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第二話

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 すぐそこの料亭裏の小道で、早朝に一人の棒手振りが事切れた町人を見つけて、お役人が出張る事態になった。

 そういう話は風よりも早く駆け巡る。しかし町人たちにできることはない、せいぜいが夜出歩かないように、戸締りはしっかりとしておく、恐怖の中でもそんなことだけだ。

 ただまあ、奉行所も無能ではない。下手人はあっさりと見つかり、辻斬りだということが判明して、それから——手詰まりだった。

 引っ張れないのだ。何せ、疑わしいとしたその相手は、武士だ。それも藩の家老の息子、とあれば皆二の足を踏む。だが何もしないわけにはいかない、次があるかもしれないからだ。せめて、それを止めなければならない。現状ではお白州しらすのお裁きを下せないなら、他の手を考えなくてはならない。

 そういう事情を聞かされる、というのはどうだろう、と伊兵衛は客間で若干不貞腐ふてくされていた。顔には出さない、目の前に旧知の間柄である奉行所の与力よりき黒木玄蕃くろきげんばがいるからだ。しかめっつらしい顔が困り果てている。体躯は大きいくせに、気弱なところがある黒木は、そのくせ伊兵衛を頼ってくる。

 青物問屋の伊兵衛を、だ。

「そういうわけで、一肌脱いでもらえんか」
「黒木様、ちょっとそれは……だって、あれでしょう。あたしに」

 少し躊躇って、伊兵衛は頼まれごとの要約を口にする。

「辻斬りを誘い出せ、ってことでしょう」

 我ながらとんでもないお役目を押し付けられそうになっている、と伊兵衛は内心ため息を吐いた。

 黒木はあっさりと首を縦に振る。

「うん、そうなる」
「そうなるって、簡単におっしゃられますけども」
「頼むよお、お前くらいのクソ度胸がないと無理だろう?」
「そんなものありゃしません。でもまあ、他がまた殺されるよりはマシですかねぇ……」

 伊兵衛とて、ほんの少しばかり、腕に自信はある。しかしそれは真っ当な剣術や体術ではなくて、あまり人の耳に入れたくないようなことだ。町人が剣術をやるのも珍しくないこのご時世だが、それにしたって伊兵衛の腕については家の外ではもう黒木くらいしか知らない。

「つけ込むようで悪いが、頼むよ。二度と辻斬りなんぞできないよう、痛めつけてくれればいい」
「またそういう注文をつける」
「大丈夫だ、お前ならできる! お前の包丁さばきなら、できる!」

 包丁さばき、と言われてまた伊兵衛は心の中でため息を吐いた。

 青物問屋の跡取り息子として、幼少のころから菜切り包丁を片手に育ってきた伊兵衛にとって、打刀や脇差よりも包丁のほうがずっと取り回しがよく、どうすればすっぱり切れるかを熟知している。別に菜切り包丁だけに限ったことではない、やくざが長脇差を差すように、伊兵衛は包丁を使うこともある。それが家の外で使ったことがあるものだから、黒木の知るところとなってしまった。それがもう、二十年近く前のことだ。

 若気の至りとはいえ、下手にやんちゃをするものではない、心の底から伊兵衛はそう思う。

 伊兵衛は問い返す。

「捕まえちゃあいけないんですか?」
「いや、捕まえられるんならそれでもいい。だが」
「何か事情がおありで? 家老のご子息でも、辻斬りの真っ最中に捕まれば言い逃れはできんでしょう?」
「いやそれはいいんだ。しかし、あちらもまあ、手練れみたいでな。ただでさえ無茶を頼んでいるんだ、そこまで高望みはせんよ」
「何、痛めつけるも捕まえるも一緒ですよ。五体満足かどうかはさておき、やれるだけはやってみましょう」

 どのみち、伊兵衛は引き受けざるをえないのだ。黒木には世話になっているし、辻斬りを放っておけば身内に被害が出かねない。藤やさと、四方吉だけではない、青物問屋を支える棒手振りや販女、ご近所さんまでだ。それなら、さっさと自分が行って、用事を済ませてしまえばいい。

 黒木は強面にほっと一安心、とばかりの笑みを漏らして、こう付け加えた。

「できれば五体満足で頼む」
「ほら注文が増えた」

 もう伊兵衛は我慢しない。思いっきり、ため息を吐いた。

 黒木は土産ついでの前金だ、と言って、上等な干菓子ひがしを置いていった。何が前金なのか、黒木が帰ったあと、やってきた四方吉に干菓子を渡す。

「旦那、また仕事かい」
「ああ、そうだね」
「じゃあ、今日出るか?」
「うん、早いほうがいいだろう。何日か時間はかかるかもしれんが」
「いや、今日出ると思うぞ。何たって新月だからな、辻斬りにはもってこいだ」

 四方吉は自信満々にそう言った。なるほど、悪党らしい、盗賊の考え方と同じだ。

 伊兵衛は首を回し、一つ伸びをして、立ち上がる。

「やるか」
「だな」

 もぐもぐと、伊兵衛の目の前で、四方吉は干菓子を一つ貪っていた。しょうがなく、手伝いの駄賃代わりとして、目こぼしした。

 伊兵衛は寝所の押し入れの木箱を開けて、脇差よりも一回り短い、自前の包丁を取り出した。厳重に風呂敷に包んでいた菜切り包丁を持ち、ふむ、と頷く。

「うん、油乗りもよし、切れ味も落ちちゃあいないだろう。他に何か」

 奥にあった畳んだ提灯ちょうちんを手繰り寄せて、蝋燭を取りに行こうとしていたそのときだった。

 部屋の入り口に、藤がいた。年嵩がいっても相変わらず美人なのだが、どこかしらっと、何ものも寄せ付けないような雰囲気に、二十年来連れ添った伊兵衛でさえ時折ハッとさせられる。そのせいで、伊兵衛はどうにも頭が上がらない。

「あんたさま? 今日はどこかへ行かれますか?」
「ああ、うん。ちょっと、黒木様のご用命でね」
「左様ですか。まあ、あんたさまなら危ないこともないでしょうけれども」

 藤は素っ気ない。ただ、情がないわけではないと伊兵衛は知っている。

 包丁をちらっと見て、あっ、と伊兵衛は声をこぼした。

「ひょっとして、包丁はお前が手入れを?」
「あら、やっと気付かれましたか。そのくらいはできますよ」
「いや、うん、助かる。最近忙しくて、かまけていられなくて」
「それでよろしゅうございますよ。そんなもの、野菜切りに使わないのなら、用なしのほうがよろしいかと」
「まあ、そうだね」

 普段はまったく見せない妻の気遣いに、伊兵衛は少し嬉しくなる。

「今日は戸締まりをしっかりして、おさとにも外には出ないよう言いつけておいてくれ。四方吉は一緒に出るから、心配しなくていい。それから、朝までには帰るから、握り飯でも棚に作っておいてくれると助かる」
「はいはい。ちゃんとやっておきますよ」

 他に言い忘れたことはないか、と思案して、何も思いつかないことを確認してから、伊兵衛は包丁を風呂敷で包み、提灯を手に部屋を出る。

「よし、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」

 伊兵衛は気持ちを切り替え、胸を張って出ていく。その後ろから、蝋燭は勝手口の棚にありますよ、と声が追いかけてきた。用意はしてくれないらしかった。
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