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第三十七章 水底より甦りし邪神
水入らず
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籠の内に敷いたタオルを咥えて眠ってしまっていたクラールを籠ごと抱いてアルにもたれる。
『…………温かい』
アルの体温も、クラールの体温も、じんわりと僕に伝わってくる。
『……ねぇ、アル……僕、間違ってた?』
『いいや、貴方の子を想う気持ちは本物だった。そもそも育て方に間違いも正解も無いさ』
『じゃあ、さ……にいさまは、間違ってた?』
兄のやり方を否定した僕が間違っていないのなら、兄は間違い。
僕とも兄とも違う、優しく教育しようというのがアル、僕には想像のつかない育て方。
『あぁ、間違いだ。いや、間違いですらない。あってはならない事だ、貴方の兄のやり方は育て方なんて呼んではいけないものだ』
『…………じゃあ、僕は間違い?』
『え……ぁ、な、何を言う。貴方が間違いなんてあるものか、言っただろう、貴方は間違えていないと』
『……間違いですらない、あってはならない……その結果が僕なら、僕は、居ちゃいけない……』
出来損ないや失敗作ですらない、存在を抹消されるような代物。それが僕。
『違う! 私が否定したのは貴方の兄であって、貴方ではない、貴方は居ていい、居なくてはならない!』
『にいさまのやり方否定するならっ……その結果である僕も否定するってことじゃないか!』
『違うっ……! 違うんだ、ヘル……私の言い方が悪かったか? 貴方に伝わらなかった、貴方を傷付けたな、済まない……』
アルはずっと僕の存在を肯定してくれている。それは理解しているし、とても嬉しい。僕は分かっているはずの愛情すらまともに受け取れない、言い方が悪いなんて言ってアルは自分のせいにするけれど、悪いのはアルの思いを汲み取れない僕なのだ。
『貴方は大切な人だ、私にとってもクラールにとっても……貴方が居なければ私は愛なんて知らなかったし、クラールは生まれなかった。他の者だって貴方に救われたと思っている筈だ、皆貴方を愛している。自信を持ってくれヘル、貴方は必要な人間だ』
『僕、ずっと……出来損ないだって……』
『それを言ったのは誰だ?』
『にいさま。それと、母さん……父さんも。他の、近所の人……学校の先生、魔法の国の人、皆が……僕を要らないって』
『……今はもう無い小国に必要とされなかったから何だと言うんだ。全ての人に求められる者など居ない、貴方は貴方の生まれ故郷以外で必要とされているんだ、それこそ全世界で。滅びたのが証拠だ、貴方の価値を見い出せなかった愚鈍な者共…………そんな者の為に苦しむな、私の愛しい旦那様……』
心に杭を打って縛り付けていた鎖が解けていくような感覚だ。
僕は魔法の国以外でならそれなりに役に立ってきた。そうだ、アルの言う通りだ。人も、悪魔も、手が届かなかったことだってあるけれど、それでも大勢救ってきた。
僕は良い人間とはとても言えないけれど、自分で言い聞かせていたほど無価値な人間でもない。
『…………ありがとう、アル』
『私は当然の事を言っただけ…………っ!? へ、ヘル……?』
僕に寄り添ってくれていたアルは突然飛び起き、僕を見て瞳を震わせた。
『どうしたの? アル、変な顔して』
『……いや、貴方の魔力が……突然。純度と、量が……』
アルは言葉に詰まりながらも再び僕の傍に戻り、尾を腰に絡めた。
『あぁっ……凄い、凄いぞヘル。傍に居るだけで身体が熱い、昂って仕方ない……なんて素晴らしい魔力を放つんだ……!』
胴に巻かれた尾の力が強まり、肩に頭がグリグリと痛いくらいに押し付けられる。
『……何、突然。可愛いことしだして……そういうのはご飯食べてから、ね?』
