天狗の盃

大林 朔也

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松の木の下で 3

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「山の神様は他の神々の理解も得られるように「元」の状態に戻されようと御考えになった。
 女神が改変した世界を「元」の状態に戻すんだ。
 恐れる者は山に棲みつき門と橋を守り、白い翼をはためかせながら結界門に爪を立てた妖怪に刀を振るった。白い翼はまるで眩しい陽の光のように、妖怪の目には映っただろう。
 陽の光の下では、妖怪は闊歩してはならない。
 それは、神の御意志だ。
 結界門が固く閉まり、恐れる者と白大蛇様が守っていることで百鬼夜行は止まった。だが、それでコトは終わらない。
 人間を食らう妖怪の姿が見えなくなり、また見せかけだけの平穏が訪れた。
 宮中の連中は、胸を撫で下ろした。
 神に祈り続けたことで「何らかの不思議な力」が発動した。夜に姿を見せるはずの妖怪がいなくなったのは「神が降りてこられ、妖怪を成敗なされた」からに違いない。説明のつかない現実を前にすると「神によって守られている」と都合よく考えたのだ。
 今まで以上に厚く信仰し、神社の保護を盛んに行って多くの宝物を寄進した。
 幾夜も過ぎ、妖怪が現れないと確信すると、歓喜の声を上げた。
 妖怪は、いなくなった
 もう、いない
 恐れることはない
 …とな。
 もう、止めることが出来なくなった。毎夜現れていた妖怪がいなくなったのだから。いなくなったら、忘れていく。そう…人間の多くは、恐怖を忘れていくんだ。
 こんな言葉があったか…喉元過ぎれば熱さを忘れるとな。いや、そうでなければ生きてはいけぬのか…そうして何度も何度も繰り返す」
 紅天狗は大きく溜息をついた。
 
「世の中の混乱を収拾し不都合な真実を完全に消し去る為に、宮中の連中は取り締まりを始めた。
 妖怪は存在すらもせず、多くの人間が死んだのは懲りることなく疫病や天災や乱などが原因であったとしようとしたが、権力に立ち向かう勢力が現れた。
 すると彼等を力で抑え込もうと考え、武士に命じて、同じ人間に容赦なく刀を向けさせた。一家もろとも惨殺にし、家屋を焼き、人心を惑わす流言を吐く者として磔にした。
 次第に人々は恐れをなして立ち向かう勇気を無くし、ついに声を上げる者はいなくなった。
 こうして宮中と武士の交流はさらに深くなり、武士は官職を得るようになり、武士の勢力は日に日に強くなっていった。
 そうして月日が流れた。
 妖怪が想像上の化け物となる頃には、人間は夜でも活発に生活をするようになった。
 一部の人間から発せられていたニオイは、多くの人間から発せられるようになり、漂ってくるニオイが強烈になると妖怪共が騒がしくなった。 
 妖怪は、人間の味は忘れない。
 人間を食いたいという欲求が抑えきれなくなり、そのニオイに誘われ、ヨダレを垂らしながら結界門に集まり、亀裂を作ろうと門に張り付いて激しく爪を立て出した。
 さっき結界門が赤く爛れたような色だったと言ったよな?
 ソレが何故なのか、教えてやろう。
 急所は外して、そのまま串刺しにしたからだ。他の妖怪への見せしめの意味も込めてな。
 結界門は女神がつくられたものだから、女神よりも下位の者は亀裂を作ることすらも出来ないし、俺の炎の巡りも遅くなる。
 妖怪は串刺しにされ逃げることも出来ず、ジリジリと焼かれながら苦悶の声を上げた。
 そうして結界門からは爪の音ではなく、妖怪の苦悶の呻き声が響き渡った。さらに断末魔が合わさり奏でられる悲鳴が、最高の音色だった。
 苦悶が扉に染み渡り、赤く爛れたような色になったんだよ。
 俺は、そんな風に妖怪が死んでいく様を見て悦んでいた。
 恐怖よりも欲に溺れ、激痛で苦しみながら炎で焼かれていく哀れな姿を見て愉しんでいた。
 ソレを見ながら、心底興奮してた」
 その光景を思い出したのか、ゾッとするような低い声で恐れる者は笑った。
 
