青物問屋の伊兵衛は菜切り包丁の使い手

ルーシャオ

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第四話

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 昼、黒木がまた伊兵衛の家へやってきた。

「困ったことになった」
「またですか」

 顔には出さないが、いい加減、伊兵衛もうんざりしてきた。黒木は弱った顔を見せて、口を尖らせる。

「内密にな、さっきご家老に話を通したんだ。そしたらご家老も、子息の辻斬りを認めたんだが……どうにも、辻斬りは二人と言っただろう? そのもう一人が、逃げたらしい」

 四方吉があの辻斬り二人を追跡した先は、確かにその家老の屋敷だった。しかしそのあとのことまでは分からない、四方吉は無事戻ってきて赤浜たちにその情報を伝えたのだから、仕事は十分にこなしたと言える。

「ご家老の子息によれば、そいつは名の知れた剣客の浪人で、こっそり剣を習っていたと。まあそれならやんちゃの範囲だったんだが、連れ立って辻斬りに出てやり方を習っていたってんならもう駄目だ。少なくとも、その浪人を捕まえて牢屋に押し込まないと、この件は解決せん」

 それは黒木たちが奉行所の面子にかけて、やらなければならないことだ。家老の子息とやらは面目丸潰れだがさておき、辻斬りを指南する浪人などという物騒な輩を放置しておくわけにはいかない。

「ちなみに、その辻斬りをやってたご家老の子息は、懲らしめられましたか」
「ああ、痛い目を見て家宝の刀をあっさり取られたとあっては、反省せんわけにもいくまいて」
「なら、あとはその浪人だけ、ということですか」

 伊兵衛はうーんと唸る。あのときもう少し粘っていれば、取り逃すことはなかったかもしれない。

 だが、もう後の祭りだ。危機が去っていないとなれば、もう一働きくらいはしないといけないだろう。

 伊兵衛は廊下に控えていた四方吉へ声を掛ける。

「四方吉、どう思う」
「もうとっくに逃げ出してるんなら、今頃南峠あたりじゃねぇかな。あっちは道が悪い、こっから走っていきゃあ追いつけないこともねぇ」

 話を聞いていた四方吉は、淀みなく答える。

 四方吉のいう南峠、というのは、この午鉄藩と他藩を結ぶ要衝へと繋がる峠の山道のことだ。便利は便利だが、お上に目がつけられないようわざと各藩が整備していない山道で、沿道の入り口にぽつりと茶屋がある程度、確かにそこなら足止めを食らっている可能性はある。

「それに、追っ手がかかることくらい分かってるだろうから、待ち伏せしてるかもな。茶屋なり何なり襲ってるかもしれねぇ」
「なるほど。なら、早く行ったほうがいいか」

 ご迷惑のかからないうちに、と伊兵衛は己の不手際を心の中で詫びつつ、立ち上がる。

「黒木様、あたしらは先に行きますので、黒木様は与力の皆様を連れて南峠へ。万一、その浪人が暴れると面倒です。一気に片をつけましょう」
「おお、やってくれるか! よし分かった、すぐに皆を集める!」

 黒木は弾むように駆け、さっさと伊兵衛の家をあとにした。ちょうど入れ違いになって、不思議そうなさとが茶を盆に乗せてやってくる。

「旦那はん、黒木様が出ていかれましたけど、お茶は」
「ああ、もういらん。すまないね、飲んでおいてくれ」

 そう言いつけて、伊兵衛は四方吉を連れていこうとする。

 その背中に、さとはこう言った。

「旦那はん、何や騒がしなっとるけど、奥様と家のことはうちに任せてもろうてかましまへんえ。安心して行ってらっしゃいまし」

 さとは優しい娘だ。それに、腕っ節も強い。安心して、家の留守を任せることができる。

 伊兵衛は立派に育ったさとに、少々感激しつつも、足を止めない。

「うん、そうする。じゃあ、任せた」

 伊兵衛はできるだけ平静に、そう言いつけた。

 昨日と同じ支度をして、伊兵衛は走る。四方吉が先導し、町内を抜けて南峠へと向かう。

 午鉄藩は狭い。山に囲まれた盆地に城があり、城下町がある。流れる川は浅く、水量は潤沢だが舟は浮かべられない。

 だから、南峠への道はほぼ一本道で、まだ足腰の衰えていない伊兵衛とすばしっこい四方吉なら、大して時間はかからない。

 伊兵衛は四方吉へ尋ねる。

「四方吉、昨日の浪人の判別はつくか?」
「あの浪人の人相ならちったぁ憶えてる。暗闇でもあれくらいは分かるさ」
「そうか。よし、急ぐぞ」

 懐の菜切り包丁を押さえながら、伊兵衛は慣れた足捌きで走っていく。

 もともと、伊兵衛は治安の悪かった午鉄藩に蔓延る浪人や頻発していた辻斬りに対処するため、月ヶ瀬町の町人たちで結成した自警団にいた。若いころは喧嘩など日常茶飯事、抜き身を持ち出す輩は後を絶たない。しかし、町人たちは持ててもせいぜいが脇差、それも午鉄藩は次第に禁止のお触れを出していった。

 となればどうする。自分たちの身を守る武器がいる、ごろつきや横暴な二本差しに対抗するためには、文句のつけようのない、手足のように扱える武器が必要だ。

 そうなれば、青物問屋の息子だった伊兵衛は、商売道具を手に取った。大工は金槌かなづちを、細工師はきりを、損料屋そんりょうやは仕込み杖を、呉服屋ははさみを、それぞれ持つことを許された道具で、町人の仕草のまま思い思いに影で戦った。

 それもいつしか、町人たちの辛抱強い戦いの記憶は過ぎ去り、伊兵衛は黒木と知り合い、血気盛んな連中も大人しくなっていった。午鉄藩は殿様の代替わりでようやく種々禁止のお触れは撤回され、町にごろつきが溢れることも、武士が偉ぶることもなくなっていった。

 今となっては古い話だ。だが、今も伊兵衛には染み付いている。あのころ必死で争った所作が、肉を断つことに平然とある心が、懐の菜切り包丁を悟られまいとする足運びが、失われていない。

 伊兵衛は嫌気が差した。それでも、役に立つのなら使わざるをえない。

 町外れに辿り着き、林を抜ける。四方吉が声をひそめた。

「旦那、この先に茶屋がある。警戒しろ」
「うむ」

 目端と気の利く四方吉がそう言うのなら、従うべきなのだ。できるだけ素早く、音もなく歩く。

 やがて、上り坂の向こうに、茶屋の看板が見えた。小屋があり、人影もあり——四方吉は立ち止まって、伊兵衛を手で制する。

「あいつだ」

 頷き、伊兵衛は四方吉を後ろに下がらせる。あとは伊兵衛の仕事だ。

 伊兵衛はふう、と息を吐いた。気を取り直し、人影へ近づく。
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