愚者の聖域

Canaan

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第1章 Tempest Girl

06.皮肉男と強がり娘

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 さっきから受け答えがしどろもどろになっている挙句、変な汗までかいてきた。青年の声音にも剣呑な響きが宿った。
「納得のいく答えが欲しいな。そうでないと、ぼくはルルザ聖騎士団の一員として、君を取り調べなくちゃいけなくなる。実際に貴族の屋敷から物が消える事件は起きているからね」
「えっ。そ、そうなの!?」
「今、言っただろ。身分を偽って、上流階級の人間のふりをして盗みに入る者がいるって。無くなるのは大抵は貴金属の類で、本が盗まれた話はまだ聞いていないけど」
 で、どうなのかな。
 青年はそう言って、キャスの手袋を握ったまま腕を組んだ。

 彼は乱暴なわけでも強引なわけでもなく、むしろ静かで落ち着いているのに──だからこそ?──妙な迫力がある。泣いたりわめいたりしても、ごまかせない人だという事が分かった。
「あ、あの本は……ひいおばあさまの日記なの」
 キャスは観念した。

「私……私の本名は、キャスリーン・メイトランドよ」
「……本名?」
「ここでは名前を変えて働いているの。でも、詐欺や盗みをするためにパーティーに参加している訳ではないのよ」
 キャスは話した。
 自分はもともと上流階級と呼ばれる側の人間だったこと。だが、両親が亡くなって、父親の会社を畳まなくてはならなかったこと。働かなくては暮らしていけなくなったが、僅かに社交界との伝手が残っている。社交界の人たちに今の状況を知られたくないこと、などを。
「それで、前に住んでいた屋敷を売る時、荷物の整理をしていたら、ひいおばあさまの日記の一部が見つかって……えーと……」
 ここで正直に答えることを躊躇った。
 財宝の在処が記されているから、すべて揃えたいなんて言ってしまったら……彼は目の色を変えて横取りしようとするのではないか。
 ……いや。普通はジェレマイア叔父のように、夢物語だと一笑に付すだろう。
「ご先祖様の記したことを知りたいと思うのは、自然なことだと思うのよ。そうでしょう?」
 青年は首を傾げた。
「そういうのは、人によると思うけど……家の歴史に拘る人は結構多いね。で、その日記が市場に流れて、ブライス伯爵邸にあったというわけか」
「そ、そう! そうなのよ! やっと見つけたものなの!」
「けど、ブライス伯爵に言えば日記を借りるくらいはできたんじゃないの」
「借りるのはダメ! 私は取り戻したいの!」
 ついつい力が入ってしまい、身を乗り出す。逆に青年はキャスの勢いに一歩引いた。
 キャスは慌てて取り繕う。
「ほ、ほら。私は家の歴史に拘りたいから……買取りを申し出ても、提示された金額を用意できるか分からないし……」
「だからって盗むのは感心しないけどね」
 それを言われては何も反論できない。キャスは肩をすぼめ、祈るように指を組んで青年を見上げた。
「お、弟と二人で頑張って、やっと見つけた一冊なの……」
 すると、青年の眉がぴくりと動く。
「……弟さんがいるの」
「え? ええ。両親が亡くなった後は、協力し合って二人で暮らしているの」
「そうなんだ……」
 不思議なことに、少しだけ、青年の声が和らいだ気がした。
「君の事情は大体わかった。本当に……今回限りは何も言わないことにするよ」

 彼はずっと持っていた手袋をキャスに押し付ける。いったん踵を返そうとして、でもまたキャスに向き直った。
「君は……厨房では顔を隠してるみたいだけど、今日のことで注目を浴びてる。年齢をごまかしたいなら、これからは気をつけた方がいいよ」
「今日は急な休みの人がいて、人手が足りなかったの。私、普段は奥の方にいるから大丈夫だと思うわ」
 カウンターまで出て、騎士に配膳したことはこれまでに数えるほどしかない。彼と鉢合わせたのは本当に偶然だったのだ。
 だが、彼はちょっと言い難そうに顔を背け「そういう事じゃなくて……」と呟く。
「え? じゃあ、どういうことなの?」
「君の胸だよ。君の胸を気にしてる奴らがいるんだ。彼らはたぶん、また君を見る。そしてそのうち、胸の持ち主である君の顔も確認しようとする」
「ま、まあ……!」
 キャスは一歩下がって胸を守るように紙袋を抱きしめた。
 アンドリューの言葉が蘇る。この騎士はそうでもなかったみたいだけれど……やっぱり、男の人は顔よりも胸に目が行くのだ。
「口元を隠してても、君の目尻に皺はないし、声だって若い女性のものだ……気をつけた方がいいよ」
「だ、大丈夫よ」
 彼の警告に少し不安を覚えてしまったのは確かだが、キャスはぐっと顔を上げた。
「私は二十一歳の、世事に通じた大人の女性ですからね。立派に切り抜けてみせますとも」

