愚者の勲章

Canaan

文字の大きさ
上 下
1 / 28
第1章 Virgin Hard

01.崖っぷちの女領主

しおりを挟む


 この日夫婦となった二人は、初夜の床を前に長らく見つめ合っていた。
「ロイド様……」
 先に口を開いたのは妻となったデボラ。
 彼女は恭しく頭を下げる。
「あの……どうか、よろしくお願いします……」

 契りを交わす前の挨拶に、夫のロイドは何度も唾を飲み込み、デボラの両肩に、触れるようにやんわりと己の手を置いた。
「デ、デボラ殿……」
 彼の掠れた声は、デボラの耳に心地よかった。

「ロイド様。私のことはデボラとお呼びください」
「……デボラ」
 そこで漸う、二人は抱きしめ合った。
 初めのうちは軽く、やがて力強く。
 互いの鼓動が重なり合って、どちらの音なのか区別もつかない位に。

「ロイド様」
「デボラ」

 初夜の床ではすべて男性側が導いてくれる……そう話に聞いていたデボラは、知る由もなかった。

 自分の夫が童貞であることなど。
 童貞を拗らせまくった挙句、初夜へのプレッシャーで瀕死状態であるなどと。

 この時のデボラは知る由もなかったのだ。



***



「デボラ様、大変ですよ!」
 フェルビア王国の奥地、シラカ。
 女領主のデボラの元に、使用人のベティが険しい顔をしてやって来た。

 夜が明けた途端、肩をいからせたベティがデボラの元へやってくる……最近こんな事が多くなった。もう嫌な予感しかしない。
「また……何かあったの?」
「鶏小屋の扉が壊されてたんですよ!」
 鶏は逃げ出していて、捕まえられるものは捕まえたが行方不明になってしまったものも多いという。道理で今朝は雄鶏が鳴かず、少し寝坊してしまったわけだ。

「マキシムですよ! あいつが壊したに決まってます!」
 デボラもそう思う。
 デボラ・ステアリーの従兄であり隣の領地アッサズの領主であるマキシム・ステアリー。彼か、或いは彼の家来が忍んでやって来て、嫌がらせをしていったに違いないと。

「早くどうにかしないと、牛も馬も豚もいなくなってあたしたちみんな、飢死にしちまいますよ!」
「そ、そうよね。どうにかしないと」
 マキシムによる嫌がらせは初めてではない。似たような形で牧場の柵や豚小屋を壊され、シラカの領地にいる家畜は激減した。
「どうにかしないと……」
 でも、どうしたらよいのだろう。途方にくれながらデボラは力なく呟いた。



 早くに母を亡くし、そして父も亡くなり、一人娘であったデボラは頼れる男性を見つける前に領主の座に就いてしまった。
 本来ならば父親が「この男ならばシラカの領地を任せられる」と思える男性をデボラの夫と決め、夫婦でこの領地を切り盛りしていく筈だった。
 しかし父の病は急なもので、流感に冒されるとそのまま寝込み、起き上がれなくなって、あっという間に息を引き取ってしまったのだ。

 一人残されたデボラは、古くからこのシラカ城に仕えるベティと領民たちの助けを得て慣れない仕事をゆっくりと学んでいる途中である……いや、途中であった。

『デボラ・ステアリーが独身のまま二十三歳の誕生日を迎える事となった場合、アッサズの領主がシラカの土地と城の権利を継承する』

 今問題になっているのはこれだ。
 この遺言書が作成されたのはデボラがまだ十三、十四歳の頃であった。デボラを残して父が死んでしまった場合のために作ったものだ。
 デボラが一人きりになった場合は父の兄、デボラの伯父であるアッサズ領主がこの地の面倒をみてくれるようにと。

 父親は元気なのに、そんなものを作ったら彼が母のように死んでしまうような気がして、デボラはこれを嫌がった。父は「お前が困らないようにするためのことなのだよ」と言って、デボラの頭を撫でた。
 だがそうなる前にお前とシラカの面倒を見てくれる、優しくて誠実で頼りがいのある花婿を見つけてあげるからね。
 父はそんなことを言っていたような気がする。

