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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た
井戸の底
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水嵩はもう腰の高さまで来た。手を顔の前に広げて観察するといつも以上に青白くなっていた。
「寒いっ……」
流し込まれる水は酷く冷たい。溺死より先に凍死、いや衰弱死が先だ。
井戸は石を組んで作っている、内壁には石と石の僅かな隙間が無数にある。指先なら入る、爪先も引っ掛けられる。登れるかもしれない。
「……っ、と……よし、いける……」
もたもたしていては身体が冷えて指先に力が入らなくなる。石と石の隙間に指先を差し込み、ぐっと力を込めて体を持ち上げる。水の中から片足を出し、手と同じように爪先も引っ掛ける。部屋の中から連れ出されたために裸足だったが、これは有利なのだろうか不利なのだろうか。
「いける、登れ……るっ! ぅあっ!?」
注がれる水は僕を狙うよう角度を変えた。頭から被せられて驚いたのと、指をかけていた壁が濡れたので指が滑り、落ちた。
「いったぁ…………ぁ、嘘っ……」
右手の中指と人差し指の爪が剥がれていた。
「…………痛っ!」
もう一度登ろうと壁に手を触れさせるだけで激痛が走る。足にも似たような痛みを感じて見てみれば足の爪も一つ剥がれていた。
「……無理だ」
壁に手を突っ張って登るには幅が合わないし、きっとまた水を直接かけられる。
水嵩は胸を越え、呼吸が不規則になる。末端が震え始め、歯が勝手にカチカチと音を立て始めた。本当に死んでしまうと半狂乱になって登ろうとしては落ちて、指先がボロボロになっていく。爪と皮が剥がれて、寒さで震えて、もう力が入らない。
「さむ、い……寒いよ、痛いっ……アル……」
水は顎の下までで止められた。僕はただ自分を抱き締め、呼吸を落ち着かせるよう努めた。
「……アルっ、たすけっ…………なくて、いいよ、アル……もう、捨てていいよ」
数時間前まではアルに包まれてとても温かかったのに、今はとても寒い。けれど、これが僕には似合っているのかもしれない。
「あは……はは、ははっ…………今なら、死ねる……」
笑いが零れた。幼い頃からの怠惰な願い……死が叶うかもしれない。
傷は再生しない、寒さは確実に僕の体力を奪っている。『黒』の力も魔物使いの力も無い、ロキに人間だと偽られた今なら、カヤもライアーも居ない今なら、僕は人間のように死ねるかもしれない。
アルの記憶から消えられないまま、『黒』に指輪も名前も渡せないまま、ここで死ぬ。
「…………ごめんね」
何もかも果たせないまま死ぬのは人間らしい。最期に人に戻れるのならそれ以上の幸運はない。
『ヘールー、生きておるか、もう朝じゃぞ? ふふ……』
玉藻の声が聞こえて顔を上げるも、彼女の顔は見えない。
『命乞いはなかったか? そうか…………ふん、つまらん奴じゃ。おい、水を足せ』
爪と皮が剥がれた指先は冷水にふやけてぐじゅぐじゅになっていた。もう登ろうとも思えない。追加される水を見上げて、顔から被った。水嵩が鼻を越した、死を確信し望んでいても溺れるのが怖くて足をバタバタと暴れさせて、足の甲や指先を底や壁に打ち付けて、寒さで震えるボロボロの指で壁を引っ掻いた。これは意識ではなく本能だ。
『ほぅ……? これは、なかなか。水をもっとすこしずつ……そう、ふむ、なかなか良い』
少しずつ水が増えていく。もう瞼も越えた。気管を冷たい水が侵し、身体を内側から冷やしていく。塞がらない傷のじゅくじゅくとした痛みを堪えて床を蹴り、水面に一瞬だけ顔が出た。
「助け……」
せめて助けてと叫べたら良かったのに、僕は寸前で躊躇った。どうせ助からないし、僕なんかが助かっても仕方ない、ここで死んだ方がマシだ、足掻きはやめて水に沈もう、そんな声が僕の頭の中で響いた。男とも女ともつかない幼く愛らしい声だった。
玉藻はこの上なく機嫌が良かった。妖鬼の国に居た頃最も恨んだ子供を始末出来たからだ。
そう、ヘルさえ居なければ、ヘルによる暗示さえなければ、陰陽師に好き勝手させることもなく妖鬼の国はこの九尾の狐の手中に落ちていたはずだった。
