37 / 50
【Last】Summoner’s Tast
遺す
しおりを挟む
(1)
パールフェリカが、眺めるのを止めた後の事になる。
100体居た敵ドラゴンの数を、民衆の歓声が上がる中、次々と撃ち落し、半分以下に減らして半刻あまり経った頃。
それは突然。
晴れ渡るスカイブルーの空を、七色の閃光が駆け抜けた。空の色は失われ、白く強烈な光に覆われた。
その閃光は、“炎帝”の吐き出す熱光線の10倍の厚みを持って、七色の魔法陣を真っ二つに割った。
あまりの眩しさに、双眼鏡を覗いていたミラノは顔を逸らした。それでもなんとか、片目で割られた魔法陣の方を見た。
慌てたように“炎帝”や“雷帝”、ティアマトやマンティコアなど、そこで戦っていた飛翔召喚獣が退いていく。敵ドラゴンは光の向こうに居て、姿の確認が出来ない。
その一帯の木々が、一斉に渦を巻くように薙ぎ倒されていく。
閃光は、カクカクと折れ曲がりながら突き進み、ミラノの張っていた巨大な七色の魔法陣を食い散らす。上下左右にとジグザグに暴れ、穴を開けていく。閃光は、龍さながら、長大な体をうねらせ、口を大きく開いて、ミラノの魔法陣に毒牙を突き立てていくようだ。さらに、光の胴体で魔法陣の面を激しく打ちつけ、亀裂を加えていく。
恐ろしいことに、閃光がもう1本、空を割って飛んできた。
それはもう一枚の魔法陣に激突し、同じように破壊していく。空の色は、七色の光を濃くした。
誰もが言葉を失い、目を見開き呆然とする。
──閃光が飛んできた方向は、神の御座すクーニッドだ。
魔法陣が割られた事で、飲み込まれていた火炎と爆雷が逆流して返ってきた。辺りに飛び散り、森に轟音が響き渡り、木々の焼け焦げる臭いと、黒煙が立ち上る。王都の1/5に当たる森が、それで焦土と化した。
今、ガミカを護っていた七色の魔法陣が、新たに現れた七色の閃光によって打ち壊された。
視界をはみ出る大きさの魔法陣は、さらに巨大な力で砕かれたのだ。
──どちらが、神の力か。
そんなものは一目瞭然である。神こそが絶対なのだ。強い方が神の力に決まっている。強い方の力は、神の御所から飛んできた。
ならば、ガミカを護っていた七色の魔法陣は何だったのか。
たった今まで歓声の上がっていた城前広場は、水を打ったように静まり返り、彼らの胸に不安が広がっていく。それをさらに煽るように、七色の魔法陣を食らい尽くした2本の閃光は、そこでグルグルと高速回転して、新たな魔法陣を生み出す。回転は今までに無い速さだ。
閃光から生まれた2つの魔法陣からは、回転とは裏腹に、ゆっくり、ゆっくりと“悪夢”が浮き上がる。
巨大な魔法陣にふさわしく、いかなる召喚獣も超越した大きさで、姿を現す。
一つ目からは、黒に近い紺色の翼。凶悪な、黒光する爪。
もう一つからは、黄色の羽毛がふわりふわりと、舞う。
それで、ピンと来ない者は居ない。
誰かがつぶやく。
「クーニッドから魔法陣が……“召喚獣”が……」
混乱と動揺が瞬時に駆け抜けた。
ミラノは目を大きく開いてから、瞬く。そしてネフィリムを見る、彼もこちらを見た。2人とも、見覚えがある。突如発生した2枚の魔法陣から、顕現する召喚獣……。
──あれは。
「リヴァイアサンと、ジズ……」
ネフィリムの呟きに、3階バルコニーにわっと声が溢れた。広間の人の出入りは激しいが、現状30名居た。それが一斉に口を開き、場は騒然とする。
「“神の召喚獣”だと!?」
「そんな馬鹿な!」
「神はガミカを滅ぼすおつもりだ! “神の召喚獣”は、それが役目だろう!」
王と大将軍はバルコニーに身を乗り出し、新たに生まれた“神の魔法陣”を、ひたと見据えて動かない。
ガミカを護っていた七色の魔法陣は、割られた。“神”によって破壊されたのだ。
ミラノは、体の力をふうと抜いて、腕を下ろし、目線を誰も居ない方へずらした。
自分の今後というものが、簡単に想像出来てしまったのだ。
──やれやれ……ね。
そのすぐ後。
「この女だ! この女が“神の怒り”に触れた!」
異変にタイミング良く現れたミラノを、“魔女視”する声が上がりはじめる。
無表情のミラノに、囁かれる“魔女”という罵声。王城内で上がるには不適切な、二つ名が生まれる。
王に、王子に、“神とよく似た力”を見せ、取り入ってどうするつもりだ、と。“神とよく似た力”が、“神の怒り”に触れたに違いない、と。
“神の召喚獣”が2体も現れようとしている。不安は恐慌に変わり、人々の心を蝕む。疑心暗鬼は、都合よく現れたミラノを、あっさりと悪魔に仕立て上げる。この不運を、誰かのせいにしなければ、心を保てないのだ。
神の怒りに触れた、ガミカに天罰が下る、早々に追い出せ、と。
早く神に引き渡せ、と。
バルコニーに迫る、鎧に身を包んだ騎士や重鎮らの方を、ミラノは冷めた表情で振り返る。彼らの声は、水中の音声のようにミラノの耳を通り過ぎる。当然のように、スルースキル発動である。
他人の罵声など、慣れたもの。
魔女と呼ばれるのだって、初めてではない。あの女が私の彼を奪った、魔女め、と。勝手に片想いをされて、その男に思いを寄せた女が、面と向かって、あるいは陰で口さがなく言う。そんな声は呆れる程聞いた。聞いてやるだけ、馬鹿馬鹿しいが。
そこへ、未だ白く輝く空を割って、青色のペガサスが3階バルコニーへ飛び込んで来た。馬の嘶きに罵声も一時止む。騎乗の人は鎧を鳴らして馬を降り、王の前で膝を折った。
「ご報告申し上げます!」
ぱっと上げた顔に、ミラノは覚えがある。パールフェリカの護衛騎士、リディクディだ。
「クーニッドの神殿が大破致しました。中より、大水晶が浮き上がり、こちらへ飛んで来ています!」
「陛下! あの女を早く“神”に捧げるのです!」
リディクディの報告に、王が言葉を発するより先に誰かが叫んだ。
クーニッドの大岩こと大クリスタルは、神の一部と言われている。
「“神”直々、こちらに!?」
「ガミカは終わりだ!!」
「あの女だ! その召喚士が“神”のご不興を買ったのだ!」
その声を合図に、一斉にミラノへ視線が集まる。
ミラノはと言えば、スーツ姿ではないが、いつも通りの堂々とした立ち姿で、それらを受け止める。表情は無く、涼しげな目元は淡々としている。
次々と上がる声を、王もネフィリムも黙って聞いている。
召喚士としてミラノを担ぎ上げたのは、彼らだ。王が決め、ネフィリムは止められなかった。
ミラノは、自分を睨み据える重鎮らの、化け物を見るような視線に、にこりと微笑んで応えた。もちろん、作り笑いだ。顔色を変えて見せてあげたのだ。そろそろ『何とか言え』と、罵声のバリエーションが増えるだろうと踏んだからであり、微笑を選んだのは、さすがにイラッとしてきたからだ。
皆、ぎょっとして言葉が止まる。
その時、風がばさりと吹き込んだ。
「──父上! 兄上!」
ティアマトとマンティコアが、3階バルコニー正面に風をぶわりと乱して姿を見せた。
リディクディの横に、シュナヴィッツはがしゃんと鎧を鳴らして降りてくる。兜を取り払うと、汗が散った。頬に亜麻色の髪が張り付いている。
「……?」
ミラノが睨まれ、父も兄も押し黙っている。妙な構図に首をひねりながら、シュナヴィッツは父と大将軍の傍に歩み寄った。
「新たな魔法陣から、リヴァイアサンとジズが召喚されつつあります。現在、敵ドラゴン、両召喚獣に動きはありませんが、どうします?」
「…………“神の召喚獣”が完全に召喚されるまで、どれ程かかりそうか?」
ラナマルカ王がやっと口を開いた。
「前回の事もありますが、今回はやや早いようです。とはいえ、半刻から一刻はかかるのではないかと。その間に兵を休めたいのですが」
「わかった。半数を現状維持、半数を休ませ、途中交代させるように」
「はい」
立ち去ろうとしたシュナヴィッツは、一度目線を落とした後、広間にいる重鎮らを見回した。
「何か、ありましたか?」
シュナヴィッツの問いに、重鎮らは眉間に皺を寄せ、顔を見合わせている。
城前広場からも、絶望の声が響き始めている。天罰だと、神の怒りだと、先程まで重鎮らが上げていた声と、そう違わない。
「…………」
カツっと踵を鳴らして、回れ右で歩み去るミラノ。下ろした黒髪がさらりと流れた。気味悪そうに道を空ける重鎮らの間を、つかつかと進む。
「──ミラノ!」
ネフィリムが追う。その後を、シュナヴィッツも戸惑いながら追い、マンティコアに騎乗しているブレゼノに声を投げた。
「スティラードと兵を分けて、交代で休憩に入れ!」
広間を出て、廊下。
壁に向かうように、ミラノは立っていた。
「ミラノ……すまない」
「兄上、何があったんです?」
廊下に人はおらず、ミラノを追ってネフィリムとその護衛であるアルフォリス、レザード、最後にシュナヴィッツがやって来た。
壁を向いていたミラノが、こちらを向いた。相変わらずの無表情だが、今は氷のような冷たさを湛えて見える。
そのミラノが、ゆっくりと首を傾げた。
「なぜ、謝るの?」
「いや……」
言葉を探しながら、ネフィリムはミラノの肩に手を置いた。
「ミラノ、ここに居ない方がいい、パールの部屋へ下がろう」
ネフィリムの手を見て、ミラノは彼の顔へちらりと視線をくれる。蒼い瞳には気遣いばかりが占めている。とても心配しているらしい。言葉の通りに、一緒にパールフェリカの部屋へ行こうとしてくれているようだ。誰かしらがミラノをひっつかまえ、“神”へ捧げんと殺すのではないか、とでも考えているのだろうか。
彼らの背後、まだうっすらと開いている扉の奥の様子に、ミラノはふと気付く。こちらを伺い盗み見る、誰とも知らぬ重鎮らの好奇の目がある。わかりやすい事だ。
「結構よ」
そう言ってミラノは廊下を進み、角を曲がる。
ミラノは、ちゃんとわかっている。
馬鹿馬鹿しい陰口で、自分だけではなくラナマルカ王やネフィリム、シュナヴィッツが何かしらよくない方向に、疑われ始めている事に。
国なんて、興味も何も一切無いのに。王を、王子2人をかどわかすつもりだって、1%も無いのに。
今は、“神の召喚獣”とやらが眼前に迫り、もう後の無い危機にあるというのに、国家乗っ取りだなんて、一体どんな思考回路が弾き出した発想なのだ。その言葉を発して扇動した馬鹿の顔を、見てやりたい。
「派手に持ち上げて紹介してくれた割に、早々に突き落とすなんて、マスコミやら週刊誌よりひどいわね」
持ち上げておいて、後でこっぴどくこき下ろすのは、よく見かける常套手段だ。芸能ニュースなどで、ほのぼのエピソードと悪意をオブラートで包んだ覗き見スクープが、代わる代わる報道される。視聴率、あるいは発行部数を競って、数字の為金の為、欲望の為に、他人を貶める。
それと、ガミカ国を動かす重鎮らを並べてみた。ちょっとしたストレス発散だ。
角を過ぎて少し進んだところで、足を止めた。後ろから、足音がする。ネフィリムらが追ってきたのだ。振り返り、彼らの目を見てミラノは言う。
