魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン

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第四十章 希少鉱石の国で学ぶ人と神の習性

売主の責任

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車椅子から手を離し、スメラギの前に出て黒犬を迎える。僕に向かってきているというのは自惚れではなかった、犬は僕の胸に飛び込んできた。

『わっ……!』

「……っと、大丈夫~?」

『ぁ、はい、すいません……』

アルと比べればずっと小柄だが、それでも大型だ。飛びつかれてよろめいた僕はスメラギに支えられ、何とか持ち直した。
何度も何度とくぅんと甲高い声で鳴く黒犬の頭を撫で、少しずつ腰を落として前足を地面に下ろす……つもりだったのだが、犬は前足を僕の膝や太腿に乗せたまま下ろそうとしない。

『もぅ……どうしたの、お仕事は?』

「ね~、これ、切り傷~?」

『へ? うわっ……何これ』

犬の腰から太腿にかけて深い切り傷があった。まだ血は止まっておらず、走ってきた道に赤い点線が引いてある。

『…………どうしたの?』

こんな怪我をしても走ってきたということは僕に何かを求めているということ。ただ傷を治して欲しいだけなのか、他に何か伝えたいのか僕には分からない。

『兄さん、兄さん来て。怪我治してあげて』

服の中に入れていた首から下げた石を軽く振りながら見つめ、ライアーを呼び出す。石から吹き出した霧が植え込みに向かい、土によって人の身体が形成されていく。突然数十キロ分の土が消えたが植え込みの木はしっかりと根を張っているようで倒れなかった。

『ん……よし、治ったよ』

ライアーに礼を言って黒犬の頭を撫でていると、血の跡を追ったのか黒犬を売ったところの職員がやって来た。見覚えがある顔だ。

「ちょっと扉を開けてたら逃げちゃって……」

『……逃げた?』

そんなはずはない。飼い犬じゃあるまいし、暗示をかけ直したばかりでそんな行動を取る訳がない。

『逃げられる環境でも逃げるはずありません。特定の状況下にない場合は絶対に命令外の行動はしません』

「え……? い、いや、絶対なんてないでしょ。そりゃ不良品認めたくないのは分かりますけど」

『…………不良品?』

立ち上がろうとしたがライアーに肩を押さえられた。

『いやー、すいませんね不良品で! ちょっと原因調べますから一旦回収させていただきますね!』

「え、いや、いいです、大丈夫です。こっちの不注意ですし、仕事には支障ありませんから」

『いーやいやいやいや今後何があるか分かりませんから早め早めにね!』

ライアーは首輪の紐を掴もうとした男の肩に手を置き、ぐいぐいと押し返した。男が困惑しながらも手を下げると、ライアーはこちらに向き直った。

「……ね~、特定の状況下って~?」

『え? ぁ、あぁ……えっと、自分または人間の危機を認識した場合、それを解決できると判断した場合、です』

真っ直ぐ僕の方へ走ってきたから他者の危機を察知した訳ではない。怪我をしていたから自分の危機だったのかもしれないけれど、扉を開けていたら逃げたと男は言っていたから仕事中ではなく待機中だったはずで、何かに襲われていた訳ではない。

「ふ~ん? 賢いね~」

『え、ええ……賢い種類の子探したんです』

複雑な命令を理解できる知能、僕ではない人間の言うことを聞けという命令を実行できる従順さ、魔獣に不慣れな人間と関わり合える温厚さ、その全てを兼ね備えた犬種だ。探すのに苦労した。

「まぁ、何があったかは本人に聞けば分かるよ、うん、ね、にゃる君」

『そ、そうだけど……いや、そうだね、ちょっと見てみるよ』

ライアーはスメラギを訝しげに睨んだ後、息を整えて手に魔法陣を浮かべ、僕から離れようとしない黒犬の頭に触れさせた。記憶を見ているのだろう、そういえばそんな魔法があった。

『あっ、えっ? ちょ、どこ行くんですか! ぁ……あー、行っちゃった』

解析途中、突然男が走って逃げてしまった。黒犬にしがみつかれて追いかけることも出来ず見送った。

『……ん、分かったよ、ヘル』

『ありがと兄さん、何だった?』

『…………はい』

ライアーは手に浮かべたままの魔法陣を僕の頭に引っつけた。その途端視界が暗転し、かと思えば灰色の壁と床が見えた。どこかの部屋のようだが、妙に視界がボヤけているし、何より低い。

