愚者の勲章

Canaan

文字の大きさ
上 下
2 / 28
第1章 Virgin Hard

02.こじらせた男

しおりを挟む


 男には二種類ある。二種類しかない。
 童貞か、そうでないか。
 これに尽きる。
 ──フェルビア王国騎士ロイド・バークレイ──



 フェルビア王国北西の果てにある、ソレンソン伯爵領モルディスは、軍馬を使っての身軽な一人旅でも王都から二週間ほどかかる僻地である。
 王都で騎士をしているロイド・バークレイはモルディスに嫁いだ姉を訪ね、約一週間の滞在を終えて帰路につくところだった。

「忘れ物ない? 着替えは大丈夫? お弁当持った?」
「持った持った、大丈夫だって」
「ほんとにぃ? あんたって、昔っからそう言って忘れ物してばっかりなんだから」
「姉ちゃん、心配し過ぎ。俺もう大人なんだけど」
「どうだか。体格だけは立派な大人みたいだけどね~」
 姉のジェーンは、弟の言葉など信用ならぬと言った感じで腰に手を当ててロイドを見上げた。
 確かに自分はうっかりしていることが多い。が、忘れ物に慌てふためいて涙目になるような性分でも年齢でもない。道中何かを忘れたと気づいても、一人の力で近くの街や村まで出向いて、人に助けを乞うとか必要なものを購入するとか、そのくらいの臨機応変な行動は出来るつもりだ。

「かあさま、かあさま! ちょっとこっち来て!」
 後ろの方でジェーンの子供たちが騒いでいる。
「かあさまー!」
「はーい、はいはい! 今行くから! ……じゃ、気を付けて帰るのよ。ランサム、ロイドを送ってあげて」
 姉には男の子が二人いて、去年三番目の子供──こちらは娘であった──が生まれた。とても忙しそうにしているが、くたびれた雰囲気はまったく窺えない。幸せなのだろうと思う。
「じゃ、ロイド。行こうか。領地の境まで送るよ」
 ジェーンに頼まれたランサムは、ロイドの肩をぽんと叩いた。

 ランサム・ソレンソンは現ソレンソン伯爵の息子で、姉の夫である。昔から騎士の仕事に憧れていたロイドが、初めて近しくなった騎士でもあった。
 ロイドは義兄のランサムのことが大好きだった。
 自分はもう二十二歳だし剣も扱える。体力だってついた。義兄に送ってもらわなくてはいけないような年齢でも立場でもないのだが、ランサムと二人の時間が持てることが嬉しかった。



「しかしロイドがこんなに立派になるとはね」
 ソレンソンの城を出て、しばらく馬を進ませたところでしみじみとランサムが言う。

 ロイドがランサムと初めて出会ったのは十一歳の頃、場所はこの国の中央部に位置する自由都市ルルザであった。
 ロイドは幼い頃に母親を亡くし、その次に父を亡くしていた。家族は双子の弟のグレンと、九つ年上の姉ジェーン。
 ところが父の死後彼の借金が発覚し、ロイドたち姉弟三人は生家を追われた。
 姉は弟たちを養うために住み込みの仕事を探したが、十一歳の子供が二人も一緒ではなかなかそれも見つからなかった。
 どうにか貸して貰ったボロボロの小屋に三人で住まい、姉は山や林へ分け入って薬草を摘み、それを売って生計を立てていた。
 当時のロイドは──今よりもさらに──能天気な子供で、自分たちの生活について何かを考えることもなかったのだが……次第に窮乏していっており、その日の食べ物を用意するのがやっとの状態であったらしい。

 そんな時に現れたのが、王都を目指して旅していたランサムだ。
 ランサムとの出会いと同じころ、ロイドたち姉弟には王都に伯父がいることが判明した。なんでも、ロイドの両親は駆け落ち婚をしていたらしく、そのせいで親類たちとの連絡が途絶えていたのだとか。
 そしてランサムはロイドたちを、王都にある伯父の家まで送り届けてくれた。
 伯父の家は裕福で、なんと騎士の家系でもあった。ロイドたちの生活は一変した。学校に通えるようになったのだ。
 姉はランサムに嫁ぐことになってモルディスへ向かったが、ロイドとグレンは王都に残って伯父の家で暮らした。
 伯父のレジナルドと従兄のヒューイにはとても良くしてもらった。ロイドが幼い頃からの夢であった騎士になれたのも、伯父とヒューイのおかげだ。
 伯父はとても親切だった。ヒューイは厳しくて怖い人だと初めは思っていたけれど、誠実で面倒見のよい立派な男であった。一緒に暮らすうちにロイドは彼のことも大好きになった。

