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第五話
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目を凝らす必要もないほどに近づくと、艶のない黒の紬を着た、髷の乱れた男がいた。腰掛けに座り、いかにも慌てていた、とばかりの風貌で、しかし不潔感はない。旅支度は少なく、腰には脇差が一本あるのみだ。
ここまで来て、間違うこともない。
伊兵衛は愛想よく近づく。
「やあやあ、どうもどうも。お武家様ですかい?」
男は顔を上げた。
その視線が伊兵衛のつま先から上り、目と目が合った瞬間、男は腰掛けから飛び上がった。
「その面、やはり追ってきたか!」
男は躊躇うことなく、脇差を抜く。
伊兵衛は己の懐に右手を差し入れた。
「長物がないところを申し訳ございませんが、ここで大人しく捕まってもらえやしませんか」
少しばかりの睨み合いが続き、男が問う。
「お主、何者だ」
「へえ、月ヶ瀬町の伊兵衛と申します。青物問屋を営んでおりまして、包丁さばきには少々自信がございますれば」
すらすらとそう答えることも、昔のとおりだ。
伊兵衛の素っ気ない台詞に、男は憤慨して抗弁する。
「抜かせ。町人風情が、あのような動きをできるものか! これでも儂は剣術指南のお役目も受けたことがあるのだぞ、それを」
「そうはおっしゃりますが、辻斬り風情を斬る程度、町人の片手間でどうとでもなりましょう」
伊兵衛は思わず、自分の口から冷たく言葉が出るのを感じ取った。
ああ、まだ怒りは残っているのだな、と実感した。町を荒らし、人をいたぶった連中のような輩が、まだこの世にはいて、自分はそういうやつらに同情することは決してない。
伊兵衛はすうっと、息を吸う。
「刃物を抜いた以上は、同情いたしますまいよ」
その言葉が終わる前に、伊兵衛は動いた。腰を下げ、地から天へうねる龍のごとく、菜切り包丁が放たれる。
脇差を持つ手が下される。凡百の脇差と鍛えられた菜切り包丁、頑丈さなど比べるべくもない。
菜切り包丁の刃が、脇差へ食い込んだ。男は仰天する。そんなことがあってたまるか、そんな顔をしている。
伊兵衛は愉快だった。そして、そのまま菜切り包丁を振り抜き、脇差を振り飛ばした。遠くへぽーんと脇差が飛んでいき、山から転げ落ちていく。
あとはもう、菜切り包丁の刃を、男の首筋へ向けるだけだ。すでに男は戦意を失っている。呆気に取られ、すとんと地面に腰を落とした。
黒木たちがやってきたのは、それから四半刻も経たないうちのことだった。
■■■
蕨がぐつぐつと釜の中で煮られている。
くるくる巻いた首はだんだん真っ直ぐにくしゃくしゃとしてきて、おひたしにしても天ぷらにしてもいい。伊兵衛はさとの後ろから、涎を垂らさんばかりに釜の中を見つめていた。
「旦那はん、そないなところで突っ立っとらへんと、皿の用意くらいしてもらえへん?」
「あ、そうか。すまないね」
伊兵衛はそそくさと膳に皿を並べる作業を手伝う。伊兵衛の家に、男子厨房に入らずなどという家訓はない。美味いものを一刻も早く食うべく、伊兵衛も四方吉も台所に入り浸っている。
形なしの伊兵衛へ、藤が座敷から声をかけた。
「あんたさま、風呂敷が縫えましたよ。まったく、こんな大きな穴を作って」
「ああ、うん、助かるよ。ありがとう」
「どういたしまして。押入れに入れておきますから」
菜切り包丁を包んでいた風呂敷は、何度も抜き打ちをしたせいで、やはり切れていた。申し訳なく思いながら、伊兵衛は藤へ繕いを頼んでいたのだ。
幸いにして着物は切れておらず、雷を落とされずに済んだ。別に、昔も今も包丁で大暴れしていたことを藤に黙っているわけではないが、言う機会を逃している。まあ、知られずにいられるなら、それでいい。
「旦那、今度はたらの芽仕入れてくれよ。味噌和え食いてぇ」
「それもいいなぁ。美味そうだ」
「だろ?」
「二人とも、食意地ばっかり張って。四方吉、ご飯盛った?」
「今やってる」
伊兵衛も四方吉も、台所ではさとに頭が上がらない。座敷に上がれば、藤に頭が上がらない。
それはそれで幸せだからいいのだ。伊兵衛は今日も、美味いものに舌鼓を打つ。