『……復讐は終わりじゃ。さてどこに行くか……』
独裁が出来る国の王の寵愛を受け、豊かな生活を楽しみながら少しずつ国を傾かせて混乱に陥れる。それが彼女の生き方で、趣味だった。
王族の血はとっくに途絶え、たった一人の偽物の王女を失ったばかりだったお菓子の国を乗っ取るのは容易くて、簡単過ぎてつまらなかった。暮らしも没落も楽しめない。
『ふぅん……やはり大陸が良いか』
掘り返して埋めたばかりの柔らかい土の上を歩きながら、攻略すべき国を探す。
『……狐、狐っ……狐狐狐狐っ!』
玉藻の目の前に突然姿を現したのは半透明の大きな犬だった。
『犬神!? そうか……死ねば、封印も何も無い』
牙を剥き、唸り、どこまでも純粋な憎悪を溢れさせたカヤ。
玉藻が指を鳴らすと兵士達が集まってくる。何の意志もなく玉藻に従う人形と化した兵士達は半透明の犬にも怯むことなく向かっていく。
『……時間を稼げ!』
羽織っていた着物を脱ぎ捨て、塀を越えようと跳びながら視線をカヤに向けた。その目には鋭い牙だけが映り、玉藻はカヤに肩を咬まれ塀の外側に落ちた。
『く……約立たず共が』
犬神という呪いが暴走したならば目に付いた人間から襲うはずだった。犬神は人間を恨むもの、対人特化の呪いだ。妖狐である自分が狙われるとは思っていなかった。
『犬神など、人間に媚びへつらう情けない犬などっ、この九尾の敵ではない!』
愚かにも人間を慕ってしまうが故に呪いに変えられた哀れな犬。種族としての犬嫌いに人間嫌いが合わさって玉藻は犬神が大嫌いだった。
真っ直ぐに玉藻に向かっていたカヤはピクっと耳を動かし、飛び退いた。その一瞬後に火柱が上がる。
『……馬鹿な』
犬神が攻撃を避けられるはずがない。そんな生き物のような戦い方が出来るはずはない。常識外れな行動に玉藻はカヤをよく観察した、思考を持たない犬神とこうして睨み合うことすらありえないのに、カヤは隙を見せず玉藻の一挙一動を観察している。
『…………鳥?』
指先を動かすことすらない緊迫した睨み合いの中、玉藻はカヤの首元の毛に埋もれた黒い小鳥を見つけた。
『……ふむ』
玉藻は美しい女から美しい獣へと姿を変え、九本の尾を広げる。その黄金の尾が揺れると無数の火の玉が周囲に浮かんだ。
カヤは身動ぎ一つしない、火に怯えない。玉藻は首を傾げて微かな囀りを聞いた。カヤの後ろ足を狙い、三つ火の玉を動かす。
『前に一尺、左に三寸、頭を尾より一寸下に』
的確な指示だ。だが、聞こえてしまえば誘導できる。
『後ろに二尺、左に五分……』
火の玉を順に動かし、鳥の指示の癖を確かめる。カヤは火の玉を避けながら着実に玉藻の元へ近付いていた。
『……左前脚を狙える』
体重のかけ方を変えてあえて作った隙に見事に嵌った。突進するカヤに左前脚を噛ませ、首の毛の中に潜んでいた鳥を奪った。
それと同時に高く跳躍し、城の二階のベランダの柵に着地する。その姿は美しい女の姿に戻っており、手の中には黒い小鳥が居た。
『何なのじゃぬしは……ふむ、妖怪……神霊の類か? 慣れてはいないが戦いの心得があるのか。生まれたてのようじゃが見覚えがある……』
強く掴まれた小鳥は鳴き声を上げた。その声はその小ささに似合わず醜いものだった。ピィと高い声で鳴くと思い込んでいた玉藻はその声に驚き、突っ込んできたカヤを躱すのに袖を持っていかれた。
『……っ!?』
小鳥から目を離したその一瞬、右手に痛みを感じて見てみれば指が全て落ちていた。左腕は骨を折られて、右手は指がない、これは不利だ。小鳥は翼に血を染み込ませ、その細い足で走ってカヤの前で止まった。カヤは頭を下げ、鼻先に小鳥を乗せて吠えた。
『犬神と意思疎通が出来るなど有り得ん!』
『……喉を狙える』
追い詰められた玉藻は狐の姿に戻り、その数を増やした、幻術だ。
『ど、レ』
『…………丑!』
カヤは身体を捻り、斜め後ろに居た狐に食らいつく。だが寸前で他の狐がそれを庇い、黄金の毛並みに揉みくちゃにされ、幻覚が消える頃には本体も消えていた。
『殺、セ……毋た、再……』
『機会はまたあります。それより、主君を』
『…………ご主人様!』
