愚者の聖域

Canaan

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第2章 Eureka!!

05.夜会の後は

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 唇に押し当てられた、柔らかくて湿ったものはもちろんグレンの唇なのだろう。それは分かるが、なぜこんなことになっているのかが良く分からない。
 唇の動きに合わせるように、後頭部に添えられていた彼の手も動いた。
 そうだ。彼は両手が塞がっていて、静かにしなくてはならないのに、自分はお喋りをやめなかった。だから彼はキャスを黙らせるために唇を使った。そうだ、そうだ。そうだった。

 そこでキャスの唇を割って、中に差し込まれた熱いものがある。
「んっ……!?」
 思わず目を見開いたが、暗いし互いの顔が近すぎてやはり何が起こっているのかは分からない。そのうち、差し込まれたものがキャスの舌を攫った。
「ん、んんっ」
 これは、彼の舌だ。彼の舌がキャスの舌をつつき、舐め、弄んでいるのだ。
 自分を黙らせるためにここまでする必要はあるのだろうか。そう考えたが、彼の舌がキャスの上顎を辿った時、
「っ……!」
 身体の中をとてつもない刺激が駆け抜けていった気がして、キャスはグレンの腕につかまった。
 彼の筋肉が一瞬だけ強張った感触があった。
 でも、本当に一瞬だけだった。
 グレンはいったん顔を離して息を吸い込み、もう一度キャスの唇を塞いだ。
 一度目よりも深いキスだった。己の舌でキャスの口内を探り、キャスがぴくぴくと反応する場所を見つけると、その部分を執拗に攻めた。
「んっ……」
 キャスが声を漏らすタイミングで、彼は自分の腰を押し付ける。
「……!!!」
 さっきまで何か考えていたはずなのに、それがどうでも良くなるほど気持ちが良かった。こんなに恥ずかしくて後ろめたいのに気持ちが良いんだから、これはいけないことのはずだ。たぶん、やめた方がいいのだろう。でもやめたくないどころか、続けてほしかった。
 グレンがやったようにキャスも舌を動かしてみる。すると、また彼の身体が一瞬だけ強張った。そのすぐ後に、彼の腕がキャスの背中側から引き抜かれる。続いてそれはそっとキャスの胸に添えられた。

 はじめは手のひらで撫でるように触れていたようだが、途中から指の腹──だと思う──で、頂を重点的に擦られる。
「ん、ふっ……」
 不思議なことに、乳首が硬くなってきたような気がする。彼は尖ってきたところをきゅっと摘みながら、腰を小刻みに押し付ける。
 とても恥ずかしいことをしている筈なのに、やめられない。今これをやめられたら気が狂ってしまう。そう感じたキャスは、彼を抱え込むように両の足をグレンの腰に巻き付けた。
 彼は、どうやったらキャスがこの甘い苦痛から逃れられるのかを知っているようだった。上手い具合にキャスを刺激するように腰を動かしながら、乳首を擦ったり軽くつねったりを繰り返す。
 ひときわ強く腰を押し付けられた時、それは突然やって来た。
「んっ、んんん!」
 身体の中で何かがはじけるような、かつてない快感と開放感。彼の腰を押し付けられている場所が、自分とは違う生き物のようにびくびくと脈打っている。キャスはグレンにしがみ付きながら、未知の感覚を味わっていた。

 痙攣が収まると、身体から力が抜けた。
 キャスは彼に絡みつけていた四肢を解いて、息を整える。
 そして暗闇の中で何度か瞬きを繰り返し……今、自分たちは何をしていたのだろうと我に返った。外の廊下からは、もう何も聞こえなかった。ただ互いの息遣いと衣服の擦れる音だけがやたらと耳に響くような気がした。
 本当に、今起こった出来事はなんだったのだろう。
 グレンはキャスを見知らぬ領域に追いやった。その間、彼も同じ感覚を共有していたのだろうか? 今の行為に名前はあるのだろうか。そして、この行為はこれで終わりなのだろうか。それとも……?
 ひょっとしたら続きがあるのかもしれない、そう思ったところで、グレンがのろのろと自分の身体を起こしていった。
「……外を見てくる」
「え、ええ……」
 少しすると、ドアを開けるカチャリという小さな音が鳴って、少しだけ灯りが差し込んできた。その隙にキャスも身体を起こし、ざっと自分の衣服を確認する。ドレスの裾の方がちょっと捲れあがっていた。おそらくは髪の毛も乱れているのだろう。キャスは頭に手をやって髪の毛を撫でながら、不思議に思った。
 今の行為は、男女がベッドで行うあれこれに限りなく似ているような気がした。でも、互いが衣服を身に着けたままなのがわからない。「男女のあれこれ」とは、裸で行うものだと思い込んでいたが……違うのだろうか? それにあのストローから子種が出てくるのではなかったか。服を着たままでは子種が出たかどうかわからないし、キャスの胎の中に入れられないではないか。いや、今入れられても困るわけだけれど。
 しかし、あんなにいやらしい気持ちになるんだから、絶対に「男女のあれこれ」に近い行為なのだ! と、思う。たぶん。

