないくらいヘルを愛している! けれどっ、その感情は……酷く醜い、独占欲だ』
『……そんなもんやろ。奴さんも大して変わらんて』
例えそうだとしても、アルにはそう見えない。
首に下げたヘルからの愛の証も、今目の前で大神の為に嗚咽するヘルを見ていたら信じられなくなる。そしてその不信感がまた自己嫌悪を煽る。
アルは心を落ち着かせようと石を眺める──が、石は先程までとは打って変わってドス黒い煙が渦巻くような模様を出していた。
今目の前に居るアルを救うことは出来ない。酒呑が言うにはこのアルは死体に感情が焼き付いただけの存在で、生き物ではないのだ。
『……ヘル。何か辛い事があったんだな? 話せ……とは言わない。だが、やって欲しいことがあるなら言ってくれ』
僕に優しく声をかけ続けてくれるアルは僕との約束を果たす為だけに動いていたのだ。僕に会う為だけに人を喰らっていたのだ。
『ここには貴方以外に誰も居ないのか? 独りでこんな所まで来たのか?』
優しい言葉は僕の心に返し付きの針となって突き刺さっていく。心が痛くて優しさを拒絶して、拒絶した事で自分を嫌って心は裂けていく。
『……寂しかったんだな? 大丈夫、私はもう貴方の傍から離れないよ』
「…………ねぇ、アル」
『あぁ、何だ、ヘル。何でも言え、私に出来る事なら全て叶えてやるからな』
「………………殺して」
頭を掻き毟っていた手を首に移す。ガリガリと引っ掻いて皮膚を剥がす。
『ヘル? 何だ、何をしているんだ? 貴方の血の匂いがするんだ……怪我をしているのか?』
「……美味しそうでしょ? 食べていいよ。そうすれば、きっと……生き返れるはず……」
僕の血肉に宿る魔力なら、焼き付けを魂として定着させることだって可能なはずだ。そうでなくては困る、そうでなければ助けられない。
『馬鹿を言うな! 自傷しているのか? 今すぐやめろ!』
その剣幕に一瞬怯む。どん、と体当たりをされ、僕は仕方なく腕を下ろした。首に創った傷を舐められ、甘やかな痛みを覚える。そして自分が生きていることを認識し、潰れたままのアルの目に死を感じた。
「……ごめんなさい」
『…………私にとって貴方は大切な人なんだ、そう易々と傷付けないでくれ』
「ごめんなさいっ……ごめんなさい、アル……」
『分かればいいんだ。怒ってはいないよ』
どこまでも優しいアルを抱き締め、僕はその耳元で全てを説明した。コアだけを持ってアルを作り直した事を、今は一人ではない事を、君はもう死んでいて焼き付け現象でしかないんだと言う事を。
『……コアが無い事には気が付いていた、身体が腐っているのも分かっていた。でも……それでも、貴方との約束を果たしたかったんだ。貴方が心配だった』
アルは予想以上に冷静に全てを受け止めた。
『…………私は貴方の傍に居たのか?』
「うん……ずっと」
『そうか、なら良かった。こんな死体はもう要らなかったんだな。迎えに来てくれたのかだなんて、馬鹿な事を言った。手間を掛けさせて済まなかった』
強く抱き締めるとパキポキと骨が折れる。毛を掴むと皮膚ごと剥がれる。それでもアルはその痛みを感じず、詰まることなく話す。
本当に死んでいるんだ。
『……今は何処に居るんだ?』
「そこ……」
アルが居る方を指差すと兄はアルにかけた魔法を解き、アルを送り出した。目の前にアルが──崩れかけた死体と美しい生き物が並ぶ。
『…………強くなっているようだな』
『……ああ』
『ヘルを頼む……など、言わなくても果たされるな』
『勿論』
『…………私のように約束を破るなよ』
アルがいつ約束を破ったと言うんだ。約束を破っているのはいつだって僕の方だ。
『……なぁ、貴様のその美しい愛情は……恋心か?』
