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第7話『優しい手』
(058)【1】まだ見ぬ境界(5)
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(5)
時折、ランタンの中の火がパチパチと小さく爆ぜる。
メルはさっさと仕事に戻ってしまった。
獣油を燃料にしたその灯りの下、ユリシスはギルバートと対面した。
「えっと……どうぞ」
ユリシスはギルバートに休憩室の丸椅子に腰掛けるよう促した。考えのまとまりきらない頭はどうにも回転が悪い。さんざん接客をしているくせに妥当な言葉が一切出てこなかった。
ギルバートは穏やかな笑みを浮かべて「どうも」と言ってローブを払い、腰を下ろす。
ユリシスも遅れてその正面に丸椅子をずらして座り、ギルバートをうかがうように見た。ギルバートは相変わらずにこにこしている。
「悪いな。仕事中に」
「いえ、今終わった所ですから、大丈夫ですよ」
普段なら笑顔には笑顔で返したいと思っているユリシスも、今日ばかりは、今ばかりはどうにも、表情を笑ませる事が出来なかった。ユリシスの言葉にギルバートは「そうか」と小さく呟いて赤い髪をカリカリ掻いた。
「疲れてるところに申し訳なかったな~」
「いえ、平気ですよ」
ギルバートの気遣う気持ちもよくわかっていたけれど、硬直しきったユリシスの表情が軽くなる事はなく、ギルバートも少し難しい顔をした。
「まあいいや。ユリシス、こないだ俺がした話、覚えてるか?」
ギルバートは笑みを消して真面目な表情で言った。どこかぼんやりとその言葉を受け止めたユリシスは、先日ギルバートの邸を訪れ、「無償で弟子にならないか」と持ちかけられた事を思い出す。
「あ」
じんわりと思い当たって小さな声を上げたユリシスに、ギルバートはふんわりと微笑んだ。
「どんなもんかな?」
すっかり忘れていた。
「えっと……ちょっと考えられなくて……」
「考えられない?」
「えぇと……別の事で頭が一杯っていうか……すいません」
ユリシスは頭を下げた。
言葉が思いつかない。話せない事しか持っていないから。
「ああいや、別に謝らなくていいんだ。俺が勝手に言い出してた事だしな」
手をハタハタと振って笑顔のままでギルバートは言ってくれた。
──この人は、優しい。
「ん~~。どうするかな」
ふと周囲の空気に気づいた。まわりの精霊達が鈴が鳴るようにはしゃいでいる。澄んだ音色すら聞こえてきそうなほど。
普段は人の多く集まる食堂フロアや、表の道の様々な空気を受けてざわついている精霊達が今、穏やかに落ち付いて、それでいてとても楽しそうにしている。目に見えない、気配だけのそれらだが、魔術師であれば、いや魔力を操る者であればそれを感じる事ができる。当然ユリシスにも感じられた。
ユリシス自身は魔術を使用する時以外は周囲の精霊との対話──交渉の一切を絶つ為、常人と同じようにしか精霊達は振舞ってくれない。魔術師は居るだけで魔力を微量に排出したり、常に周囲に何かしらの術を施している事があるため、精霊との交渉が日常化している。また特定の魔術師に“なついた”精霊達がその周囲に居る為、それぞれの魔術師は独特の空気を持つようになる。
温かな精霊達がやわらかくはしゃぐこの気配。魔術師に愛された精霊達は穏やかにその周囲に漂う。
目線をちょっと逸らして考え込むギルバートをユリシスはぼんやりと眺めた。
「まあいいか。これ、受け取ってくれないか?」
そう言ってローブの内側から紙を二枚引っ張り出し、ユリシスに差し出した。その紙とギルバートを見比べてから、ユリシスは受け取った。
「……これは……?」
「そこにサインして欲しいんだ。それは、師弟契約の書類」
「え!?」
ユリシスがルーン文字を読めないと思ってか、ギルバートはそっと身を乗り出し、書類の一枚目の内容を読み上げた。ギルバートが読み上げる前に、ユリシスは内容を読破した。