「誰もいない。キャスリーン、立てる? ここを出よう」
「え、ええ」
 グレンの言葉にキャスは立ち上がったが、心のどこかですごく残念に思う自分もいた。もうちょっとだけ、この暗くて狭い部屋に二人で閉じこもっていたい。そんな気がしたのだ。
 キャスが扉へ近づいていくと、彼はキャスの背中に手を添えて外へ出るように促した。招待客の話し声や音楽が階下から聞こえては来ているが、確かに廊下には誰もいなかった。
 キャスが振り返ると、グレンはまだ部屋の中でもたもたしている。
「……グレン様?」
「ちょっと……先に行っててもらえるかな」
「どうして? 今は誰もいないわよ」
「うん。そうなんだけど、今はちょっと……」
 彼の様子がおかしい。外に出たくない理由でもあるのだろうか。だが、この後人がやってこないとも限らない。
「急がないと、誰か来るかもしれないわ」
 そう告げると、彼は渋々といった表情をして廊下に出てきた。なんだか不愉快そうな表情を浮かべている。さらに、ちょっと前屈みになっていた。キャスはハッと気づいた。
「グレン様。お腹痛いの……!?」
「え? いや……」
「大変……! お手洗いに行ったら治るタイプのもの? それとも、お医者様を呼んでもらった方がいいのかしら。大丈夫? 歩ける? それともどこか座る場所を……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ぼくは別にお腹が痛いわけじゃない」
 彼は大きく息を吸い込むと、ようやくそこで姿勢を正した。
「……誰か来ないうちに、行こう」
「え? お、お腹は? 大丈夫なの!?」
「だから、お腹は痛くないって」
「でも、今……」
「うん。痛いような気がしたんだけど、気のせいだった。行こう」
 彼はちょっと投げやり風味にそう呟くと、キャスの手を取った。痛いような気がしたなら、もう少し様子を見て安静にした方が良いのでは。そう思ったキャスだったが、手を握られたことで先ほどのドキドキが蘇ってしまう。
 この手が、さっき、自分の胸に艶めかしく触れたのだ……。
 キャスはグレンの広い肩を見上げ、俯いた。あの行為には続きがあるのではないかと漠然と考えていたが。もしかしてグレンは、お腹が痛くなった気がしたから部屋を出ることにしたのかな、と思った。それから、グレンのお腹が痛くならなかったら、次は何が起こっていたのだろうとも思った。

「グレン様! 良かった、ここにいらしたのね! 最後のワルツまでにグレン様が見つからなかったら、どうしようかと思っていたのよ!」
 階段を下りて少し歩いたところで、リフィアが手を振りながらこちらへ近づいてきた。
 舞踏会の最後に演奏されるワルツは、大抵は特別な人と踊るものである。例えば恋人や婚約者と。恩師や恩人、久しぶりの再会を果たした古い知人と踊るという風に、恋愛的な意味が込められていない場合もあるが、リフィア・ブライスのような若い娘がグレンと踊りたがっているのなら、それはグレンが彼女の大本命ということなのだろう。
 グレンがリフィアとラストワルツを踊って、次の夜会でもそれが繰り返されるようだったら、周囲は二人を「交際中」だと把握していく。リフィアは伯爵の娘であるし、グレンもしっかりとした身分の人だ。浮ついた交際を許される立場ではないから、どこかのタイミングで結婚の約束を取り付けなくてはならない。
 キャスはグレンから手を離し、一歩下がった。
 自分は裕福な生まれかもしれないが、今はそうではない。おまけに両親もおらず、叔父の後ろ盾もささやかなものだ。彼とキャスの身分や立場はまったく違うのだ。……いや、自分は何を考えているのだ。二人の関係は、利用とか協力とか……信頼関係は必要だけれど、もっと淡白で事務的なもののはずである。

 グレンはリフィアの方へ行く前に、キャスを振り返った。
「すぐ戻ってくるから、ここで待ってて」
「ええ……」
 はいはい。どうぞ伯爵の娘とワルツを踊って来てくださいな。待ってますよ。待ってりゃいいんでしょ。心の中でそう言いながら相槌を打つと、もう一度グレンが念を押すように言った。
「ぼくのこと、ちゃんと待ってて」
「……。」
 さっきキャスは「待ってて」と言われたのに待っていなかった。だから彼は釘を刺したかったのだろう。でも、彼の言い方にはなんだか静かな迫力があって、キャスは無言で頷くしかできなかった。