「好きにすればいいわ」
その足元に七色の魔法陣が浮かび上がり、ミラノはすとんとそこに落ちるように消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
あれでは、何を考えているのかわからない。あの表情では、読めない。ネフィリムはゆっくりと瞬いてから、告げる。
「アルフとレザードはヒポグリフとコカトリスと共に父上のところへ。そのまま対召喚獣として待機」
「ですが!」
「私は城の中には居る、頼む、アルフ」
「……はい」
よく考える。
ミラノならば、どうする? 彼女なら、さっさと“うさぎのぬいぐるみ”に戻って、パールフェリカの負担を取り除こうと考えるだろう。
「兄上」
シュナヴィッツも同じ結論に達したらしい。頷きあって、2人は駆け出した。
薄ぼんやりと、城前広場の声が聞こえる。
パールフェリカの部屋の真ん中に、しゅるりと姿を現したミラノを、エステリオが口をぽかんと開いて見ている。その反応を無視して、ミラノはソファに歩み寄る。探しているものが無い。
「エステルさん、“うさぎのぬいぐるみ”はどこに?」
2,3度瞬いて、エステリオは狼狽をかき消した。いつも通り、応えてくれる。
「姫が、寝室へ持って行かれました」
「…………そう。ありがとう」
礼を言って、ミラノは寝室の扉の前に移動すると、ノックした。しばらく待つも、返事が無いので扉を開く。
灯りをつけていない寝室は、薄暗い。半歩足を進め、体を寝室へ滑り込ませると、扉を閉めた。
「パール。“うさぎのぬいぐるみ”は……」
「ここにあるわよ!」
声と同時に、胸のあたりにドスンと衝撃があった。
どうやら投げつけてきたらしい。ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”を受け止めた。頭の方が重いので、下になっている。上下持ち替えて、いつもパールフェリカがしているように抱えた。そして、ベッドの上に居る彼女を見る。
うつ伏せていたのを、無理矢理体をひねり起こし、こちらを見ている。
その顔が、涙でべちょべちょに濡れているのを、ミラノは見つけた。
「…………」
「なによ! 皆してミラノミラノって! ミラノを召喚してるのは、力出してるのは私なのよ!? がんばってるのに! 誰も知らないなんて!」
「…………」
ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”をそっとを抱きなおして、ベッドへ足を進めた。
(2)
今となっては、パールフェリカと関わりがあるという方向で、つまり召喚獣として、お披露目されなくて良かったとミラノは思う。
ミラノは、自分が『神の怒りを買った』だのと言われる分には問題ないと考えているが、パールフェリカが声高にそう批判されたなら、彼女には耐えられないのではないかと思うからだ。
ミラノにとって、真実かどうかもわからない、本来の彼女自身を評価したわけでもない罵りなど、どこ吹く風だと思える。鬱陶しくはあるが、他人事のように聞き流す事は可能だ。
自分自身というものを、その価値を知って、確固たるものとして持っていると、確かに把握しているからこそ、揺るがない。
だが、13歳のパールフェリカは別だろう。この国の“姫”という立場にある彼女は、別だろう。
追い出せと叫ばれた時、パールフェリカは、全ての拠り所を無くしてしまうのではないかと、想像に難くない。
ミラノが召喚士として紹介された事から、その名を賞賛と共に叫ばれた声も、ここまで、パールフェリカにまで、届いて聞こえてしまったのだろう。考えていた通り、彼女はすっかり心を乱している。
薄くとろけそうな白い肌は上気して、目尻まで真っ赤に腫れている。こすったのだろう、目元の柔らかい肌がただれてしまいそうだ。
今更ではあるが、気丈に振る舞おうと涙を拭って身を起こすパールフェリカ。ベッドの真ん中辺りで正座を崩して、お尻をペタリとついて座り込んだ。
ミラノはベッドの端に“うさぎのぬいぐるみ”を寝かせ、さらに近付く。パールフェリカと一番距離の近いベッドの淵に、静かに腰を下ろした。ゆっくりと、体を少しひねって、ベッドの中央に居るパールフェリカを見る。パールフェリカは、数瞬視線を泳がせ、目を逸らすと、鼻をすすった。
人をからかい、心の内を隠して明るく振る舞って──その結果を、ミラノは想像出来る。
母親もなく、大人ばかりに囲まれた彼女の辿る心の道筋を、今、目の前で泣き腫らす姿から、おおよその見当をつける事は可能だ。
ミラノにも、13歳という時は確かにあったから。その見当が本当かどうか、またパールフェリカ自身の問題は何なのか、それは今から、聞き出していく事になるのだが。
しばらく黙っていると、パールフェリカはちゃんと目をあわせて来た。
ミラノは口角を少しだけあげて、微笑み、首を緩く傾げる。遠いわよ? と。
気まずそうにパールフェリカは再び目を逸らしたが、もそもそと四つんばいになって前へ進み、ミラノの隣に腰掛けた。
ミラノはそっと肩を傾け、パールフェリカにさらに近寄り、手を伸ばしてその頬に触れ、指先で目元をそっと撫でた。
「パールは……甘え下手なのね」
心を隠す可愛い子狸の、頬はとても温かい。
「本心から、甘えられる人が、いなかった?」
その優しすぎる声に、パールフェリカの目は涙で溢れた。
パールフェリカはひやりとさえする、細く柔らかなミラノの手に触れて、頬に押し付けた。溢れた涙はとくとくと零れ落ちて、ミラノの手の平と自分の頬の間に染み込んだ。ぬるぬるとズレてしまいそうな手を、パールフェリカは必死で押さえつける。
顔を左右に揺らした。唇はわななき、言葉がうまく出てこない。口をぱくぱくとさせ、どうしたらいいのかわからず、目線を泳がせた。そして、ただ大きく口を開いた。少し鼻にかかった、猫のように細く高い声で、言葉にならない、抑えた声を出した。始めは小さく、次第に大きく。
声がやっと出るようになると、パールフェリカはついに「あーん」と、赤子のように泣いて、ミラノに抱きついた。堪えていた沢山のものが、堰を切った。
ミラノは、パールフェリカをそっと抱き寄せて、落ち着くまで頭を撫でてくれた。
「だって、私に価値なんて、お姫様って事しか、ないんだもん!」
しばらく泣くだけ泣いて、気持ちも程々に鎮まった後も、喉をひくひくと鳴らしながら、パールフェリカはミラノに寄りかかっている。
「何度考えても、私、何も無くて……ミラノの事まで……その……私……なんていうか、憎たらしくなって……」
「…………………………パール、そういう時は妬むという言葉の方が適切ね」
先程までの優しく包み込むような声は無くなっていて、いつも通りの冷静な声音が返ってきた。
「憎むとは違うの?」
「妬むの方が適切だと思うわ」
「ふーん……うん、覚えた! 私、一つ賢くなったわ!」
「……良かったわね」
女という生き物は、いくつになっても大きくは変わらない。とりあえず派手に泣けば、多少はすっきりしてしまうのだ。パールフェリカから、奈落の底に居るかのような、悲嘆な様子は消えていた。
「それでね、えっと、何を言おうと思ってたんだったかしら。あのね、えっと………………?……」
うまく説明しようとすると、わけがわからなくなるらしい。
「…………そうね……。パールは、なんで泣くの?」
「……え?……」
「お姫様という価値しか無い……。パールはなぜ、価値が無いと言って泣くの?」
「だって……価値がなきゃ……その……生きてる意味なんか、ない……し……居ても居なくても……私でなくたっていいって意味で……」
選ばれたのは自分ではなく、ミラノだった。
パールフェリカは、自分が召喚士として人々に名を呼ばれ、華々しくミラノを召喚披露するはずだったのに、そうはならないで、ミラノだけが必要とされた事が、痛くてたまらなかった。だって、召喚主は私じゃないの、と。
パールフェリカという存在に、価値を見出してもらえなかったと、思っている。
「それで、なぜ泣くの?」
「……ミラノは、なにを聞いているの? わからない」
「生きる意味が無くて、自分じゃなくてもいい、それはわかったわ。それで、なぜ、涙をこぼすの?」
「……………………えぇっと? …………か、悲しいから?」
「なぜ疑問なの? 悲しいの? 悲しくないの?」
きつい内容にも聞こえるが、ミラノの声音はゆったりと、また淡々として変わらない。
「……そんな気が……するだけ……で……その……」
パールフェリカは、しがみついていた両手をゆっくりと緩めた。ミラノの両腕の肘少し下辺りに、掴んだ両手をずらし、その距離でミラノを伺うように見上げた。ミラノは一度瞬いて、整った顔立ちのまま──無表情ながら、言うなれば“きょとん”とした様子で──口を開く。
「……厳しい事を言うようだけど、それは単に、自分で自分を哀れんでいるだけ。価値が無い自分って可哀想、と」
「……!? ち、ちがっ──」
「なら、なぜ、涙をこぼすの?」
「…………」
パールフェリカは下へ向いた。ミラノの両腕が動いて、パールフェリカの手の下に、彼女の手が潜り込んできた。そっと、手を繋ぐ形になった。それを、パールフェリカはじっと見下ろす。ミラノの手はやっぱりひんやりとして、火照ったパールフェリカには気持ちいい。
なぜ泣いたのかだなんて、考えもしなかった。苦しくて、涙は勝手にこぼれた。気持ちが抑えきれなかった。
「パール」
それは柔らかい声で、うつむいていたパールフェリカはミラノの黒い瞳を見上げる。しっかりと繋がれたミラノの手に、少し力が加わった。
「価値なんていうものは、自分で作り上げるのよ、自分の中に」
「…………」
「お姫様という価値は、誰かが、そうね、あなたのお父さんとお母さんがあなたに与えた価値。それにすがっている限り、あなたの望む、本当のあなただけの価値は、無いわ」
まっすぐ、ミラノはパールフェリカの蒼い瞳を覗き込んでくる。
「だから、あなたはこれから、自分で自分の価値を作る必要がある。今はただ、与えられた価値があるだけ。それでは当然、あなたがあなたであるかどうかなんて、どうでもいいわね? それで泣くなんて、意味が無いわ。手に入れてもいない宝物を無くしたと騒いでいるのと同じ」
──それは、まるで道化。
「…………」
「誰だって、価値は本人が作って行くのだから。ネフィリムさんも、シュナヴィッツさんもそう。彼らも、ただ王子という価値だけを、持って生まれてきた。けれど、ネフィリムさんが王様に沢山の人に信頼され、召喚術について頼みにされて。シュナヴィッツさんが戦いとなれば最前線に立って多くの命を預かって先陣をきるのは……。沢山の人が彼らを認めているのは──彼らが作り上げてきた、それぞれ、彼らだけの価値だわ」
大国プロフェイブのキリトアーノ第三王子などは、国は異なるが同じ『王位継承権を持つ者』という価値を持っていながら、女遊びに呆け、身内さえからも蔑まれている。