 だが、青年ときたらものすごく訝し気な表情になった。
「世事に通じた……? 君が? あれで?」
 彼の言う「あれ」とはブライス伯爵邸の書斎で起こったことに違いない。
 盗みをごまかすためにキャスは色仕掛けを行い……大爆笑された「あれ」のことだ。
 彼はあの時のことを思い出したのか、小さく「ククッ」と笑った。
「だっ、だからあれは貴方をテストしたんですってば! 途中で貴方が笑って、うやむやになっただけなのよ!」
「へーえ。じゃ、君は……色々と知っている訳だ」
「い、色々……?」
「うん、そう。男女のあれこれを、色々とさ」
「え。あ、あああ当たり前でしょう! 私は大人なんですから」
「へーえ……」
 青年は意地悪そうに笑った。

 どこか影を纏ったいい男がこんな風に笑うと、危険な魅力がある。キャスは一瞬どきっとしたが、彼が一歩踏み出し、キャスとの距離を詰めたことで、ドキドキは一瞬では終わらなくなってしまった。
 彼はキャスを壁際に追いやり、その壁に手をついてキャスを見下ろした。
「え? あわ、あわわ、ちょ、ちょっと……」
 目の前に広い胸が迫って、キャスは慌てふためく。
「そんなこと言ってるけどさ、本当は何も知らないんじゃないの」
 慌てふためいたが、嫌味ったらしい青年の声が上から降ってきて、ちょっと気を取り直した。
「し、知っていますとも!」
「へえ。じゃ、どうやって子供が出来るかも知ってるんだ」
「え……えっ!? そ、それは……あれでしょう! その……そのう、ほら……だ、男女が……」
「うん、男女が?」
 女性にこんなことを言わせるなんて、この人、騎士としてどうかと思う。
 だがキャスの引っ込みもつかなくなっていた。
「結婚した男女が、そ、その……裸になって……ベッドで一緒に眠るのよ……」
 言葉の終わりにかけて消え入りそうな声になってしまったが、これで合っている筈だ。
 キャスは、何も知らない子供の頃に母親に訊ねたことがある。母は落ち着いた様子で「結婚した夫婦が一緒に眠っていれば、そのうち赤ちゃんがお腹の中にやってくるのよ」と答えた。
 裸にならなくてはいけないことは、キャスがある程度大人になって、学校の友人たちの話から、なんとなく「ひょっとして、そうなのかな?」と辿り着いたことである。

 恥ずかしいことを言い終えてキャスはホッとしていた。
 しかし、
「それで、その後は?」
「え? そ、その後ですって?」
「裸になって、ベッドに入った後さ」
 その後があるなんて聞いていない。
「え、ええと。ほら……あれよ。そのう……あれをするのよ……」
「あれって何」
「そ、そそそんなこと、女性の口から言えるわけがないでしょうっ。失礼な人ね!」
 たぶん口では言えない恥ずかしい事なのだ。それは分かるが、具体的にはよく分からない。キャスは知っている風を装ってごまかした。
 すると、青年は壁から手を離し、またキャスを小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「そうだね。女性の口から言えるわけがない。胎(はら)の中に、男の子種を入れるなんてさ」
「え……?」
 胎の中……? に、子種……?
「とにかく、ここの騎士の中に君に興味を持ってる奴がいる。正体がばれないよう、充分に気をつけて」
 その意味を考えているうちに、彼は今度こそ踵を返し、キャスの前から去っていった。

 キャスはぽかんとしながら彼の後姿を見送った。
 絶対に見逃してもらえそうになかったから、これは意外だった。
 もしかして「両親亡き後、弟と協力しあって生きている」のあたりが、彼に対してのお涙頂戴ポイントだったのだろうか。
 暗くて嫌な奴だと思っていたけれど……そうではないのかも。

 いや、それよりも!
「なんなのよ! あの、人を馬鹿にしたような態度は!」
 本当に腹の立つ男だ。
 やっぱり暗くて嫌な奴ではないか!
 ああやって、男女がベッドで何をするのかを女性に言わせてニヤニヤするなんて、変態要素まで兼ね備えているではないか!
 それに、彼の名前を聞かずじまいだったなと考え……首を振った。
「ま、もう関係ないわよね」
 この宿舎ではもう話すことはないだろうし、どこかのパーティーで鉢合わせたら……少なくともキャスの方は彼を避けまくると思う。書斎を探してこそこそしている場面を見られたら、今度こそ見逃しては貰えないようだから。