ドキリとした。
「ちょっと待ってくださいっ……私まだ返事をしてない!」
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がってユリシスは抗議したが、ギルバートはやはりフッと目を細めて微笑んだ。
「それにサインをしてオルファース魔術機関の事務局に提出。それでもって返事として俺は受け取る。嫌なら、その書類は捨ててくれたらいい」
「捨て……!? そんな……!? だってこれ……!」
ユリシスはゴクリと唾を無理矢理飲み込んだ。
「もう総監のサインがっ!」
「まぁ座れって──な?」
ユリシスは丸椅子を戻し、腰を下ろした。そうして、ふと思い出した事がある。
総監のサイン欄を見て思い出した。デリータ・バハス・スティンバーグというサイン、その名は、ネオの祖母の物ではないか……。あの優しく明るい老婦人の物じゃあないか。
頭をふわりと撫でる大きな手があった。
見上げるとギルバートの目と目があった。その目が笑むと手はすっと離れた。
「まぁなんだ。あんま難しく考えなくていいからよ。ああそうだ、その書類ちょいと借してくれるか? その二枚目の方な」
まだ読んでいない方の二枚目を渡すと、ギルバートは魔術でインクをささっと召喚し、項目を付け加えた。
二枚目の書類は、師匠と弟子が交わす約束事が書かれている。
そうして、ギルバートは読み上げる。
「一つ、この師弟関係に金銭は一切発生しない」
それは既に聞いていた内容だ。
魔術師によってはこの条項が五十個を超える者もあるという。
ギルバートの記したそれには今付け加えた物を足しても、あと二つしかない。
「二つ、魔術の使用に関して師は弟子の意思に一切を任せ、その責は全て師が負うものとする」
つまり、使えたならば、弟子が必要だと感じたら師の許可なく魔術を使用し、また問題があれば師がその責任を取る、という物である。
弟子、第五級の正魔術師になるまでの魔術師見習い期間は『師の許可なく魔術を使ってはならない』というオルファースの基本的な決まりがある。だが、それは見習いが魔術を使用した際、責任を負う事が出来ないから存在するものだ。責任能力のある者が──師である正魔術師が責任を負うなら問題視されない。だが、二つ目のこの条項はオルファース史上初めての物といえた。ユリシスの知らないところではあるが、オルファース総監のサインが、条項が記入される前に記されたものだったからこそ、通っているのだ。
そして最後に、たった今ギルバートが追加したものがある。
「……三つ」
ユリシスはルーン文字で書かれたそれを、先に読んでしまった。
──一体……どういう意味なのだろうか。
「師は弟子を全力で護る」
ユリシスの手に残った二枚の書類。
月明かりの下、つっ立ったまま両手でそっと持っていた。
とまどい、言葉を失ったユリシスの前を笑顔で立ち去ったギルバート。その後、ふらふらと部屋へ戻ったユリシス。
ここを出ていく事も忘れて呆然としていた。
部屋の明かりはつけていないから、文字を読むことはできない。
頬を薄い黄色い光がサワサワと撫でている。
今見えなくても、読めなくても内容は覚えている。
月から目を離して、書面へ移した。外から柔らかな風が吹いてきて、カサカサとその書類を揺らす。
ユリシスはそっと唾を飲み込んだ。
決断は全て、自分に委ねられている。とても贅沢な事だ。
女将メルがギルバートと対話する前に言った言葉を思い出す。
『選ぶのはあんた自身だけど、私達は大賛成だよ。ここの事はなんっにも心配しなくていいから、ねっ!』
ギルバートは話したんだ。私を弟子に、と。
弟子になるという事は、師匠の家に住み込んで仕事を手伝って収入を得るわけで、今のきのこ亭の看板娘を辞めるという事。
女将メルは『大賛成だよ』と言っている。
いつも迷惑をかけていた。なのに、いつだって応援してくれた。