カヤはベランダから中庭に飛び降り、ボーッと空を見上げる兵士達を蹴散らし、埋め直されたばかりの柔らかい土を必死に掘り始めた。
『ご主人様っ、ご主……人、様っ、ご主人、様、ご主人様っ!』
そのうちに青白い肌が見え始め、カヤは前足の動きを早めた。
「寒いっ……」
流し込まれる水は酷く冷たい。溺死より先に凍死、いや衰弱死が先だ。
井戸は石を組んで作っている、内壁には石と石の僅かな隙間が無数にある。指先なら入る、爪先も引っ掛けられる。登れるかもしれない。
「……っ、と……よし、いける……」
もたもたしていては身体が冷えて指先に力が入らなくなる。石と石の隙間に指先を差し込み、ぐっと力を込めて体を持ち上げる。水の中から片足を出し、手と同じように爪先も引っ掛ける。部屋の中から連れ出されたために裸足だったが、これは有利なのだろうか不利なのだろうか。
「いける、登れ……るっ! ぅあっ!?」
注がれる水は僕を狙うよう角度を変えた。頭から被せられて驚いたのと、指をかけていた壁が濡れたので指が滑り、落ちた。
「いったぁ…………ぁ、嘘っ……」
右手の中指と人差し指の爪が剥がれていた。
「…………痛っ!」
もう一度登ろうと壁に手を触れさせるだけで激痛が走る。足にも似たような痛みを感じて見てみれば足の爪も一つ剥がれていた。
「……無理だ」
壁に手を突っ張って登るには幅が合わないし、きっとまた水を直接かけられる。
水嵩は胸を越え、呼吸が不規則になる。末端が震え始め、歯が勝手にカチカチと音を立て始めた。本当に死んでしまうと半狂乱になって登ろうとしては落ちて、指先がボロボロになっていく。爪と皮が剥がれて、寒さで震えて、もう力が入らない。
「さむ、い……寒いよ、痛いっ……アル……」
水は顎の下までで止められた。僕はただ自分を抱き締め、呼吸を落ち着かせるよう努めた。
「……アルっ、たすけっ…………なくて、いいよ、アル……もう、捨てていいよ」
数時間前まではアルに包まれてとても温かかったのに、今はとても寒い。けれど、これが僕には似合っているのかもしれない。
「あは……はは、ははっ…………今なら、死ねる……」
笑いが零れた。幼い頃からの怠惰な願い……死が叶うかもしれない。
傷は再生しない、寒さは確実に僕の体力を奪っている。『黒』の力も魔物使いの力も無い、ロキに人間だと偽られた今なら、カヤもライアーも居ない今なら、僕は人間のように死ねるかもしれない。
アルの記憶から消えられないまま、『黒』に指輪も名前も渡せないまま、ここで死ぬ。
「…………ごめんね」
何もかも果たせないまま死ぬのは人間らしい。最期に人に戻れるのならそれ以上の幸運はない。
『ヘールー、生きておるか、もう朝じゃぞ? ふふ……』
玉藻の声が聞こえて顔を上げるも、彼女の顔は見えない。
『命乞いはなかったか? そうか…………ふん、つまらん奴じゃ。おい、水を足せ』
爪と皮が剥がれた指先は冷水にふやけてぐじゅぐじゅになっていた。もう登ろうとも思えない。追加される水を見上げて、顔から被った。水嵩が鼻を越した、死を確信し望んでいても溺れるのが怖くて足をバタバタと暴れさせて、足の甲や指先を底や壁に打ち付けて、寒さで震えるボロボロの指で壁を引っ掻いた。これは意識ではなく本能だ。
『ほぅ……? これは、なかなか。水をもっとすこしずつ……そう、ふむ、なかなか良い』
少しずつ水が増えていく。もう瞼も越えた。気管を冷たい水が侵し、身体を内側から冷やしていく。塞がらない傷のじゅくじゅくとした痛みを堪えて床を蹴り、水面に一瞬だけ顔が出た。
「助け……」
せめて助けてと叫べたら良かったのに、僕は寸前で躊躇った。どうせ助からないし、僕なんかが助かっても仕方ない、ここで死んだ方がマシだ、足掻きはやめて水に沈もう、そんな声が僕の頭の中で響いた。男とも女ともつかない幼く愛らしい声だった。
玉藻はこの上なく機嫌が良かった。妖鬼の国に居た頃最も恨んだ子供を始末出来たからだ。
そう、ヘルさえ居なければ、ヘルによる暗示さえなければ、陰陽師に好き勝手させることもなく妖鬼の国はこの九尾の狐の手中に落ちていたはずだった。
『……復讐は終わりじゃ。さてどこに行くか……』
独裁が出来る国の王の寵愛を受け、豊かな生活を楽しみながら少しずつ国を傾かせて混乱に陥れる。それが彼女の生き方で、趣味だった。
