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第3章 Nameless Hero
07.虚ろな心を埋めるもの
しおりを挟む中庭が見渡せる大きな窓の近くに母が立っている。
彼女はキャスの姿に気付くと、唇の前で人差し指を立てて微笑んだ。
──キャス? 中庭に珍しい小鳥が来ているわ。見にいらっしゃい。小鳥が驚いてしまうから、そうっと、静かにね……。
キャスはかつて住んでいた屋敷の中から、今は手入れする者のいなくなった中庭を眺めていた。
草木はぼうぼうに茂っていて、小鳥どころかもっと大きな野生の動物が住処にしていてもおかしくはない、そんな状態だ。
窓を離れ、今度は二階へと上がってみる。やはり人の手が入っていないから、どこもかしこもかび臭くて埃まみれだった。
そして二階の手すりから吹き抜けになっている玄関ホールを見下ろしてみる。
子供のころは弟と並んで手すりにつかまって、こうしてしょっちゅう階下を見下ろしていたものだ。
そして玄関ホールを通りかかった父がキャスたち姉弟に気付き、笑い声をあげる。
──はっはっは。キャス、アンディ! 二人とも、動物園の生き物みたいだぞ!
キャスは大人の今も身長が低いが、子供のころはもっともっと低かった。身を乗り出すことが出来なかったから、下から見たらまるで檻に入っているように見えたのだと思う。
今度は二階の廊下を見渡してみた。
当時は使用人たちが忙しそうに行き来していた場所だ。当たり前だが、今は誰もいない。キャスと、少し後ろをついてくる不動産屋──この屋敷を現在所有している──の担当者以外には。
「如何でしょう、ミズ・メイトランド?」
中年男性である担当者は手を揉み合わせながらそう訊ねてきた。
「驚いたわ。三年、誰も住まないだけでボロボロになってしまうのね」
「そうですね。家というのは、人が住んでいた方が痛みません。たとえ、それが掃除の苦手な人だとしてもね。でも、貴女が暮らし始めたら、この屋敷もかつての輝きを取り戻す筈ですよ……で、如何です?」
担当者は、早くこの物件を売ってしまいたくて仕方が無いらしい。
キャスが不動産屋に行って、この屋敷の中を見せてほしいというと、若い女が一人で行ったものだから、最初は訝しがられた。だが自分はこの屋敷の前の住人で、父親が「タグリム商会」をやっていたのだと説明すると、遺産を持っていると判断されたのだろうか、すんなりと見学させてもらえることになったのだ。
ルルザ聖騎士団の騎士たちが、キャスとアンドリューの受け取るべき財宝を運んできてくれたのは昨日のことだ。
たくさんの金の延べ棒は、これからのメイトランド姉弟の人生を約束するものだった。
だがそんな大層なものをいつまでも家の中に置いておくわけにはいかない。
一夜明けると、キャスはさっそく財宝を銀行の中の金庫に入れてもらうことにした。午前中いっぱいをその手続きに使い、午後からはこうして屋敷を取り戻すため、その下見にやって来ている。
今の自分ならば屋敷を取り戻すだけのお金がある。
家を買ったらまずは掃除と手入れをし、それから使用人を雇って、新しいドレスや靴を買って、堂々とパーティーに参加するのだ!
キャスはそう意気込んで、ここにやって来た筈だった。
でも、誰もいない家の中を見れば見るほど、どんどん心が空っぽになっていく気がした。
欲しくて欲しくて仕方がなかった屋敷が、いよいよ自分のものになりそうなのに、この虚しさは何なのだろうと不思議に思う。
「最初は全体の掃除が必要ですね。それから、庭木の手入れと……うちと提携している業者に頼むのであれば、その辺の手続きもこちらが請け負いますが」
キャスの心の内を知る筈のない担当者は、どんどん話を進めている。
「あ、待って。ごめんなさい」
キャスは彼の話を遮って首を振った。
「ミズ・メイトランド?」
「あの……私一人では決められないわ。弟ともっと相談してみようと思うの」
「弟さんですか……。まあ、安い買い物ではないですからね。それがいいかもしれませんね」
「ええ。でも、中を見せて貰えてよかったわ。今日はありがとうございました」
キャスはお礼を言って、かつての屋敷を後にした。
でも担当者に説明したように、この屋敷について弟と相談することはないし、買い戻すことも無いような気がしていた。
ここから現在住んでいる家まではちょっと距離がある。キャスは大通りまで出ると手をあげて辻馬車を停め、そこに乗り込んだ。
少し前までは辻馬車に乗るお金を惜しんで歩いたりしたものだが、今は自分専用の馬車を買えるくらいのお金を持っている。あまり実感はないが。
馬車の窓から外の通りを覗けば、仕立て屋や婦人用の小物を売っている店が並んでいる。
同じく少し前までのキャスは、これらの店の前で立ち止まり、物欲しげにショーウィンドウを眺めるだけで終わっていた。でも、今ならば胸を張って店に入り「ここから、ここまで、ぜーんぶ頂くわ!」とやることも不可能ではない。やっぱり実感はないし、やってみたいとも思わなかった。
家についたキャスは、キッチンでお茶を淹れて、カップを持ってテーブルに着いた。
それから、かつての屋敷に対する情熱がなぜ消えてしまったのかを考えた。
両親も、住まいもこれまでの生活もいっぺんに失くして途方に暮れ、そして曾祖母の日記を見つけた時は「この財産を手に入れることこそ、自分の全てである」と、生きる希望を見つけたつもりでいた。
お金持ちになって、以前の生活水準を取り戻せば、他の全ても元通りになるような気がしていた。
「私ったら……バカよね」
でも、元通りになる訳なんてなかったのだ。
自分が幸せだったのは、父も母もいたからだ。屋敷だけ取り戻したって、両親がいなければ何の意味もない。
あそこは両親と過ごした屋敷かもしれないけれど、一番大切な想い出は、ずっと自分の胸に存在していたではないか。
キャスはずっと、空っぽの器を欲しがっていただけなのだ。
「ほんとうに、バカだわ……」
ため息をつき、一口お茶を飲んだ。
かつての屋敷を購入する予定は無くなったが、この家は引き払わなくてはいけない。グレン・バークレイに譲る約束をしていたからだ。
「この家の権利書って、どこだったかしら」
テーブルから離れ、その辺の引き出しを開けて探し始める。
いくらで譲るべきなのだろう。
キャスとしては、グレンにかけた迷惑──日記を見つけるために手放してくれたエラーコイン。水没させてしまった金の懐中時計。そして何より、彼を生命の危機に晒してしまった──のことを考えると、格安、若しくはただで譲ってもいいのではないかとすら思った。
「あれえ……? ないなあ……あっ、そうだ!」
その辺の引き出しをすべて開けたが権利書らしきものは見つからず、「大事なものだからそれっぽくないところにしまっておこう」と弟と相談したことを思い出す。
キャスはキッチン奥にあるパントリーに入ると、瓶詰の並んだ棚の奥から丈夫な封筒を取り出した。中にちゃんと書類が入っていることを確認していると、玄関をノックする者がいる。
もう夕方だが、ノックの主がアンドリューでないことは分かっている。彼は今ルルザにいないのだから。
ここ数日のキャスは、叔父の一件に関する事情聴取でルルザ大聖堂まで足を運んだり、財産を手に入れたことに纏わる何やらで、色んな人と顔を合わせて非常に忙しくしている。だから、こんな時間に来客があっても不思議ではないと思った。
「はーい!」
返事をして扉を開けに向かうと、
「ぼくだけど」
グレンの声が聞こえた。
「君が無事でよかった」
テーブルを挟んでキャスの向かいに腰かけたグレンがそう言った。
「わ、私もグレン様が無事で、良かった……」
まだこんな風に顔を合わせる覚悟ができていなかったので、キャスは俯き加減で喋った。
実は、叔父の事件のことを聖騎士団に説明する時も、グレンの姿が無いことにホッとしていた。やっぱり彼はキャスの顔を見るのが嫌なんだと思っていたから。
「今回のこと……本当にごめんなさい」
「何で謝るの?」
「何でって……グレン様の払った犠牲が、大きすぎて。いくら謝っても足りないと思うけど」
「ぼくは、何も失っちゃいないんだけど」
グレンがちょっと不機嫌そうに言った。
彼が腹を立てる理由がいくつも思い当たるキャスは肩をすぼめるしかない。
「貴方の手放したエラーコイン……貴重なものなんでしょう? 何年かかっても、同じものを探してお返しするわ。それか、同等の金額をお支払いするつもり」
貧乏だったくせに大金を手にした途端、お金で解決するやり方に切り替えるのはいやらしい事かもしれないけれど、今のキャスならば、それほど苦労せずに同じものを探せるのではないかと思う。
「別にコインに未練はないよ」
「貴方は金の時計もダメにしたわ。大切なものだったんじゃないの?」
「修理に出したよ」
すべて分解して、なるべく同じ部品を使って組み立て直して貰えるらしい。かなり時間はかかるようだが、限りなく元の状態に近づけられると知って、キャスは胸を撫で下ろした。
「でも、貴方は私に関わったせいで、危険な目に遭ったわ」
そこで、先ほど見つけたばかりの封筒を差し出した。
「……何これ」
「この家の権利書……貴方の言い値で譲るつもりよ」
たとえ銅貨一枚を提示されても、グレンに売るつもりだ。もちろんタダでもいい。
グレンは封筒の中身を見はしたが、すぐにそれを戻した。
「ぼくにこの家を売ったら、君は……前に住んでいた家に戻るの?」
「そのことなんだけど……ルルザを出て、王都に行こうと思っているの」
グレンは驚いたようにキャスを見つめた。
かつての屋敷を見に行く前から、「王都へ、弟の元へ行く」という選択肢は頭の中にあった。ただし「一応」という形で。
そして、かつての家を手に入れても意味が無いのだと知った今は、キャスはルルザを出ようと思っている。
「ルルザを出るって……どうしてまた」
「アンドリューが、王都に行っちゃったでしょう?」
「えっ」
グレンは聞いていないのだろうか。
アンドリューが叔父の屋敷に軟禁された時、叔父は勝手にアンドリューの職場に行って、彼の仕事を辞めさせてしまった。でも解放されるまでに時間はかからなかったから、印刷屋のオーナーに説明すれば復帰できたかもしれない。
しかし、王都の美術商オリヴィエ・グラックから仕事の誘いがあった。
「オリヴィエさんのところで、修復師の見習いをしないかって言われたみたいなの」
オリヴィエの店では美術品の修復も請け負っており、時には地方貴族のところへ赴いて、そこで大きな絵画や壁画の手入れを試みることもあるらしい。アンドリューはこの仕事に大いに興味を持ったようだった。
「それで、オリヴィエさんと一緒に王都に行っちゃったんだけど……子爵様から聞いてなかった?」
「昨日……言われた、ような気がするけど……覚えてない。昨日は、ちょっと……ぼうっとしてたから……」
グレンがぼうっとしてて覚えていないなんて、珍しいこともあるのだと驚いた。
「アンドリューがいないと、私、一人暮らしということになるし……」
未婚の若い娘が一人で暮らすことに、世間はうるさい。使用人の他に付添の女性を雇わなくてはならないし、それでもあれこれ口を出してくる人は多いだろう。
お金持ちになって前の暮らしを取り戻してみせると息巻いていたキャスだが、姉弟二人で働きながら暮らしている時の方が、ある意味ではずっと自由だったとも知った。
「ぼくとこの家で暮らそうよ」
突然の言葉に、今度はキャスがびっくりする番だった。
「え……え?」
「……嫌ならいいけど」
「えっ? だ、だって、グレン様は、」
恋愛も結婚もしないと言っていた。キャスのことはお遊びに過ぎないのだと。いや、一緒に暮らすだけならば、それは恋愛でも結婚でもないのかもしれない。つまりお遊びである。
「あ、お遊び。そういうこと……」
「ちょっと待ってよ。ぼくはお遊びだなんて一言も言ってないんだけど」
「だって、グレン様は、恋愛も結婚もしないって」
そう宣言したのにキャスと「よいしょ」しようとしたのなら、それはお遊びということではないか。さらに恋愛も結婚もしないで一緒に暮らして「よいしょ」だけするのならば、やっぱりお遊びではないか!! と、キャスは思う。
暫くの間、グレンはテーブルの上で組んだ自分の指を見つめていたが……顔を上げた。
「恋愛も結婚もしないつもりだった。ぼくは、誰かを好きになって……自分が変わってしまうことを、何よりも恐れていたから」
「自分が、変わる……?」
いわゆる「悪い男」に惚れてしまって、素行が悪くなる娘の話を耳にしたことがある。グレンが言っているのはそういうことなのだろうか。
「私、そんなに『悪い女』だった……?」
「え? ち、ちがうよ」
何とグレンは笑いそうになって、慌てて口を閉じた。それでも「うぐっ」と変な呻き声が漏れた。キャスが「悪い女」だとそんなにおかしいのだろうか。
「なによーう!」
「君といると、自分が自分じゃなくなっていくみたいで怖かったんだよ……! たぶん、ぼくは君ばかり目で追って、いつも君の後をついて歩いて、視界に君がいないと心配で仕方がなくなって……そのうち、ぼくの世界は君中心に回ってしまう……それが、怖かった」
「……じゃあ、じゃあ、一緒に暮らすっていうのは」
グレンは頷いた。
「ぼくと結婚して、ここで一緒に暮らしてほしい。ぼくの帰りを待っててほしい。ぼくはこの家を手に入れたいとずっと思っていたけど……君がいなきゃ、何の意味もないってことに気づいたんだ」
彼も、自分が空っぽの器を欲していたことに気づいたと言った。中身が無ければ、何の意味もないのだと。
そう告げられた途端、キャスの目の前に、これからの風景がぶわっと広がった気がした。
キッチンでグレンのために料理を作って、二人で食卓を囲む。もちろん巻貝は使わないように気をつける。彼はキャスの料理を「美味しい」と言ってくれて、キャスはさらに美味しいものが作れるように頑張るのだ。
寝る時も目が覚めた時もグレンが隣にいる。それに、「グレンが絶対に自分のところへ帰ってくる」というのは、なんて魅力的なんだろうと思った。
キャスのぼんやりしている時間が長すぎたせいか、グレンは気まずそうに立ち上がった。
「嫌ならいいんだけど……」
「えっ、えっ。待って! 嫌じゃない、嫌じゃない!!」
キャスも慌てて立ち上がり、グレンの袖を掴み、彼を見上げた。
「嬉しい。びっくりしただけ。急だったから……」
彼はついこの前まで恋愛も結婚もしないという考えだったはずだ。何があってその信条を覆すことにしたのだろう。死にかけたからだろうか。それとも、変態みたいな恰好で捕まったから、やけくそにでもなっているのだろうか。
グレンはいったん宙を見つめ「ああ、うん」と呟き、もう一度キャスを見た。
「後悔したくなかったから。それに、変化は必ずしも悪いことじゃないって思えたから」
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