思い出されるのは、メルがユリシスの将来を心配していた事だ。
『アンタ、このまま、ウチに居る?』
そう告げられた日を思い出す。魔術師になる為に頑張っていた事を知っていた、母親代わりでもあるメルに突きつけられた言葉は、その時ただただ痛かった。ユリシスの将来を案じ、本当の家族のように思って言ってくれた言葉だったから余計に──。
メル達家族には、ユリシスが去ってゆく覚悟はもう準備してあったという事になるのではないだろうか。だからこそ、今回のギルバートの申し出を迷いなく、すぐに喜んでくれたんだろう。
第一級魔術師の弟子になれるなんて僥倖だ。ほんの一握りの子供たちだけがなれる。そんなこと、第一級魔術師が数人しかいない事を考えれば誰にだってわかる。その第一級魔術師が直々弟子にしてくれるというのだから、メル達は大喜びで送り出してくれる──そういう事なのだろう。
クシャリッと、二枚の書類を握りつぶしそうになるのをユリシスは必死でこらえた。
──わかるもんか……。
暗い感情がユリシスの中で煮立っていた。
何年も何年も耐えて魔術師見習いになる為の試験を受けてきた。
それがこんなあっさり弟子になって……。
たとえばツテとかいうものが働いて魔術師見習いになれるのだとしたら、耐えてきた自分の人生の大半は一体なんだったのか。それは不確かな妄想だが、今更そんな手立てで魔術師への第一歩を踏み出したくなんか、ない。
それでも、心惹かれる。
魔術師見習いにそれくらいの事でなれるならラッキーではないかと。これ以上ずっと不合格でいるより、こんな簡単に魔術師見習いになれるなら……。
それと重ねて、心に疑惑を投げかけるものに、堰を切って感情が溢れ荒ぶりそうになる。それを必死で堪えた。
そうなのだ。とても重要で胸が痛くなりそうな事があるのだ。
師匠になろうと申し出てくれたギルバートいう人が、敵なのか、味方なのか、という事。
敵だとしたら絶対に近付くわけにはいかない。
ユリシスは魔術が使えるとバレてはいけない。味方だとわかったとしても、一緒に居たらバレてしまう危険性が格段に上がってしまう。
ありがたい申し出なのだろう、無償で弟子にしてくれるというのだから。でも、だからこそ、ギルバートの意図が見えてこない。あの笑顔が本物なのかどうか、わからない。
目をギュッと瞑ってユリシスは、大きくため息を吐き出した。
これほどまでに未来が見えない、予測が付かない事なんてなかった。
例えばこれまでのユリシスの一大イベントは、毎年の魔術師見習いになる為の試験。だが、合否によって未来が分かれたとしても、それはいつでも予測がついていた。合格すれば魔術師見習いになって師匠を探して弟子になる。不合格ならそれまでと同じようにまた予備校に通いながらきのこ亭で仕事を続ける。
きっぱりと合格、不合格というラインがユリシスの進むべき道を分けていた、これまでは。
だが、今、沢山の分岐が目の前に立ちはだかり、全てにおいてユリシスは情報を持っていない。右へ行こうにも左へ行こうにも、それぞれの先に何があるのかさっぱりわからないのである。むしろ右と思って進めばそれは左に向かって歩んでいるかもしれない。逆を行くかもしれない。真正面にある分岐点に今、確かな境界線が存在しないのだ。右も左も、前も後ろもただ真っ暗闇の中にユリシスは立たされて、一切の境界が見えないのだ。
──だけど、進まなければ……。
このまだ見ぬ境界を、ユリシスはこれから手探りで歩まなければならない。
いつどこで魔術を使えるという事実が発覚してしまうかわからない。それも誰に? 例の黒装束の連中はいったいいつ襲いかかって来るだろうか、その時は逃げおおせる事は出来るだろうか、出来なかった時、自分はどこへ転がって行くのだろうか……。
信じるべき導は一切ない。
──だとしたら、そうだとしても、それでも……でも……こんな状態で、決断なんて、出来るの……?
