4 / 5
第四話
しおりを挟む
昼、黒木がまた伊兵衛の家へやってきた。
「困ったことになった」
「またですか」
顔には出さないが、いい加減、伊兵衛もうんざりしてきた。黒木は弱った顔を見せて、口を尖らせる。
「内密にな、さっきご家老に話を通したんだ。そしたらご家老も、子息の辻斬りを認めたんだが……どうにも、辻斬りは二人と言っただろう? そのもう一人が、逃げたらしい」
四方吉があの辻斬り二人を追跡した先は、確かにその家老の屋敷だった。しかしそのあとのことまでは分からない、四方吉は無事戻ってきて赤浜たちにその情報を伝えたのだから、仕事は十分にこなしたと言える。
「ご家老の子息によれば、そいつは名の知れた剣客の浪人で、こっそり剣を習っていたと。まあそれならやんちゃの範囲だったんだが、連れ立って辻斬りに出てやり方を習っていたってんならもう駄目だ。少なくとも、その浪人を捕まえて牢屋に押し込まないと、この件は解決せん」
それは黒木たちが奉行所の面子にかけて、やらなければならないことだ。家老の子息とやらは面目丸潰れだがさておき、辻斬りを指南する浪人などという物騒な輩を放置しておくわけにはいかない。
「ちなみに、その辻斬りをやってたご家老の子息は、懲らしめられましたか」
「ああ、痛い目を見て家宝の刀をあっさり取られたとあっては、反省せんわけにもいくまいて」
「なら、あとはその浪人だけ、ということですか」
伊兵衛はうーんと唸る。あのときもう少し粘っていれば、取り逃すことはなかったかもしれない。
だが、もう後の祭りだ。危機が去っていないとなれば、もう一働きくらいはしないといけないだろう。
伊兵衛は廊下に控えていた四方吉へ声を掛ける。
「四方吉、どう思う」
「もうとっくに逃げ出してるんなら、今頃南峠あたりじゃねぇかな。あっちは道が悪い、こっから走っていきゃあ追いつけないこともねぇ」
話を聞いていた四方吉は、淀みなく答える。
四方吉のいう南峠、というのは、この午鉄藩と他藩を結ぶ要衝へと繋がる峠の山道のことだ。便利は便利だが、お上に目がつけられないようわざと各藩が整備していない山道で、沿道の入り口にぽつりと茶屋がある程度、確かにそこなら足止めを食らっている可能性はある。
「それに、追っ手がかかることくらい分かってるだろうから、待ち伏せしてるかもな。茶屋なり何なり襲ってるかもしれねぇ」
「なるほど。なら、早く行ったほうがいいか」
ご迷惑のかからないうちに、と伊兵衛は己の不手際を心の中で詫びつつ、立ち上がる。
「黒木様、あたしらは先に行きますので、黒木様は与力の皆様を連れて南峠へ。万一、その浪人が暴れると面倒です。一気に片をつけましょう」
「おお、やってくれるか! よし分かった、すぐに皆を集める!」
黒木は弾むように駆け、さっさと伊兵衛の家をあとにした。ちょうど入れ違いになって、不思議そうなさとが茶を盆に乗せてやってくる。
「旦那はん、黒木様が出ていかれましたけど、お茶は」
「ああ、もういらん。すまないね、飲んでおいてくれ」
そう言いつけて、伊兵衛は四方吉を連れていこうとする。
その背中に、さとはこう言った。
「旦那はん、何や騒がしなっとるけど、奥様と家のことはうちに任せてもろうてかましまへんえ。安心して行ってらっしゃいまし」
さとは優しい娘だ。それに、腕っ節も強い。安心して、家の留守を任せることができる。
伊兵衛は立派に育ったさとに、少々感激しつつも、足を止めない。
「うん、そうする。じゃあ、任せた」
伊兵衛はできるだけ平静に、そう言いつけた。
昨日と同じ支度をして、伊兵衛は走る。四方吉が先導し、町内を抜けて南峠へと向かう。
午鉄藩は狭い。山に囲まれた盆地に城があり、城下町がある。流れる川は浅く、水量は潤沢だが舟は浮かべられない。
だから、南峠への道はほぼ一本道で、まだ足腰の衰えていない伊兵衛とすばしっこい四方吉なら、大して時間はかからない。
伊兵衛は四方吉へ尋ねる。
「四方吉、昨日の浪人の判別はつくか?」
「あの浪人の人相ならちったぁ憶えてる。暗闇でもあれくらいは分かるさ」
「そうか。よし、急ぐぞ」
懐の菜切り包丁を押さえながら、伊兵衛は慣れた足捌きで走っていく。
