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第7話 思いの行き着く先はすべて
それはまるで——鬱蒼とした森の奥、生命の理も通じないほどに不規則かつ醜悪に生き汚く残っている老木と、絡まり吸収されてしまった木々や蔦を見ているようだった。
部屋の窓はすべて板やカーテンで覆い隠され、外の光は入ってこない。灯りとなる蝋燭が二つ、長らく使われているのに掃除のひとつもされていないせいで、ガラスのランプシェードは煤で真っ黒になっていた。換気など考えていないし、埃っぽくて空気を吸い込むこともためらわれる中、私とトリフィスは袖で鼻と口を覆って入っていく。
私は、大きな天蓋付きベッドの影を捉えた。そのそばに、ネストラスが跪いている。ベッドに寝ている人物と、何やら会話をしているようだが、声は一つしか聞こえない。
それに、近づくにつれ、壁紙と思っていた黒い模様の正体が判明した。とうの昔に乾き切った黒に近いインクで描かれているのは、無数の魔法陣だ。呪文のような文章、意味不明の記号、それらが壁という壁、天井にまでも蠢いている。生贄なのか、長い釘で打ち付けられたおびただしい数の骨がシャンデリアの代わりに垂れ下がっていた。それも脂が染み出して、残らず黒々としている。どう見たって大きな黒い虫たちが居座っているようで、私は思わずトリフィスの手を強く握りしめ、生理的嫌悪感を隠せなかった。
トリフィスだってこんなところに長居はしたくないのだろう。ベッドに横たわる人物へ、話しかけた。
「ごきげんよう、国王陛下」
私だって、ベッドの上にいる人物が父である国王以外にありえないと分かっていたはずだった。王子たるネストラスが跪くのは、王太女である私と国王である父に対してだけだ。
なのに、私は目の当たりにしてもまだ信じられない。
「え……? ち、父上、なの? ……これが?」
タールを被ったように、粘度の高い半透明の何かで覆われた人間の死骸。大きさからそうだと判別できるだけで、骨と皮のミイラがその中に佇んでいる。もうとっくに息はないだろう。動くこともなく、その証拠に粘体の中に気泡が生まれることもない。
私は疑ったが、ネストラスはそれが国王だと疑っていなかった。
「婚約を破棄するんだよね? 父上はかまわないっておっしゃったよ、レオ姉」
言えるわけがないだろう。その死体が、何を言うというのだ。
しかし、私の唇は言いようのない嫌悪感と底冷えするような恐怖で思ったように動かない。
ネストラスは、頬を紅潮させて、はしゃいでいた。私とトリフィスの婚約の破棄を、その死体に報告したら肯定したと——そう信じているらしい。
しかも、ネストラスはとんでもない妄想を口にした。
「約束どおり、俺とレオ姉を結婚させてくれるって! ずっと前から約束していたのに、父上ったらトリフィスを婚約者にしてさ! それは世間体を気にしての隠れ蓑だよね、って聞いたら」
それ以上、妄言を聞きたくなかった私は、ネストラスを遮る。
「いつ、この状態に?」
私の冷え切った心は、もう動かない。冷静なのではない、ネストラスへの感情の起伏が軒並み失せているだけだ。
話を遮られたネストラスは、不機嫌そうに頬を膨らませる。それでも、ちゃんと私の質問には答えた。
「知らないよ。前からこうだった。レオ姉、前にいつ父上に会ったか、憶えていないの? 俺の記憶じゃ、もう三年くらいは会っていないよね?」
私は息を呑んだ。そうだ、ネストラスの言ったとおり、私は随分と父たる国王に会っていない。主治医や家臣団に止められたから、それはそうだが、それをいいことに積極的に会おうとは一切しなかった。
だって、私は——国王陛下が嫌いだった。早くに亡くなった王妃である母の面影がある、と言って私をそばに置きたがり、異常なほど私に触れ、愛情深いにもほどがあるくらい私を甘やかそうとした。これではいけない、と私も家臣団も認識が一致して、未来の女王として教育を施すために、と理由をつけて会わなくなっていったのだ。ちょうど、国王が病で倒れたから、親離れにもいい機会だと思っていた。
それが何年前だっただろう。
私はずっと弟に父との連絡役を任せて放りっぱなしだった。
理由があるから父に会わずに済むと胸を撫で下ろしていた。
——だから、なのか? ネストラスがこうなったのは、私のせいなのか?
いつの間にか、私の足は小刻みに震えていた。私は、己の罪深さを今、噛み締めなければならないのか、それとも。
大いに迷い、私はようやくネストラスを見た。まず私がすべきことを、やらなくてはならないと心を奮い立たせて。
ネストラスは、ベッド脇の棚の引き出しから、何かを取り出した。朽ちた油紙に包まれているが、おそらく横長の封筒のようなものだ。
「父上が書いていた遺言状があるんだ。ここに、俺宛てには何としてでもレオカディアを守れ、って書いてある。そんなこと言われなくたって、ちゃんとやるのに」
守るですって? 守る? 誰が、誰を?
あまりの不可解さに、言葉の意味がまるで通じないと思っていたが、私はやっと閃いた。
ネストラスの思うところの『私を守る』という言葉の意味は、私とはかけ離れすぎていただけで、本人としてはなんらおかしくないのだ。
だって——トリフィスから、私を守らなくてはならないから、だから……殺したのだ。
何度だって、宿敵であるトリフィスを踏み躙って、私をどうすれば完全に守れるのかを考えた末の結果、自らの手でもって惨殺することに行き着くのだ。
私は、それを責められない。
本当は、責めてはいけない。
ただ、ケジメをつけなくてはならなかった。
部屋の窓はすべて板やカーテンで覆い隠され、外の光は入ってこない。灯りとなる蝋燭が二つ、長らく使われているのに掃除のひとつもされていないせいで、ガラスのランプシェードは煤で真っ黒になっていた。換気など考えていないし、埃っぽくて空気を吸い込むこともためらわれる中、私とトリフィスは袖で鼻と口を覆って入っていく。
私は、大きな天蓋付きベッドの影を捉えた。そのそばに、ネストラスが跪いている。ベッドに寝ている人物と、何やら会話をしているようだが、声は一つしか聞こえない。
それに、近づくにつれ、壁紙と思っていた黒い模様の正体が判明した。とうの昔に乾き切った黒に近いインクで描かれているのは、無数の魔法陣だ。呪文のような文章、意味不明の記号、それらが壁という壁、天井にまでも蠢いている。生贄なのか、長い釘で打ち付けられたおびただしい数の骨がシャンデリアの代わりに垂れ下がっていた。それも脂が染み出して、残らず黒々としている。どう見たって大きな黒い虫たちが居座っているようで、私は思わずトリフィスの手を強く握りしめ、生理的嫌悪感を隠せなかった。
トリフィスだってこんなところに長居はしたくないのだろう。ベッドに横たわる人物へ、話しかけた。
「ごきげんよう、国王陛下」
私だって、ベッドの上にいる人物が父である国王以外にありえないと分かっていたはずだった。王子たるネストラスが跪くのは、王太女である私と国王である父に対してだけだ。
なのに、私は目の当たりにしてもまだ信じられない。
「え……? ち、父上、なの? ……これが?」
タールを被ったように、粘度の高い半透明の何かで覆われた人間の死骸。大きさからそうだと判別できるだけで、骨と皮のミイラがその中に佇んでいる。もうとっくに息はないだろう。動くこともなく、その証拠に粘体の中に気泡が生まれることもない。
私は疑ったが、ネストラスはそれが国王だと疑っていなかった。
「婚約を破棄するんだよね? 父上はかまわないっておっしゃったよ、レオ姉」
言えるわけがないだろう。その死体が、何を言うというのだ。
しかし、私の唇は言いようのない嫌悪感と底冷えするような恐怖で思ったように動かない。
ネストラスは、頬を紅潮させて、はしゃいでいた。私とトリフィスの婚約の破棄を、その死体に報告したら肯定したと——そう信じているらしい。
しかも、ネストラスはとんでもない妄想を口にした。
「約束どおり、俺とレオ姉を結婚させてくれるって! ずっと前から約束していたのに、父上ったらトリフィスを婚約者にしてさ! それは世間体を気にしての隠れ蓑だよね、って聞いたら」
それ以上、妄言を聞きたくなかった私は、ネストラスを遮る。
「いつ、この状態に?」
私の冷え切った心は、もう動かない。冷静なのではない、ネストラスへの感情の起伏が軒並み失せているだけだ。
話を遮られたネストラスは、不機嫌そうに頬を膨らませる。それでも、ちゃんと私の質問には答えた。
「知らないよ。前からこうだった。レオ姉、前にいつ父上に会ったか、憶えていないの? 俺の記憶じゃ、もう三年くらいは会っていないよね?」
私は息を呑んだ。そうだ、ネストラスの言ったとおり、私は随分と父たる国王に会っていない。主治医や家臣団に止められたから、それはそうだが、それをいいことに積極的に会おうとは一切しなかった。
だって、私は——国王陛下が嫌いだった。早くに亡くなった王妃である母の面影がある、と言って私をそばに置きたがり、異常なほど私に触れ、愛情深いにもほどがあるくらい私を甘やかそうとした。これではいけない、と私も家臣団も認識が一致して、未来の女王として教育を施すために、と理由をつけて会わなくなっていったのだ。ちょうど、国王が病で倒れたから、親離れにもいい機会だと思っていた。
それが何年前だっただろう。
私はずっと弟に父との連絡役を任せて放りっぱなしだった。
理由があるから父に会わずに済むと胸を撫で下ろしていた。
——だから、なのか? ネストラスがこうなったのは、私のせいなのか?
いつの間にか、私の足は小刻みに震えていた。私は、己の罪深さを今、噛み締めなければならないのか、それとも。
大いに迷い、私はようやくネストラスを見た。まず私がすべきことを、やらなくてはならないと心を奮い立たせて。
ネストラスは、ベッド脇の棚の引き出しから、何かを取り出した。朽ちた油紙に包まれているが、おそらく横長の封筒のようなものだ。
「父上が書いていた遺言状があるんだ。ここに、俺宛てには何としてでもレオカディアを守れ、って書いてある。そんなこと言われなくたって、ちゃんとやるのに」
守るですって? 守る? 誰が、誰を?
あまりの不可解さに、言葉の意味がまるで通じないと思っていたが、私はやっと閃いた。
ネストラスの思うところの『私を守る』という言葉の意味は、私とはかけ離れすぎていただけで、本人としてはなんらおかしくないのだ。
だって——トリフィスから、私を守らなくてはならないから、だから……殺したのだ。
何度だって、宿敵であるトリフィスを踏み躙って、私をどうすれば完全に守れるのかを考えた末の結果、自らの手でもって惨殺することに行き着くのだ。
私は、それを責められない。
本当は、責めてはいけない。
ただ、ケジメをつけなくてはならなかった。
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