ユリシスは自分自身の立ち居地さえ定かでないこの状況に、己が進むべき道すら、道を決める己の意思に対する自信すら、見失っていた。
そんなユリシスに、師弟契約の書、二枚目に記された一文がどうしても輝いて見えた。
『師は弟子を全力で護る』
どくどくと、自分の心音が聞こえてやまない。
時折、ランタンの中の火がパチパチと小さく爆ぜる。
メルはさっさと仕事に戻ってしまった。
獣油を燃料にしたその灯りの下、ユリシスはギルバートと対面した。
「えっと……どうぞ」
ユリシスはギルバートに休憩室の丸椅子に腰掛けるよう促した。考えのまとまりきらない頭はどうにも回転が悪い。さんざん接客をしているくせに妥当な言葉が一切出てこなかった。
ギルバートは穏やかな笑みを浮かべて「どうも」と言ってローブを払い、腰を下ろす。
ユリシスも遅れてその正面に丸椅子をずらして座り、ギルバートをうかがうように見た。ギルバートは相変わらずにこにこしている。
「悪いな。仕事中に」
「いえ、今終わった所ですから、大丈夫ですよ」
普段なら笑顔には笑顔で返したいと思っているユリシスも、今日ばかりは、今ばかりはどうにも、表情を笑ませる事が出来なかった。ユリシスの言葉にギルバートは「そうか」と小さく呟いて赤い髪をカリカリ掻いた。
「疲れてるところに申し訳なかったな~」
「いえ、平気ですよ」
ギルバートの気遣う気持ちもよくわかっていたけれど、硬直しきったユリシスの表情が軽くなる事はなく、ギルバートも少し難しい顔をした。
「まあいいや。ユリシス、こないだ俺がした話、覚えてるか?」
ギルバートは笑みを消して真面目な表情で言った。どこかぼんやりとその言葉を受け止めたユリシスは、先日ギルバートの邸を訪れ、「無償で弟子にならないか」と持ちかけられた事を思い出す。
「あ」
じんわりと思い当たって小さな声を上げたユリシスに、ギルバートはふんわりと微笑んだ。
「どんなもんかな?」
すっかり忘れていた。
「えっと……ちょっと考えられなくて……」
「考えられない?」
「えぇと……別の事で頭が一杯っていうか……すいません」
ユリシスは頭を下げた。
言葉が思いつかない。話せない事しか持っていないから。
「ああいや、別に謝らなくていいんだ。俺が勝手に言い出してた事だしな」
手をハタハタと振って笑顔のままでギルバートは言ってくれた。
──この人は、優しい。
「ん~~。どうするかな」
ふと周囲の空気に気づいた。まわりの精霊達が鈴が鳴るようにはしゃいでいる。澄んだ音色すら聞こえてきそうなほど。
普段は人の多く集まる食堂フロアや、表の道の様々な空気を受けてざわついている精霊達が今、穏やかに落ち付いて、それでいてとても楽しそうにしている。目に見えない、気配だけのそれらだが、魔術師であれば、いや魔力を操る者であればそれを感じる事ができる。当然ユリシスにも感じられた。
ユリシス自身は魔術を使用する時以外は周囲の精霊との対話──交渉の一切を絶つ為、常人と同じようにしか精霊達は振舞ってくれない。魔術師は居るだけで魔力を微量に排出したり、常に周囲に何かしらの術を施している事があるため、精霊との交渉が日常化している。また特定の魔術師に“なついた”精霊達がその周囲に居る為、それぞれの魔術師は独特の空気を持つようになる。
温かな精霊達がやわらかくはしゃぐこの気配。魔術師に愛された精霊達は穏やかにその周囲に漂う。
目線をちょっと逸らして考え込むギルバートをユリシスはぼんやりと眺めた。
「まあいいか。これ、受け取ってくれないか?」
そう言ってローブの内側から紙を二枚引っ張り出し、ユリシスに差し出した。その紙とギルバートを見比べてから、ユリシスは受け取った。
「……これは……?」
「そこにサインして欲しいんだ。それは、師弟契約の書類」
「え!?」
ユリシスがルーン文字を読めないと思ってか、ギルバートはそっと身を乗り出し、書類の一枚目の内容を読み上げた。ギルバートが読み上げる前に、ユリシスは内容を読破した。
ドキリとした。
「ちょっと待ってくださいっ……私まだ返事をしてない!」
