魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン

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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

天敵

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あくまでも人間の基準だが、神性にも善と悪がある。そして神虫は善神だ、鬼を始めとした厄災を喰らい祓うとされているから。そう、神虫は鬼の天敵。そして確かに神性であるから簡単には死なない。中途半端な出力の荷電粒子砲は神虫の生命には届かなかった。だが、新鮮な痛みを与えられた神虫の牙は主食である鬼に届いた。

「……悪魔様、起きて呪いの出力を上げつつ戦ってください! 獅子は治療を、虎はその護衛を、他の者は悪魔様の援護を頼む!」

ウェナトリアが指示を飛ばすが、ベルフェゴールはその背でぐっすりと眠っていた。魔獣達は指示通りに地に降りて鬼達の元に走った。
至近距離で荷電粒子砲を食らった神虫は一時的に怯んだが、すぐに起き上がり好物に向けて突進した。酒呑よりも一瞬早く突進に気が付いた茨木は彼を突き飛ばし、自分も避けようとはした。だが、避け切れずに今、胴に噛み付かれていた。

『私が虫を引き付ける。貴様等は役目を果たせ』

口の端でしか噛めなかった神虫は一瞬口を開け、咥え直す。その僅かな隙を狙ってアルが神虫の飛び出た眼球を引っ掻き、怯ませ、口の隙間からクリューソスが茨木を引っ張り出した。牙が刺さったままに無理に引っ張ったため胴は裂けたが救出には成功した。

『呆けるな鬼! お前はアルギュロスと共に虫を離せ、あの雌犬よりもお前の方が狙われるだろう、俺から離れろ!』

酒呑はクリューソスを無視し、その場に膝を折って茨木の頭を持ち上げた。

『動かすな! ただでさえ治癒の効きが悪いんだ、離れていろ』

カルコスの忠告も聞かず、鋭い爪の背で震えながら頬を撫でた。

『…………茨木?』

人間なら意識を失い、死を待つだけであろう出血。背骨も欠けて皮数枚で繋がっているだけの胴。頭を抱き上げたせいで更に零れた内臓。そんな大怪我でも茨木は瞳を動かし、意地悪く口の端を吊り上げた。

『……えらい呆けた顔しはって。どないしたん、酒呑様』

『茨木っ……』

『鬼の頭領が格好付かへんなぁ……』

だが、決して余裕はなく、今際の際には違いない。魔性を浄化する善神の力によってカルコスの治癒と拮抗する形で身体が壊れていく。言わば毒だ。

「六枚羽のお嬢さん! 狼さんの援護を……お嬢さん?」

『……無、理……だよ。魔物使い君が居なきゃ、血が足りない……茨木ちゃんがやられるような奴、ボクの力だけじゃどうにも出来ない!』

「だから、狼さんの援護をと言っているんだ! 彼女だって一人では太刀打ち出来ない!」

『無理なものは無理ぃ! 魔物使い君居ないんだっ、血が足りないの! それにっ……さっきから、ずっと……足、震えてっ……動けない!』

セネカは木の頂点に蹲り、啜り泣き始める。ウェナトリアは自分が行ったところで足手まといなだけだと理解していて、ベルフェゴールを落とすかどうか考えつつ、歯を食いしばった。
神虫は目を引っ掻かれたこともあってアルを追っていた。木の隙間を縫って走る四本足に、木を薙ぎ倒して進む八本足、大きさの差はあれどアルは一定の距離を保って走っていた。だが、粘着質な糸がアルの足に絡み、動きを止めた。それはシュピネ族が狩りの為、鹿を捕まえる為に張った罠だった。もがけばもがく程に絡まる糸は容易にアルの動きを止め、解こうと使った尾にまで絡んだ。突進してくる神虫を躱そうと翼を広げるも、飛び立つのに時間がかかり、間に合わずに噛み付かれた。

「……っ! 悪魔様……クソっ! 行け!」

もうなりふり構っていられないと、ウェナトリアは神虫の頭上にベルフェゴールを落とす。 ベルフェゴールはそれでも起きず、神虫は咀嚼していたアルを吐き出して頭を振り、自分の上に乗っていたベルフェゴールを落とし、噛み付いた。傷の再生を待ち、神虫を睨むアルの上でベルフェゴールが呑まれるその瞬間、島が影に包まれた。
陽光を遮ったのは分厚い黒雲、そしてこの光景は現実ではなく、隠れ屋敷と同じ原理の結界内の光景。時間がズレて、次元がズレて、現実と隣り合わせの異質な景色と雰囲気が集会所の周囲だけで起こった。