 でもランサムは、ランサムだけはロイドにとって特別だった。
 おおらかで優しくて……姉にとってもそうなのだろうが、ランサムはロイドを助けてくれた正義のヒーローのような存在なのだ。
 ロイドも大人になって、夢だった騎士にもなれて、そしてランサムと肩を並べて歩ける──実際は今は馬を並べているわけだが──のがとても嬉しいし誇らしい。

「俺が騎士になれたのは、ランサムのおかげだよ!」
 立派かどうかについては自信がないが、ロイドはランサムの言葉にそう答えた。
「いやいや。私は特に何もしていないよ。ヒューイ殿やレジナルド殿がいて、それにロイド。君が頑張ったからだ」
「でも俺、ランサムみたいになりたいって思って頑張ったんだ」
 身体を動かすことは好きだったが、ロイドは勉強が好きではなかった。
 ヒューイが根気よくロイドの勉強に付き合ってくれて、なんとか平均点よりちょっと上くらいの成績にはなったが、それも「ランサムみたいな騎士になるんだ」と思っていたから頑張れたのだ。

 ランサムはくすくすと笑う。
 魅力的な笑顔だった。彼は非常にいい男で、時折同性のロイドが見てもぞくっとすることがある。ランサムは陽気だしのんびりしているし、暗いところなどまるでないのに、その表情や笑顔はどこか罪深い影を纏っている。
 ランサムのイケメンぶりには、どんなに憧れても残念ながらロイドが近づくことは出来ない。何せ顔の造りがまったく違う。それに自分は女の子にきゃあきゃあ騒がれるような綺麗な顔もしていない。そしてなぜか弟のグレンはそこそこモテるようなのに、ロイドにそんな話は全くない。
「そういえば、グレンにはしばらく会ってないなあ。君たち二人、一緒に休みが取れたらいいのにね」
 ランサムがそんなことをぼやく。何年か前、寄宿学校の長期休暇を使って二人で訪ねたことがあったが、学校を卒業して騎士になってからはグレンはここを訪れていないようなのだ。

 子供の頃は常に一緒のロイドとグレンであったが、二人の性質は大きく違った。
 学校へ通うようになるとそれぞれが自分に合った友人を見つけ、別行動も多くなった。二人とも騎士になって城へ上がったが、所属が違うので休みも重ならない。
「うん……。グレンのやつ、けっこう忙しいみたいでさ」
「そうみたいだね。私は王都に行く機会もあるけど、ジェーンは……子供が大きくなるまでは無理をさせられないからなあ」
 ランサムは父親の代理で王城の議会に出席することもある。子供たちがもう少し大きくなったら、みんなで王都に行くのもいいねと話していたらしい。が、去年三人目が生まれたのでジェーンの旅はもうしばらくお預けだ。
 ロイドの所属する騎士団はわりと自由な行動が許されているので、こうして初めての姪っ子を見にやって来たわけだ。

「ロイドがいるのは黒獅子騎士団……だったよね。すごく強そうな名前だ」
「名前はそうなんだけどさあ」
 青地に金色の双頭の獅子。これがフェルビア王国の国旗だ。王国内において金色の双頭の獅子は、よく目にすることがある。
 そしてロイドの所属する騎士団は、王都の安全を守るために存在する組織である。たとえば、反乱を企てた民衆たちが王城に押し寄せてきたとき。他国の軍隊が──この国の話ではないが、客として都に招いていた他国の軍隊が、条約を無視して暴れ出した例があるそうだ──王都で暴れたとき。王都周辺の領主が裏切って兵を差し向けてきた場合……などに備えて、日々鍛錬を積んでいる。

 移動の手段によっては、王都とモルディスは休暇がひと月あっても往復できるかどうか怪しい距離であるが、ロイドは休暇を使っているわけではない。
 黒獅子騎士団において、長距離に及ぶ一人旅は武者修行、鍛錬の一種であると考えられ推奨されている。もちろん騎士団の制服を纏い、道中困ったものに出会ったら積極的に手を貸さなくてはいけない。
 こうして鍛錬を重ね、いざという時に表舞台に出ることになる騎士団。だが治安的にはそんな騎士団の表舞台はない方がよい。だから金獅子に対しての黒。

 はじめは特殊部隊みたいでカッコいいと思っていたが、ロイドが騎士になってから黒獅子団の活躍の舞台はまだない。
 騎士団のメンバーは、トレーニングの他は、カンを鈍らせないために城下警備隊にお供させてもらい、街の見回りなどを行って日々を過ごしているのが実情だ。
 そんな訳で「黒ネコ騎士団」と揶揄されることも多い。

「黒ネコ。なんだか可愛いな」
 ロイドの話を聞いたランサムが再びくすくすと笑う。
 本当にいい男だと、ロイドもまた見惚れた。昔はカッコいいお兄さんといった感じだったが、結婚して子供が生まれて、彼の纏う雰囲気には深みが増したような。