「……にいさまたちは……すごいから……」
「すごいという価値は、彼らが作ってきたものよ。パール。日々、彼らが作ってきて、今も作り続けているものよ。あなたの知っている『すごいにいさまたち』の、あなたが感じる価値は、生まれつきもっていた王子という価値では、ないでしょう?」
2人の兄に頭を垂れる人々が、ただその身分にだけひれ伏しているのではない事を、パールフェリカはちゃんと知っている。王子という価値だけではないものが、あの2人にある事を、誰もが知っているのだ。
「…………」
「あなたにも、あるのよ?」
それは、あまりに優しい声で。握りこんでくれているミラノの親指が、パールフェリカの手の甲を撫ぜる。
「…………」
その声だけで、涙が溢れた。痛すぎる傷に、やさしく沁みこんで癒してくれる。だけど、わからない。それが悔しくて、また涙は止まらない。
「ちゃんと、あるのよ。もう、築いている価値はあるわ。でもそれは、ちゃんと自分で気付いて。私が言ってしまっては、いけないの。自分で気付いた自分の価値は、それから自分を作り上げる為の、礎になる。確かな形になる。私が横から言って、あなたを惑わせたくない。自分で気付いて、磨いて、あなただけのあなたになれば、それはもう、誰にもマネ出来ない価値が、あるの」
「……でも、価値があるかどうかなんて、判断基準とか、よくわかんないし……」
ミラノが、ふわりと笑う。
「それは、一番簡単よ?」
「え?」
「あなたが、価値があると感じた事、それを基準にすればいいわ」
「でも私の判断基準が低すぎたら? 高すぎたら?」
「自分を見つめてみればいいの。自分がマネできない事には、人は基本的に価値を見出すわ。……うらやましい、なんていう気持ちで。自分にとって出来ない事だったとして、出来るようになろうと努めるの。出来るようになったら、次に出来ない事を──。そうして自分は高められる」
「…………」
「そうして同時に、価値の基準は高まるわ。同時に、自分の価値も、高まるの。でも、他人に求めるものじゃない、それはわかる?」
自分の価値は、他人に押し付けるものではない。他人には勝手に、判断させる。こちらも勝手に判断するのだから、当然のルールだ。
「うん」
「自分が、どうあるか。今持っているものは何か。自分自身であるか、それを捕まえていられたら、揺るがないわ」
「でも……わかんないわ……そんなの……。自分探しとか、したらいいのかしら?」
うつむき気味にぽつりと言った言葉に、ミラノがプッと笑った。
「え?」
ミラノがそんな風に笑うのは珍しい。パールフェリカはまじまじとミラノを見上げた。ミラノはそれに気付くと、再び表情を消してしまった。
「自分探しなんて……滑稽だわ。いえ、人によっては必要だと言う人もいるのでしょうけれど。私は、とても滑稽な作業だと思うわ。だって、自分なんてそこに居るのに、いったいどこに誰を探しに行って、どれだけの時間を無駄にするつもりかしら?」
「……ふむ~」
ミラノの言う事は難しい。だが、自分探しという何をどうしたら良いのかわからない行為よりも、自分はそこに居るのに探しに行く事は滑稽だという方が、理解出来た。
「もっと身近に考えたらいいのよ。──私は、笑う事が出来る、出来ない。あの嫌な人を簡単にあしらう事が出来る、出来ない。なぜ、出来ないの? なぜ出来るの? 簡単なところから、探せばいいのよ」
ミラノは簡単だという。だがそれが一体、自分の価値というもののどこに繋がるというのだろうか。
「わかんないよー」
「……人なんて、感情なんて、自分の為で、言葉で聞けば卑怯で汚い点ばかりよ。それを、認めてあげなさい? 自分を守ろうとして卑怯になろうが、そうする自分を否定しない。肯定もしては、よくないけど。ケースバイケースなのだけど……」
ミラノはそこで区切ってから、言葉を改めた。
「本当の、自分。なんで逃げたの? 傷つきたくないから? 傷つくってなに? 痛くて苦しい? それで逃げた、ああ、なるほど、とね」
「なるほど、でいいの? 痛くて苦しくても、逃げたらだめなんじゃないの? 我慢しないと……」
「我慢できなかったから逃げたのよ、それはもう過去の話で。我慢した結果逃げなかったなら、痛くて苦しくて傷ついたはずよ。我慢しないで逃げたのは、その傷に耐えられないと感じたからよ。ならば、傷に耐えられる自分にいつかなる、その位でいいのよ」
よくわからなくて首を傾げてはいるが、パールフェリカの眉間の皺は、いつの間にか取れて、涙も止まっていた。
「でも……でもぉ…………」
「感傷なんて、ここにね」
そう言ってミラノは、繋いでいた片手を離し、自分の胸の中心をとんとんと揃えた指先で触れた。パールフェリカの同じ場所にも、とんとんと触れた。
「必要ないのよ。義務もね。ただの事実だから。事実があって、それをどう受け止め、そしてどうするのか。そこで、浸りこんでしまうから、悲しいだの苦しいだの言葉が出てくるのよ。自分に酔って苦しんでいる自分可哀想と、泣くんだわ」
「浸ってしまうのは、弱いから?」
また、ミラノが笑った。離れていた手が再びパールフェリカの手の下に滑り込んで来て、そっと握ってくれた。
「強いだの弱いだのの話じゃないわ。その時、それに耐えられるかどうか、というだけ。耐えられなければ逃げるだけ。逃げ方も、さまざまだけど。価値を高めたいなら、自分に価値を与えたいなら、そこでどういう態度を取る人に自分が価値を感じるか、考えなさい。追い詰められて泣き叫んで助けを求める人になりたいか、ぐっと堪えて戦う人になりたいか、笑ってさらりとかわして別の方法で乗り越えたいか。活路は、ひとつじゃないわ。価値は、ひとつじゃないわ。その結果で、喜んだり悲しんだりするのは、自分である必要はないわ。そこに価値を見出すか否かは、他人の仕事でいいのよ」
「でも、たとえば期待されていて、がんばれって言ってもらって、出来なくて、価値が無いって思われたら──」
「それは仕方がないわ、出来なかったのなら、それだけの価値が無かったのよ、ただの事実だわ」
「つらいし、申し訳ないし、悲しいわ……」
「どうして? 期待して、ガッカリするのはあちらの勝手で、こちらの価値を正確に見抜いていなかっただけ。あちらの手落ちだわ」
「こたえられなかった自分が……」
「頑張って出来なかったのなら、出来なかった自分がその時の本当の自分のはずよ。期待にこたえられなかった自分が、等身大の自分」
その等身大の自分を思い知りたくなくて、がんばれと言われる事を嫌がる人も居る。
「つらくなったり悲しくなったりするのは、等身大の自分を否定する事だわ。そんな事をしたら、自分を見失うだけ。頑張ったあなたをガッカリという行動で否定されても、あなたは頑張った事を褒めてあげるべきよ。頑張った自分を否定するという事は“今の自分”を否定する事なの。また……“振り出し”よ。いえ、頑張って進んだ1歩を、自分から2歩戻っているようなものだわ。いつでもスタート地点は、“今の自分”なのよ。それを否定したら、“以前の自分”に戻るしか、ないの。前の、前の、前の、ずっと前の……どこまでだって、逃げられるわ。生まれたばかりの頃は、当然弱いわね? 価値も生まれたというだけよね? 本当はそこから1歩ずつ進んでいたの。探そうとしていた“自分”は、本当はずっと前からちゃんといたの。積み重ねていたの」
「…………」
「──なのに。理想や夢ばかり、上ばかり見て、何も出来ないと嘆いて、周りばかり羨んで、あるいは目を逸らしてひたすら別の事ばかり考えて、“今の自分”を認めない。そうして、0価値まで、逃げられるわ。生存しているだけ、生まれてきたという両親の与えてくれた価値まで、ね。そこまで逃げたら、私なんて生きていていい人間じゃない、なんて言い出すの」
ミラノはそっと肩をすくめた。薄暗い中、ミラノの黒い瞳は、少しだけ悲しそうな色に見えた。
「簡単に、どこまでも逃げられてしまうのよ、誰でも、いつでも。でも、そのままではいつまでたっても変わる事は出来ない、前へ進む事は出来ないわ。“今の自分”を見つめる事からだけは、逃げてはいけないの。“今”を否定する事だけは、してはいけないの」
強く言いながら、ミラノはほんのり、自分は時々現実逃避してるなぁなどと考える。だが、ミラノもずっと逃げ続けているわけではない。いつもどこかで踏ん張る。それが出来る。
だが、“精神的に子供である人”に伝えようとすると、その曖昧さが伝わらない。“子供”が“大人”は汚いと叫ぶ所以だ。
自分に厳しく、優しく、2極の事を同時にする曖昧さ……柔軟さを身に着ける時、“子供”は“大人”に近付くが、“心が子供”の間は受け入れられない、卑怯にしか見えないのだ。2極、良いか悪いかで“子供”は育てられ、良いか悪いかで解決しない数多の価値観の、他者との関係性で成り立つ“大人”の社会に出る時、良いか悪いかで済んだ“子供”の中で反発がおこるのは、当然の事なのだ。それをわかっていない“大人”も多く、もちろん“子供”も気付かない。そしてこの反発の時こそ、“自分”というものは見失われやすい。居場所を、見失いやすい。
「なんでもいいの、昨日より早く靴がはけた、起きようと思っていた時間より5分早く自分で起きれた、それでも、もう変われている。それも、がんばった事と、認めてあげる、大事な事よ。ちっぽけな事かもしれないけど、間違いない前進だもの、ちゃんと満足して、褒めてあげて、出来た事に幸せを感じて、そして、次にいきましょう?」
ミラノの表情は、わかりにくい。でも、今確かに微笑んで、パールフェリカを元気付けようとしてくれている。
「……ミラノは、いつもそういう風に考えているの?」
「そうね……。私は、私でしか、ないもの。それ以上でも、それ以下でも無いから」
だからこそ、ミラノは必ずかえると決めている。本来の“今”からかけ離れたこの世界は、ミラノの世界ではないのだ。
自分は一つしか居ない。きっと、どちらかの世界にしか、いられない。きっと、どちらかを選ばなければ、どちらかの“今”を確実に失うのだと、ミラノは考えている。こちらに居れば居るほど、本来の世界の“今”を、27年を生きてきた世界を、失う。それは、“今”を築いてきた自分を否定する事に、等しい。だから、ミラノは必ずかえると決めている。未来は、どちらかにしかきっと無い。ならば、生まれてから築いてきた確かな価値を、自分を貫く為、かえる必要がある。己が己であり続ける為に、かえらなくてはならない。
決して、自分を否定したくない。真っ直ぐに、見つめる、受け入れる、それこそが、ミラノのアイデンティティ。
「私も、それ、マネしていい?」
少しだけ身を乗り出して、繋ぐ手に力を込めるパールフェリカに、ミラノは笑顔を見せた。
