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第三十七章 水底より甦りし邪神
教育方針
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今度は頭を強打してしまった。まぁ、前に倒れてクラールを下敷きにしてしまわなかっただけで僕としては及第点だろう。二度の転倒でようやく学習した僕は髪を持ち上げて慎重に歩き、アルの傍に椅子を持ってきた。
『……頭は平気か』
『ぁ、うん、大丈夫』
拗ねたようにそっぽを向いていたアルだったが、僕の頭と床が奏でた音によって今はこちらを向いている。
『……あのさ、アル。本当にさ……噛んだりとかはやめて欲しいんだ』
クラールはすっかり機嫌を直して僕の指を噛んでいる。これは不満を表すものではなく、遊びだ。結構痛い。
『人間として生まれた貴方には分からないだろうが、狼の躾はああいうものだ。傷は付けんし、目に牙が入らないよう気を付けているし、心的外傷として残るような痛みでも行為でも無い』
『……痛みで、って言うのは……』
『言って聞くのか? クラールは貴方の言葉を完璧には理解していないし、指を噛んでも貴方が怒らないから貴方を舐め切っている』
『だから、言葉を理解するまではキツく怒らないでよ。分かんないんだから……悪気は無いよ。分かるようになってからゆっくり話せば大丈夫だって』
言葉も分からないような幼い間は自己肯定感を育まなければ。怒られてばかりでは自分で自分の存在を否定してしまう。僕のような性格になってしまう。
『ヘル、クラールは貴方が思う程繊細では無い。ゆっくり話して理解出来るようになるまで成長する頃には貴方を下に見るようになって、貴方の話など一言も聞きやしない。狼というのはそういうものだ』
『そんなことないよ』
『ある』
『ない!』
『ある!』
ムキになって言い合う。指に感じていた痛みが増し、クラールが大声に驚いたのだと口を噤む。小さな背を撫でて落ち着かせていると、黒蛇の尾がクラールの首を噛んで僕の手から奪った。
『アル! 返して!』
『……これは私の子だ』
『僕の子でもある! って言うか「これ」って何!? 離せよ!』
『ヘル、父親の手を血が出るまで噛むような子供には躾が必要だ』
『ダメ! 要らない! 返して……返せったら!』
クラールを奪い返し、しっかりと抱き締める。
『……ヘル』
『クラールに躾なんか絶対させないから!』
髪はもう九割方乾いた。アルの毛と翼の完全乾燥にはまだ時間がかかるだろう。僕は髪を踏まないように腕に巻き、浴場を後にした。廊下を行く途中で従業員に呼び止められ、髪を結ってもらい、夕飯を用意するからと広い部屋に案内される。
浴場から持ってきてしまった服を入れる籠にタオルを敷いてその上にクラールを置く。クラールはタオルや籠の匂いを嗅ぎ、しばらくすると丸まった。
『……ありがとうございます』
従業員に礼を言い、座布団に腰を下ろす。まだ配膳されていない台を眺めながら籠を揺らす。
『…………躾ってなーんだ。それはねー、される側のためだって言いながら殴ることだよ。する側の鬱憤晴らしだろって? わぁ賢い、そういうこと言うともっといっぱい殴られるよ?』
何も無い台を見つめ、自分自身と会話する。人が来たら大惨事だな……なんて頭の隅に置いたまま。
『故意じゃない失敗も、ただの勘違いも、お前が悪いって言えばそうなるからさ、躾される側に非があることになるからさ、何されたって文句は言っちゃダメなんだよ? うん、そうだね、体も心も早めに壊しちゃった方が楽だよ。殴っても反応が薄ければ早く終わるかもしれないよ? まぁ、僕の場合は悪化したんだけどさー……』
独り言を止めるとクラールの寝息が聞こえてくる。寝顔を楽しむ気にはなれなくて、眠りを心地良いものにするために籠を揺らす。