「いらっしゃい! おや、種から育てるのかい?」

 帰り道、キャスは花屋に寄った。
 切り花や鉢植えの売り場を素通りして、カウンターの隣にある「種」の並んだところで足を止める。
「何? 野菜? それとも、お花かい?」
「あ、いえ……見てるだけなの。ごめんなさい」
「そうなのかい。でも、興味があったら育ててみなさい。きっと楽しいから」
「え、ええ。ありがとう」

 明るくて感じは良いけれど、ちょっとしつこい店員は「今の季節だったらこれがよい、あれでもいいかも」などと言いながら種の入った入れ物を並べて見せる。
 キャスは適当に頷きながら、あの青年の言った言葉を考えていた。

 子種……というからには、種の一種なのだろう。
 でも、男の子種……とは、いったい。
 キャスはしゃべり続ける店員をちらりと見た。
 いくらなんでも、ここで「子種をください」と言ったら驚かれるのは分かる。店から叩き出されるかもしれない。たぶん、それくらい非常識で恥ずかしい事なのだ。
 恥ずかしいけれど、子供をつくるくらい大事なこと。そう考えると、子種とやらがどこから出てくるのか大体の見当はついた。

 次にキャスはヒマワリの種が入っているガラスの瓶を見た。
 男の人の、恥ずかしいけれど大事なところ……つまり、おしっこをする場所からこの大きさのものを出すにはちょっと無理があるのではないだろうか。なんだか痛そうだ。
「……?」
 でも、子供を産むとき、女の人はとても痛いらしいから、男の人も子種を出すときは痛いのかもしれない。そうでないと不公平だと思った。

「ほら、これなんか初心者でも大丈夫よ! どう?」
 店の人の出した瓶を見ると、「ラディッシュ」とラベルに記されていた。
 種はヒマワリのものよりもだいぶ小さい。子種はこのくらいの大きさだろうか?
 大きく首を傾げた時、別のものが目に付いた。「ポピー」と記されている容器である。
 その種は、砂粒のように細かい。
 このくらい小さなものであれば、自然に出てくるかもしれない。
 でも、どうやったら出てくるのだろう。それに、一度に何粒出てくるのだろう。もしかして、二粒出た時は双子になるとか……?

「おや、ポピーがいいのかい。でも今は種まきの季節ではないねえ……」
「あっ、いえ! 本当にごめんなさい! 見てるだけなの!」
 ちょっとしつこい店員をなんとか振り切って、帰路についたキャスであった。



「なんかさあ、これ、もう普通の日記だよね……」
 アンドリューが頬杖をついて二冊目の日記を眺めている。
「財産を匂わせるような文章はないんだよなあ……」

 ブライス伯爵邸で手に入れた二冊目の日記であるが、その殆どはシャーロット・メイトランドの息子──キャスの祖父──の成長についてである。
 夫婦仲が良いのは相変わらずのようで、あとはふと故郷の景色を思い出したとか、稀に商売のことについて記してあるくらいだ。

「姉さん、聞いてる?」
 キャスはそれどころではなかった。
 今日聞いた「女の胎の中に男の子種を入れる」、その事を考えるのでいっぱいいっぱいだったのだ。
「姉さんってば!」
「え? あ、ああ! 何?」
「もうー……ひいおばあさまの日記についてだよ。姉さんは何か気がついたこととかある?」
 アンドリューは立ち上がってキッチンへ向かうと、そこでマグカップに牛乳を注いで戻ってきた。
 キャスはというと、俯き、いや、俯いたふりをして弟の股間周辺を盗み見る作業に忙しくしていた。

 あそこから、種が出る……?
 そして女性のお腹の中に入れる……?
 いったいどうやって。
 女の月経が妊娠に深く関係しているというから、「胎の中」というのはなんとなくわかる。種を入れる場所は「あそこ」だ。おしっこする場所じゃなくて、血が出る場所。
 男が種を出したら、女のそこに入れる。
 だからどうやって? ……手で入れるの? 「よいしょ」って?
 でも、ポピーの種くらいの大きさだと、小さすぎて大変ではないのか。途中で落としたりしたら、きっとそのまま見失ってしまう。
 かといってヒマワリの種のような大きさだと、出す時になんだか痛そうだし……。