「してもいいけど。ちゃんと自分を捕まえておきなさいね?自分を捕まえておけるのは、自分だけなんだから」
パールフェリカは穏やかに微笑んだ。嬉しいのだ、単純にとても嬉しい。
「うん」
「──付け加えておくけれど。感情は、大切よ? ただ、価値という言葉の前では、惑わせるばかりの霞になるから、考えてはダメ、というだけよ?」
「……感情は捨てたらいけないの?」
ミラノがふっと笑った。どうしようもないという風に、形の良い眉をひそめた。
「捨てようったって、捨てられないわよ。最後の最後、人を突き動かすのはそれよ。ただ、価値を作る、自分をコントロールする上で、コントロール不可能な感情は、避けて考えるのが良い、というだけの話」
「ふ~ん……ミラノの言う事はなんだかちょっと難しいけど……うんー……わからない気は、しない、かなぁ」
「──いつか、考えて、自分なりの考えを持てば良いわ。今話した事は、ただの私の考え方だもの。あなたは、あなた自身の考えで、あなたの価値を作れば良いの」
「……そか……そっか……」
言いながら、パールフェリカは少し蒸れてしまったミラノと繋いだ手を、上下にぶんぶんと振った。離れそうになる手を、強く握った。
(3)
ネフィリムとシュナヴィッツがパールフェリカの部屋に着き、控えていたエステリオと顔をあわせた時、寝室から聞こえていた慟哭は、少しずつおさまっていくところだった。
2人は部屋に入ってすぐの所で扉を閉めると、エステリオにミラノは来なかったかと問う。
エステリオは、ミラノが突然部屋に現れ、パールフェリカの居る寝室へ入った事を告げた。パールフェリカの声は、寝室の扉越しにまだ、はっきりと聞こえている。
「…………昨日から姫様はどこか落ち込んでいらっしゃっていて、おそらく今ミラノ様と……。あのお2人の間には、“絆”がございますから」
首の後ろまで覆う帽子と、口元には垂れ布があって、エステリオの表情は目元しかわからない。その眉はひそめられていて、力及ばない己を恥じている。気付いてやれても、護衛騎士にすぎない自分では、パールフェリカの心に近付く事は出来ない。このエステリオの心配を、パールフェリカは知らない。サリアも気付きながらそこにある身分という壁を前に、気遣う声を上げられなかった。
パールフェリカを心配する存在は、いつもそこにあったが、パールフェリカの平気な素振りを見せる態度が、身分が、両者のきっかけを奪った。パールフェリカが本心から甘えるきっかけを、エステリオらにはそれを受け入れる準備があると示すきっかけを。誰が悪いという事はない、時間の積み重ねが築いた、パールフェリカの環境だ。少しずつ、すれ違った。
すすり泣きも聞こえなくなった寝室の扉へ、ネフィリムもシュナヴィッツも目を向ける。
「パールはパールなりに、といったところか。父上も、私もシュナも、パールとは性別が違うから、どうしても踏み入る事が出来ないところはあったからな……。──エステル、ミラノは何か言っていなかったか?」
「“うさぎのぬいぐるみ”を探しておいででしたから、“人”から“ぬいぐるみ”になるおつもりだったのではないでしょうか」
ネフィリムは顎に手を当てて目を細める。
「レザードが言うには、ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”ではまともに身動きが取れなくなっていた、と聞いたが?」
エステリオの瞳が数瞬考えに沈み、すぐにその色を取り戻す。
「歩くのは困難そうには見えました。ですが、足の裏のクッションをご自身で取り除いてからとの事で、クライスラーに修理をさせるようでしたが」
ネフィリムは一つ頷くと、シュナヴィッツを見る。
「……シュナ、ミラノはパールの位置を把握できなかったと言っていたな? ユニコーンに連れて行かれ、探しに行った時の事だ」
「ええ、わからないと。そういった感覚そのものが無い様子でしたね」
「今日、ミラノはパールの居る場所がわかったらしい」
「え?」
「──妙な感じがするな。クッションの問題だけならいいが。ミラノは本当に大丈夫かな……。そもそも召喚獣か霊か、まだはっきりしていない」
かえりたいと、いや、かえるつもりだと言っていた。出来るならば、望むままかえしてやりたい。しかし、召喚されてくる以上、ミラノは“霊”という存在。かえるべき場所は、はじめから無い……。微かな希望さえ、消えようとしていないか。
「……その上“召喚士”として、祭り上げていましたから……先程のアレは、やはり“神の召喚獣”の魔法陣に、ミラノの魔法陣が破られたから、ですか?」
シュナヴィッツの声に、ネフィリムは心の中からミラノの影を消した。父と話していた時のように、目の前の事柄に対する思考を止めてしまわないように。
──“神の召喚獣”を還しても、誰も“神”に逆らっているとは考えなかった。だが、目の前でその召喚術を、魔法陣を破壊されては……──視覚効果は絶大で、人々に“過ち”だと、“罪”だと、一瞬で刷り込んだ。
「皆、“神”が怖いのさ。仕方が無い。だが、“神の召喚獣”……リヴァイアサンとジズが召喚されるようなら、またミラノに頼むしかない。我々にはどうにも出来ない事だと、誰もが身に染みてわかっている。“神”の意思のままガミカは滅ぶか、“神”を退けるかの二択しかない」
リヴァイアサンとジズを追い払ったのは結局、ミラノに違い無いのだ。生きる者の権利として抵抗しようとするならば、“神”に逆らうしかない。
「……ですが、ミラノが引き受けてくれるかどうか。さっきのあの言葉は随分と、投げやりに聞こえたんですが……」
腕を組んで考え込むシュナヴィッツの脳裏には、鮮やかすぎる程『好きにすればいいわ』と言ったミラノの声が残っている。ネフィリムはすっと目を細める。
「あれでは、腹を立てているのか、ただ面倒になったのか、わからないからなぁ。ミラノの考えている事は……予測ならつくが、気持ちの方は本当にわからない。──しかし、クーニッドの大岩までこちらへ来ていては……」
「え!?」
「それは本当ですか!?」
ネフィリムの言葉に、シュナヴィッツとエステリオが驚いて目を見開いた。調子を変えずにネフィリムは答える。
「リディクディにクーニッドを張らせていた──何かあればその最速の聖ペガサスで知らせるようにと。クーニッドの大岩は、神殿を破壊してこちらへ来ているそうだ。あれは……あの大クリスタルは“神”の一部。“神の召喚獣”どころか、“神”が来てしまうというのはもう、私も対処法が思いつかない。我々の召喚術の源は、すべて、“神の力”なんだ。“神”と戦えるはずがない、抗えるはずがない」
「──ですが、ミラノならばなんとかなると、兄上は考えていませんか」
シュナヴィッツは腕を下ろし、真面目な顔で言った。
「あまり頼ってはいけないと思ってはいるんだが……」
そう言ってネフィリムは困ったように笑う。
「他人の召喚獣を勝手に還してしまったり、“神の召喚獣”さえ還す事、また“神の遣い”たる七大天使さえ召喚してしまうミラノは、さっきも言ったように、我々とは違った召喚術を使っているのではないかと、考えている」
「別の召喚術が存在する、と?」
「いや、全く別というわけではないのだろうが……確かに力の源はパールフェリカが引き出す世界に満ちている“神の力”なのだろうが、それを使うのはミラノだ。“神”への“祈り”や“願い”……信仰から引き出された力を用いて、“神”に逆らう事は、我々には出来ないだろう?」
矛盾があって、大きな力になるはずがない。召喚術という“神の力”で“神”と戦うという事は、自分の顔を自分でぶん殴れと願っているようなものだ。
「だが、ミラノは“神”を知らない。信仰も無い。異世界の存在であるミラノは、“神”に逆らっているという意識なんて薄い……いや、ほとんど無いだろう。無意識というやつだ。だから“神”の力の流れに背いて、我々には想像さえ出来なかったような召喚術を使う事が出来ているのではないか」
シュナヴィッツは再び腕を組んで考え込み、しばらく間を置いて口を開いた。
「……リヴァイアサンもジズもいずれ、姿を顕します。やはりミラノのご機嫌をとって、還してもらうしかなさそうですね」
「そうなるな。パールのご機嫌も、私達でとらないと。パールにはまた、我慢を強いる。ミラノの成している事はつまり、パールの力なのだが、それを人々に知らせる事は出来ない。こうなった以上、ミラノに“召喚士”として力を振るってもらわなければ、パールフェリカが“神に逆らう召喚士”として、あの非難の矢面に立つ事になる。それは避けたい」
「ミラノが汚名を被ってまで、ガミカを助けてくれるかどうか……」
シュナヴィッツは言った後、ネフィリムと揃って溜め息を吐き出した。
たった一度拒まれた位で消える想いなら、召喚獣相手なのに、とっくに自分で押さえ込めていた。今だって、はっきり断られても、想いは変わらない。呆れる程、この現実を無視するかのように、ただその傍に行きたい。後ろ姿でも何でもいい、ただその姿を見たい。遠くからでも声を聞きたい。
そんな相手に、なんて“お願い”をせねばならないのか。嫌な顔を、ミラノは見せないかもしれないが、思われる可能性はあるから、それが酷く、重く苦い。
そこに考えが至ると、“神”に問いただしたくなる。
パールフェリカが“ミラノ”を召喚してからの、変化ではないのか。
リヴァイアサンにしろ、ジズにしろ、本体たるクーニッドの大岩までガミカへやって来るなど。
“ミラノ”の存在が、その召喚術が、本当に“神の怒り”とやらを買ったのか、と。
パールフェリカが、眺めるのを止めた後の事になる。
100体居た敵ドラゴンの数を、民衆の歓声が上がる中、次々と撃ち落し、半分以下に減らして半刻あまり経った頃。
それは突然。
晴れ渡るスカイブルーの空を、七色の閃光が駆け抜けた。空の色は失われ、白く強烈な光に覆われた。
その閃光は、“炎帝”の吐き出す熱光線の10倍の厚みを持って、七色の魔法陣を真っ二つに割った。
あまりの眩しさに、双眼鏡を覗いていたミラノは顔を逸らした。それでもなんとか、片目で割られた魔法陣の方を見た。
慌てたように“炎帝”や“雷帝”、ティアマトやマンティコアなど、そこで戦っていた飛翔召喚獣が退いていく。敵ドラゴンは光の向こうに居て、姿の確認が出来ない。
その一帯の木々が、一斉に渦を巻くように薙ぎ倒されていく。
閃光は、カクカクと折れ曲がりながら突き進み、ミラノの張っていた巨大な七色の魔法陣を食い散らす。上下左右にとジグザグに暴れ、穴を開けていく。閃光は、龍さながら、長大な体をうねらせ、口を大きく開いて、ミラノの魔法陣に毒牙を突き立てていくようだ。さらに、光の胴体で魔法陣の面を激しく打ちつけ、亀裂を加えていく。
恐ろしいことに、閃光がもう1本、空を割って飛んできた。
それはもう一枚の魔法陣に激突し、同じように破壊していく。空の色は、七色の光を濃くした。