『……言ってくれれば分かるのにね。殴ったって次出来る訳じゃないのにね。本当に教育したいなら効率悪いよ。怖いもん。これ失敗したらまた殴られるって怖くて怖くて手が震えちゃう、出来てたことも出来なくなっちゃったんだよ』
見られただけで恐怖に震え出して、近寄られたら呼吸が乱れて、手が頭の上に来ようものなら体が硬直してしまう。
クラールがそんなことになったら可哀想だ。
『…………アルは躾なんかするような人じゃないって思ってたのにな。僕にするみたいに寄り添ってくれるはずだったのに……どうして。可愛くないのかな……』
頼めば預かってくれるし、クラールもアルの背や頭に乗せると喜んでいるように見える。けれどアルがクラールを可愛がるような素振りは見たことがない。
『クラールはこんなに可愛いのにねー……』
『…………ヘル』
視線を台からクラールに移して籠を揺らしていると、肩にトンと何かが乗った。次の瞬間には愛おしい声が聞こえて、クラールが眠っているのにも関わらず驚いて大声を上げてしまった。
『……済まないな、ヘル』
『アル……い、いつから……』
『貴方が浴場を出て直ぐに後を追った。部屋に着いて話し掛けようとしたら急に貴方が独り言を始めて……独り言だったのか?』
『ぅ、うん……独り言』
テレパシーでも疑ったのか? しかし、独り言を最初から聞かれていたなんて……あぁ、予想通りの大惨事だ。僕の心は大荒れだ。
『…………ヘル、貴方の生育環境を考えて話すべきだったな。躾は理不尽な暴力等では無く、その子を美しくする為の礼儀作法だよ。子供とは元来活発で大人の注意を振り切るものだ。初めから話を聞く子も居るかもしれないし、成長すれば聞くかもしれない。けれど待てない礼儀だってあるだろう? 子の安全の為……妙な物を拾い食いしたり、人を噛んだり、そういったものは直ぐに正さなければ』
アルは僕を優しく翼で包み、耳元で甘く低い声を出す。
『……危険な場所で走り回ろうとする子は乱暴になってでも捕まえて、嫌がってもしっかりと押さえなければ。声を掛けたのでは間に合わないだろう? 何故走ってはいけないかを説明している間に取り返しのつかない大きな怪我をしてしまう』
『…………クラール、に……痛いことは』
『しないよ、しない……甘噛みだ。ほら、手を出して』
アルは僕の手に甘噛みをして、数秒すると離した。圧迫感はあれども痛みはなかった。
『元気に遊び回りたい子は押さえられて窮屈になるだけでも堪えるものだ。それに、私もクラールも狼だからな。この行為がしてはいけないことをしてしまった時の注意だと本能で分かっている。普通の獣よりも優しく噛むだけで分かってくれる』
『クラールは、痛がって大人しくなるんじゃないの? 怖がって言うこと聞くんじゃないの?』
声が自然と震えてしまう。
『……違うよ。叱られてしまった気まずさから大人しくなるんだ。してはいけないことをしたと理解して、言う事を聞くんだ』
『クラー……ル、は…………僕みたいに、ならない?』
『…………ならないよ。私がそうする』
『……そっ、か……良かった。ごめんね、アル……変に、疑って……アルが、にいさまみたいに……そんなの、ないよね。ない、よ……ね?』
アルの首に腕を回し、抱き締める。
呼吸が整わない、目頭が熱い、喉が痛い、鼓動がうるさい──嗚咽が止まらない。
『もし……もし、ね? もしもだよ? もしもだから、気を悪くしないでね? その……クラールのこととか、他のことでも、イライラして……ムカムカして、クラールに当たっちゃいそうになったら、僕に当たってね。本気で噛んでいいから、僕だけで発散してね』
『……貴方を傷付けて発散出来るものなどあるものか』
クラールへの対応は憂さ晴らしだとか、アルも兄と同じ趣味だとか、アルはクラールを愛していないだとか、そんな考えを一瞬でも持ったこの頭をかち割ってしまいたい。