王族の血はとっくに途絶え、たった一人の偽物の王女を失ったばかりだったお菓子の国を乗っ取るのは容易くて、簡単過ぎてつまらなかった。暮らしも没落も楽しめない。
『ふぅん……やはり大陸が良いか』
掘り返して埋めたばかりの柔らかい土の上を歩きながら、攻略すべき国を探す。
『……狐、狐っ……狐狐狐狐っ!』
玉藻の目の前に突然姿を現したのは半透明の大きな犬だった。
『犬神!? そうか……死ねば、封印も何も無い』
牙を剥き、唸り、どこまでも純粋な憎悪を溢れさせたカヤ。
玉藻が指を鳴らすと兵士達が集まってくる。何の意志もなく玉藻に従う人形と化した兵士達は半透明の犬にも怯むことなく向かっていく。
『……時間を稼げ!』
羽織っていた着物を脱ぎ捨て、塀を越えようと跳びながら視線をカヤに向けた。その目には鋭い牙だけが映り、玉藻はカヤに肩を咬まれ塀の外側に落ちた。
『く……約立たず共が』
犬神という呪いが暴走したならば目に付いた人間から襲うはずだった。犬神は人間を恨むもの、対人特化の呪いだ。妖狐である自分が狙われるとは思っていなかった。
『犬神など、人間に媚びへつらう情けない犬などっ、この九尾の敵ではない!』
愚かにも人間を慕ってしまうが故に呪いに変えられた哀れな犬。種族としての犬嫌いに人間嫌いが合わさって玉藻は犬神が大嫌いだった。
真っ直ぐに玉藻に向かっていたカヤはピクっと耳を動かし、飛び退いた。その一瞬後に火柱が上がる。
『……馬鹿な』
犬神が攻撃を避けられるはずがない。そんな生き物のような戦い方が出来るはずはない。常識外れな行動に玉藻はカヤをよく観察した、思考を持たない犬神とこうして睨み合うことすらありえないのに、カヤは隙を見せず玉藻の一挙一動を観察している。
『…………鳥?』
指先を動かすことすらない緊迫した睨み合いの中、玉藻はカヤの首元の毛に埋もれた黒い小鳥を見つけた。
『……ふむ』
玉藻は美しい女から美しい獣へと姿を変え、九本の尾を広げる。その黄金の尾が揺れると無数の火の玉が周囲に浮かんだ。
カヤは身動ぎ一つしない、火に怯えない。玉藻は首を傾げて微かな囀りを聞いた。カヤの後ろ足を狙い、三つ火の玉を動かす。
『前に一尺、左に三寸、頭を尾より一寸下に』
的確な指示だ。だが、聞こえてしまえば誘導できる。
『後ろに二尺、左に五分……』
火の玉を順に動かし、鳥の指示の癖を確かめる。カヤは火の玉を避けながら着実に玉藻の元へ近付いていた。
『……左前脚を狙える』
体重のかけ方を変えてあえて作った隙に見事に嵌った。突進するカヤに左前脚を噛ませ、首の毛の中に潜んでいた鳥を奪った。
それと同時に高く跳躍し、城の二階のベランダの柵に着地する。その姿は美しい女の姿に戻っており、手の中には黒い小鳥が居た。
『何なのじゃぬしは……ふむ、妖怪……神霊の類か? 慣れてはいないが戦いの心得があるのか。生まれたてのようじゃが見覚えがある……』
強く掴まれた小鳥は鳴き声を上げた。その声はその小ささに似合わず醜いものだった。ピィと高い声で鳴くと思い込んでいた玉藻はその声に驚き、突っ込んできたカヤを躱すのに袖を持っていかれた。
『……っ!?』
小鳥から目を離したその一瞬、右手に痛みを感じて見てみれば指が全て落ちていた。左腕は骨を折られて、右手は指がない、これは不利だ。小鳥は翼に血を染み込ませ、その細い足で走ってカヤの前で止まった。カヤは頭を下げ、鼻先に小鳥を乗せて吠えた。
『犬神と意思疎通が出来るなど有り得ん!』
『……喉を狙える』
追い詰められた玉藻は狐の姿に戻り、その数を増やした、幻術だ。
『ど、レ』
『…………丑!』
カヤは身体を捻り、斜め後ろに居た狐に食らいつく。だが寸前で他の狐がそれを庇い、黄金の毛並みに揉みくちゃにされ、幻覚が消える頃には本体も消えていた。
『殺、セ……毋た、再……』
『機会はまたあります。それより、主君を』
『…………ご主人様!』
カヤはベランダから中庭に飛び降り、ボーッと空を見上げる兵士達を蹴散らし、埋め直されたばかりの柔らかい土を必死に掘り始めた。
『ご主人様っ、ご主……人、様っ、ご主人、様、ご主人様っ!』
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