 この辺の土地の娘は、二十歳くらいで結婚する者が多いようだ。
 父はデボラのこともそのくらいで結婚させようとしていたに違いない。一応、念のため、余裕をもって三年プラスしておいた。そんなところだろう。
 この領地の周辺から外に出たことのないデボラにはよく分からないが、男性は星の数ほどいるらしい。だが父が評価できる男性となると難しいのだと。加えてドがつくほどの田舎の領地の面倒を見てくれる男となると、もっと難しいのだと。

 そんなこんなでデボラは二十歳になり二十一歳になり、さらに季節が過ぎて、「そろそろ本腰を入れて花婿を探さないと、お前が行き遅れになってしまうねえ」と父が言い出したと思ったら、彼は病に倒れてしまった。
 父は高熱に魘されながらも遺言書のことを思い出したらしかった。自分がいなくなったら、この領地はアッサズの領主──デボラの伯父ではなく、その息子のマキシム──に渡ってしまうのだと。「遺言を書き換えなくてはいけない、公証人を呼べ」というような事を呟いた。
 それを聞いたデボラは泣いて嫌がった。少女だったころ、遺言書を作ると聞かされた時よりもずっと恐ろしい気持ちになった。自らの死に備えて遺言を修正したり手を加えたりしたら父は本当に死んでしまう、そう思ったのだ。

 だがそんなことをしなくても父は召されてしまった。二十二歳のデボラを残して。
 こういう時、未婚の娘は年上の親族の男を頼るものだが、その年上の親族がマキシム・ステアリーしかいない。彼がまともな男であればデボラはシラカの統治を彼に任せていた。或いは結婚相手を見繕って貰っていただろう。

 もともとシラカとアッサズは一つの領地で、デボラの祖父が治めていた。
 祖父の息子たち──兄の方がマキシムの父、弟の方がデボラの父だ──は一つ違いの仲の良い兄弟で、どちらも優しく聡明であった。
 原則的には全ての権利を長子が相続するものであるが、祖父は迷ったに違いない。二人の息子のどちらも優れた統治者となりそうだったのだから。

 そして祖父の土地には中心となり得る集落がアッサズとシラカの二つあり、その距離が離れていたこともあって、彼は自分の領地を分ける事に決めた。アッサズを兄の方に、シラカを弟の方に。
 兄弟が元気だったころは農地も広がり人口も徐々に増え続け、国土の奥地に存在しながらも二つの領地はこのまま繁栄していくかのように見えた。

 やがてデボラの伯父が亡くなって、彼の息子のマキシムが後を継いだ。
 甘やかされて育ったマキシムは昔から我儘放題で、デボラは彼のことが好きではなかった。だが大人になって責任ある立場となり、いくらマキシムでも心を入れ替えるに違いないと期待したが、その期待は外れた。
 マキシムは領民の生活や土地を守ることよりも、私腹を肥やすことに一生懸命になった。地代は上がり、アッサズの民の生活は苦しくなる一方のようだ。デボラの父が何かと助言しようとしたが、マキシムは聞く耳を持たなかった。

 デボラの父は、マキシムが領主の器でないことを知っていたはずだ。
 ただ、デボラの夫を選ぶ前に自分が死ぬとは知らなかった。
 自分が死の床にあると気づき、遺言を書きかえようとしたが、時は待ってはくれなかったのだ。

 そしてデボラの父がこの世を去ると、当たり前のようにマキシムはシラカの土地にも目を付けた。
 アッサズと比べるとシラカの方が領地としての規模は小さい。平地が少なく開墾の余地があまりないのだ。アッサズよりもさらに奥地にあり、一番近くの街までも遠い。だが水源があった。
 シラカの城の裏手からは山水が湧いていた。そこから流れ出る水はシラカとアッサズの地を潤している。
 シラカは殆どが山であるから山菜の類も豊富だし、腕の良い猟師がいれば雉や鹿を獲ることも出来る。
 デボラが独身のまま二十三歳の誕生日を迎えたら、シラカは自分のものになる……マキシムはそう考えたに違いない。デボラを、結婚させてはいけないと。
 そこでマキシムからの嫌がらせが始まったのだ。

 マキシムを頼れない以上は、デボラは自分の力で夫を探さなくてはならなかった。
 父の遺した土地を守ってくれる責任感のある男性。ある程度の教育を受けていて、それを領主の仕事に活かせるような人。外の世界も知っている人……シラカ周辺ではこの条件に適う男性はいない。
 シラカは旅人の通り道ではないし、わざわざ足を延ばして観光するような土地でもない。デボラは一番近くの街キドニスへ出て、そこから国王宛てに書簡を出そうかと考えた。フェルビア国王がシラカの窮状を知れば、適任者をデボラの夫としてこちらへ派遣してくれるだろう。

 しかしそのキドニスの街へ通じる唯一の道へは、アッサズの領地を通らなくてはいけなかった。
 マキシムはデボラと外の世界を遮断するために、キドニスへ繋がる道へ私兵を配備した。道が使えないのならば山の中を行くしかない。しかし……



「やい、デボラ!」
 外の方から自分の名を呼ぶ声がする。二十代半ばの男性にしては甲高い声。マキシムである。
「……あ、あいつ……!」
 その声を聞くなりベティは拳を握りしめ、バルコニーの方へ急ぎ足で向かった。デボラもベティを追いかける。
 バルコニーから庭を見下ろせば、そこには派手に着飾ったマキシムが使用人のカールを引き連れ、腕を振り上げてデボラの名を呼び続けていた。

「おっ、やっと顔を出したか! 何回お前を呼んだと思っている! まったく、使えない女だ!」
「使えない女だ!」
 カールは主の言葉を繰り返した。彼はマキシムの使用人ではあるが、子分や腰巾着といった存在に近いように思える。

 その時ベティがバルコニーの手すりを掴み、身を乗り出した。
「ちょっと! 鶏の小屋を壊したのはあんたたちだね! あんたらのせいで鶏が半分逃げちまったよ! どうしてくれるんだい!」
 彼らに違いないとデボラも思っている。しかしこうして正面から糾弾しても、マキシムは認めはしないだろう。

 案の定、マキシムは嫌味ったらしく微笑んだ。
「へえ? そんなことがあったのか。ただでさえ貧乏くさい土地だ。これじゃみんな飢死にしちまうな!」
「飢死にしちまうな!」
「何ならうちの鶏を恵んでやってもいいぜ!」
「恵んでやってもいいぜ!」
 それを聞いたベティがキイイッと叫び声をあげる。
「その鶏は、あんたらがうちから盗んだものだろうがっ!」
「おお、怖い怖い。そんな恐ろしい女がいるから、領民はみんな逃げ出しちまったんだろうな!」
「だろうな!」
「な、なんだってえ……!? 領民がいなくなったのは、あんたらの……ああ、ここで言い合ってても埒が明かない!」
 ベティは腕まくりして、階下へ行こうとする。マキシムたちと対峙するつもりなのだろうか。ベティの気持ちは分かるがこれ以上シラカとデボラの立場を悪くする訳にもいかない。
「ベ、ベティ、ちょっと待って……!」
「止めないでくださいデボラ様! 今日こそあいつらを挽肉にして腸詰の材料にしてやる!」
「ベティ、いけないわ。落ち着いて」
 確かに現在のシラカはあまり豊かではないが、いくらお腹がすいてもそんなソーセージを食べたくはない。



 ベティを追って階段を下りていくと、ホールには暗い顔をした領民たちが立っていた。
「まあ、みなさん……」
「デボラ様……」
 彼らはシラカにこれまで残っていてくれた、合わせて十二人の三家族だった。
 領民たちの表情から、今の状況から、彼らが何を言い出すのかデボラには容易に想像がついた。

