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微笑

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引越し当日、運び込まれる荷物を横目に彼の部屋の扉を見つめる。家電や大きな荷物をどこに置くか……と尋ねる引越し業者の声に毎度体を跳ねさせ、手短に希望を伝えて再び彼の部屋の扉に視線を戻す。

「……熱っ」

そっと金属の扉に手を触れさせ、太陽光を集めたその熱に手を素早く引っ込める。この向こうに彼が居る……そう考えるとこの鉄板に耳を当てたくなるけれど、顔に火傷を負うのは避けたい。分厚い磨りガラスを見つめても部屋の内装すら分からない。ガラスを覆う鉄柵を指先だけで摘み、また熱に手を引く。
そんな完全なる不審人物の僕に背後から甘い声がかかる。

「引っ越しですか?」

「あっ……ぁ、あ、えと、ぁ……」

慌てて振り返り、言葉を探す。彼は外に出ていた、今帰ってきたのだ。
返事が思い付かない、裏返った醜い声が勝手に漏れる、彼に気味悪く思われたらと考えて冷や汗が止まらない。

「……大丈夫ですか? 顔色悪いですよ、熱中症とかじゃないですか?」

革手袋の感触が頬に──彼が僕の顔に触れている。

「業者さん、荷物入れるのって彼絶対に居なきゃいけませんか?」

「出来れば……でも、もう軽い物ばかりなので、大丈夫ですよ」

「そうですか。えっと……螺樹木さんでしたっけ? 俺の部屋来てください、冷房つけっぱなしにしてるので涼しいはずです」

何を言っているんだ? 部屋……彼の部屋? 忍び込もうとしていた部屋に、カメラを仕掛けようとしていた部屋に、入れる?
暑さと焦りで思考が回らない。そんな僕を彼は体調が悪いのだと思い込み、部屋に招いた。座らされて、濡れタオルを首に巻かれ、僕は少しずつ状況を理解する。

「頭痛とか、吐き気とか、そういうのあります?」

冷えた麦茶を渡してくる黒い革に包まれた手。手首をじっと見つめると青白い肌に薄らと浮かんだ緑が──彼の血管が見えた。その血管や尺骨、手首を回す度に浮かぶ骨や筋肉の張り、そういったものから彼の手袋の下を妄想し、さらにその手が僕の身体を撫でるのを妄想する。

「……螺樹木さん?」

きっとこの世のどんな宝石でも適わない美しさの瞳が、微かに翠を混じらせた青い瞳が、僕の顔の前に回り込み、僕を映す。

「だっ、だだっ……だい、じょうぶ……です」

少し俯いて長く伸ばした前髪で視界を塞ぐと、革の感触がその前髪をかき上げた。

「…………ぁ、あっ……やめてくださいっ!」

思わず彼の手を払い、前髪を戻して両手で目を覆った。

「……すいません、無遠慮に触って……瞳孔を確認しておきたくて。本当にすいません」

蕩けるような甘い声の謝罪を聞き、僕は自分がどんなに罪深いことをしたか理解した。心配してくれていただけなのに、僕が不審な動きばかりしていたのが原因なのに、彼に謝らせてしまった。

「ちがっ……ぁ、ごめんなさい、そんなっ……ぁ、謝らないで。そのっ、驚いて……大丈夫です、僕は、大丈夫」

自分でも何を言っているのか分からない、けれどどうにか彼に機嫌を戻して欲しくて、彼に嫌われたくなくて、前髪を自分でかき上げた。
目はウィークポイントだ。ぎょろぎょろと周囲を気にしてばかりで、何かあれば凝視してしまう気持ちの悪い瞳……彼に対しては醜い欲に満ちていて、出来れば見せたくないものだ。でも、謝る必要はなかったのだと彼に伝えたい。目を見られるくらい気にしない人間だと思われたい。