ここまで来て、間違うこともない。
伊兵衛は愛想よく近づく。
「やあやあ、どうもどうも。お武家様ですかい?」
男は顔を上げた。
その視線が伊兵衛のつま先から上り、目と目が合った瞬間、男は腰掛けから飛び上がった。
「その面、やはり追ってきたか!」
男は躊躇うことなく、脇差を抜く。
伊兵衛は己の懐に右手を差し入れた。
「長物がないところを申し訳ございませんが、ここで大人しく捕まってもらえやしませんか」
少しばかりの睨み合いが続き、男が問う。
「お主、何者だ」
「へえ、月ヶ瀬町の伊兵衛と申します。青物問屋を営んでおりまして、包丁さばきには少々自信がございますれば」
すらすらとそう答えることも、昔のとおりだ。
伊兵衛の素っ気ない台詞に、男は憤慨して抗弁する。
「抜かせ。町人風情が、あのような動きをできるものか! これでも儂は剣術指南のお役目も受けたことがあるのだぞ、それを」
「そうはおっしゃりますが、辻斬り風情を斬る程度、町人の片手間でどうとでもなりましょう」
伊兵衛は思わず、自分の口から冷たく言葉が出るのを感じ取った。
ああ、まだ怒りは残っているのだな、と実感した。町を荒らし、人をいたぶった連中のような輩が、まだこの世にはいて、自分はそういうやつらに同情することは決してない。
伊兵衛はすうっと、息を吸う。
「刃物を抜いた以上は、同情いたしますまいよ」
その言葉が終わる前に、伊兵衛は動いた。腰を下げ、地から天へうねる龍のごとく、菜切り包丁が放たれる。
脇差を持つ手が下される。凡百の脇差と鍛えられた菜切り包丁、頑丈さなど比べるべくもない。
菜切り包丁の刃が、脇差へ食い込んだ。男は仰天する。そんなことがあってたまるか、そんな顔をしている。
伊兵衛は愉快だった。そして、そのまま菜切り包丁を振り抜き、脇差を振り飛ばした。遠くへぽーんと脇差が飛んでいき、山から転げ落ちていく。
あとはもう、菜切り包丁の刃を、男の首筋へ向けるだけだ。すでに男は戦意を失っている。呆気に取られ、すとんと地面に腰を落とした。
黒木たちがやってきたのは、それから四半刻も経たないうちのことだった。
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蕨がぐつぐつと釜の中で煮られている。
くるくる巻いた首はだんだん真っ直ぐにくしゃくしゃとしてきて、おひたしにしても天ぷらにしてもいい。伊兵衛はさとの後ろから、涎を垂らさんばかりに釜の中を見つめていた。
「旦那はん、そないなところで突っ立っとらへんと、皿の用意くらいしてもらえへん?」
「あ、そうか。すまないね」
伊兵衛はそそくさと膳に皿を並べる作業を手伝う。伊兵衛の家に、男子厨房に入らずなどという家訓はない。美味いものを一刻も早く食うべく、伊兵衛も四方吉も台所に入り浸っている。
形なしの伊兵衛へ、藤が座敷から声をかけた。
「あんたさま、風呂敷が縫えましたよ。まったく、こんな大きな穴を作って」
「ああ、うん、助かるよ。ありがとう」
「どういたしまして。押入れに入れておきますから」
菜切り包丁を包んでいた風呂敷は、何度も抜き打ちをしたせいで、やはり切れていた。申し訳なく思いながら、伊兵衛は藤へ繕いを頼んでいたのだ。
幸いにして着物は切れておらず、雷を落とされずに済んだ。別に、昔も今も包丁で大暴れしていたことを藤に黙っているわけではないが、言う機会を逃している。まあ、知られずにいられるなら、それでいい。
「旦那、今度はたらの芽仕入れてくれよ。味噌和え食いてぇ」
「それもいいなぁ。美味そうだ」
「だろ?」
「二人とも、食意地ばっかり張って。四方吉、ご飯盛った?」
「今やってる」
伊兵衛も四方吉も、台所ではさとに頭が上がらない。座敷に上がれば、藤に頭が上がらない。
それはそれで幸せだからいいのだ。伊兵衛は今日も、美味いものに舌鼓を打つ。
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古き良き「仕事人」ものですね!最後まで期待通りのものが読めました。
食べ物の描写の丁寧さ、戦闘シーンの緊迫感。それぞれメリハリが利いていて面白かったです。
続編が読みたいです(^^)