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追われる側で終わったつもりだったのに
しおりを挟む♢翌朝♢
始業時刻の10分前、エレベーターを降りるとすぐ、どこか聞き慣れた笑い声が耳に入ってきた。その声だけで俺の背筋がほんのり強張る。
……俺のデスクの傍
黒川が、森田と笑いながら話している。いや、別に……同じ会社なんだからいて当然だけど……でも「今だけはいてほしくなかった」のが正直な気持ちだ。
ほんの数時間前、ホテルのベッドで交わった相手。どう考えても、今まともに顔を合わせられる精神状態じゃない。
黒川は俺には気付きもせずに笑っている。森田と肩を並べ、なんとなく「楽しそう」にしてる。
なんで、そんな普通でいられるんだよ……
胸がざわつく。俺はなるべく無表情で、スッと視線を逸らした。けれど、感じる。視線を。黒川の方から強烈なそれを。
……見てる。絶対、見てる
前を向いて歩いているはずなのに、後頭部にひりつくような熱がある。追いかけてくるわけでも、声をかけられるわけでもないのに、確かに“気づかれている”感覚。
知らないふり。何もなかったふり。それが今の、俺の限界だった…のにそこには空気の読めない奴が1人。
「渡瀬、おはよ!昨日、ちゃんと帰れた?」
「……おはよ。うん、まあ……」
視線を落としたまま、つとめて自然に返す。だけどその瞬間、すぐ横から愉快そうな声が降ってくる。
「大丈夫じゃなかったよな?」
ぎくりと心臓が跳ねて、顔を上げられないまま、横目だけで黒川の存在を捉える。森田はまるで気づくことなく、「なになに?」と笑いながら聞き返してくる。
「ちょっとな。顔真っ赤でフラフラだったからさ」
「うわ~マジか。弱っ!」
黒川と森田が笑う。軽口の応酬。昨日のことなんて何も知らない他人の会話。そして、自分だけが“昨日”に取り残されているような気になる。
黒川が森田の肩を軽く叩いて、「それでさ」と仕事の話をしながら歩き出す。何をどう取り繕っても、自分の中には“あの夜の続き”が残っているのに。黒川の中には、残っていないように見えるのが、腹立たしい。
でも、そうしろと言ったのは俺の方だ。
忘れろって、もう終わったって、触るなって、自分の口で言い切った。言い訳の余地も、揺らぎの隙もなく、はっきりと言ってしまった。
会議室に向かう黒川の背中を目で追ってしまった自分に、小さく舌打ちする。
なにやってんだ、俺。
ほんの少しでも、俺を気にしてる素振りとか見せてくれたら……楽になれるのに。
俺が突き放した側でいたいのに。
でも思う。あそこまで突き放さなくてもよかったんじゃ……?秘密で……セフレとか……そんな選択も……
いやいやいやいや。何を考えてんだ、俺は。バレたら終わる。こんな狭いコミュニティ内で手を出すなんて。それに、黒川はノンケだ。引き込んじゃダメだとも思ってる。
でも……それでも、もし……
「またしてみる?」なんて黒川が誘ってきたら?
……断れる自信、正直ない。
いっそあのとき、何も言わずに“セフレ”にしてしまっていれば。全部、秘密にして、誰にも言わずに。あの身体だけを、たまに分けてもらえる関係だったら。
こんなふうに、モヤモヤして、変な期待したりしなかったのかもしれない。
キーボードに指を置いたまま、俺は自嘲する。ひと晩だけの火遊びに、本気で火傷しそうになっていることを、誰にも気づかれたくなかった。何より、自分自身が、それをまだ認められていなかった。
そうこうしながらも、1日はいつものように過ぎて行く。
気付けばスマホのロック画面に、定時直後の時間が表示されていた。そろそろ…と仕事にキリをつけようとした時だった。斜め後ろからやけに楽しげな声が耳に入ってきた。
「なぁー黒川ぁー、良いじゃーん、行こうぜー」
「嫌だ。昨日も飲んだし今日は帰る。」
「だって人数合わないのはまずいじゃん、人数合わせでいいから!てか今回の子マジで全員可愛いから!」
森田の浮かれた声に、黒川が露骨に眉をひそめる。ついでに俺も眉をひそめてしまった。
「お前元気すぎだろ、俺眠たいつってんだろ。」
「だって今日金曜日じゃん、飲まなきゃもったいなくね?」
「そのマインド尊敬はするけど理解はできないからパスで」
ぎゃーすか文句を言う森田を横目に、俺は黒川の意見に内心で頷く。そしてこれは本当に油断していたのだけど、ふと横目で黒川の方を見てしまった。
だけどそれがまずかった。その瞬間、黒川の目がこっちをかすめたから。
……うわ、バッチリ目ぇ合ったんですけど
あからさまに視線を逸らすのも癪だし、かといって平然と見返す余裕もない。俺はモニターに目を戻しつつ、キーボードを意味もなく押した。
「……やっぱ行くわ」
「え!?マジ!?」
「いや、気が変わっただけ」
……は?さっきまであんなに露骨に嫌そうだったくせに?気が変わった?俺が聞いてるの分かってて態度変えただけ、って思うのはあながち間違ってない気がする。
意味もなくマウスをカチカチいじりながら、思わずため息が漏れそうになる。でも顔には出さない。絶対に出さない。合コンって言葉にいちいち反応してるのバレたら最悪だし。だいたい、どーでもいいし。
あー……くだらねぇ
ほんっと、くだらねぇ
そう、くだらないんだ。別に黒川が誰と何しようが、俺には関係ない。俺が終わりって言ったんだし、俺が……
でも
ほんっと……ムカつく
そんな俺の心情なんてどこ吹く風で、黒川はいつのまにか森田と二人でスマホを覗き込んで、何かしら盛り上がっていた。
黒川のことなんて考えたくもない。でも、ずっと頭から離れてくれない。
黒川の、あの熱。絡められた指。強引なくせに、やたら優しくて、いやらしい手つき。身体の全てを撫でてくれた感触。そこに唇を這わせてきた黒川の感触。まだ覚えている。
昨夜は「可愛い」って何度も言ってきたのに。今の黒川はなにもなかったように笑ってる。
自然と頭に浮かんだのは、黒川が女と過ごしているイメージだった。あの顔で、あの身体で、ほかの誰かを抱いてる。自分よりも柔らかい身体に顔を埋める。
もっと、されたかった。
あの時より、もっと奥まで。
もっといろんな声、引き出されたかった。
脚の奥が疼く。
一人きりの退勤直後。
黒川は、今夜、どこで誰と何をするんだろうって、そんな事考えて泣きそうになってる。溜息ひとつ。熱と苛立ちと、言いようのない焦燥だけを胸に抱えて、俺はひとり、夜の街に紛れ込むしかなかった。
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