誰もが言葉を失い、目を見開き呆然とする。
──閃光が飛んできた方向は、神の御座すクーニッドだ。
魔法陣が割られた事で、飲み込まれていた火炎と爆雷が逆流して返ってきた。辺りに飛び散り、森に轟音が響き渡り、木々の焼け焦げる臭いと、黒煙が立ち上る。王都の1/5に当たる森が、それで焦土と化した。
今、ガミカを護っていた七色の魔法陣が、新たに現れた七色の閃光によって打ち壊された。
視界をはみ出る大きさの魔法陣は、さらに巨大な力で砕かれたのだ。
──どちらが、神の力か。
そんなものは一目瞭然である。神こそが絶対なのだ。強い方が神の力に決まっている。強い方の力は、神の御所から飛んできた。
ならば、ガミカを護っていた七色の魔法陣は何だったのか。
たった今まで歓声の上がっていた城前広場は、水を打ったように静まり返り、彼らの胸に不安が広がっていく。それをさらに煽るように、七色の魔法陣を食らい尽くした2本の閃光は、そこでグルグルと高速回転して、新たな魔法陣を生み出す。回転は今までに無い速さだ。
閃光から生まれた2つの魔法陣からは、回転とは裏腹に、ゆっくり、ゆっくりと“悪夢”が浮き上がる。
巨大な魔法陣にふさわしく、いかなる召喚獣も超越した大きさで、姿を現す。
一つ目からは、黒に近い紺色の翼。凶悪な、黒光する爪。
もう一つからは、黄色の羽毛がふわりふわりと、舞う。
それで、ピンと来ない者は居ない。
誰かがつぶやく。
「クーニッドから魔法陣が……“召喚獣”が……」
混乱と動揺が瞬時に駆け抜けた。
ミラノは目を大きく開いてから、瞬く。そしてネフィリムを見る、彼もこちらを見た。2人とも、見覚えがある。突如発生した2枚の魔法陣から、顕現する召喚獣……。
──あれは。
「リヴァイアサンと、ジズ……」
ネフィリムの呟きに、3階バルコニーにわっと声が溢れた。広間の人の出入りは激しいが、現状30名居た。それが一斉に口を開き、場は騒然とする。
「“神の召喚獣”だと!?」
「そんな馬鹿な!」
「神はガミカを滅ぼすおつもりだ! “神の召喚獣”は、それが役目だろう!」
王と大将軍はバルコニーに身を乗り出し、新たに生まれた“神の魔法陣”を、ひたと見据えて動かない。
ガミカを護っていた七色の魔法陣は、割られた。“神”によって破壊されたのだ。
ミラノは、体の力をふうと抜いて、腕を下ろし、目線を誰も居ない方へずらした。
自分の今後というものが、簡単に想像出来てしまったのだ。
──やれやれ……ね。
そのすぐ後。
「この女だ! この女が“神の怒り”に触れた!」
異変にタイミング良く現れたミラノを、“魔女視”する声が上がりはじめる。
無表情のミラノに、囁かれる“魔女”という罵声。王城内で上がるには不適切な、二つ名が生まれる。
王に、王子に、“神とよく似た力”を見せ、取り入ってどうするつもりだ、と。“神とよく似た力”が、“神の怒り”に触れたに違いない、と。
“神の召喚獣”が2体も現れようとしている。不安は恐慌に変わり、人々の心を蝕む。疑心暗鬼は、都合よく現れたミラノを、あっさりと悪魔に仕立て上げる。この不運を、誰かのせいにしなければ、心を保てないのだ。
神の怒りに触れた、ガミカに天罰が下る、早々に追い出せ、と。
早く神に引き渡せ、と。
バルコニーに迫る、鎧に身を包んだ騎士や重鎮らの方を、ミラノは冷めた表情で振り返る。彼らの声は、水中の音声のようにミラノの耳を通り過ぎる。当然のように、スルースキル発動である。
他人の罵声など、慣れたもの。
魔女と呼ばれるのだって、初めてではない。あの女が私の彼を奪った、魔女め、と。勝手に片想いをされて、その男に思いを寄せた女が、面と向かって、あるいは陰で口さがなく言う。そんな声は呆れる程聞いた。聞いてやるだけ、馬鹿馬鹿しいが。
そこへ、未だ白く輝く空を割って、青色のペガサスが3階バルコニーへ飛び込んで来た。馬の嘶きに罵声も一時止む。騎乗の人は鎧を鳴らして馬を降り、王の前で膝を折った。
「ご報告申し上げます!」
ぱっと上げた顔に、ミラノは覚えがある。パールフェリカの護衛騎士、リディクディだ。
「クーニッドの神殿が大破致しました。中より、大水晶が浮き上がり、こちらへ飛んで来ています!」
「陛下! あの女を早く“神”に捧げるのです!」
リディクディの報告に、王が言葉を発するより先に誰かが叫んだ。
クーニッドの大岩こと大クリスタルは、神の一部と言われている。
「“神”直々、こちらに!?」
「ガミカは終わりだ!!」
「あの女だ! その召喚士が“神”のご不興を買ったのだ!」
その声を合図に、一斉にミラノへ視線が集まる。
ミラノはと言えば、スーツ姿ではないが、いつも通りの堂々とした立ち姿で、それらを受け止める。表情は無く、涼しげな目元は淡々としている。
次々と上がる声を、王もネフィリムも黙って聞いている。
召喚士としてミラノを担ぎ上げたのは、彼らだ。王が決め、ネフィリムは止められなかった。
ミラノは、自分を睨み据える重鎮らの、化け物を見るような視線に、にこりと微笑んで応えた。もちろん、作り笑いだ。顔色を変えて見せてあげたのだ。そろそろ『何とか言え』と、罵声のバリエーションが増えるだろうと踏んだからであり、微笑を選んだのは、さすがにイラッとしてきたからだ。
皆、ぎょっとして言葉が止まる。
その時、風がばさりと吹き込んだ。
「──父上! 兄上!」
ティアマトとマンティコアが、3階バルコニー正面に風をぶわりと乱して姿を見せた。
リディクディの横に、シュナヴィッツはがしゃんと鎧を鳴らして降りてくる。兜を取り払うと、汗が散った。頬に亜麻色の髪が張り付いている。
「……?」
ミラノが睨まれ、父も兄も押し黙っている。妙な構図に首をひねりながら、シュナヴィッツは父と大将軍の傍に歩み寄った。
「新たな魔法陣から、リヴァイアサンとジズが召喚されつつあります。現在、敵ドラゴン、両召喚獣に動きはありませんが、どうします?」
「…………“神の召喚獣”が完全に召喚されるまで、どれ程かかりそうか?」
ラナマルカ王がやっと口を開いた。
「前回の事もありますが、今回はやや早いようです。とはいえ、半刻から一刻はかかるのではないかと。その間に兵を休めたいのですが」
「わかった。半数を現状維持、半数を休ませ、途中交代させるように」
「はい」
立ち去ろうとしたシュナヴィッツは、一度目線を落とした後、広間にいる重鎮らを見回した。
「何か、ありましたか?」
シュナヴィッツの問いに、重鎮らは眉間に皺を寄せ、顔を見合わせている。
城前広場からも、絶望の声が響き始めている。天罰だと、神の怒りだと、先程まで重鎮らが上げていた声と、そう違わない。
「…………」
カツっと踵を鳴らして、回れ右で歩み去るミラノ。下ろした黒髪がさらりと流れた。気味悪そうに道を空ける重鎮らの間を、つかつかと進む。
「──ミラノ!」
ネフィリムが追う。その後を、シュナヴィッツも戸惑いながら追い、マンティコアに騎乗しているブレゼノに声を投げた。
「スティラードと兵を分けて、交代で休憩に入れ!」
広間を出て、廊下。
壁に向かうように、ミラノは立っていた。
「ミラノ……すまない」
「兄上、何があったんです?」
廊下に人はおらず、ミラノを追ってネフィリムとその護衛であるアルフォリス、レザード、最後にシュナヴィッツがやって来た。
壁を向いていたミラノが、こちらを向いた。相変わらずの無表情だが、今は氷のような冷たさを湛えて見える。
そのミラノが、ゆっくりと首を傾げた。
「なぜ、謝るの?」
「いや……」
言葉を探しながら、ネフィリムはミラノの肩に手を置いた。
「ミラノ、ここに居ない方がいい、パールの部屋へ下がろう」
ネフィリムの手を見て、ミラノは彼の顔へちらりと視線をくれる。蒼い瞳には気遣いばかりが占めている。とても心配しているらしい。言葉の通りに、一緒にパールフェリカの部屋へ行こうとしてくれているようだ。誰かしらがミラノをひっつかまえ、“神”へ捧げんと殺すのではないか、とでも考えているのだろうか。
彼らの背後、まだうっすらと開いている扉の奥の様子に、ミラノはふと気付く。こちらを伺い盗み見る、誰とも知らぬ重鎮らの好奇の目がある。わかりやすい事だ。
「結構よ」
そう言ってミラノは廊下を進み、角を曲がる。
ミラノは、ちゃんとわかっている。
馬鹿馬鹿しい陰口で、自分だけではなくラナマルカ王やネフィリム、シュナヴィッツが何かしらよくない方向に、疑われ始めている事に。
国なんて、興味も何も一切無いのに。王を、王子2人をかどわかすつもりだって、1%も無いのに。
今は、“神の召喚獣”とやらが眼前に迫り、もう後の無い危機にあるというのに、国家乗っ取りだなんて、一体どんな思考回路が弾き出した発想なのだ。その言葉を発して扇動した馬鹿の顔を、見てやりたい。
「派手に持ち上げて紹介してくれた割に、早々に突き落とすなんて、マスコミやら週刊誌よりひどいわね」
持ち上げておいて、後でこっぴどくこき下ろすのは、よく見かける常套手段だ。芸能ニュースなどで、ほのぼのエピソードと悪意をオブラートで包んだ覗き見スクープが、代わる代わる報道される。視聴率、あるいは発行部数を競って、数字の為金の為、欲望の為に、他人を貶める。
それと、ガミカ国を動かす重鎮らを並べてみた。ちょっとしたストレス発散だ。
角を過ぎて少し進んだところで、足を止めた。後ろから、足音がする。ネフィリムらが追ってきたのだ。振り返り、彼らの目を見てミラノは言う。
「好きにすればいいわ」
その足元に七色の魔法陣が浮かび上がり、ミラノはすとんとそこに落ちるように消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
あれでは、何を考えているのかわからない。あの表情では、読めない。ネフィリムはゆっくりと瞬いてから、告げる。
「アルフとレザードはヒポグリフとコカトリスと共に父上のところへ。そのまま対召喚獣として待機」
「ですが!」
「私は城の中には居る、頼む、アルフ」
「……はい」
よく考える。
ミラノならば、どうする? 彼女なら、さっさと“うさぎのぬいぐるみ”に戻って、パールフェリカの負担を取り除こうと考えるだろう。
「兄上」
シュナヴィッツも同じ結論に達したらしい。頷きあって、2人は駆け出した。
薄ぼんやりと、城前広場の声が聞こえる。
パールフェリカの部屋の真ん中に、しゅるりと姿を現したミラノを、エステリオが口をぽかんと開いて見ている。その反応を無視して、ミラノはソファに歩み寄る。探しているものが無い。
「エステルさん、“うさぎのぬいぐるみ”はどこに?」
2,3度瞬いて、エステリオは狼狽をかき消した。いつも通り、応えてくれる。
「姫が、寝室へ持って行かれました」
「…………そう。ありがとう」
礼を言って、ミラノは寝室の扉の前に移動すると、ノックした。しばらく待つも、返事が無いので扉を開く。