「……あーっ! クソ、終わんねぇ! 鬱陶しい仕事ばっか押し付けやがって……」

扉の向こうから男の声が聞こえてくる。足音が近付いてきて、扉が勢いよく開く。僕の意思ではなく視界が持ち上がり、男の顔を見上げた。先程の男だ。

「大人しくしろよ? そうそう、大人しくな。動くなよ? よーし、いい子だ、大人しく……なっ!」

ヘラヘラと笑顔を浮かべて近付いてきた男の足が振られたかと思えば、視界が揺れた。どうやら蹴られたらしい、肩の辺りが痛い。いや、それよりも自分の口から漏れた悲鳴は……イヌ科のものだった。
そうか、これはあの黒犬の記憶か、ライアーに見せられているのだ。説明してからやって欲しい。

「お前が無駄に優秀なせいでよぉ……仕事増えてんだぞ分かってんのか! クソっ! せっかく半分焼けてから能率下がってたってのに治されやがって……」

黒犬は吠えることも噛み付くことも無く大人しく暴力に耐えているようだ。

「ちったぁ……サボること覚えやがれ!」

男の手に長い釘が見えた次の瞬間、腰から太腿にかけて激痛が走る。ボタボタと血が落ちる音が聞こえて、疲れたのか男からの蹴りが止む。
男の顔を見上げる──腕で目を覆って深呼吸している。途端、景色が目まぐるしく変わり始める。灰色の壁と床が続いたのは一瞬で、すぐに施設の外に出た。全身を蹴られた痛みが走る振動で増す、足の切り傷が裂けていくような痛みもある。それでも人通りの少ない道を虹色の輝きに向かって走った。

『わっ……!』

虹色の暖かい輝きに触れる。途端に身体から痛みが引いて、代わりに幸福感が全身に満ちる。
甘えたい。褒められたい。尽くしたい。そんな感情が後から後から溢れてくる。輝きが人から漏れているものだと気付くにはしばらくかかったし、その人が僕だと分かったのは顔が見えてからだった。僕は魔獣にこんなふうに見え、感じられているのか、懐かれる訳だ。

『もぅ……どうしたの? お仕事は?』

もう嫌だ。したくない。あなたのそばに居させて。伝わらないだろうという諦めと共にそんな感情がなだれ込む、傷に気付かれてからは助けてという願いが強くなった。

「ちょっと扉を開けたら逃げちゃって……」

男の声が聞こえて恐怖に満ちる。
連れ戻される。また蹴られる。より酷くなる。逃げなければよかった、助けてもらえる訳もないのに、連れ戻されたあと酷くなると分かっていたのに、どうして逃げてしまったんだろう。
僕にも覚えのある思考が回り始める。

『……逃げた?』

包まれていた輝きの色が変わる。敵意が、疑念が、憎悪が、殺意が、色となって噴き出す。虹よりも多く美しい色達が攻撃的な色に変わっていく。
僕の感情は魔獣に伝わっていた、色として目に映っていたのだ。そう知ると気恥ずかしさが溢れてくる。

虹色の輝きと男の会話を聞いていくと自分は助けてもらえるのかもしれないという希望が育つ。頭の中心にチクッとした痛みを覚えて、男の足音が離れていくのを聞いて、助かったのかと安堵と喜びが沸き立つ。

『…………はっ! ぁ……これは、僕……か』

『ヘル? 大丈夫? 記憶見せたけど分かった? ボクよく分かんなくてさ……ヘル?』

人とは思えないような美顔が僕の顔を覗き込む。

『大丈夫? ぼーっとして。まぁ他人の記憶なんか見たらちょっと混乱するとは思うけど…………お兄ちゃんだよー?』

『……お、兄……ちゃん?』

『うん、お兄ちゃんだよ?』

『ひっ……ゃ、やだっ、ごめんなさい………………ぁ、兄さん。何だ、兄さんか……いや、うん、大丈夫、僕は……強くなれた。大丈夫……』

『え? 何? 本当に大丈夫?』

蹴られる痛みを追体験したせいか、僕も昔を思い出してしまっていたようだ。床に近い視界、ずっと上にある頭、背や手足に多い蹴りによる痛み……全て自分でも経験したことだ。

『……………………にいさま』

僕は逃げられなかった。逃げようともしていなかった。逃げられると思えなかった。

『……えらいね、君はちゃんと逃げたんだ。もう大丈夫だよ……いいこ、いいこ』

開いた扉から飛び出した勇気を称え、黒犬の頭や背を撫で回した。
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