『ヘルぅ……少し、少しだけでいいから……血を、一滴だけでいいから……』
アルが自分から僕を食べたいと言い出すのは非常に珍しい。
『だーめ、僕はデザート。ね?』
『…………分かった』
残念そうに甲高い声で鳴きながら僕の肩や二の腕で唾液を拭う。コップ一杯、いや二杯は軽く超える量だ。
『ふふ、なんだろ、すっごく気分が良いよ。歌でも歌いたい気分……そうだよね、アル、君にだけ求められていればそれで良かったんだよ、ずっと前からそうだった。クラールも増えたし……どうしてあんなに自分を殺したかったのかな、もう分かんないや』
美しい妻に可愛い娘、そんなものに囲まれるヘルシャフト・ルーラーは少々羨ましくもあるけれど、やっぱり嫌いな人間なのだけれど、死ねと呪い続けたりはもうしない。
アルを見れば煌々と輝く首飾りの石に目が眩む。僕の魔力の状態を移し続けるその石は赤や青や黄や紫や、見たことがないような色まであって、その全てが混ざり合って互いを潰し合って主張して、兎角眩く輝いている。
『ゔぅぅー……おとーしゃぁ』
腹のあたりに前足が触れて視線を落とせば、クラールが頭から血を流していた。
『……へっ? ぇ、なっ……クラール!?』
首飾りの石の輝きが消える。途端に汚泥のような色に変わる。
『何!? ぶつけた……いやぶつけるようなのないし、何、何なの!?』
『落ち着け、ヘル。落ち着いて血を拭ってみろ』
クラールの布団代わりに敷いていたタオルの端をつまみ上げ、額の血を拭う。風呂の時から気になっていた膨らみが大きくなっている、もはや突起と言えるだろう。
『……角、だな』
額を裂いて現れていたのは漆器にも似た美しい朱色の角。僕の親指の爪ほどの長さだが、確かに角が生えている。
『ヘル、少し……』
アルの前足が籠の縁に乗る。惚けた頭で言われるがままにクラールを近付けると、アルはクラールの頭を舐め始めた。
『……角の周りに痛みや傷は殆ど無いようだ。唸っていたのは血が目に入って痛かったのと、ベタつきが気持ち悪かったからだ』
『そ、そっか……痛くはないんだね、良かった』
タオルで拭い切れなかった血が舐め取られ、湿った額は元通りの純白の毛並みを見せた。
『角の周りが痒いそうだから掻いてやってくれ』
『え、大丈夫? 皮膚裂けたんだよね?』
『ふむ……歯の生え変わりの、と言えば分かるか?』
『歯はよく折られてたし……いつ生え変わったのかよく分かんないんだよね。魔法で治療されるからさー……痒みとか痛みとかは、ちょっと』
アルはバツが悪そうに唸って僕の頬を舐めた。僕も何だか気まずくなってクラールの額を無言で掻いてやる。クラールは気持ち良さそうに目を閉じて口を開け、文字に起こせないような胡乱な鳴き声を漏らした。
『しかし角が生えるとはな。貴方に似ている所があって良かった』
よくよく見れば前足が犬にしても器用でアルとは少し形が違うから、僕が混ざっているのだろうとも考えられるけれど。
手、それに角──どちらも醜いと言われる部位だ、罪深いとされるものだ。まぁ、そんな正義の国の宗教観溢れる自己否定は捨ておいて、クラールを愛でるのに戻ろうか。
『ヘル、もっと動き回るようになったら注意しろよ。人の足に刺したり壁に刺して動けなくなったりするだろうからな』
『ぁー……まぁ、まだ短いし大丈夫そうだけど、先丸いし』
指の腹で角の先端をつついても痛みは感じない。ぎゅっと押さえれば痛いだろうけれど、それは同じ大きさの球体でも同じことが言える。
『大変長らくお待たせ致しました、お食事の準備が出来ましたー……先に頂かれますか?』
食事を待っていたのをすっかり忘れていた。皆はまだ風呂だろうか。
『どうする? ヘル、先に喰うか?』
『いや、皆を待って……』
全員が集まってから食べよう。そう言おうとした口は襖が開くのを見て止まる。僕と揃いの浴衣を着た皆がやって来た、狙ったようなタイミングだ。
ともあれ、これで何の気兼ねもなく食事を始められる。ここの料理はどんなものか、クラールには何をどんな順番で食べさせようか──僕は珍しくも食事を待ち侘びていた。
『…………温かい』
アルの体温も、クラールの体温も、じんわりと僕に伝わってくる。
『……ねぇ、アル……僕、間違ってた?』
『いいや、貴方の子を想う気持ちは本物だった。そもそも育て方に間違いも正解も無いさ』
『じゃあ、さ……にいさまは、間違ってた?』
兄のやり方を否定した僕が間違っていないのなら、兄は間違い。
僕とも兄とも違う、優しく教育しようというのがアル、僕には想像のつかない育て方。
『あぁ、間違いだ。いや、間違いですらない。あってはならない事だ、貴方の兄のやり方は育て方なんて呼んではいけないものだ』
『…………じゃあ、僕は間違い?』
『え……ぁ、な、何を言う。貴方が間違いなんてあるものか、言っただろう、貴方は間違えていないと』
『……間違いですらない、あってはならない……その結果が僕なら、僕は、居ちゃいけない……』
出来損ないや失敗作ですらない、存在を抹消されるような代物。それが僕。
『違う! 私が否定したのは貴方の兄であって、貴方ではない、貴方は居ていい、居なくてはならない!』
『にいさまのやり方否定するならっ……その結果である僕も否定するってことじゃないか!』
『違うっ……! 違うんだ、ヘル……私の言い方が悪かったか? 貴方に伝わらなかった、貴方を傷付けたな、済まない……』
アルはずっと僕の存在を肯定してくれている。それは理解しているし、とても嬉しい。僕は分かっているはずの愛情すらまともに受け取れない、言い方が悪いなんて言ってアルは自分のせいにするけれど、悪いのはアルの思いを汲み取れない僕なのだ。
『貴方は大切な人だ、私にとってもクラールにとっても……貴方が居なければ私は愛なんて知らなかったし、クラールは生まれなかった。他の者だって貴方に救われたと思っている筈だ、皆貴方を愛している。自信を持ってくれヘル、貴方は必要な人間だ』
『僕、ずっと……出来損ないだって……』
『それを言ったのは誰だ?』
『にいさま。それと、母さん……父さんも。他の、近所の人……学校の先生、魔法の国の人、皆が……僕を要らないって』
『……今はもう無い小国に必要とされなかったから何だと言うんだ。全ての人に求められる者など居ない、貴方は貴方の生まれ故郷以外で必要とされているんだ、それこそ全世界で。滅びたのが証拠だ、貴方の価値を見い出せなかった愚鈍な者共…………そんな者の為に苦しむな、私の愛しい旦那様……』
心に杭を打って縛り付けていた鎖が解けていくような感覚だ。
僕は魔法の国以外でならそれなりに役に立ってきた。そうだ、アルの言う通りだ。人も、悪魔も、手が届かなかったことだってあるけれど、それでも大勢救ってきた。
僕は良い人間とはとても言えないけれど、自分で言い聞かせていたほど無価値な人間でもない。
『…………ありがとう、アル』
『私は当然の事を言っただけ…………っ!? へ、ヘル……?』
僕に寄り添ってくれていたアルは突然飛び起き、僕を見て瞳を震わせた。
『どうしたの? アル、変な顔して』
『……いや、貴方の魔力が……突然。純度と、量が……』
アルは言葉に詰まりながらも再び僕の傍に戻り、尾を腰に絡めた。
『あぁっ……凄い、凄いぞヘル。傍に居るだけで身体が熱い、昂って仕方ない……なんて素晴らしい魔力を放つんだ……!』
胴に巻かれた尾の力が強まり、肩に頭がグリグリと痛いくらいに押し付けられる。
『……何、突然。可愛いことしだして……そういうのはご飯食べてから、ね?』
『ヘルぅ……少し、少しだけでいいから……血を、一滴だけでいいから……』
アルが自分から僕を食べたいと言い出すのは非常に珍しい。
『だーめ、僕はデザート。ね?』
『…………分かった』
残念そうに甲高い声で鳴きながら僕の肩や二の腕で唾液を拭う。コップ一杯、いや二杯は軽く超える量だ。
『ふふ、なんだろ、すっごく気分が良いよ。歌でも歌いたい気分……そうだよね、アル、君にだけ求められていればそれで良かったんだよ、ずっと前からそうだった。クラールも増えたし……どうしてあんなに自分を殺したかったのかな、もう分かんないや』
美しい妻に可愛い娘、そんなものに囲まれるヘルシャフト・ルーラーは少々羨ましくもあるけれど、やっぱり嫌いな人間なのだけれど、死ねと呪い続けたりはもうしない。
アルを見れば煌々と輝く首飾りの石に目が眩む。僕の魔力の状態を移し続けるその石は赤や青や黄や紫や、見たことがないような色まであって、その全てが混ざり合って互いを潰し合って主張して、兎角眩く輝いている。
『ゔぅぅー……おとーしゃぁ』
腹のあたりに前足が触れて視線を落とせば、クラールが頭から血を流していた。
『……へっ? ぇ、なっ……クラール!?』
首飾りの石の輝きが消える。途端に汚泥のような色に変わる。
『何!? ぶつけた……いやぶつけるようなのないし、何、何なの!?』
『落ち着け、ヘル。落ち着いて血を拭ってみろ』
クラールの布団代わりに敷いていたタオルの端をつまみ上げ、額の血を拭う。風呂の時から気になっていた膨らみが大きくなっている、もはや突起と言えるだろう。
『……角、だな』
額を裂いて現れていたのは漆器にも似た美しい朱色の角。僕の親指の爪ほどの長さだが、確かに角が生えている。
『ヘル、少し……』
アルの前足が籠の縁に乗る。惚けた頭で言われるがままにクラールを近付けると、アルはクラールの頭を舐め始めた。
『……角の周りに痛みや傷は殆ど無いようだ。唸っていたのは血が目に入って痛かったのと、ベタつきが気持ち悪かったからだ』
『そ、そっか……痛くはないんだね、良かった』
タオルで拭い切れなかった血が舐め取られ、湿った額は元通りの純白の毛並みを見せた。
『角の周りが痒いそうだから掻いてやってくれ』
『え、大丈夫? 皮膚裂けたんだよね?』
『ふむ……歯の生え変わりの、と言えば分かるか?』
『歯はよく折られてたし……いつ生え変わったのかよく分かんないんだよね。魔法で治療されるからさー……痒みとか痛みとかは、ちょっと』
アルはバツが悪そうに唸って僕の頬を舐めた。僕も何だか気まずくなってクラールの額を無言で掻いてやる。クラールは気持ち良さそうに目を閉じて口を開け、文字に起こせないような胡乱な鳴き声を漏らした。
『しかし角が生えるとはな。貴方に似ている所があって良かった』
よくよく見れば前足が犬にしても器用でアルとは少し形が違うから、僕が混ざっているのだろうとも考えられるけれど。
手、それに角──どちらも醜いと言われる部位だ、罪深いとされるものだ。まぁ、そんな正義の国の宗教観溢れる自己否定は捨ておいて、クラールを愛でるのに戻ろうか。
『ヘル、もっと動き回るようになったら注意しろよ。人の足に刺したり壁に刺して動けなくなったりするだろうからな』
『ぁー……まぁ、まだ短いし大丈夫そうだけど、先丸いし』
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『大変長らくお待たせ致しました、お食事の準備が出来ましたー……先に頂かれますか?』
食事を待っていたのをすっかり忘れていた。皆はまだ風呂だろうか。
『どうする? ヘル、先に喰うか?』
『いや、皆を待って……』
全員が集まってから食べよう。そう言おうとした口は襖が開くのを見て止まる。僕と揃いの浴衣を着た皆がやって来た、狙ったようなタイミングだ。
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