もともと、伊兵衛は治安の悪かった午鉄藩に蔓延る浪人や頻発していた辻斬りに対処するため、月ヶ瀬町の町人たちで結成した自警団にいた。若いころは喧嘩など日常茶飯事、抜き身を持ち出す輩は後を絶たない。しかし、町人たちは持ててもせいぜいが脇差、それも午鉄藩は次第に禁止のお触れを出していった。
となればどうする。自分たちの身を守る武器がいる、ごろつきや横暴な二本差しに対抗するためには、文句のつけようのない、手足のように扱える武器が必要だ。
そうなれば、青物問屋の息子だった伊兵衛は、商売道具を手に取った。大工は金槌を、細工師は錐を、損料屋は仕込み杖を、呉服屋は鋏を、それぞれ持つことを許された道具で、町人の仕草のまま思い思いに影で戦った。
それもいつしか、町人たちの辛抱強い戦いの記憶は過ぎ去り、伊兵衛は黒木と知り合い、血気盛んな連中も大人しくなっていった。午鉄藩は殿様の代替わりでようやく種々禁止のお触れは撤回され、町にごろつきが溢れることも、武士が偉ぶることもなくなっていった。
今となっては古い話だ。だが、今も伊兵衛には染み付いている。あのころ必死で争った所作が、肉を断つことに平然とある心が、懐の菜切り包丁を悟られまいとする足運びが、失われていない。
伊兵衛は嫌気が差した。それでも、役に立つのなら使わざるをえない。
町外れに辿り着き、林を抜ける。四方吉が声をひそめた。
「旦那、この先に茶屋がある。警戒しろ」
「うむ」
目端と気の利く四方吉がそう言うのなら、従うべきなのだ。できるだけ素早く、音もなく歩く。
やがて、上り坂の向こうに、茶屋の看板が見えた。小屋があり、人影もあり——四方吉は立ち止まって、伊兵衛を手で制する。
「あいつだ」
頷き、伊兵衛は四方吉を後ろに下がらせる。あとは伊兵衛の仕事だ。
伊兵衛はふう、と息を吐いた。気を取り直し、人影へ近づく。
「困ったことになった」
「またですか」
顔には出さないが、いい加減、伊兵衛もうんざりしてきた。黒木は弱った顔を見せて、口を尖らせる。
「内密にな、さっきご家老に話を通したんだ。そしたらご家老も、子息の辻斬りを認めたんだが……どうにも、辻斬りは二人と言っただろう? そのもう一人が、逃げたらしい」
四方吉があの辻斬り二人を追跡した先は、確かにその家老の屋敷だった。しかしそのあとのことまでは分からない、四方吉は無事戻ってきて赤浜たちにその情報を伝えたのだから、仕事は十分にこなしたと言える。
「ご家老の子息によれば、そいつは名の知れた剣客の浪人で、こっそり剣を習っていたと。まあそれならやんちゃの範囲だったんだが、連れ立って辻斬りに出てやり方を習っていたってんならもう駄目だ。少なくとも、その浪人を捕まえて牢屋に押し込まないと、この件は解決せん」
それは黒木たちが奉行所の面子にかけて、やらなければならないことだ。家老の子息とやらは面目丸潰れだがさておき、辻斬りを指南する浪人などという物騒な輩を放置しておくわけにはいかない。
「ちなみに、その辻斬りをやってたご家老の子息は、懲らしめられましたか」
「ああ、痛い目を見て家宝の刀をあっさり取られたとあっては、反省せんわけにもいくまいて」
「なら、あとはその浪人だけ、ということですか」
伊兵衛はうーんと唸る。あのときもう少し粘っていれば、取り逃すことはなかったかもしれない。
だが、もう後の祭りだ。危機が去っていないとなれば、もう一働きくらいはしないといけないだろう。
伊兵衛は廊下に控えていた四方吉へ声を掛ける。
「四方吉、どう思う」
「もうとっくに逃げ出してるんなら、今頃南峠あたりじゃねぇかな。あっちは道が悪い、こっから走っていきゃあ追いつけないこともねぇ」
話を聞いていた四方吉は、淀みなく答える。
四方吉のいう南峠、というのは、この午鉄藩と他藩を結ぶ要衝へと繋がる峠の山道のことだ。便利は便利だが、お上に目がつけられないようわざと各藩が整備していない山道で、沿道の入り口にぽつりと茶屋がある程度、確かにそこなら足止めを食らっている可能性はある。
「それに、追っ手がかかることくらい分かってるだろうから、待ち伏せしてるかもな。茶屋なり何なり襲ってるかもしれねぇ」
「なるほど。なら、早く行ったほうがいいか」
ご迷惑のかからないうちに、と伊兵衛は己の不手際を心の中で詫びつつ、立ち上がる。
「黒木様、あたしらは先に行きますので、黒木様は与力の皆様を連れて南峠へ。万一、その浪人が暴れると面倒です。一気に片をつけましょう」
「おお、やってくれるか! よし分かった、すぐに皆を集める!」
黒木は弾むように駆け、さっさと伊兵衛の家をあとにした。ちょうど入れ違いになって、不思議そうなさとが茶を盆に乗せてやってくる。
「旦那はん、黒木様が出ていかれましたけど、お茶は」
「ああ、もういらん。すまないね、飲んでおいてくれ」
そう言いつけて、伊兵衛は四方吉を連れていこうとする。
その背中に、さとはこう言った。
「旦那はん、何や騒がしなっとるけど、奥様と家のことはうちに任せてもろうてかましまへんえ。安心して行ってらっしゃいまし」
さとは優しい娘だ。それに、腕っ節も強い。安心して、家の留守を任せることができる。
伊兵衛は立派に育ったさとに、少々感激しつつも、足を止めない。
「うん、そうする。じゃあ、任せた」
伊兵衛はできるだけ平静に、そう言いつけた。
昨日と同じ支度をして、伊兵衛は走る。四方吉が先導し、町内を抜けて南峠へと向かう。
午鉄藩は狭い。山に囲まれた盆地に城があり、城下町がある。流れる川は浅く、水量は潤沢だが舟は浮かべられない。
だから、南峠への道はほぼ一本道で、まだ足腰の衰えていない伊兵衛とすばしっこい四方吉なら、大して時間はかからない。
伊兵衛は四方吉へ尋ねる。
「四方吉、昨日の浪人の判別はつくか?」
「あの浪人の人相ならちったぁ憶えてる。暗闇でもあれくらいは分かるさ」
「そうか。よし、急ぐぞ」
懐の菜切り包丁を押さえながら、伊兵衛は慣れた足捌きで走っていく。
もともと、伊兵衛は治安の悪かった午鉄藩に蔓延る浪人や頻発していた辻斬りに対処するため、月ヶ瀬町の町人たちで結成した自警団にいた。若いころは喧嘩など日常茶飯事、抜き身を持ち出す輩は後を絶たない。しかし、町人たちは持ててもせいぜいが脇差、それも午鉄藩は次第に禁止のお触れを出していった。
となればどうする。自分たちの身を守る武器がいる、ごろつきや横暴な二本差しに対抗するためには、文句のつけようのない、手足のように扱える武器が必要だ。
そうなれば、青物問屋の息子だった伊兵衛は、商売道具を手に取った。大工は金槌を、細工師は錐を、損料屋は仕込み杖を、呉服屋は鋏を、それぞれ持つことを許された道具で、町人の仕草のまま思い思いに影で戦った。
それもいつしか、町人たちの辛抱強い戦いの記憶は過ぎ去り、伊兵衛は黒木と知り合い、血気盛んな連中も大人しくなっていった。午鉄藩は殿様の代替わりでようやく種々禁止のお触れは撤回され、町にごろつきが溢れることも、武士が偉ぶることもなくなっていった。
今となっては古い話だ。だが、今も伊兵衛には染み付いている。あのころ必死で争った所作が、肉を断つことに平然とある心が、懐の菜切り包丁を悟られまいとする足運びが、失われていない。
伊兵衛は嫌気が差した。それでも、役に立つのなら使わざるをえない。
町外れに辿り着き、林を抜ける。四方吉が声をひそめた。
「旦那、この先に茶屋がある。警戒しろ」
「うむ」
目端と気の利く四方吉がそう言うのなら、従うべきなのだ。できるだけ素早く、音もなく歩く。
やがて、上り坂の向こうに、茶屋の看板が見えた。小屋があり、人影もあり——四方吉は立ち止まって、伊兵衛を手で制する。
「あいつだ」
頷き、伊兵衛は四方吉を後ろに下がらせる。あとは伊兵衛の仕事だ。
伊兵衛はふう、と息を吐いた。気を取り直し、人影へ近づく。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
後日譚追加【完結】冤罪で追放された俺、真実の魔法で無実を証明したら手のひら返しの嵐!! でももう遅い、王都ごと見捨てて自由に生きます
なみゆき
ファンタジー
魔王を討ったはずの俺は、冤罪で追放された。 功績は奪われ、婚約は破棄され、裏切り者の烙印を押された。 信じてくれる者は、誰一人いない——そう思っていた。
だが、辺境で出会った古代魔導と、ただ一人俺を信じてくれた彼女が、すべてを変えた。 婚礼と処刑が重なるその日、真実をつきつけ、俺は、王都に“ざまぁ”を叩きつける。
……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。
これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる