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番外編
Up Song 1
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正式に婚約した二人の新しい日々。
※※※
騎士を辞めたヘザーはこれまで住んでいた兵舎を出て、ヒューイの用意してくれた部屋に引っ越した。
王都の西地区……高級住宅街の一角にある集合住宅で、周囲の住人は貴族や富豪ばかりであった。とはいえ、普段は地方に住んでいるが王に謁見する時のために、或いは仕事で王都を訪れた際の仮住まいとして使用されることが多いようで、常にたくさんの人間が忙しなく出入りしているわけではない。静かだが寂しいほどではなく、非常に恵まれた環境だ。
それから、ヒューイは使用人を雇ってくれた。
住み込みのメイドは十七歳の娘、アイリーン。読み書きも出来るうえ文字はヘザーよりも綺麗だ。髪を結うのも上手い。
他に、通いでコックの女性が来てくれている。彼女は昼食と夕食を用意し、さらに翌朝の朝食を準備してから帰っていく。その朝食はアイリーンがちょっと手を加えたり温め直したりして、ヘザーに出してくれるのだった。
なんだかすごい生活になった。これまでも兵舎の食堂に行くと、深夜以外ならば食べ物にありつくことは出来たし、シーツなどの大きな洗濯物を自分で洗う必要はなかったのだが……服を脱ぎ散らかしてもいつの間にかアイリーンが片付けてくれているし、起床時にはすでにお湯の入った洗面器が用意されている。なんだか寒いなと意識する前に、ひざ掛けやショールを差し出されたこともある。
住んでいる部屋はヒューイ名義。支払いもヒューイ。掃除や洗濯をする必要はなく、時間通りに美味しい食事にありつける。自分では何もする必要がない。
このままではダメ人間まっしぐらなのでは……!?
……と、不安に思うことはなかった。なぜなら、
「ヘザーお嬢様、そんな歩き方では他人に笑われます! 今、裾が翻って脹脛が露わになりましたよ! 自分で分かりませんでしたか!」
「え。ご、ごめんなさい」
「まったく! お気をつけなさい!」
ヘザーの教育を受け持つ、ウィルクス夫人が一緒に住んでいるのである。
「はあい……」
「返事は簡潔に、はい、でしょう!」
「は、はい」
非常に息苦しい。なんかちょっとヒューイとキャラが被る気がするけど、彼女はさらに厳しくて息苦しい。ただでさえ息苦しいのに、丸一日、ず~~っとウィルクス夫人が傍にいるのである。朝起きてから夜眠るまで!
ヒューイやウィルクス夫人が言うには、未婚の娘が一人で暮らすのは世間体が良くないらしい。同居人ならばアイリーンがいるではないかと思ったが、なんと、使用人はカウントしないものなんだとか。
そんな訳で、花嫁教育係兼付添人としてウィルクス夫人が同居しているのだ。
プラスに考えれば、ヘザーがダメ人間にならないための役割を請け負ってくれている貴重な人でもある。それにウィルクス夫人は、それなりに良いところのお嬢さんを侍女として城にあげた実績は数知れず、没落しかけた子爵家の娘を公爵家に嫁がせたり、各地で講演会を行ったりと、かなりのやり手のようなのだ。
彼女のスケジュールは常に手一杯なのだが、ウィルクス夫人の旦那さんとヒューイの亡き祖父が懇意にしていたようで、その義を果たすためにヘザーの教育を請け負ってくれたのだとか。
……そんなに忙しいのならば、断ってくれてもよかったのに。
しかしヒューイが言うには「ウィルクス夫人に行儀作法を教わった」、それだけで社交界でのステータスになるらしい。
数日前にヒューイとの婚約が公になったばかりだ。これから数多の催し物に二人で出席することで「あの二人はこのまま恙無く結婚するのだ」と周囲に認められなくてはならない。らしい。
ウィルクス夫人が判断するには、ヘザーはその催し物に出席できるレベルではないようだった。今のままではヒューイに恥をかかせるだけだと。
ヒューイのことを持ち出されては、ヘザーも我慢するしかない。
ヘザーが退職届を書く前に、ヒューイは物凄く難しい顔をして「君に話しておかなくてはならないことがある」と言った。
過去に他の女性と婚約していたことがある。
ヒューイはそう告げてきたのだ。
ヘザーの頭の中は真っ白に、目の前は真っ暗になった気がした。
相手はヒューイの従妹の女性、ジェーンであった。ロイドとグレン、双子たちのお姉さんである。
ヒューイの叔父は駆け落ち婚をして王都を去り、ルルザという街──ヘザーの故郷カナルヴィルの北にある、かなり大きな街だ──で暮らしていたらしい。
ところがルルザのバークレイ姉弟は母親を亡くし次いで父親も喪い、さらに父親が生前に作った借金が発覚して生家を追われ、路頭に迷いかけていたという。
借金取りたちが王都のバークレイ邸まで押し掛けたことで、駆け落ち婚以来、初めて彼らの消息が掴めたのだという。
ヒューイの父レジナルドはルルザまで出向いて弟夫婦の子供たちを探したが、家はすでに引き払われていて、手紙を残してくるのが精いっぱいだったらしい。
そして手紙は運よく姉弟の手に渡った。彼らは王都のバークレイ家を頼って、ルルザから旅をしてやって来たのだった。
しかしヒューイが問題視する出来事もあった。当時のジェーンは二十歳。ロイドとグレンは十一歳。女子供と呼ぶに相応しい年齢であった。彼らは親族でもない若い騎士と一緒に、ルルザから王都まで旅をしてきたのだという。
この話を聞いた時、ヘザーは何が良くないのかさっぱり分からなかったが、ヒューイが言うにはかなり世間体が悪い行動らしい。騎士に護衛を頼む代わりに、ジェーンは身体を差し出していたのではないか……そんな風に思われたら社交界ではお終いなのだという。
しかもジェーンには何をして生計を立てていたのかよく分からない、空白の期間があったようだ。生家を追われた後、レジナルドからの手紙を受け取るまでの半年間のことだった。
本来ならばバークレイの一族としてジェーンに礼儀作法を仕込み、相応しい男性との縁組を考えるべきなのだが、とてもそれが出来る状況ではなかった。
そこでヒューイが従妹を妻として引き取ることに決めたようだった。が、色々あって結局ジェーンは件の騎士に嫁いでいった。
『なあんだ』
ことの顛末を聞いたヘザーから、安堵のため息が漏れる。
深く愛し合っていた女性と泣く泣く別れたりしたのであれば、ヘザーはかなりのショックを受けたであろうが……これは家の都合というやつだ。お互いの気持ちは関係ない、淡々とした事務的なもの。
『正式な婚約ではなかった。口約束の段階であったし、この話は限られたものしか知らない』
ヒューイは説明を加えた。もっと詳しく言えば、この話を知っているのはヒューイの父レジナルド、双子の兄弟、それからジェーンの夫となった騎士ランサム・ソレンソン。
『わざわざ君に話して動揺させるのは良くないと思ったが、もしも他人の口から君の耳に入るような事があったら……その方が良くないと思った』
『そうだったんだ』
『……気を悪くしたか』
『ううん、全然。だって、お互いに愛し合ってたとかじゃないんでしょ』
『もちろんだ。ただ、家のためだった』
気を悪くするどころか、この話をふいに耳にしてしまった場合のヘザーの気持ちを考えてくれた、ヒューイのその誠実さが嬉しかった。
『前々から君に話さなくてはと考えてはいたんだが……』
『だから、もういいって。気にしてないよ、私』
『……』
しばらくヒューイは腑に落ちないと言った感じで黙り込んでいた。
あの時のヒューイの様子……今思えば、あれはもっとヘザーに気にしてほしかったのだろうか。
その事に気づいたら、にやにや笑いが込み上げてきた。
んもう、めんどくさい奴だなあ……でも、なんかカワイイ~と。
「ヘザーお嬢様! 何をにやついているんですか。淑女は思い出し笑いなどしないものです。はしたないですよ!」
ウィルクス夫人のキンキン声が、ヘザーの考えごとを打ち破った。
ついついヒューイのことに思いを馳せてしまったが、ヘザーは今、文字の練習をしているのである。
ウィルクス夫人と初めて顔を合わせた時、彼女はヘザーの身長に目をぱちくりさせ、経歴──騎士になる前に、闘技場で剣士をしていたことだ──を知って顔を顰め、文字の汚さに卒倒しそうになっていた。
そして美しい文字を書くための特訓が必要だと夫人は判断したようだった。
「それで! 先ほど私が出した課題……もちろん終わっているのでしょうね!?」
「は、はい。これでいいですか」
ヘザーは『もじのれんしゅうちょう』と表紙に記された冊子──どう見ても就学前の子供用の教材である……──を開いて見せた。
ウィルクス夫人は目を剥き、それから大きなため息を吐いた。
「はぁああ……。なかなか、進歩しませんね」
「はあ。なんか……すみません……」
お手本を見て丁寧に書いているつもりなのだが、自分は夫人が落ち込むほどのダメ生徒らしい。
「貴女の文字は、進歩どころか進化が必要なレベルですよ!」
「えっ。そ、そこまで……!?」
「当たり前です! 上流社会の一員となったら、お手紙をしたためる機会も増えるのですからね。いいですか、厳しく! いきますからね!」
「は、はい……」
ヘザーは騎士を辞め、ヒューイとの婚約も世間に向けて発表された。
同じ職場で働いていた時はこそこそと逢引を重ねていたが、晴れて堂々と会える立場になった訳だ。
しかしヒューイはそれなりに忙しいらしい。ヘザーが抜けた分の補充をしなくてはならないし、双子たちが学校に提出する大掛かりな研究をやっていて、休日は彼らの監督をしているのだとか。
つまり、思っていたよりも会えない。
会えたとしても、ウィルクス夫人が常に傍にいるからいちゃつくチャンスもなさそうだ……。
「ヘザーお嬢様! 手が止まっていますよ!」
「は、はい!」
あーあ。ヒューイに会いたいなあ。
いちゃつかなくてもいいから、顔を見て、声、聞きたいなあ……。
*
「そうなんじゃないかとは思ってたけどよ~」
ベネディクト・ラスキンは先ほどからヒューイの机の周りをうろうろと歩き回っている。
それから傷ついた表情を作って、わざとらしいため息を吐いた。
「はあぁあああ……」
「そこまで落ち込むことは無いだろう。家族以外に自分の口で伝えたのは君が一番最初だ」
彼はここ数日、ずっとこんな調子でヒューイに絡んで来るのだ。
ヘザーが王城を去って十日ほど経つ。
ヒューイ・バークレイとヘザー・キャシディの婚約を発表したのが三日前。現在その情報は教会の前と王城内、兵舎内に貼り出されている。
ベネディクトは学生時代からの古い友人だ。ヘザーがヒューイの元にいる間はさすがに言えなかったが、二人の婚約が世間に向けて発表される直前にヒューイは告げたのだ。
これまでにも二人の仲を訝しむものはいた──というか受け持っていた新人騎士にばれたことがあった──が、ヒューイが自分の意思で告げようと思ったのはベネディクトが一番最初である。……と、落ち込むベネディクトにフォローを入れたつもりであった。
が、彼は「なぜ自分を信頼して打ち明けてくれなかったのか」そういうことで落ち込んでいる訳ではなかった。
「こんな事なら、もっと粉かけときゃ良かったかな~」
「……!!」
「絶対俺の方がイケメンだし女の子に優しいのによ~。なんでヒューイみたいな無愛想で怒りっぽいやつに行くんだよ~……」
「ベネディクト。き、君は……」
思えば彼は以前からヘザーのファンを公言していた。ひょっとして彼が嘆いているのはヘザーがヒューイを選んだことにあるのか? 少し驚いて先の言葉を紡げずにいると、ベネディクトは笑った。
「その顔! お前ほんと分かり易いよな」
「な、なんだと」
ベネディクトからすると、ヒューイもヘザーも同じくらい分かり易かったらしい。そしてヒューイが立場上、二人の関係を公にしたくなかったのも理解はできると言った。
「けど、もしもの時の味方にはなってやれたと思うぜ」
「それは……悪かった。君を信用していないわけではないんだ」
彼はヒューイの弱みを握ったとほくそ笑むような男でもなければ、他人にぺらぺらと吹聴する男でもない。その辺は信頼している。ただ……
「ま、それはもういいって。けどよ、」
ベネディクトはヒューイに顔を近づけてきて、小声になる。
「もうヤった?」
「……!!」
ただ、ベネディクトはこういった会話が大好きなのだ。
「なあなあ、どうなんだよ。教えてくださいよバークレイせんせーい」
「ベネディクト! 神聖な職場でそのような会話は慎みたまえ!」
「あれ? じゃあ別の場所ならいいのか? じゃあ今度城下の店にでも行ってゆっくり……」
「そろそろ始業だ。自分の机に戻りたまえ」
「ちぇ~」
ベネディクトは肩を竦めて机に戻っていく。絶対に訊かれると踏んでいたからヘザーのいるうちは喋りたくなかった。もちろん関係した、しないを教えるつもりもないが、ベネディクトはヘザーを見ながら色々と想像を膨らませるのだろう。そういうことを、されたくなかった。
「けどまさかなあ。お堅いヒューイ君がなあ。そんな訳ないよなあ……」
ベネディクトはまだぶつぶつ言っている。本当に不謹慎な奴だ。彼をひと睨みしてから──もっとも、ベネディクトはヒューイの方など見てはいなかったが──懐中時計を確認する。始業の二分前である。
……まさか二日目にして遅刻ではないだろうな。思わず眉間に皺を寄せた時、
「おはようございます!」
息を切らせてエドウィン・ハーバートが入ってきた。
彼はヘザーの代わりとしてヒューイの助手となった、二十歳の兵士の青年である。
「すみません。ここまでの道順がまだよく分からなくて……途中で迷ってしまいました。ぼく、遅刻してしまいましたか?」
「いや。二分前だ」
「ああ、よかった……」
エドウィンはホッと胸を撫で下ろした。騎士と兵士たちでは寝泊りする場所が違う。兵士たちの宿舎は少し距離がある。そのうえ一般の兵士は司令部のある場所までやって来る機会がまず無い。
「南西側の廊下を通って来たのか? あそこは紛らわしい通路が多い。曲がる場所を間違えたのだろう」
「はい。二回くらい曲がった後で間違えたことに気づいて戻ったんですけど……そしたら、ますます分からなくなっちゃって」
「まあ、一日二日で覚えろというのも酷だな。そうだな……今日の午後はあの辺一帯を案内しよう」
「は、はい。ありがとうございます!」
エドウィンは初々しい真面目な青年である。彼はヒューイの元へやって来る前は王城の裏門に立ち、出入りする業者のチェックをしていた。
彼は元々は王立学校へ通っていて、そこで騎士を目指していたようだ。だが十七歳の時に父親が亡くなり、働きに出なくてはならなくなった。
騎士を目指していた者が経済的な理由で断念し、一兵士として働かざるを得なくなる……よくある話ではあるが、腐ってやる気を失くしてしまう者も多い。
しかしエドウィンはこれまでの三年間地道に仕事を続け、妹に持参金を用意して嫁がせるところまでやってのけた……という話を、風の噂で聞いた。ちょうど、ヘザーの抜けた穴をどうしようかと考えている時期でもあったので、人事に掛け合ってエドウィンを引き抜いたのだった。
ヘザーを助手として迎えた時は、同時にニコラスとアルドの指導もしなくてはならず、ばたついていた記憶がある。今回は次の研修生が来るまでに少し時間がある。この間にエドウィンを一人前の助手に鍛え上げるつもりだ。彼の仕上がり具合によって、来期受け入れる研修生の数を決めよう。
……と、本来の仕事においてはそこそこ余裕がある。挙式の準備を進められるうちに進めておきたいのは山々であるが。ロイドとグレン、彼ら双子は学校の卒業を控えていた。
今はバークレイ邸から初等科へ通っていて、中等科へ進むと同時に寄宿舎へ入ることになっている。そして初等科を終える際には卒業研究なるものを仕上げなくてはならない。彼らの研究に付き合うため、休日はヒューイ個人の時間があまり取れないのだ。
それに加えて今朝、双子たちの義兄ランサム・ソレンソンが王都にやってくるという連絡を受けた。手紙はカナルヴィルの街の宿から出されたものであった。郵便の方が少し早いとして……間もなくランサムも王都入りするだろう。
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