灯りをつけていない寝室は、薄暗い。半歩足を進め、体を寝室へ滑り込ませると、扉を閉めた。
「パール。“うさぎのぬいぐるみ”は……」
「ここにあるわよ!」
声と同時に、胸のあたりにドスンと衝撃があった。
どうやら投げつけてきたらしい。ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”を受け止めた。頭の方が重いので、下になっている。上下持ち替えて、いつもパールフェリカがしているように抱えた。そして、ベッドの上に居る彼女を見る。
うつ伏せていたのを、無理矢理体をひねり起こし、こちらを見ている。
その顔が、涙でべちょべちょに濡れているのを、ミラノは見つけた。
「…………」
「なによ! 皆してミラノミラノって! ミラノを召喚してるのは、力出してるのは私なのよ!? がんばってるのに! 誰も知らないなんて!」
「…………」
ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”をそっとを抱きなおして、ベッドへ足を進めた。
(2)
今となっては、パールフェリカと関わりがあるという方向で、つまり召喚獣として、お披露目されなくて良かったとミラノは思う。
ミラノは、自分が『神の怒りを買った』だのと言われる分には問題ないと考えているが、パールフェリカが声高にそう批判されたなら、彼女には耐えられないのではないかと思うからだ。
ミラノにとって、真実かどうかもわからない、本来の彼女自身を評価したわけでもない罵りなど、どこ吹く風だと思える。鬱陶しくはあるが、他人事のように聞き流す事は可能だ。
自分自身というものを、その価値を知って、確固たるものとして持っていると、確かに把握しているからこそ、揺るがない。
だが、13歳のパールフェリカは別だろう。この国の“姫”という立場にある彼女は、別だろう。
追い出せと叫ばれた時、パールフェリカは、全ての拠り所を無くしてしまうのではないかと、想像に難くない。
ミラノが召喚士として紹介された事から、その名を賞賛と共に叫ばれた声も、ここまで、パールフェリカにまで、届いて聞こえてしまったのだろう。考えていた通り、彼女はすっかり心を乱している。
薄くとろけそうな白い肌は上気して、目尻まで真っ赤に腫れている。こすったのだろう、目元の柔らかい肌がただれてしまいそうだ。
今更ではあるが、気丈に振る舞おうと涙を拭って身を起こすパールフェリカ。ベッドの真ん中辺りで正座を崩して、お尻をペタリとついて座り込んだ。
ミラノはベッドの端に“うさぎのぬいぐるみ”を寝かせ、さらに近付く。パールフェリカと一番距離の近いベッドの淵に、静かに腰を下ろした。ゆっくりと、体を少しひねって、ベッドの中央に居るパールフェリカを見る。パールフェリカは、数瞬視線を泳がせ、目を逸らすと、鼻をすすった。
人をからかい、心の内を隠して明るく振る舞って──その結果を、ミラノは想像出来る。
母親もなく、大人ばかりに囲まれた彼女の辿る心の道筋を、今、目の前で泣き腫らす姿から、おおよその見当をつける事は可能だ。
ミラノにも、13歳という時は確かにあったから。その見当が本当かどうか、またパールフェリカ自身の問題は何なのか、それは今から、聞き出していく事になるのだが。
しばらく黙っていると、パールフェリカはちゃんと目をあわせて来た。
ミラノは口角を少しだけあげて、微笑み、首を緩く傾げる。遠いわよ? と。
気まずそうにパールフェリカは再び目を逸らしたが、もそもそと四つんばいになって前へ進み、ミラノの隣に腰掛けた。
ミラノはそっと肩を傾け、パールフェリカにさらに近寄り、手を伸ばしてその頬に触れ、指先で目元をそっと撫でた。
「パールは……甘え下手なのね」
心を隠す可愛い子狸の、頬はとても温かい。
「本心から、甘えられる人が、いなかった?」
その優しすぎる声に、パールフェリカの目は涙で溢れた。
パールフェリカはひやりとさえする、細く柔らかなミラノの手に触れて、頬に押し付けた。溢れた涙はとくとくと零れ落ちて、ミラノの手の平と自分の頬の間に染み込んだ。ぬるぬるとズレてしまいそうな手を、パールフェリカは必死で押さえつける。
顔を左右に揺らした。唇はわななき、言葉がうまく出てこない。口をぱくぱくとさせ、どうしたらいいのかわからず、目線を泳がせた。そして、ただ大きく口を開いた。少し鼻にかかった、猫のように細く高い声で、言葉にならない、抑えた声を出した。始めは小さく、次第に大きく。
声がやっと出るようになると、パールフェリカはついに「あーん」と、赤子のように泣いて、ミラノに抱きついた。堪えていた沢山のものが、堰を切った。
ミラノは、パールフェリカをそっと抱き寄せて、落ち着くまで頭を撫でてくれた。
「だって、私に価値なんて、お姫様って事しか、ないんだもん!」
しばらく泣くだけ泣いて、気持ちも程々に鎮まった後も、喉をひくひくと鳴らしながら、パールフェリカはミラノに寄りかかっている。
「何度考えても、私、何も無くて……ミラノの事まで……その……私……なんていうか、憎たらしくなって……」
「…………………………パール、そういう時は妬むという言葉の方が適切ね」
先程までの優しく包み込むような声は無くなっていて、いつも通りの冷静な声音が返ってきた。
「憎むとは違うの?」
「妬むの方が適切だと思うわ」
「ふーん……うん、覚えた! 私、一つ賢くなったわ!」
「……良かったわね」
女という生き物は、いくつになっても大きくは変わらない。とりあえず派手に泣けば、多少はすっきりしてしまうのだ。パールフェリカから、奈落の底に居るかのような、悲嘆な様子は消えていた。
「それでね、えっと、何を言おうと思ってたんだったかしら。あのね、えっと………………?……」
うまく説明しようとすると、わけがわからなくなるらしい。
「…………そうね……。パールは、なんで泣くの?」
「……え?……」
「お姫様という価値しか無い……。パールはなぜ、価値が無いと言って泣くの?」
「だって……価値がなきゃ……その……生きてる意味なんか、ない……し……居ても居なくても……私でなくたっていいって意味で……」
選ばれたのは自分ではなく、ミラノだった。
パールフェリカは、自分が召喚士として人々に名を呼ばれ、華々しくミラノを召喚披露するはずだったのに、そうはならないで、ミラノだけが必要とされた事が、痛くてたまらなかった。だって、召喚主は私じゃないの、と。
パールフェリカという存在に、価値を見出してもらえなかったと、思っている。
「それで、なぜ泣くの?」
「……ミラノは、なにを聞いているの? わからない」
「生きる意味が無くて、自分じゃなくてもいい、それはわかったわ。それで、なぜ、涙をこぼすの?」
「……………………えぇっと? …………か、悲しいから?」
「なぜ疑問なの? 悲しいの? 悲しくないの?」
きつい内容にも聞こえるが、ミラノの声音はゆったりと、また淡々として変わらない。
「……そんな気が……するだけ……で……その……」
パールフェリカは、しがみついていた両手をゆっくりと緩めた。ミラノの両腕の肘少し下辺りに、掴んだ両手をずらし、その距離でミラノを伺うように見上げた。ミラノは一度瞬いて、整った顔立ちのまま──無表情ながら、言うなれば“きょとん”とした様子で──口を開く。
「……厳しい事を言うようだけど、それは単に、自分で自分を哀れんでいるだけ。価値が無い自分って可哀想、と」
「……!? ち、ちがっ──」
「なら、なぜ、涙をこぼすの?」
「…………」
パールフェリカは下へ向いた。ミラノの両腕が動いて、パールフェリカの手の下に、彼女の手が潜り込んできた。そっと、手を繋ぐ形になった。それを、パールフェリカはじっと見下ろす。ミラノの手はやっぱりひんやりとして、火照ったパールフェリカには気持ちいい。
なぜ泣いたのかだなんて、考えもしなかった。苦しくて、涙は勝手にこぼれた。気持ちが抑えきれなかった。
「パール」
それは柔らかい声で、うつむいていたパールフェリカはミラノの黒い瞳を見上げる。しっかりと繋がれたミラノの手に、少し力が加わった。
「価値なんていうものは、自分で作り上げるのよ、自分の中に」
「…………」
「お姫様という価値は、誰かが、そうね、あなたのお父さんとお母さんがあなたに与えた価値。それにすがっている限り、あなたの望む、本当のあなただけの価値は、無いわ」
まっすぐ、ミラノはパールフェリカの蒼い瞳を覗き込んでくる。
「だから、あなたはこれから、自分で自分の価値を作る必要がある。今はただ、与えられた価値があるだけ。それでは当然、あなたがあなたであるかどうかなんて、どうでもいいわね? それで泣くなんて、意味が無いわ。手に入れてもいない宝物を無くしたと騒いでいるのと同じ」
──それは、まるで道化。
「…………」
「誰だって、価値は本人が作って行くのだから。ネフィリムさんも、シュナヴィッツさんもそう。彼らも、ただ王子という価値だけを、持って生まれてきた。けれど、ネフィリムさんが王様に沢山の人に信頼され、召喚術について頼みにされて。シュナヴィッツさんが戦いとなれば最前線に立って多くの命を預かって先陣をきるのは……。沢山の人が彼らを認めているのは──彼らが作り上げてきた、それぞれ、彼らだけの価値だわ」
大国プロフェイブのキリトアーノ第三王子などは、国は異なるが同じ『王位継承権を持つ者』という価値を持っていながら、女遊びに呆け、身内さえからも蔑まれている。
「……にいさまたちは……すごいから……」
「すごいという価値は、彼らが作ってきたものよ。パール。日々、彼らが作ってきて、今も作り続けているものよ。あなたの知っている『すごいにいさまたち』の、あなたが感じる価値は、生まれつきもっていた王子という価値では、ないでしょう?」
2人の兄に頭を垂れる人々が、ただその身分にだけひれ伏しているのではない事を、パールフェリカはちゃんと知っている。王子という価値だけではないものが、あの2人にある事を、誰もが知っているのだ。
「…………」
「あなたにも、あるのよ?」
それは、あまりに優しい声で。握りこんでくれているミラノの親指が、パールフェリカの手の甲を撫ぜる。
「…………」
その声だけで、涙が溢れた。痛すぎる傷に、やさしく沁みこんで癒してくれる。だけど、わからない。それが悔しくて、また涙は止まらない。
「ちゃんと、あるのよ。もう、築いている価値はあるわ。でもそれは、ちゃんと自分で気付いて。私が言ってしまっては、いけないの。自分で気付いた自分の価値は、それから自分を作り上げる為の、礎になる。確かな形になる。私が横から言って、あなたを惑わせたくない。自分で気付いて、磨いて、あなただけのあなたになれば、それはもう、誰にもマネ出来ない価値が、あるの」
「……でも、価値があるかどうかなんて、判断基準とか、よくわかんないし……」
