魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン

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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

可愛いあのこ

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肩のあたりに肉球と爪の感触がある。それに揺さぶられて起きると頬や顔、口の周りを舐め回された。

『おはよう、ヘル』

眠る前にはあったカーテンの隙間からの陽光は消えていた。日は沈んだらしい。

『……貴方が人でなくなったとベルゼブブ様から聞いている。だが、ロキの封印は……人間だと偽るものと言っていたな? それなら食事は必要だと思うのだが、どうだ? 腹は減ったか?』

「…………なんで人間じゃなくなったか、知ってる?」

その理由を知っていれば長い夢が別世界での出来事だとも分かるだろう。それだけは避けたかったけれど、もうすぐアルの記憶から僕を消すのだから、もう何もかもどうでもいい。

『神性に術を教わったり、悪魔に深く関わり過ぎて変質した……と聞いているが、違うのか? 人間でなくなったといっても上位存在という訳では無く、妖鬼の国で見る妖怪のようなものだと。確かに貴方の気配は神性にも魔性にも思えるのに基本は人のままだ、感覚からしても確信が持てるのだが』

ベルゼブブは夢のことなど分からないのだろう、彼女の十五年間はきっとどちらの世界も変わらなかった。それならアルに自慢げにしたであろう説明が的はずれな予想でも仕方ない。

「……僕もよく分かんない」

わざわざ真実を話す必要は無いし、上手く説明出来るとは思えない。どうでもいい、面倒臭い……どうせアルはもうすぐロキに渡すのだから。

『で、ヘル。食事は必要か?』

「…………多分」

アルに言われて始めて空腹に気が付く。凹んで骨の浮いた腹や肋を服の上から撫でて、ため息をついた。

『何か持って来る。もう作っているかどうか分からない、暫くかかるかも知れん。気長に待てよ』

「ん……出来れば早く帰ってきてね、寂しい」

『……ぁ、あぁ! 素直になったな、嬉しいぞ。出来る限り急ぐからな!』

扉が閉まり、カチャカチャと可愛らしい足音が遠ざかる。
ベッドを降りカーテンをくぐって窓を開け、身を乗り出し夜風に曝した。見える景色は特段美しくもなく、風も気持ちの良いものではない。

「…………『黒』、君は……もう消えたの? 消えてないなら、名前を返したい。消えちゃったなら……この力、使わせてね」

サッシを掴んで力を込めても指や手のひらにくい込んで痛むだけ。力は封印されている。薄っぺらなものだから解けやすいと言っていたが、どうやれば解けるのかは分からない。封印が解けない限りアルと居られる──出来るだけ、長く続いて──ダメだ、僕ではアルを不幸にしてしまう、出来るだけ早く解けてしまえ。

「……ナイ君、分かってるよ。僕は……幸せになっちゃダメなんだろ。そんなに言わなくても分かってる。大丈夫……君が幸せになれなかったんだ、この世界の誰も、アル以外は幸せになる権利なんてない。分かってる……大丈夫、全部、君の言う通り……」

男とも女ともつかない可愛らしい幼い声が耳元で、いや頭の中で囁き続ける。

「ナイ君の、言う通りに……全部、壊すから」

思考が染まっていくのが分かる。微かにでも十五年間続いてきたはずの『自己』が消えていくのが分かる。僕はじきに彼の傀儡になる、その前にアルだけは逃がすのだ。

「…………僕の神様」

ナイへの憎悪を含めて僕の全てはナイに塗り潰されてしまった、残ったのはアルへの愛情だけ。その愛情を使ってナイに最期の反抗をする、ナイが願った人界の破滅的な未来からアルだけを逃がす、小さく独善的な反抗──そしてナイが最も嫌う展開。

『……ヘル、居るか』

静かに扉が開き、アルが戻ってくる。食事を持ってきたのだろうと振り返るも、アルは何も持っていなかった。

『背に乗れ、散歩をしよう』

「…………ご飯は?」

『ご飯……? あぁ、そうだな……出先で食べよう』

外食にしよう、ではなく、外出のついでに飯を食おう……? アルの様子がおかしい気がする。

『ほら、早く乗るんだ』

窓を開け放ち、サッシに前足をかけ、僕を急かす。

「……うん」

様子がおかしいと感じるだけで確証はない。家の中で精神汚染や思考操作を受ける訳がない。そう考えた僕はアルの背に跨り、久しぶりの二人きりの空中散歩に微かな高揚と恐怖を覚えた。

「…………ロキ?」

『誰だ?』

「……いや、何でもない」

食事のことを忘れているような言動からロキがアルに化けてからかっているのではないかと疑ったが、そうでもなさそうだ。ロキがこんなに静かに過ごすとは思えない、前座にしては長過ぎる、とぼけるにしても「誰だ?」ではないだろう──誰だ?

「……アル、ロキのこと知ってるよね?」

『…………あぁ、知っている』

「ど、どんな……人?」

『一言で表すのは難しいな、まぁ悪い奴ではない』

当たり障りのない言葉だ、その程度ならロキを知らなくても言えるだろう。

「……ねぇアル、酒色の国から出ちゃってない? ご飯は? 何で出たの?」

しがみつくのに精一杯で下の景色はろくに見えないけれど、海を越えているのは流石に分かる。

『たまには遠出もいいだろう。他国にも良い店はある』

僕の状態が分かっていて遠出なんてするか?
あえて、気分転換、そう言われたらどうしようもないけれど、感覚でしかないけれど、アルは今おかしい。

「……フェル、何か作ってたんじゃないの?」

暫くかかるかもと、気長に待てと言っただろう。どうして急に国を跨いで外食なんだ。その言葉は流石に問い詰めているとバレそうで喉で止まった。

『失敗したらしい』

「……本当に?」

『…………煩いな、何をそんなに気にしているんだ。何が気に入らないんだ』

「お、怒らないでよ……ごめんね……」

確かに執拗くしてしまったが、こんなことでそんなに怒るなんてアルらしくない。

『ほら、着いたぞ』

「…………ここ、えっと……お菓子の国?」

今は至って普通の島国だけれど、ベルゼブブがここを出るまではお菓子に溢れていた。急な変化にどれだけの国民が適応できただろう、待ち行く人々の顔は暗い。

『もう少し乗っていろ』

以前まではビスケットだっただろう屋根を飛び移り、アルは以前までグミでできていてメルが住んでいた王城の中庭に着地した。

「…………アル? 何がしたいの?」

『降りろ』

尾が胴に巻き付き、乱暴に引っ張り落とされる。それに異を唱える前に中庭に居た大勢の兵士に槍を突きつけられ、体を起こすことさえ許されなくなる。王城への不法侵入者への対応だろうと思っていたが、アルにはどの兵士も槍を向けていない、それどころか背に庇うような姿勢を取っている。

『何がしたい、か。そうじゃな、強いて言うなら処刑か? ふん……勘がいいのか悪いのか。まぁ、出来が悪いのは確実じゃな』

銀色の体毛が金色に変わり、黒蛇の尾が九つに分かれてもふっと太く毛が生え揃う。

「玉藻……!?」

『鬱陶しい結界がようやく消えたからの。少し前から潜んでおった。気持ちの悪い奴じゃ、あんな醜い狼と睦言を交わすなど……人間とは思えんな。ふふ……まぁ、どうでもよい』

「……早く殺さないと後悔するよ」

醜い? 醜いと言ったか。許さない、許せない、封印さえなければ爪先からすり下ろしてやったのに。

『あぁ、何度も仕留め損なった。三度目の正直じゃ、力は使えんのじゃろう? 犬神も呼べん。その細っこい身体でどう抵抗する気か知らんが、煽ったところで無駄じゃ』

槍を突きつけられ、乱暴に腕を引かれ、僕は古い井戸らしきものに放り込まれた。背中や腰を打ちはしたものの骨折はしていない、幸運……なのだろうか。

「……痛っ」

足の裏に痛みを感じ、恐る恐る見てみれば土踏まずに枝が刺さっていた。肘も擦りむいている、手のひらの皮も剥けている、落ちる時無意識に手足を伸ばして井戸の内壁に擦り付けたのだろう。底は泥で水は膝の下あたりまで溜まっていた。

『生きておるか、ヘル。そこは井戸、この季節水はほぼ湧かん。だが水を貯めることは出来る。分かるな? これからそこに水を流し込む。首まで浸かる程度でな』

組まれた石の隙間は湿っており、普段は水が染み出していることが分かる。この隙間から水が大量に漏れ出ることはないだろう。玉藻の話は真実だ。

『身体を浮かすか? 井戸を這い上がるか? 好きにせい。数日も持たん。ではお前達、任せるぞ』

頭上からの声が止む。足の裏に刺さった枝を抜いても痛みは変わらない、むしろ出血は酷くなった。怪我をしていない方の足に体重をかけ、早々に膝を越した水をただ眺める。浮くことが出来れば楽かもしれないが、狭い井戸の中で身体の力を抜くのは難しいし、途中で止められるのなら浮いたところで脱出は出来ない。
水嵩が増えていく、反比例で身体が冷えていく。それなのに僕はまだ脱出法を見つけられないでいた。
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