『私は貴方を愛しているし、愛しい貴方との子も愛している。痛みなど、恐怖など、与えるものか。大切に大切に、過保護なくらいに……貴方もクラールも私の翼の内で守ってやる』
知っていたはずだ、僕は誰よりも分かっていたはずなのだ、アルは誰よりも愛情深く優しい狼だと。
『……頭は平気か』
『ぁ、うん、大丈夫』
拗ねたようにそっぽを向いていたアルだったが、僕の頭と床が奏でた音によって今はこちらを向いている。
『……あのさ、アル。本当にさ……噛んだりとかはやめて欲しいんだ』
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『……痛みで、って言うのは……』
『言って聞くのか? クラールは貴方の言葉を完璧には理解していないし、指を噛んでも貴方が怒らないから貴方を舐め切っている』
『だから、言葉を理解するまではキツく怒らないでよ。分かんないんだから……悪気は無いよ。分かるようになってからゆっくり話せば大丈夫だって』
言葉も分からないような幼い間は自己肯定感を育まなければ。怒られてばかりでは自分で自分の存在を否定してしまう。僕のような性格になってしまう。
『ヘル、クラールは貴方が思う程繊細では無い。ゆっくり話して理解出来るようになるまで成長する頃には貴方を下に見るようになって、貴方の話など一言も聞きやしない。狼というのはそういうものだ』
『そんなことないよ』
『ある』
『ない!』
『ある!』
ムキになって言い合う。指に感じていた痛みが増し、クラールが大声に驚いたのだと口を噤む。小さな背を撫でて落ち着かせていると、黒蛇の尾がクラールの首を噛んで僕の手から奪った。
『アル! 返して!』
『……これは私の子だ』
『僕の子でもある! って言うか「これ」って何!? 離せよ!』
『ヘル、父親の手を血が出るまで噛むような子供には躾が必要だ』
『ダメ! 要らない! 返して……返せったら!』
クラールを奪い返し、しっかりと抱き締める。
『……ヘル』
『クラールに躾なんか絶対させないから!』
髪はもう九割方乾いた。アルの毛と翼の完全乾燥にはまだ時間がかかるだろう。僕は髪を踏まないように腕に巻き、浴場を後にした。廊下を行く途中で従業員に呼び止められ、髪を結ってもらい、夕飯を用意するからと広い部屋に案内される。
浴場から持ってきてしまった服を入れる籠にタオルを敷いてその上にクラールを置く。クラールはタオルや籠の匂いを嗅ぎ、しばらくすると丸まった。
『……ありがとうございます』
従業員に礼を言い、座布団に腰を下ろす。まだ配膳されていない台を眺めながら籠を揺らす。
『…………躾ってなーんだ。それはねー、される側のためだって言いながら殴ることだよ。する側の鬱憤晴らしだろって? わぁ賢い、そういうこと言うともっといっぱい殴られるよ?』
何も無い台を見つめ、自分自身と会話する。人が来たら大惨事だな……なんて頭の隅に置いたまま。
『故意じゃない失敗も、ただの勘違いも、お前が悪いって言えばそうなるからさ、躾される側に非があることになるからさ、何されたって文句は言っちゃダメなんだよ? うん、そうだね、体も心も早めに壊しちゃった方が楽だよ。殴っても反応が薄ければ早く終わるかもしれないよ? まぁ、僕の場合は悪化したんだけどさー……』
独り言を止めるとクラールの寝息が聞こえてくる。寝顔を楽しむ気にはなれなくて、眠りを心地良いものにするために籠を揺らす。
『……言ってくれれば分かるのにね。殴ったって次出来る訳じゃないのにね。本当に教育したいなら効率悪いよ。怖いもん。これ失敗したらまた殴られるって怖くて怖くて手が震えちゃう、出来てたことも出来なくなっちゃったんだよ』
見られただけで恐怖に震え出して、近寄られたら呼吸が乱れて、手が頭の上に来ようものなら体が硬直してしまう。