 やがて、ソレンソン家の領地はここまで、という境界に立てた旗が見えてくる。
 そこでふとランサムが顔を上げた。
「ロイド。またおいで」
「おう! 絶対来る! ランサムが王都に来るときも連絡くれよな!」
「もちろんだよ」
 ランサムは馬を降りて、ロイドの肩をがっしりと抱きしめてくれた。ロイドも抱き返す。もっと昔だったら、ランサムは「またおいで」とロイドの頭を撫でていた。憧れだったランサムと、こうして大人の男同士として肩を抱き合えるのが、ロイドは本当に嬉しい。

「俺が今度モルディスに来たら、また赤ん坊が増えてたりしてな」
「どうかなあ。こればかりは、授かりものだからね……ロイドこそ、今度来るときはお嫁さんを連れていたりしてね」
「えっ? まさかあ」
 恋人ができたためしもないのに妻とは、ランサムも気が早い。
「そうかな? 君のお姉さんと結婚した時、私は二十三歳だったよ。君に結婚を約束した女性がいても、別に不思議ではないんじゃないかな」
「えー……」
 ロイドはなんだか気まずくなって身体を揺らした。
 家を継ぐ必要のある男は割と皆早く結婚する。ロイドは長男だが、バークレイの本家長男は従兄のヒューイだし、そのヒューイも結婚していて子供がいる。だからロイドが結婚を急ぐ必要は全くない。

 ランサムが追い打ちをかける。もっともロイドにとっての追い打ちというだけで、ランサムに悪気はないのだろう。
「ロイド。君は王城に仕える騎士だし、とても立派な青年になった。女性に人気があるんじゃないかい」
「え、いや……」
「多少なら遊ぶのもいいけれど、あまり不誠実な事はしないようにね」
「お、おおう……」
 ロイドは唸った。
 ランサムは自分を過大評価し過ぎなのではないか。

 恋人ができたためしがないどころか、モテたためしがないのだ。
 しかもちょっと可愛い娘に優しくされるとその娘にのぼせ上がってしまう単純っぷりだ。そしてその可愛い娘の目的は弟のグレンだった……という切ない出来事は一度や二度ではない。
 もちろんロイドは童貞である。
 周りの友人たちは十代のうちに童貞を捧げる相手を見つけ──相手は城のメイドだったり年上の未亡人だったり、その手のお店の人だったり様々のようだ──今や童貞はロイドだけである。これが強烈な劣等感を生み出していた。

 その時、二人の横をロイドと同じ年ごろと見られる青年が通りかかった。
「ランサム様、こんにちは。いい天気ですね」
「やあ、こんにちは。そろそろ雨が降って欲しいところだけどね」
「まったくですよ」
 モルディスの領民なのだろう。ランサムも気さくに挨拶を返す。そしてロイドは青年を見て思った。
 あいつは童貞なのだろうか、と。
 もう最近はこればかりなのだ。男……特に同じ年ごろの男を見ると、その人が童貞なのかどうか気になってしょうがない。童貞仲間が欲しい。童貞は自分だけではないという安堵を得たい。

「彼はまじめな働き者なんだよ」
 青年が行ってしまうとランサムはロイドにそう教えてくれた。
「去年奥さんをもらってね、もうすぐ子供が生まれるんだって。ジェーンがお祝いしなくちゃって言ってるんだけど……あれ? ロイド?」
「う、うう……」
 ちくしょう、非童貞じゃないか! 裏切者め!
 相手が童貞かどうかを考えたところで、大抵はこうしてダメージを受ける羽目になる。
「ロ、ロイド! どうしたんだい? 大変だ、気分が悪いのかい? 出立は止めにした方が……」
 胸を押さえてぶるぶる震えているロイドを見て、ランサムが顔色を変えた。
 気分は確かに悪い。裏切者がいたのだからな! ……と、裏切るも何も、別に協定を結んだわけでもない赤の他人が非童貞と判明しただけでこの有様である。
 童貞コンプレックスもここまで来ると末期ではないのか。これ以上進行してしまったら自分はどうなってしまうのだろう。

「ロイド、大丈夫かい!」
「ラ、ランサム……俺……」
 ロイドは片方の手で胸を押さえながら、もう片方の手でランサムに縋った。
 優しくて大らかな、憧れの義兄。彼に打ち明けてみるのはどうだ。ランサムならば大人の男として、適切なアドバイスをくれるかもしれない。
「うう、ランサム……」
「どうしたんだい、苦しいのかい!」
 うん。苦しい。だって俺……

「俺、童貞なんだ」
「……え?」
 ロイドの告白に、ランサムは瞬きを繰り返していた。


しおりを挟む

処理中です...