「ひっ……ぁ、いえ、大丈夫……です」

青い瞳に射抜かれて、流石に見つめ返すことは出来ず、彼から目を逸らし何もない壁を見つめる。

「…………大丈夫そうですね。綺麗な目です」

そう言いながら彼は僕の頭を撫で、前髪を戻してくれた。

「視線恐怖症……とか?」

「……え?」

「自分の視線で他の人が嫌な思いをするんじゃないか、とか。他の人に見られてるんじゃないか、とか。目を合わせたら考えが見透かされるんじゃないか、とか。考えてます?」

どうして分かったんだろう。今まで誰にもそんなふうに言われたことはなかった、両親だって僕が目を隠しているのに対して口出しはしなかった。

「……大丈夫ですよ、人ってそんなに嫌いなものジロジロ見ません、見ていたとしたら好意的なものです。考えを読むなんて超能力者は滅多に居ません」

「僕っ……僕に、見られたら、気持ち悪いって……」

「そう誰かに言われたんですか? 大丈夫です、螺樹木さんの目は綺麗ですよ、可愛い目です。普通にしていれば誰も気にしませんよ」

他人が僕のことを気に留めていないのは分かっている。けれど同時に他人が僕を嫌っているのも分かっている。
怖い。他人の視線が、笑い声が、話し声が、ため息が、舌打ちが、他人の一挙一動何もかもが怖い。どうしてそれを見破るのだろう。彼こそが人の考えを読む人間ではないのか。

「…………優しい人なんですね、螺樹木さんは。普通そんなに他人のこと気にかけませんよ。大丈夫です螺樹木さん、あなたは嫌われるような人間じゃありません」

優しく髪を撫でられ、髪から頭皮からゾクゾクとした快感が脳に伝わる。彼の手が髪に触れる度に身震いして、小指が耳を掠る度に身体を跳ねさせた。

「じゃあっ! 凪……凪さんはっ……凪、さんは……すき、ですか?」

思考が回らなくなって、嫌われるような人間じゃないと言うのなら──という前置きが外れた。
あぁ、ダメだ、万が一にも気味悪がられていなかったとしても、今気持ち悪い人間だとバレてしまった。

「好きですよ」

「…………え?」

「もちろん、人間として、ですよ? ふふ……怯えてばっかりで警戒心強くて……野良猫拾った気分です。懐かせたいなー、なんて。ふふふっ……冗談ですよ」

好き? 誰が? 誰を?
彼が、僕を……好き。好き。僕と同じ気持ち。
あぁ、そうか、僕が喫茶店に戻ったタイミングで店を出たのは僕に家を教えるためで、ポストを開けっ放しにしていたのは僕に名前を教えるためで、僕を家に上げたのは熱中症の疑いがあるからではなく僕が好きだから……なんだ、両想いだったのか。

「ぼっ、僕も、僕も……凪さん、好きです。優しくて……」

そう、彼はきっと優しく抱いてくれる。

「そうですか? それは嬉しいです、仲良くしましょうね、お隣さん」

仲良く……あぁ、そうだ、仲良く……

「はい!」

愛し合おう。



荷物の運び込みが終わり、僕は自室に戻った。買ったばかりの空調を起動させ、何も敷かれていないフローリングにぺたんと座る。
まだ、暑い。でもこの暑さが、この熱が、僕を興奮させる。

「凪さんっ……凪さん、凪さん、凪さん凪さんっ……!」

好きだと言ってくれた、彼も僕を愛していた。この妄想が現実になる日は近い。性器を扱く手が自分のものでなくなる日は近い。

「好きっ……凪さぁんっ、僕も、好きですっ……」

彼の手はもっと優しく、丁寧に、少し焦らしながら僕を絶頂に導いてくれる。胸も、腹も、臀も、口さえも、優しく愛撫してくれる。

「はぁっ、はぁっ……凪さぁん……好き、好き……大好き……」

フローリングにどろどろと白濁液が零れる。彼はきっとこの欲望の証拠を指で掬って、少し意地悪に微笑んで、僕の性器に絡める。

「ぁあっ! だめっ……今、イっ……ひぁっ……」

絶頂したばかりだと敏感に反応する僕を楽しんで、先程よりもゆっくりと焦らしながら、くちゅくちゅと音を立てて羞恥を煽りながら、また僕を愛でてくれる。

「んっ……んんっ……ぁあっ……また、イっちゃぅ……」

そう妄想しているのに僕の手は上手く動かない。自分で自分を焦らすのも、自分を辱めるのも、自分をいじめるのも、難しい。
玩具を使えば可能だろうか。バイブ機能のある物なら僕の状態なんて気にせずに僕を攻め立てる。けれど、あまり声を出して彼に気付かれたら本末転倒だ。いくら好きと言ってくれていても、玩具でよがるような男だとバレたら軽蔑されるかもしれない。

「凪さん……」

フローリングを這いずり、ダンボールをかき分け、そっと壁に耳を当てる。何も聞こえない。

「凪さん……マイク届いたら、全部聞いてあげますからね……カメラも届きますから、全部見守ってあげますから……」

安いボロアパートにしては分厚い壁をいいことに蕩けた声で宣言した。
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