『分かっているだろう? 貴様は、私は、ヘルに名前を呼ばれた時から……存在を求められた時から、彼の虜だ』
『………………そうだったな』
アルは互いに額を寄せ合う。
『……好いた男をこの先も守れる喜び、噛み締めろよ』
『……好いた男の為に死ねたんだ、もう起きるなよ』
そして、ふらと僕の元にボロボロの身体が倒れ込んでくる。
「…………アル?」
潰れた瞳は瞼に隠されて、冷たい身体は少しも動かず、優しい声も聞こえてこない。
「……まだ、何も言ってない。まだっ……何も、してあげられてない」
再臨した大神はただの死体に戻った。
焼き付けは消え、魂すら持たない獣は何処にも行けない。
死は、無だ。
「………………アル」
『……あぁ、何だ?』
「…………乗っていい?」
胴に黒蛇が巻き付く。ふわりと浮かび、漆黒の翼の間に納められる。強靭な身体は抱き締めても砕けず、美しい銀毛は掴もうとちぎれもしない。生きていればこんなにも強いアルも、僕の為に死ねばあんなにも脆くなってしまう。
「……ねぇ、アル。今度からは……僕が君を守るからね」
もう二度と焼き付けは起こさせない。もう二度と死体にはさせない。
僕はそう誓い、心地好い揺れと優しい体温の眠りの誘いに乗った。
僕はその日不思議な夢を見た。
幼い日、母に殺されかけて、兄が助けてくれて──その後部屋で殴られて、その一連の様子を父が眺めている、よくあった日の夢だ。
そこまではよく見る夢だった。
蹲って暴力に耐えていると、不意に止む。飽きたのかと顔を上げると銀色の毛皮があった。
誰かが兄と僕の間に割って入ったようだ。
部屋の灯りも窓からの陽光も消える、光を吸い込む漆黒の翼に遮られる。その心地好い闇に酔い始めると腹に蛇が巻きつく。
『…………ヘル』
耳元で優しい声が僕の名前を呼んだ。
それと同時に周囲の音と兄の怒声が消えた。
『……愛しているよ』
低く甘い声だけが耳に届く。僕の脳を蕩かす。
『私だけは貴方から離れない』
兄に付けられた傷が消える。手足が伸びて、幼い日の僕は居なくなる。
『ずっと、此処で、二人きりで……』
僕は僕を甘やかし続ける優しい声の主の首に腕を回す。喉に耳を当てるとそこから息遣いと声が聞こえた。
「……どこにも行かない?」
『ああ、この尾を解かない』
きゅ、と胴を締め付ける尾が存在を主張する。
「……僕を嫌いにならない?」
『ああ、毎日こうやって愛を伝えよう』
翼に作られた安息の闇が更に狭くなる。
「…………僕、君に愛されていていいの?」
『当然だ。愛されてはいけない人間など居るものか』
頬に生温く濡れたものが押し当てられる──子供に毛繕いをするように優しく舐められている。
アルが僕の望む言葉と望む行為だけを繰り返す。
あぁ、なんて素晴らしい夢だろう。
自分を正当化するためだけにアルの虚像を作り出して、慰められて喜んでいる。
あぁ、なんて浅ましい人間だろう。
どんな夢を見ようと、何を思い込もおうと、僕がアルを置き去りにしたのは変わらないし、美しいアルを醜い死体にした罪は償われない。
死体になっても、魂すら持たなくても、人を喰らってまで僕を待っていたアルに何も言えなかった、何も出来なかった、何の恩も愛も返せなかった。
僕にはアルに愛される資格なんてない。
僕はアルに愛されていないと生きていけない。
あぁ、早く魔物使いとして成熟しないかな。そうすれば人間と魔物を繋ぐ架け橋になれる、それさえ果たせば僕に意味はなくなる、そうなったら僕はようやく……自由に、無に還るんだ。
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