ミラノが、ふわりと笑う。
「それは、一番簡単よ?」
「え?」
「あなたが、価値があると感じた事、それを基準にすればいいわ」
「でも私の判断基準が低すぎたら? 高すぎたら?」
「自分を見つめてみればいいの。自分がマネできない事には、人は基本的に価値を見出すわ。……うらやましい、なんていう気持ちで。自分にとって出来ない事だったとして、出来るようになろうと努めるの。出来るようになったら、次に出来ない事を──。そうして自分は高められる」
「…………」
「そうして同時に、価値の基準は高まるわ。同時に、自分の価値も、高まるの。でも、他人に求めるものじゃない、それはわかる?」
自分の価値は、他人に押し付けるものではない。他人には勝手に、判断させる。こちらも勝手に判断するのだから、当然のルールだ。
「うん」
「自分が、どうあるか。今持っているものは何か。自分自身であるか、それを捕まえていられたら、揺るがないわ」
「でも……わかんないわ……そんなの……。自分探しとか、したらいいのかしら?」
うつむき気味にぽつりと言った言葉に、ミラノがプッと笑った。
「え?」
ミラノがそんな風に笑うのは珍しい。パールフェリカはまじまじとミラノを見上げた。ミラノはそれに気付くと、再び表情を消してしまった。
「自分探しなんて……滑稽だわ。いえ、人によっては必要だと言う人もいるのでしょうけれど。私は、とても滑稽な作業だと思うわ。だって、自分なんてそこに居るのに、いったいどこに誰を探しに行って、どれだけの時間を無駄にするつもりかしら?」
「……ふむ~」
ミラノの言う事は難しい。だが、自分探しという何をどうしたら良いのかわからない行為よりも、自分はそこに居るのに探しに行く事は滑稽だという方が、理解出来た。
「もっと身近に考えたらいいのよ。──私は、笑う事が出来る、出来ない。あの嫌な人を簡単にあしらう事が出来る、出来ない。なぜ、出来ないの? なぜ出来るの? 簡単なところから、探せばいいのよ」
ミラノは簡単だという。だがそれが一体、自分の価値というもののどこに繋がるというのだろうか。
「わかんないよー」
「……人なんて、感情なんて、自分の為で、言葉で聞けば卑怯で汚い点ばかりよ。それを、認めてあげなさい? 自分を守ろうとして卑怯になろうが、そうする自分を否定しない。肯定もしては、よくないけど。ケースバイケースなのだけど……」
ミラノはそこで区切ってから、言葉を改めた。
「本当の、自分。なんで逃げたの? 傷つきたくないから? 傷つくってなに? 痛くて苦しい? それで逃げた、ああ、なるほど、とね」
「なるほど、でいいの? 痛くて苦しくても、逃げたらだめなんじゃないの? 我慢しないと……」
「我慢できなかったから逃げたのよ、それはもう過去の話で。我慢した結果逃げなかったなら、痛くて苦しくて傷ついたはずよ。我慢しないで逃げたのは、その傷に耐えられないと感じたからよ。ならば、傷に耐えられる自分にいつかなる、その位でいいのよ」
よくわからなくて首を傾げてはいるが、パールフェリカの眉間の皺は、いつの間にか取れて、涙も止まっていた。
「でも……でもぉ…………」
「感傷なんて、ここにね」
そう言ってミラノは、繋いでいた片手を離し、自分の胸の中心をとんとんと揃えた指先で触れた。パールフェリカの同じ場所にも、とんとんと触れた。
「必要ないのよ。義務もね。ただの事実だから。事実があって、それをどう受け止め、そしてどうするのか。そこで、浸りこんでしまうから、悲しいだの苦しいだの言葉が出てくるのよ。自分に酔って苦しんでいる自分可哀想と、泣くんだわ」
「浸ってしまうのは、弱いから?」
また、ミラノが笑った。離れていた手が再びパールフェリカの手の下に滑り込んで来て、そっと握ってくれた。
「強いだの弱いだのの話じゃないわ。その時、それに耐えられるかどうか、というだけ。耐えられなければ逃げるだけ。逃げ方も、さまざまだけど。価値を高めたいなら、自分に価値を与えたいなら、そこでどういう態度を取る人に自分が価値を感じるか、考えなさい。追い詰められて泣き叫んで助けを求める人になりたいか、ぐっと堪えて戦う人になりたいか、笑ってさらりとかわして別の方法で乗り越えたいか。活路は、ひとつじゃないわ。価値は、ひとつじゃないわ。その結果で、喜んだり悲しんだりするのは、自分である必要はないわ。そこに価値を見出すか否かは、他人の仕事でいいのよ」
「でも、たとえば期待されていて、がんばれって言ってもらって、出来なくて、価値が無いって思われたら──」
「それは仕方がないわ、出来なかったのなら、それだけの価値が無かったのよ、ただの事実だわ」
「つらいし、申し訳ないし、悲しいわ……」
「どうして? 期待して、ガッカリするのはあちらの勝手で、こちらの価値を正確に見抜いていなかっただけ。あちらの手落ちだわ」
「こたえられなかった自分が……」
「頑張って出来なかったのなら、出来なかった自分がその時の本当の自分のはずよ。期待にこたえられなかった自分が、等身大の自分」
その等身大の自分を思い知りたくなくて、がんばれと言われる事を嫌がる人も居る。
「つらくなったり悲しくなったりするのは、等身大の自分を否定する事だわ。そんな事をしたら、自分を見失うだけ。頑張ったあなたをガッカリという行動で否定されても、あなたは頑張った事を褒めてあげるべきよ。頑張った自分を否定するという事は“今の自分”を否定する事なの。また……“振り出し”よ。いえ、頑張って進んだ1歩を、自分から2歩戻っているようなものだわ。いつでもスタート地点は、“今の自分”なのよ。それを否定したら、“以前の自分”に戻るしか、ないの。前の、前の、前の、ずっと前の……どこまでだって、逃げられるわ。生まれたばかりの頃は、当然弱いわね? 価値も生まれたというだけよね? 本当はそこから1歩ずつ進んでいたの。探そうとしていた“自分”は、本当はずっと前からちゃんといたの。積み重ねていたの」
「…………」
「──なのに。理想や夢ばかり、上ばかり見て、何も出来ないと嘆いて、周りばかり羨んで、あるいは目を逸らしてひたすら別の事ばかり考えて、“今の自分”を認めない。そうして、0価値まで、逃げられるわ。生存しているだけ、生まれてきたという両親の与えてくれた価値まで、ね。そこまで逃げたら、私なんて生きていていい人間じゃない、なんて言い出すの」
ミラノはそっと肩をすくめた。薄暗い中、ミラノの黒い瞳は、少しだけ悲しそうな色に見えた。
「簡単に、どこまでも逃げられてしまうのよ、誰でも、いつでも。でも、そのままではいつまでたっても変わる事は出来ない、前へ進む事は出来ないわ。“今の自分”を見つめる事からだけは、逃げてはいけないの。“今”を否定する事だけは、してはいけないの」
強く言いながら、ミラノはほんのり、自分は時々現実逃避してるなぁなどと考える。だが、ミラノもずっと逃げ続けているわけではない。いつもどこかで踏ん張る。それが出来る。
だが、“精神的に子供である人”に伝えようとすると、その曖昧さが伝わらない。“子供”が“大人”は汚いと叫ぶ所以だ。
自分に厳しく、優しく、2極の事を同時にする曖昧さ……柔軟さを身に着ける時、“子供”は“大人”に近付くが、“心が子供”の間は受け入れられない、卑怯にしか見えないのだ。2極、良いか悪いかで“子供”は育てられ、良いか悪いかで解決しない数多の価値観の、他者との関係性で成り立つ“大人”の社会に出る時、良いか悪いかで済んだ“子供”の中で反発がおこるのは、当然の事なのだ。それをわかっていない“大人”も多く、もちろん“子供”も気付かない。そしてこの反発の時こそ、“自分”というものは見失われやすい。居場所を、見失いやすい。
「なんでもいいの、昨日より早く靴がはけた、起きようと思っていた時間より5分早く自分で起きれた、それでも、もう変われている。それも、がんばった事と、認めてあげる、大事な事よ。ちっぽけな事かもしれないけど、間違いない前進だもの、ちゃんと満足して、褒めてあげて、出来た事に幸せを感じて、そして、次にいきましょう?」
ミラノの表情は、わかりにくい。でも、今確かに微笑んで、パールフェリカを元気付けようとしてくれている。
「……ミラノは、いつもそういう風に考えているの?」
「そうね……。私は、私でしか、ないもの。それ以上でも、それ以下でも無いから」
だからこそ、ミラノは必ずかえると決めている。本来の“今”からかけ離れたこの世界は、ミラノの世界ではないのだ。
自分は一つしか居ない。きっと、どちらかの世界にしか、いられない。きっと、どちらかを選ばなければ、どちらかの“今”を確実に失うのだと、ミラノは考えている。こちらに居れば居るほど、本来の世界の“今”を、27年を生きてきた世界を、失う。それは、“今”を築いてきた自分を否定する事に、等しい。だから、ミラノは必ずかえると決めている。未来は、どちらかにしかきっと無い。ならば、生まれてから築いてきた確かな価値を、自分を貫く為、かえる必要がある。己が己であり続ける為に、かえらなくてはならない。
決して、自分を否定したくない。真っ直ぐに、見つめる、受け入れる、それこそが、ミラノのアイデンティティ。
「私も、それ、マネしていい?」
少しだけ身を乗り出して、繋ぐ手に力を込めるパールフェリカに、ミラノは笑顔を見せた。
「してもいいけど。ちゃんと自分を捕まえておきなさいね?自分を捕まえておけるのは、自分だけなんだから」
パールフェリカは穏やかに微笑んだ。嬉しいのだ、単純にとても嬉しい。
「うん」
「──付け加えておくけれど。感情は、大切よ? ただ、価値という言葉の前では、惑わせるばかりの霞になるから、考えてはダメ、というだけよ?」
「……感情は捨てたらいけないの?」
ミラノがふっと笑った。どうしようもないという風に、形の良い眉をひそめた。
「捨てようったって、捨てられないわよ。最後の最後、人を突き動かすのはそれよ。ただ、価値を作る、自分をコントロールする上で、コントロール不可能な感情は、避けて考えるのが良い、というだけの話」
「ふ~ん……ミラノの言う事はなんだかちょっと難しいけど……うんー……わからない気は、しない、かなぁ」
「──いつか、考えて、自分なりの考えを持てば良いわ。今話した事は、ただの私の考え方だもの。あなたは、あなた自身の考えで、あなたの価値を作れば良いの」
「……そか……そっか……」
言いながら、パールフェリカは少し蒸れてしまったミラノと繋いだ手を、上下にぶんぶんと振った。離れそうになる手を、強く握った。
(3)
ネフィリムとシュナヴィッツがパールフェリカの部屋に着き、控えていたエステリオと顔をあわせた時、寝室から聞こえていた慟哭は、少しずつおさまっていくところだった。
2人は部屋に入ってすぐの所で扉を閉めると、エステリオにミラノは来なかったかと問う。