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がってユリシスは抗議したが、ギルバートはやはりフッと目を細めて微笑んだ。
「それにサインをしてオルファース魔術機関の事務局に提出。それでもって返事として俺は受け取る。嫌なら、その書類は捨ててくれたらいい」
「捨て……!? そんな……!? だってこれ……!」
ユリシスはゴクリと唾を無理矢理飲み込んだ。
「もう総監のサインがっ!」
「まぁ座れって──な?」
ユリシスは丸椅子を戻し、腰を下ろした。そうして、ふと思い出した事がある。
総監のサイン欄を見て思い出した。デリータ・バハス・スティンバーグというサイン、その名は、ネオの祖母の物ではないか……。あの優しく明るい老婦人の物じゃあないか。
頭をふわりと撫でる大きな手があった。
見上げるとギルバートの目と目があった。その目が笑むと手はすっと離れた。
「まぁなんだ。あんま難しく考えなくていいからよ。ああそうだ、その書類ちょいと借してくれるか? その二枚目の方な」
まだ読んでいない方の二枚目を渡すと、ギルバートは魔術でインクをささっと召喚し、項目を付け加えた。
二枚目の書類は、師匠と弟子が交わす約束事が書かれている。
そうして、ギルバートは読み上げる。
「一つ、この師弟関係に金銭は一切発生しない」
それは既に聞いていた内容だ。
魔術師によってはこの条項が五十個を超える者もあるという。
ギルバートの記したそれには今付け加えた物を足しても、あと二つしかない。
「二つ、魔術の使用に関して師は弟子の意思に一切を任せ、その責は全て師が負うものとする」
つまり、使えたならば、弟子が必要だと感じたら師の許可なく魔術を使用し、また問題があれば師がその責任を取る、という物である。
弟子、第五級の正魔術師になるまでの魔術師見習い期間は『師の許可なく魔術を使ってはならない』というオルファースの基本的な決まりがある。だが、それは見習いが魔術を使用した際、責任を負う事が出来ないから存在するものだ。責任能力のある者が──師である正魔術師が責任を負うなら問題視されない。だが、二つ目のこの条項はオルファース史上初めての物といえた。ユリシスの知らないところではあるが、オルファース総監のサインが、条項が記入される前に記されたものだったからこそ、通っているのだ。
そして最後に、たった今ギルバートが追加したものがある。
「……三つ」
ユリシスはルーン文字で書かれたそれを、先に読んでしまった。
──一体……どういう意味なのだろうか。
「師は弟子を全力で護る」
ユリシスの手に残った二枚の書類。
月明かりの下、つっ立ったまま両手でそっと持っていた。
とまどい、言葉を失ったユリシスの前を笑顔で立ち去ったギルバート。その後、ふらふらと部屋へ戻ったユリシス。
ここを出ていく事も忘れて呆然としていた。
部屋の明かりはつけていないから、文字を読むことはできない。
頬を薄い黄色い光がサワサワと撫でている。
今見えなくても、読めなくても内容は覚えている。
月から目を離して、書面へ移した。外から柔らかな風が吹いてきて、カサカサとその書類を揺らす。
ユリシスはそっと唾を飲み込んだ。
決断は全て、自分に委ねられている。とても贅沢な事だ。
女将メルがギルバートと対話する前に言った言葉を思い出す。
『選ぶのはあんた自身だけど、私達は大賛成だよ。ここの事はなんっにも心配しなくていいから、ねっ!』
ギルバートは話したんだ。私を弟子に、と。
弟子になるという事は、師匠の家に住み込んで仕事を手伝って収入を得るわけで、今のきのこ亭の看板娘を辞めるという事。
女将メルは『大賛成だよ』と言っている。
いつも迷惑をかけていた。なのに、いつだって応援してくれた。
思い出されるのは、メルがユリシスの将来を心配していた事だ。
『アンタ、このまま、ウチに居る?』
そう告げられた日を思い出す。魔術師になる為に頑張っていた事を知っていた、母親代わりでもあるメルに突きつけられた言葉は、その時ただただ痛かった。ユリシスの将来を案じ、本当の家族のように思って言ってくれた言葉だったから余計に──。
メル達家族には、ユリシスが去ってゆく覚悟はもう準備してあったという事になるのではないだろうか。だからこそ、今回のギルバートの申し出を迷いなく、すぐに喜んでくれたんだろう。
第一級魔術師の弟子になれるなんて僥倖だ。ほんの一握りの子供たちだけがなれる。そんなこと、第一級魔術師が数人しかいない事を考えれば誰にだってわかる。その第一級魔術師が直々弟子にしてくれるというのだから、メル達は大喜びで送り出してくれる──そういう事なのだろう。
クシャリッと、二枚の書類を握りつぶしそうになるのをユリシスは必死でこらえた。
──わかるもんか……。
暗い感情がユリシスの中で煮立っていた。
何年も何年も耐えて魔術師見習いになる為の試験を受けてきた。
それがこんなあっさり弟子になって……。
たとえばツテとかいうものが働いて魔術師見習いになれるのだとしたら、耐えてきた自分の人生の大半は一体なんだったのか。それは不確かな妄想だが、今更そんな手立てで魔術師への第一歩を踏み出したくなんか、ない。
それでも、心惹かれる。
魔術師見習いにそれくらいの事でなれるならラッキーではないかと。これ以上ずっと不合格でいるより、こんな簡単に魔術師見習いになれるなら……。
それと重ねて、心に疑惑を投げかけるものに、堰を切って感情が溢れ荒ぶりそうになる。それを必死で堪えた。
そうなのだ。とても重要で胸が痛くなりそうな事があるのだ。
師匠になろうと申し出てくれたギルバートいう人が、敵なのか、味方なのか、という事。
敵だとしたら絶対に近付くわけにはいかない。
ユリシスは魔術が使えるとバレてはいけない。味方だとわかったとしても、一緒に居たらバレてしまう危険性が格段に上がってしまう。
ありがたい申し出なのだろう、無償で弟子にしてくれるというのだから。でも、だからこそ、ギルバートの意図が見えてこない。あの笑顔が本物なのかどうか、わからない。
目をギュッと瞑ってユリシスは、大きくため息を吐き出した。
これほどまでに未来が見えない、予測が付かない事なんてなかった。
例えばこれまでのユリシスの一大イベントは、毎年の魔術師見習いになる為の試験。だが、合否によって未来が分かれたとしても、それはいつでも予測がついていた。合格すれば魔術師見習いになって師匠を探して弟子になる。不合格ならそれまでと同じようにまた予備校に通いながらきのこ亭で仕事を続ける。
きっぱりと合格、不合格というラインがユリシスの進むべき道を分けていた、これまでは。
だが、今、沢山の分岐が目の前に立ちはだかり、全てにおいてユリシスは情報を持っていない。右へ行こうにも左へ行こうにも、それぞれの先に何があるのかさっぱりわからないのである。むしろ右と思って進めばそれは左に向かって歩んでいるかもしれない。逆を行くかもしれない。真正面にある分岐点に今、確かな境界線が存在しないのだ。右も左も、前も後ろもただ真っ暗闇の中にユリシスは立たされて、一切の境界が見えないのだ。
──だけど、進まなければ……。
このまだ見ぬ境界を、ユリシスはこれから手探りで歩まなければならない。
いつどこで魔術を使えるという事実が発覚してしまうかわからない。それも誰に? 例の黒装束の連中はいったいいつ襲いかかって来るだろうか、その時は逃げおおせる事は出来るだろうか、出来なかった時、自分はどこへ転がって行くのだろうか……。
信じるべき導は一切ない。
──だとしたら、そうだとしても、それでも……でも……こんな状態で、決断なんて、出来るの……?
ユリシスは自分自身の立ち居地さえ定かでないこの状況に、己が進むべき道すら、道を決める己の意思に対する自信すら、見失っていた。
そんなユリシスに、師弟契約の書、二枚目に記された一文がどうしても輝いて見えた。
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