 キャスが頷いたところを確認すると、グレンはリフィアを連れてダンスホールの方へ消えていく。
 グレンはスタイルがいいし、リフィアもすらりとしているから、二人は後姿もお似合いだ。彼らはこれから最後のワルツをいろんな夜会で踊って、「交際中」と認識されていくのだろう。
「……。」
 そうなったら、グレンはキャスにやったみたいなことを、リフィアにもするのだろうか。考えただけで気分が悪くなってくるのは何故だろう。俯き、自分のドレスの裾をじっと見つめていると、
「お待たせ。帰ろう」
 そう声がして、見上げるとグレンが立っていた。彼は本当にすぐ戻ってきたのだ。ちなみにワルツの演奏はまだ始まってもいない。
「え……? 帰るって……さっきの彼女は? ワルツは踊らないの?」
「うん。お腹壊したから帰るって言ってきた」
「えっ? グレン様、やっぱりお腹痛いんじゃない! 大丈夫なの!?」
「違うよ。いいから急いで出よう」
「え? ええっ?」
 訳の分からぬまま手を引かれ、クロークで外套や荷物を出してもらい、屋敷の外に出る。通りには招待客の乗ってきた馬車が多く停められていたが、客待ちの辻馬車もしっかりと待機している。グレンとキャスは、そのうちの一台に乗り込んだ。

「……君は放っておいたら、すぐいなくなる人みたいだから」
「えっ」
 馬車が走り出すと、グレンがぼそりと呟いた。
 彼はリフィアとダンスを踊らずに戻ってきた訳を話しているのだ。しかしその言い様は、なんだかキャスが落ち着きのない子供みたいではないか。……実際にリフィア・ブライスには「迷子の子供かと思った」と言われたし、聖騎士団の不良どもにも「ガキ」と思われたのだが、キャスは立派な大人である。
「コホン! 私は話の通じない子供ではないわ。世事に通じた立派な大人なんですから、約束は守ります!」
「へえ。世事に通じた大人……ね」
 ちょっと気取って言い返してみたが、グレンの言葉には訝し気な響きがあった。
「な、なによう」
「でも、一度目の時は、君はしっかりいなくなっていたじゃないか」
「あれは、グレン様がいつ戻ってくるか見当もつかなかったし、私には今夜中に済ませなくてはいけない用事があったんですもの」
「……そういえば、そうだったね」
「ええ、そうですとも」
 そこで会話が途切れ、カタカタという車輪の音だけがしばらく聞こえていた。

 そろそろ家の近くまで来たのではないか。そう思ったキャスは、身体を傾けて窓の外を覗いてみる。
「ぼくは……リフィア・ブライスとラストワルツを踊るつもりはなかった。最初から」
 またグレンが呟いた。キャスは窓から顔を離し、ゆっくりと彼を振り返る。
 伯爵令嬢と前途有望の騎士様ならば、そこそこバランスのとれた組み合わせだと思うのだが。ブライス伯爵はルルザ聖騎士団に多大な貢献をしているとも聞いている。リフィアの方はグレンに熱い視線を送っているし、彼にとっても悪い話ではないのでは。
「特定の女性と噂になるのは困る」
「もしかして……王都に恋人や婚約者がいるの?」
「そういう訳じゃない。ぼくは……恋愛や結婚をするつもりはないから」
「……ふうん?」
 恋愛や結婚をするつもりはないから……リフィア・ブライスに気を持たせるような態度はとれない、ということだろうか。
 では、キャスにしたことはいったい何だったのだ。お遊びということか。急に何を言い出すのだろうと思ったが、「お前にやったことはお遊びだよ、本気にするなよ」と宣言したいのだろうか。
「そう……では、私もグレン様にご迷惑をおかけしないよう、気をつけなくてはね!」
「キャスリーン、ぼくは、」
「『幼馴染』という設定をはみ出さないように、振舞いには充分気をつけるわ。だからまたリストに名前がある人の夜会に誘っていただけると有難いんだけれど」
「……わかった。リーコック男爵の招待状に、返事を書いておく」
「リーコック男爵!? ええ、有難う!」
 古い日記の蒐集家だという噂は前々から聞いてはいるが、自宅でのパーティーを滅多に企画しない人だ。その滅多にない夜会の招待状をグレンが受け取っているならば、またとない機会である。
「ああ、ついたわね! ここで結構よ」
 ちょうど馬車が到着したが、グレンも立ち上がるそぶりを見せたので、キャスはそれを制止する。家の中には灯りがともっているようだから、アンドリューも帰宅しているのだろう。ならば別に、ポーチまで送ってもらう必要はない。
「じゃあ……君が家の中に入るまで、ぼくはここで見てるよ」
「え、ええ。今夜はありがとう」