「申し訳ありませんデボラ様。わしら、これまで頑張ってきたつもりですが……」
「え、ええ。分かるわ」
「こうして意地を張っていてもシラカの土地が貧しくなるだけです。マキシム様に降参するようで癪ですが、これ以上はとても……」
「え、ええ。ええ……」
 十二人の領民たちは何度も頭を下げ、少ない荷物を持ってシラカ城を出て行った。
 デボラもベティも、力なく彼らを見送った。

 マキシムの妨害は、牧場の柵や家畜小屋の破壊だけではない。
 彼はシラカの力を削ぐため、デボラが外部の人間と接触できないようにするために、何でもやった。シラカの農地を荒らしたのだ。焼かれたうえに塩をまかれた畑もある。
 そして耕す場所と仕事を失ったシラカの民たちに、「アッサズに来れば畑と家を貸してやる」と告げ、領民たちをも奪っていた。
 初めのうちは意地悪な隣の領主マキシムの言いなりになるのは癪だと、シラカに残ってくれる者も多かった。しかし耕す畑はない。家畜も減っていく。このままでは食料を消費して飢えていくだけだ、暮らしていけないと、ぽつぽつとアッサズへ向かう人たちが増えていった。

 デボラとしては二十三歳になるその日まで、自分が飢えても領民たちを食べさせていく覚悟ではあったが、仮にシラカがマキシムの土地になってしまった時……マキシムは、最後までデボラの味方をしていた領民を特に虐げるだろう。
 それを考えると、出て行こうとする領民を無理に引き留めるのも憚られた。

 外へ助けを求めに行くにしても、山の中を進まなくてはいけない。その役目は体力のある男性でなくては務まらないだろう。
 そして最後の領民たちが去った今、このシラカにいるのは領主のデボラ。デボラの両親の代から城に仕えていてくれたベティ。それからブラッドベリ司祭。司祭が引き取った孤児の少年シド。……四人だけとなってしまった。
 いくら男性だといっても司祭に山越えを頼むわけにはいかない。十二歳の少年にも頼めない。いや、頼めばシドはやってくれるだろうが、危険すぎる。道中彼に何か起きたらデボラは一生自分を許せなくなる。



 みんな行ってしまった。
 シラカの外へも出られない。
「ああ」
 とうとうデボラは冷たい石の床に膝をついた。

 二か月後、デボラは二十三歳になる。
 もしも奇跡的にキドニスの街に辿り着けて、そこから王都へ書簡を送ることが出来たとしても。
 デボラの送った書簡はすぐに目を通して貰えるものなのだろうか。山奥の女領主から届いた書簡など重要視されない気もする。二か月しかないのでは……間に合わないかもしれない。
 こうしてマキシムの嫌がらせに対して何もできないまま、自分は二十三歳の誕生日を迎えてしまうのだろうか。父が守ってきたシラカの土地が、マキシムの私腹を肥やす存在になるのだと思うと悔しくてたまらない。

 ベティも膝をついて、慰めるようにデボラの背中を撫でてくれた。
「デボラ様! あたしはどこまでもお供しますからね!」
「ありがとう、ベティ……」
 目頭が熱くなって、涙がこぼれそうになる。
「ありがとう……」
 だめだ。泣いてはいけない。諦めてもいけない。
 自分には二十二歳最後の日まで、この地のために全力を尽くす義務がある。
 だが瞳を閉じ胸の前で指を組み、少しだけ現実離れしたお願いをした。

 フェルビア建国の神、セイクリッド様。
 このシラカの窮状を救い、ともに盛り立ててくれる男性……伴侶となる男性を私に授けてくださいませんか。
 シラカの土地を愛してくださる方ならば、私を愛してくれなくても構いません。
 セイクリッド様。どうか、助けてください。

 心の中でそう祈った後、デボラは立ち上がった。
 さあ、現実に戻らなくては。
 一気に人口が四人に減ってしまったので食料貯蔵庫に余裕が生まれたが、だからと言って好き勝手に食べる訳にはいかない。
 まずはベティが捕まえられなかった分の鶏を探しに行こう。それから城の近くの林に入って、食べられる木の実や山菜の採取だ。


しおりを挟む

処理中です...