 その言葉を聞いた僕は耳を疑った。

「えっ…なんで…紅天狗がそんな風に命を弄ぶなんて…」
 
「弄ぶ?
 俺がしてたのは蛮行だよ。
 それにな、昌景。
 俺はお前に言っただろう?
 俺は本来は獰猛な狗だ。臓物を掴んで、肉塊から引き摺り出して、その数を友と競い合ったような男だ」
 その銀色の瞳には数多の流れいく星が映った。

 恐れる者は、僕を見据えた。

「殺しを、愉しんでいた。
 助けを乞いながら焼かれていく姿が、可笑しくて堪らなかった。
 どんなに抗ったところで、恐れる者に殺される。両手を上げて降伏したところで、恐れる者は殺す為の刀を鞘には納めない。
 傷つけたくて殺したくてウズウズしていた連中が、さらなる強者によって蹂躙される。
 歪んだ瞳が、一瞬にして、恐怖に変わるんだ。
 ソレは、最高だ」

「でも…そんな…今は…」

「そうだ。
 今は、違う。
 だが昔は、そうだった。
 殺す事で、己に酔いしれていた。
 殺す事が、己の存在理由。
 それが、本来の姿だ」

「そんな…妖怪を殺して楽しんでいたなんて…」

「妖怪だけじゃないさ」
 紅天狗はそう言うと、じっと目の前の人間の男を見つめた。

「だが俺も愉悦と親切心だけで、そんな事をしていた訳じゃない。自分の労力を無駄に使って、ただ働きをするような優しい者なんていない。
 いたとしたら……その者にこそ、注意を払うべきだ。 
 な?そうは思わんか?昌景」
 紅天狗は低い声で言った。

 何処か遠くで得体の知れないモノが鳴く声が聞こえた。否、鴉の鳴き声だ。
 けれど僕には獲物を捕らえようとしている獰猛な肉食獣の鳴き声に聞こえたのだった。狙われている獲物は既に穴にはまっているのに、その事にすら気づいていない。

「対価は、支払ってもらう。
 他者に守らせているのだから…いや、本来は自らの力で守らねばならないのに、他者に守ってもらっているのだから、その者が望む値で支払わねばならない。
 自らは戦うことを放棄して他者に委ねてしまった時点で、対等な立場で意見を述べる権利はない」
 紅天狗は身も凍るような厳しい声で言った。銀色の瞳も鋭く、研ぎ澄まされた刀を握る時のような色をしていた。

 僕は少し怖くなって体を震わせたが、紅天狗は構う事なく言葉を続けた。

「百鬼夜行は止まっただけだ。 
 終わった、わけではない。
 まさに白銀に輝く陽の光で照らされているかのように…だが、太陽はいずれは沈む。
 陽の光が照らす時間が長ければ長いほどに、月もまた昇っている時間が長くなる」
 紅天狗は冷たい声で言うと、湯呑みを手に取り、大きな手の平でくるくると回し始めた。
 強者の手の平で踊らされているかのようだった。
 手の動き一つで、湯呑みは、粉々に割れてしまう。

 僕は、壊れいく幻を見た。


「あくまで人間と妖怪の戦いだ。
 終わらせるのは、俺、ではない。
 だが人間は自らの手で、その終わらせる方法に蓋をしたのだ。あの時と…同じようにな。時と認識を誤れば、もうどうする事も出来なくなるというのに。
 表側は「望み通り綺麗」になったが、裏側はとんでもないことになっていた。
 まさに昌景が言ったように…とんでもない形で増殖しながらひしめき合い、爆発する時を待ち続けていた。
 荒れ狂いながら欲望が満たされるまで侵し、放出し、食い続ける…その時を」
 紅天狗がそう言うと、風が唸りを上げるように吹き荒れた。

 夜空に浮かぶ麗しい満月がさらに赤みを帯びて放つ光が烈しくなると、ついに星々の光を遮った。
 夜空に浮かぶのは、恐ろしい巨大な満月だけとなった。

「少しだけ、見せてやろう。
 これは、現実に起こったことだ。
 これこそが炎の舞、扇によって引き起こされる百鬼夜行だ。
 昌景、目を逸らすなよ」
 紅天狗は力強い大きな手の平で、僕の両目を覆った。

 夜風が止み、水の流れる音もしなくなり、しまいには何も聞こえなくなると、僕は知らない土地で1人立っていた。

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