エステリオは、ミラノが突然部屋に現れ、パールフェリカの居る寝室へ入った事を告げた。パールフェリカの声は、寝室の扉越しにまだ、はっきりと聞こえている。
「…………昨日から姫様はどこか落ち込んでいらっしゃっていて、おそらく今ミラノ様と……。あのお2人の間には、“絆”がございますから」
首の後ろまで覆う帽子と、口元には垂れ布があって、エステリオの表情は目元しかわからない。その眉はひそめられていて、力及ばない己を恥じている。気付いてやれても、護衛騎士にすぎない自分では、パールフェリカの心に近付く事は出来ない。このエステリオの心配を、パールフェリカは知らない。サリアも気付きながらそこにある身分という壁を前に、気遣う声を上げられなかった。
パールフェリカを心配する存在は、いつもそこにあったが、パールフェリカの平気な素振りを見せる態度が、身分が、両者のきっかけを奪った。パールフェリカが本心から甘えるきっかけを、エステリオらにはそれを受け入れる準備があると示すきっかけを。誰が悪いという事はない、時間の積み重ねが築いた、パールフェリカの環境だ。少しずつ、すれ違った。
すすり泣きも聞こえなくなった寝室の扉へ、ネフィリムもシュナヴィッツも目を向ける。
「パールはパールなりに、といったところか。父上も、私もシュナも、パールとは性別が違うから、どうしても踏み入る事が出来ないところはあったからな……。──エステル、ミラノは何か言っていなかったか?」
「“うさぎのぬいぐるみ”を探しておいででしたから、“人”から“ぬいぐるみ”になるおつもりだったのではないでしょうか」
ネフィリムは顎に手を当てて目を細める。
「レザードが言うには、ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”ではまともに身動きが取れなくなっていた、と聞いたが?」
エステリオの瞳が数瞬考えに沈み、すぐにその色を取り戻す。
「歩くのは困難そうには見えました。ですが、足の裏のクッションをご自身で取り除いてからとの事で、クライスラーに修理をさせるようでしたが」
ネフィリムは一つ頷くと、シュナヴィッツを見る。
「……シュナ、ミラノはパールの位置を把握できなかったと言っていたな? ユニコーンに連れて行かれ、探しに行った時の事だ」
「ええ、わからないと。そういった感覚そのものが無い様子でしたね」
「今日、ミラノはパールの居る場所がわかったらしい」
「え?」
「──妙な感じがするな。クッションの問題だけならいいが。ミラノは本当に大丈夫かな……。そもそも召喚獣か霊か、まだはっきりしていない」
かえりたいと、いや、かえるつもりだと言っていた。出来るならば、望むままかえしてやりたい。しかし、召喚されてくる以上、ミラノは“霊”という存在。かえるべき場所は、はじめから無い……。微かな希望さえ、消えようとしていないか。
「……その上“召喚士”として、祭り上げていましたから……先程のアレは、やはり“神の召喚獣”の魔法陣に、ミラノの魔法陣が破られたから、ですか?」
シュナヴィッツの声に、ネフィリムは心の中からミラノの影を消した。父と話していた時のように、目の前の事柄に対する思考を止めてしまわないように。
──“神の召喚獣”を還しても、誰も“神”に逆らっているとは考えなかった。だが、目の前でその召喚術を、魔法陣を破壊されては……──視覚効果は絶大で、人々に“過ち”だと、“罪”だと、一瞬で刷り込んだ。
「皆、“神”が怖いのさ。仕方が無い。だが、“神の召喚獣”……リヴァイアサンとジズが召喚されるようなら、またミラノに頼むしかない。我々にはどうにも出来ない事だと、誰もが身に染みてわかっている。“神”の意思のままガミカは滅ぶか、“神”を退けるかの二択しかない」
リヴァイアサンとジズを追い払ったのは結局、ミラノに違い無いのだ。生きる者の権利として抵抗しようとするならば、“神”に逆らうしかない。
「……ですが、ミラノが引き受けてくれるかどうか。さっきのあの言葉は随分と、投げやりに聞こえたんですが……」
腕を組んで考え込むシュナヴィッツの脳裏には、鮮やかすぎる程『好きにすればいいわ』と言ったミラノの声が残っている。ネフィリムはすっと目を細める。
「あれでは、腹を立てているのか、ただ面倒になったのか、わからないからなぁ。ミラノの考えている事は……予測ならつくが、気持ちの方は本当にわからない。──しかし、クーニッドの大岩までこちらへ来ていては……」
「え!?」
「それは本当ですか!?」
ネフィリムの言葉に、シュナヴィッツとエステリオが驚いて目を見開いた。調子を変えずにネフィリムは答える。
「リディクディにクーニッドを張らせていた──何かあればその最速の聖ペガサスで知らせるようにと。クーニッドの大岩は、神殿を破壊してこちらへ来ているそうだ。あれは……あの大クリスタルは“神”の一部。“神の召喚獣”どころか、“神”が来てしまうというのはもう、私も対処法が思いつかない。我々の召喚術の源は、すべて、“神の力”なんだ。“神”と戦えるはずがない、抗えるはずがない」
「──ですが、ミラノならばなんとかなると、兄上は考えていませんか」
シュナヴィッツは腕を下ろし、真面目な顔で言った。
「あまり頼ってはいけないと思ってはいるんだが……」
そう言ってネフィリムは困ったように笑う。
「他人の召喚獣を勝手に還してしまったり、“神の召喚獣”さえ還す事、また“神の遣い”たる七大天使さえ召喚してしまうミラノは、さっきも言ったように、我々とは違った召喚術を使っているのではないかと、考えている」
「別の召喚術が存在する、と?」
「いや、全く別というわけではないのだろうが……確かに力の源はパールフェリカが引き出す世界に満ちている“神の力”なのだろうが、それを使うのはミラノだ。“神”への“祈り”や“願い”……信仰から引き出された力を用いて、“神”に逆らう事は、我々には出来ないだろう?」
矛盾があって、大きな力になるはずがない。召喚術という“神の力”で“神”と戦うという事は、自分の顔を自分でぶん殴れと願っているようなものだ。
「だが、ミラノは“神”を知らない。信仰も無い。異世界の存在であるミラノは、“神”に逆らっているという意識なんて薄い……いや、ほとんど無いだろう。無意識というやつだ。だから“神”の力の流れに背いて、我々には想像さえ出来なかったような召喚術を使う事が出来ているのではないか」
シュナヴィッツは再び腕を組んで考え込み、しばらく間を置いて口を開いた。
「……リヴァイアサンもジズもいずれ、姿を顕します。やはりミラノのご機嫌をとって、還してもらうしかなさそうですね」
「そうなるな。パールのご機嫌も、私達でとらないと。パールにはまた、我慢を強いる。ミラノの成している事はつまり、パールの力なのだが、それを人々に知らせる事は出来ない。こうなった以上、ミラノに“召喚士”として力を振るってもらわなければ、パールフェリカが“神に逆らう召喚士”として、あの非難の矢面に立つ事になる。それは避けたい」
「ミラノが汚名を被ってまで、ガミカを助けてくれるかどうか……」
シュナヴィッツは言った後、ネフィリムと揃って溜め息を吐き出した。
たった一度拒まれた位で消える想いなら、召喚獣相手なのに、とっくに自分で押さえ込めていた。今だって、はっきり断られても、想いは変わらない。呆れる程、この現実を無視するかのように、ただその傍に行きたい。後ろ姿でも何でもいい、ただその姿を見たい。遠くからでも声を聞きたい。
そんな相手に、なんて“お願い”をせねばならないのか。嫌な顔を、ミラノは見せないかもしれないが、思われる可能性はあるから、それが酷く、重く苦い。
そこに考えが至ると、“神”に問いただしたくなる。
パールフェリカが“ミラノ”を召喚してからの、変化ではないのか。
リヴァイアサンにしろ、ジズにしろ、本体たるクーニッドの大岩までガミカへやって来るなど。
“ミラノ”の存在が、その召喚術が、本当に“神の怒り”とやらを買ったのか、と。
0
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界に転移したら、孤児院でごはん係になりました
雪月夜狐
ファンタジー
ある日突然、異世界に転移してしまったユウ。
気がつけば、そこは辺境にある小さな孤児院だった。
剣も魔法も使えないユウにできるのは、
子供たちのごはんを作り、洗濯をして、寝かしつけをすることだけ。
……のはずが、なぜか料理や家事といった
日常のことだけが、やたらとうまくいく。
無口な男の子、甘えん坊の女の子、元気いっぱいな年長組。
個性豊かな子供たちに囲まれて、
ユウは孤児院の「ごはん係」として、毎日を過ごしていく。
やがて、かつてこの孤児院で育った冒険者や商人たちも顔を出し、
孤児院は少しずつ、人が集まる場所になっていく。
戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
五十一歳、森の中で家族を作る ~異世界で始める職人ライフ~
よっしぃ
ファンタジー
【ホットランキング1位達成!皆さまのおかげです】
多くの応援、本当にありがとうございます!
職人一筋、五十一歳――現場に出て働き続けた工務店の親方・昭雄(アキオ)は、作業中の地震に巻き込まれ、目覚めたらそこは見知らぬ森の中だった。
持ち物は、現場仕事で鍛えた知恵と経験、そして人や自然を不思議と「調和」させる力だけ。
偶然助けたのは、戦火に追われた五人の子供たち。
「この子たちを見捨てられるか」――そうして始まった、ゼロからの異世界スローライフ。
草木で屋根を組み、石でかまどを作り、土器を焼く。やがて薬師のエルフや、獣人の少女、訳ありの元王女たちも仲間に加わり、アキオの暮らしは「町」と呼べるほどに広がっていく。
頼れる父であり、愛される夫であり、誰かのために動ける男――
年齢なんて関係ない。
五十路の職人が“家族”と共に未来を切り拓く、愛と癒しの異世界共同体ファンタジー!
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛
タマ マコト
ファンタジー
【大好評につき21〜40話執筆決定!!】
田舎娘ミントは、王都の名門ローズ家で地味な使用人薬師として働いていたが、令嬢ローズマリーの嫉妬により濡れ衣を着せられ、理不尽に追放されてしまう。雨の中ひとり王都を去ったミントは、亡き祖母が残した田舎の小屋に戻り、そこで薬草店を開くことを決意。森で倒れていた謎の青年サフランを救ったことで、彼女の薬の“異常な効き目”が静かに広まりはじめ、村の小さな店《グリーンノート》へ、変化の風が吹き込み始める――。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる