頭ファンタジー探偵

てこ/ひかり

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最終幕

VS時間旅行者⑥

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 空に浮かんでいた銀の月が、風に流された雲によって光を覆い隠された。

 部屋にほんのりと差し込んでいた明かりが途絶えた、その瞬間。
 まず櫻子が、勢い良く絨毯を蹴った。田中一に避ける隙も与えず、彼女は両手から伸びる爪をまっすぐに構え、一直線に彼の鳩尾付近に一撃を見舞った。瞬く間に鮮血が暗闇の中を舞う。
「!」
 そこから二撃、三撃。鋭い切っ先を持った爪が、部屋の中を縦横無尽に駆け巡る。およそ常人の目では追いきれない手数の斬撃が、ものの数秒の間に探偵の身体を蹂躙していく。闇に包まれた書斎の中に、赤い閃光が幾重にも走った。

 四方八方からの連撃。田中一はなす術も無く、ただただその場で四肢を投げうち踊っていた。彼女の爪が肉を裂き骨を断つたび、彼の断末魔が書斎に響き渡った。
「これでトドメだ!!」
 血飛沫が舞う中、赤い閃光が叫んだ。コンマ数秒、田中一がわずかに目を見開く。彼の返り血で赤く彩られた彼女の爪が、青白い彼の皮膚を突き破り心の臓を一突きしようとした、まさにその時ー……。

「ぐああああッ!?」
 次に悲鳴を上げていたのは、田中一では無く櫻子の方だった。
 ボキボギゴキボキッ!
 と、大きな音を立てて櫻子の爪が見る見るうちに割れていく。まるで見えない力に押し潰されでもしたかのように、彼女は地べたに叩きつけられた。両の手の爪は探偵に届くことなく、粉々に砕け散った。
「な……ッ!?」
「…………」

 部屋を跋扈していた赤い閃光が、激しい激突音を立てて止まった。一体何が起こったのか。血走った目を見開く櫻子の前で、田中一がすっくと立ち上がった。そして彼はまるで何事もなかったかのように……切り裂かれたはずの肉も、絶たれたはずの骨も、本当に……静かな微笑を口元に浮かべ、中央の机に備え付けられた牛革の椅子に腰掛けた。
「テメー……!? 一体……!?」

 櫻子が唸った。
 
 五体満足で優雅に佇む田中一を見て、櫻子は顔をしかめた。手応えは確かにあった。何度も何度も斬りつけた。向こうには、攻撃する隙さえ与えなかったはずだ。それなのに……。
「まだやる?」
「!」

 田中一は椅子に腰掛け、備え付けのポットから紅茶を淹れ出した。
 白い陶器で出来たカップから、出来立ての湯気が沸き立つ。雲の切れ間から月の光が書斎の中にも差し込んで来た。部屋の中に、場違いなほどダージリンの香りが充満する。逆光に照らされながら、田中一が椅子から身を乗り出し、床にひれ伏す櫻子を見下ろした。櫻子は片側の頬を絨毯につけたまま、痛みに耐え唸り声を上げた。視線の先には、粉々にされた自分の爪の残骸が映る。一体いつ、どこから攻撃を受けたというのだろう?
「君の過去に戻り、爪を折って来ました」
「!?」
 困惑する櫻子に、田中一が、まるで自販機に行ってジュースを買って来ました、とでも言うような口ぶりでそう告げた。
「数百年前。まだ君が何も知らぬ幼子の頃……君、中々人懐っこい子だったんですね。こちらを警戒もしませんでしたよ」
「……!」
 田中一はいつの間にか胸ポケットから取り出していた、銀の懐中時計を右手で弄び笑った。

「自白かよ……!」
「心配ご無用。過去に戻っただなんて、そんな妄言、誰が聞いたって信じたりしないですよ」
 淹れたてのダージリンが、ゆっくりと彼の口元に運ばれる。彼の細い喉がゴクリと鳴った。
「過去と未来は地続きだ。過去が変われば、当然未来は変わる。櫻子ちゃん。もし君が”子供”の頃、不意に現れた未来人に襲われ爪を割られたとしたら……”今”の君はどうなると思いますか?」
「……!!」
「過去折れた爪は、当然未来にも影響を及ぼす……おっかないな。そんな怖い顔して睨まないでくださいよ。君たち異形フリークスはいつもそうだ。何でも暴力で解決できると思ってる。圧倒的な力を見せつければ、人間がひれ伏すと思ってる」

 田中一が面白そうに笑って、カップを机の上に置いた。それからゆったりと立ち上がると、その体躯を屈めて彼女の鼻先に顔を近づけた。
「だけど、人間をあまり怒らせない方が良いですよ、天狗さん。今じゃ我々はともすれば、君たち以上の力を手にしている」
「ぐああああッ!?」
 田中一が緋色の目を細めた。途端に彼女の体に電流が走る。スタンガンを押し付けられたのだと、櫻子が気づくのに数秒かかった。
「文明の利器って奴です」
「……!!」
「さあ、白状してください。自分が犯人だと。後悔してください。自分たち異形は、現代社会には居てはいけない存在なんだ、と。自覚してください。自分たちがいるせいで、一般市民は夜も安心して眠れないのだと! でなければ君もあの河童と同じように……」
「うらああああああああッ!!」

 彼がしゃべり終わる前に、再び赤い閃光が走った。痺れる足を奮い立たせ、次に櫻子が狙ったのは、田中一の右の手のひらだった。大事に抱えている銀の懐中時計……その意味ありげな小物を、掌底で破壊せんと櫻子は全身の筋肉を使って突進した。だが……。
「うぐあアアアアアアアアッ!!」
 次の瞬間、彼女はまたしても絨毯の上に叩きつけられた。何の前動作もなく、今度は彼女の両足が骨ごと砕かれた。再び光を失った書斎に、櫻子の怒声ににも似た悲鳴が響き渡る。
「やれやれ。分っかんないかなあ。だから田中一はいつでも君の過去に戻って、自由に攻撃できるんだってば。理解してる? タイムトラベル理論って奴」
「ぐ……ッ!!」
「これだから”平成最後”は嫌なんだよな。実際に、見せた方が早いか……」
「!?」

 田中一は急に顔色を変え、まるで物分かりの悪い子供を諭すような口ぶりで嘆いて見せた。それから、右手で懐中時計を弄りながら、左手で苦痛に顔を歪ませる櫻子の手を取った。

「行きましょうか。君の過去へ」
「!」

 田中一の言葉とともに、書斎の空間が奇妙にねじ曲がっていくような、そんな違和感が横たわる櫻子を襲った。次の瞬間、田中一と櫻子は眩い光に包まれ、時の流れの中へと吸い込まれて行った。

□□□

 濃い霧に包まれたような光が途切れ、やがて視界がはっきりしてくる。
 櫻子は田中一に抱っこされるような格好で地面に降り立った。両足はすでに使い物にならない。身体中を走る痛みに耐え、彼女は何とか辺りを見渡した。

「ここ、は……!?」
 櫻子は目を疑った。この森。この匂い。遠い昔……忘れかけていた記憶をくすぐる、懐かしい風景。
「ま、さか……」
「そう、ここは天狗の里。”今”から数百年前、君が幼い頃育った場所。そして……田中一が修行をした場所でもある」
「!」

 田中一が櫻子を抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。櫻子は驚き、微かに見覚えのある景色を何度も見回した。空を覆うほどの巨大な森林。落ち葉の流れる小川。あの大きな楠も。木の陰からこちらを見つめるあの熊も。まさか……まさか、本当に?

「見てください」
「!」
 田中一が立ち止まって、前方を顎で差した。櫻子がそちらに視線を向けると、そこには一人の天狗の少女がいた。

 少女は、大きな楠の根元の陰で一人泣いていた。森の深くまで彷徨い歩いて、親とはぐれたのだろうか。辺りは静かで、誰も見当たらない。根元に横たわり、泣いているその少女は……。

 ……正しく、数百年前の櫻子の姿であった。

 少女は泣いていた。爪先から血を流していた。両足を折って、怪我していた。
「……田中一は、異形に襲われることの恐怖を良ォく知っている」
「あ……」
 細身の探偵が櫻子を地面に下ろした。櫻子の視線は少女に釘付けになった。声にならない掠れ声が彼女の喉から吐き出された。地べたを這いつくばりながら、櫻子は少女に近づいて行った。
「ああ……あああ……」
「君たちのせいで、一体何人の善良な市民が犠牲になったことか……。殺してないなんて詭弁だ。君にはその力がある、それだけで脅威なんだ。現にあの透明人間や河童だって、自分たちを守るために平然と人を殺めた……」
「あああ……ああああ……!!」

 だが田中一の演説は、櫻子の耳には届いてなかった。
 櫻子は、泣いていた。痛みも忘れたかのように、ジリジリと地面を這って進み、泣きじゃくる幼子をそっと抱きしめた。少女は泣き止む様子もなかった。空を覆うほどの森一帯に、しばらく少女たち二人の泣き声が響き渡った。

「だけど……異形フリークスを裁く存在はいない。不公平じゃないか。種族の名の下に君たちはやりたい放題で、こっちは手をこまねいて見ているだけしかできないなんて。異形による理不尽な暴力を排除し、誰もが安心して夜眠れる世界を取り戻す。これは田中一の、探偵としての使命なんだ」

 田中一は静かな声で櫻子の背中に語り続けた。気がつくと、二人は現代へと戻っていた。ブラウンスーツの田中一が右手で懐中時計を弄り、櫻子の腕の中から泣いている幼子は消えた。空間が歪み、再び時の流れに乗って、二人はそのまま現代の書斎にまで戻された。窓の向こうでは、月が煌々と輝きを増していた。

「さて……」
 田中一が凝りをほぐすように首を回し、肩の埃を左手で払った。櫻子はまだ、何かを抱きしめようとするかのように砕かれた両手を必死に前に突き出し、呆然としたまま虚空を見つめていた。
 頬に伝う涙もそのままに、動こうとしない彼女の肩に田中一がポンと手を置いた。櫻子はビクリと肩を跳ねさせ、怯えた顔で彼を振り返った。泣きじゃくる幼子をあやすように、田中一はほほ笑みを顔に貼り付け優しく櫻子に尋ねた。

「まだやる?」
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