「姉さん? 俺の話、聞いてる?」
「アンドリュー……」
 肩を揺さぶられてキャスはようやく顔を上げたが、頭の中を占めているのは日記のことではなかった。
「ねえ、お願いがあるの」
「うん?」
 アンドリューはマグカップをぐいっと傾ける。
「あんたの子種ってやつ、見せてくれない?」
 途端、アンドリューは口に含んでいた牛乳をブバアッと噴き出した。

「きゃっ、ちょ、ちょっと! 汚いわね! お行儀悪いわよ!」
 アンドリューは咳込みながら訴えてきた。
「ぎょ、行儀が悪いのは、姉さんの、ほうだと思うよ……」
 彼は再び立ち上がり、今度は雑巾を手に戻ってくる。
「ま、まあ! 私のお行儀が悪いって言うの?」
「そりゃそうだよ……」
 男女の間の恥ずかしい事なので、行儀が良いとは言えない事だろう。だが、ここまで動揺されることだとは思っていなかった。
 アンドリューはテーブルに散った白い染みを拭い取っている。キャスは弟の腕にすがった。
「え。うわ! ね、姉さん!?」
「お願い! ちょっとだけでいいのよ。どんなものか知りたいだけなの!」
「嫌だよ! 俺、姉弟でこんな話、したくないって!」
「で、でも……他に聞けそうな人がいないのよ……。あ! ジェレマイアおじさまとかどうかしら? 頼んだら見せてくれるかしら」
「う! うわあ! や、やめなって! 姉さん、いったい、どうしちゃったの? 急にこんなこと言い出すなんて……あ! 職場でそういう話になったの? そういや子持ちや孫持ちの人が多いんだっけ……」
 キャスはうんうんと頷いてみせる。職場で聞いた話には違いない。相手は同僚たちではなくて、名も知らぬいけ好かない騎士だったけれど。
 目で弟の股間の辺りを示しながら、疑問に思っていることを訊ねてみる。
「そこから子種っていうやつが出るんでしょう? どのくらいの大きさなの?」
「は? お、大きさ?」
「あ、人によって違うの?」
「え、待って。人によって違うっていうのは、その……サイズのことじゃなくて?」
「サイズ? 子種の大きさのこと? それとも、量のこと? 人によって出る大きさや量が違うの?」
「りょ、量って……それも、まあ……だけど、俺が言ってるのはさ、」
 微妙に話がかみ合わない気がしたが、キャスは続けた。このまま質問責めにしていれば、とりあえずの謎が解けそうだったからだ。
「いくらなんでも、ヒマワリの種くらいだと大きすぎる気がするのよね。でも、ポピーの種は小さすぎるから……『入れる』前に落としちゃったりしたら、見つけるのが大変だと思っていたの。だからラディッシュの種くらいだと、私は見当をつけたのだけれど……」
 どう? と聞くと、アンドリューはそこで一瞬固まり、キャスを見て何度か瞬きを繰り返した後、お腹を押さえて笑い出した。

「あっはっはっは! ね、姉さん……! そ、そりゃないよ……!!!」
「まあ! な、何がおかしいのよ!?」
「は! はははは……!」
 大笑いを続けているうちにアンドリューは椅子から崩れ落ち、今度は床に膝をついて椅子の座面に突っ伏して、そこでヒイヒイ喘いでいる。
「なによーう!」
 自分では結構いい線いっていると思ったのだが、そんなに的外れだっただろうか。
 唇を尖らせながら弟の笑い転げる様を眺めたキャスだった。

 ようやく起き上がったアンドリューは、飲みかけの牛乳が入ったマグカップを手に取った。
「さすがに俺のを姉さんに見せる訳にはいかないけどさ」
 彼はマグカップを少し傾け、テーブルの上に牛乳を垂らす。
「あっ」
 拭いたばかりなのに、弟はいったい何を考えているのだろう。
 牛乳はポタポタと落ちて、染みを広げていく。
「こういう感じに近いかなあ」
 弟は謎めいた言葉を残し、テーブルから去って行った。また思い出したらしく、後姿の肩は細かく震えていた。

 キャスは牛乳の染みと、弟が出ていった扉を見比べた。
「もしかして……」
 もしかして、子種とは固体ではなく液体なのか。「こういう感じ」のものが、男の人のあれから出て来て、女性の胎の中に入ると子供ができる……なるほど、わかった。
 でも、やっぱりわからないこともある。
 この液体をどうやって「入れる」というのだ。これでは種の粒みたいに「よいしょ」と入れられないではないか。

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