「……これ、は…………悪魔様?」

ウェナトリアは実際に黒雲が現れたと思っており、それが出来るのはベルフェゴールくらいのものだと思っていたから、牙の痛みにようやく目を覚ました彼女の仕業だと勘違いした。セネカは蹲っていたから気付かず、カルコスは茨木の治療に集中していて気付かず、アルは異変を気にしていなかった。状況を正しく理解していたのはクリューソスだけだった。

『…………鬼、お前………………鬼ではないのか』

呟いた言葉の矛盾は意識の外に、ゆらりと立ち上がった酒呑をただ呆然と見上げる。

『……酷い臭いだな』

アルは異変を気に留めていなかったが、結界内の異臭には反応した。血と酒と泥と雨の臭いが満ちた空間に巨大な蛇の影が揺らめく。

『…………頭は八つ、尾も八つ、その身に八つの山を抱いて、同胞に仇なす善なる神を喰らう為、隠り世より出ずる』

表情も抑揚もなく、何かに操られるように淡々と祝詞を呟く。神虫もその異様さに気付いたか、はたまた力を増した好物に反応しただけか、酒呑に向けて大口を開けた。避ける動作もなく、ただ手を持ち上げ、力なく伸びた指先を染めた血が黒く染まる。

『忌み給う、穢れ給え、神ながら呪い給う、災い給え……』

酒呑に触れる寸前で神虫は静止する。八本足の巨体には薄暗い結界内に揺らめいていた蛇の影が絡み付いていた。ただ影が差しているだけに見えるのに、その巨体はミシミシと音を立てて壊れ始める。

『やったぞ兄弟! 治癒が効き始めた!』

結界に満ちた穢れが神虫の浄化作用を押して、カルコスの治癒が茨木の傷に効き始めた。だが、ほとんど分断された胴はカルコスの治癒では簡単には繋がらない。それでも喜びが滲んだ声に操り人形のようだった酒呑が反応した。

『茨木……!』

振り向いたその表情には希望が伺えた。目を離し憎悪を薄め、結界内の穢れも薄まった。神虫は砕けた八本足を無理矢理動かし、芋虫のようにして進み、その牙で酒呑を貫いた。噴き出した血は即座に黒く染まって粘性を高め、蛇のようにのたうち回って神虫に絡んだ。巨大な蛇の影もより濃くなって神虫を締め付ける。絡んだ影が大口を開けて砕けた神虫を丸呑みにする。影の喉が膨らみ、ごくんと音を立てると同時に結界が崩れ始める。景色にヒビが入り、ガラスが割れるように空や木々が剥がれ、元の景色が戻ってきた。

「…………やった、のか?」

外骨格が砕けて中身が漏れ出した神虫はゆっくりと溶けている。まるで蛇の体内に居るように。ウェナトリアは酒呑が倒れて音を立てるまでその死骸らしき姿に目を奪われていた。

『全く、手のかかる鬼共め』

『……此奴は倒せたようだ。そう言うな、役に立たなかった仔猫よ』

『誰が約立たずだ駄犬! お前だって大した事はしていないだろう!』

『貴様よりは働いた! 神虫を引き付けただろう、貴様は何をした、ただそこで喚いていただけだ!』

再生を終え、神虫を一瞥してやって来たアルと言い争いを始めたクリューソスの隣で、カルコスは兄弟達の呑気さと喧しさに唸っていた。

『……だいぶマシなってきたわぁ。おおきになぁ、猫はん。うちはもういいから酒呑様んとこ行ったって』

『馬鹿を言うな、背骨と内臓は戻せたが皮は塞がっていないんだぞ。アレは腕や脇腹に幾つか穴が空いただけ、どちらを優先すべきかは分かるだろう』

『そーなん……ふふ、ほんま、旦那様なっさけないわぁ。ちょっと噛まれただけで倒れるやなんて……うちなんか真っ二つやのに』

茨木は酒呑が負傷ではなく結界と口寄せによる疲労で倒れたのだと分かっていながら、それを口に出さずに嗤う。話す内容と腹の黒さはともかく、口を手で隠してくすくすと笑うその姿は淑女と形容するに相応しかった。
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