 馬車から降りたキャスはそのままポーチまで歩いた。
 玄関の扉を開けると、アンドリューが顔を出す。
「姉さん! パーティーはどうだったの?」
「ああ、ええ……ターナー邸の書斎では見つからなかったわ」
 背後で馬車の動き出す音がした。そこでキャスは後ろを振り返る。彼は本当にキャスが無事に家の中に入る──若しくは弟に出迎えてもらう──まで、見ていたのだ。
「……。」
 お遊び宣言をしてみたり、騎士道精神を発揮してみたり、忙しい人だと思った。


*


 グレンは、自制心というやつに関してはちょっとばかり自信があった。
 昔から勉強ばかりしていたから「お前は本当に自制心が強いよな」と周囲から言われていたし、自分でもそうだと自負する気持ちはあった。
 でも、今になって疑問に思う。
 単に、自分の一番やりたいことが勉強や本を読んだりすることだっただけで、何かを我慢して勉学に励んでいた訳ではない。つまり、結局は目先の欲求を満たしてばかりいたのだ。
 もしかしたら、自分は自制心の無いモンスターなのではないか? そうでなければ、キャスリーンにしてしまったことの説明がつかない。
 ……いや、あの状況であんなことになって、自分の両手は塞がっているしキャスリーンはお喋りを続けるしで、ああするしかなかった。でも、グレンの心の奥底に眠っていた何かに、そこで火が付いたのも事実だ。
 もちろん彼女が嫌がったら止めるつもりはあったし、止められる自身もあった。はずだ。そしてキャスリーンは拒まなかった。むしろ彼女は乗り気のようだった……そういうことだ。
 それに、あそこで最後まで行うことだって不可能ではなかったのだ。パーティーが終わるまであの暗闇にこもっていたい気持ちはあったが、でもグレンは止めた。あれが自制心でなかったら、なんだというのだろう。

 しかし階下におりるとさっそくリフィア・ブライスにつかまった。
 そして彼女とのワルツを避けるために、グレンは「お腹が痛いから手洗いに行きたい」と告げた。
 リフィアは戸惑い、曖昧な笑みを浮かべただけだった。グレンは最初のダンスの後にも「手洗いに行く」と言って彼女の前を去っているから、かなりの信憑性があったはずだ。
 彼女は、目の前の男の体調が悪くても、自分はどうしたら良いのか分からない……というよりは、目当ての男が下痢をしていると知って困惑してるようだった。幻滅しているかもしれない。それならそれでよいのだが。

 ──お手洗いに行ったら治るタイプのもの? それとも、お医者様を……
 一方で、キャスリーンの言動を思い出すと、また笑えてきた。彼女は自分を「世事に通じた大人」と自称しているが、その実、何もわかっちゃいないようだ。
 しかしまったくの思い違いとはいえ、彼女はグレンを気遣ってくれた。なんとなく、「普段からこうして弟を気にかけているのだろうな」と推測できそうな口調であった。でも。
「でも、ぼくは彼女の弟じゃない……」
 自分がキャスリーンの弟でないのは確かだ。今後の社交の催しには「幼馴染」という設定で参加することにしている。でも、自分と彼女はやっぱり幼馴染でもない。
 日記集めが終わって無事に財産を見つけることが出来たら……キャスリーンは今の家を引き払って、自分の育った屋敷を買い戻すつもりだという。そしてグレンもまた、子供のころの住まいを取り戻す。そこまで終わったら、自分とキャスリーンの関係も元通りになるはずだ。どこかの夜会で顔を合わせた時に、挨拶くらいはするだろうけれど。
「そうなるはずなんだ」
 取り戻したかつての住まいの扉を開けると、キャスリーンがキッチンに立って料理を作っている、そんな光景がグレンの脳裏に何故だかちらついている。彼女の手料理を食べた時からだ。
 おそらくは、懐かしい家でルルザの家庭料理を味わったから、郷愁の念に駆られているだけだ。或いは、ヒューイの元を逃げるように去って来てしまったから……賑やかで温かい食卓に飢えていたか。そのどちらかに決まっている。

 自分は誰とも結婚しないし、恋愛だってするつもりはない。
 妻の尻に敷かれてそれでもデレデレしていられるカッコ悪い男にはなりたくない。
「……ぼくは、ヒューイみたいにはならない。絶対に」
 自分に言い聞かせるように、強く呟いた。



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