クラールがそんなことになったら可哀想だ。
『…………アルは躾なんかするような人じゃないって思ってたのにな。僕にするみたいに寄り添ってくれるはずだったのに……どうして。可愛くないのかな……』
頼めば預かってくれるし、クラールもアルの背や頭に乗せると喜んでいるように見える。けれどアルがクラールを可愛がるような素振りは見たことがない。
『クラールはこんなに可愛いのにねー……』
『…………ヘル』
視線を台からクラールに移して籠を揺らしていると、肩にトンと何かが乗った。次の瞬間には愛おしい声が聞こえて、クラールが眠っているのにも関わらず驚いて大声を上げてしまった。
『……済まないな、ヘル』
『アル……い、いつから……』
『貴方が浴場を出て直ぐに後を追った。部屋に着いて話し掛けようとしたら急に貴方が独り言を始めて……独り言だったのか?』
『ぅ、うん……独り言』
テレパシーでも疑ったのか? しかし、独り言を最初から聞かれていたなんて……あぁ、予想通りの大惨事だ。僕の心は大荒れだ。
『…………ヘル、貴方の生育環境を考えて話すべきだったな。躾は理不尽な暴力等では無く、その子を美しくする為の礼儀作法だよ。子供とは元来活発で大人の注意を振り切るものだ。初めから話を聞く子も居るかもしれないし、成長すれば聞くかもしれない。けれど待てない礼儀だってあるだろう? 子の安全の為……妙な物を拾い食いしたり、人を噛んだり、そういったものは直ぐに正さなければ』
アルは僕を優しく翼で包み、耳元で甘く低い声を出す。
『……危険な場所で走り回ろうとする子は乱暴になってでも捕まえて、嫌がってもしっかりと押さえなければ。声を掛けたのでは間に合わないだろう? 何故走ってはいけないかを説明している間に取り返しのつかない大きな怪我をしてしまう』
『…………クラール、に……痛いことは』
『しないよ、しない……甘噛みだ。ほら、手を出して』
アルは僕の手に甘噛みをして、数秒すると離した。圧迫感はあれども痛みはなかった。
『元気に遊び回りたい子は押さえられて窮屈になるだけでも堪えるものだ。それに、私もクラールも狼だからな。この行為がしてはいけないことをしてしまった時の注意だと本能で分かっている。普通の獣よりも優しく噛むだけで分かってくれる』
『クラールは、痛がって大人しくなるんじゃないの? 怖がって言うこと聞くんじゃないの?』
声が自然と震えてしまう。
『……違うよ。叱られてしまった気まずさから大人しくなるんだ。してはいけないことをしたと理解して、言う事を聞くんだ』
『クラー……ル、は…………僕みたいに、ならない?』
『…………ならないよ。私がそうする』
『……そっ、か……良かった。ごめんね、アル……変に、疑って……アルが、にいさまみたいに……そんなの、ないよね。ない、よ……ね?』
アルの首に腕を回し、抱き締める。
呼吸が整わない、目頭が熱い、喉が痛い、鼓動がうるさい──嗚咽が止まらない。
『もし……もし、ね? もしもだよ? もしもだから、気を悪くしないでね? その……クラールのこととか、他のことでも、イライラして……ムカムカして、クラールに当たっちゃいそうになったら、僕に当たってね。本気で噛んでいいから、僕だけで発散してね』
『……貴方を傷付けて発散出来るものなどあるものか』
クラールへの対応は憂さ晴らしだとか、アルも兄と同じ趣味だとか、アルはクラールを愛していないだとか、そんな考えを一瞬でも持ったこの頭をかち割ってしまいたい。
『私は貴方を愛しているし、愛しい貴方との子も愛している。痛みなど、恐怖など、与えるものか。大切に大切に、過保護なくらいに……貴方もクラールも私の翼の内で守ってやる』
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