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第三話 目標たる『共鳴器』
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つつがなく美味しい朝食を終えたタビは、居間でイフィクラテスとイフィゲネイアへ自己紹介をすることになった。
何を言えばいいか、一生懸命考えた結果、タビはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「ぼく、名前は、タビです。十歳です。えっと、北のほうから来ました」
タビには、そのくらいのことしか分からない。
たとえ自分のことでも、まともに分かるのは名前とかろうじて年齢だけだ。その他のことなんて、必要な生活をしていなかった。親の名前だって知らない。
ただ、『双生の錬金術師』の二人はそれだけで十分だとばかりに頷いた。
「なるほど。よし分かった、俺はイフィクラテス、こっちがイフィゲネイア。これからよろしく頼む。ところでタビ、文字の読み書きはできるか?」
「できないです」
「なら、そこからだな。それと、家事はできるか?」
「掃除洗濯くらいなら、何とか……でも、あんまり上手じゃないです」
「掃除は適当でいい。問題は洗濯だ」
イフィクラテスは立ち上がり、ツカツカと歩いて棚にあった大きな瓶を引っ掴んだ。大きな瓶の胴体には『Purgat』と書かれたラベルが貼ってある。中には、紫色の飴玉のようなものがたくさん詰まっていた。
「いいか、これは洗濯用の洗剤だ」
洗剤。タビは初めて聞いた単語だった。洗濯に使う石鹸なら知っているが、紫色の飴玉は似ても似つかないから別物だということだろう。タビはイフィクラテスが大きな瓶から取り出した紫色の飴玉一つを手渡され、指でつついてみる。意外にもベトベトせず、プヨッとしたそれは、強く掴むと潰れそうだ。割れる前に、タビは急いでイフィクラテスに返す。
「これを洗濯桶に放り込んで、水と洗濯物とを軽く混ぜる。少し置いて、すすいで絞って干す」
イフィクラテスはそう得意げに言うものの、いまいちタビは要領を得ない。洗濯物は板でこすったり叩いたりして洗うもの、という観念があるからだ。
タビは尋ねてみた。
「あの、洗濯物をこすらないんですか?」
「ああ。この洗剤は錬金術で作ったもので、水に入れると溶ける外膜と特殊な界面活性剤を使っていて、汚れは四半刻ほど浸けて放っておくだけで浮き上がってくるんだ。あとはそれを泡が出なくなるまで洗い流すだけでいい、便利だろう?」
外膜、界面活性剤、その単語の意味は知らないが、タビはイフィクラテスの言っていることをすぐに理解した。
なるほど、それは楽だ。タビは元いた家でやっていた洗濯の重労働さを知っている。川に行ってしゃがんで洗濯の板と格闘する毎日、腕や腰は痛くなるし、寒い日はあかぎれだらけになり、かじかむ手はものも掴めなくなってしまうほどだった。
それが、水と混ぜて少し放っておくだけで汚れが落ちるなんて、家事をやる人々が皆が皆、喉から手が出るほど欲しがりそうな代物だ。
そんなものを錬金術は作ってしまえる。まるで魔法のような技だ。しかし、それは現実に存在して、昨日イフィクラテスが言ったように——人を助けるために使われるのではないか。
タビは嬉しそうに顔を上げて、イフィクラテスを見上げる。
「それなら、できます」
「うん、えらいぞ。当番は週に二回だ」
「毎日じゃないんですか?」
「私たちは基本的に何でも当番制なの。公平にね」
つまりそれは、イフィクラテスとイフィゲネイアはタビを家事の手伝いのために連れてきたわけではない、という意思表示なのだ。
この二人は、本当にタビを錬金術師の弟子にしようとしている。そのことは、イフィクラテスの次の言葉ではっきりとする。
「さて、タビ。お前の当面の目標はこの指輪を使うことだ」
イフィクラテスは、さっきタビに見せたガラスの指輪を持っていた。すかさず、それをタビの手に押し付ける。
「これは錬金術で作った『共鳴器』というものだ。『共鳴器』とは、局地的にだが物質に対し共鳴現象を引き起こし、状態を励起させ指向性のあるエネルギーを生み出して、さらにその物質を安定化させるものだ。分かるか?」
「わ、分かりません」
タビは正直にそう告げた。ただでさえ難しい話をしているというのに、イフィクラテスの早口の解説など分かるわけがない。
しかし、イフィクラテスは気分を害した様子もなく、むしろ納得していた。
「そうだろうそうだろう。簡単に言えばだ、あらゆるものからこの指輪へとエネルギーを受け取ることができるようになる。つまり、錬金術の行使において必要なエネルギーは、すべてこれでまかなえる、ということだ」
そこまで言われても、タビはまだまだ理解できていなかった。イフィクラテスは仮面の下で笑って、タビの頭を撫でた。
「錬金術を学びはじめた今はまだ、これを持っているだけでいい。大切にしろ」
そう言って、イフィクラテスはガラスの指輪をタビの左手の親指にはめた。案外、それはぴったりで、日常生活で落ちたりはしなさそうだ。
「言っておくが、『共鳴器』の価値を理解できる錬金術師は、今現在この世界には俺たちを含め数人しかしないから、下手に他人に触れさせるな。もったいない」
「そうね。壊されても困るし、身を守るためにもあまり他人に見せないほうがいいわ」
それを聞いて、タビは困惑する。
「どうして、そんなものを、ぼくに?」
ガラスの指輪『共鳴器』がそんなに価値のあるものであれば大切に扱うべきで、まだ子供のタビに持たせることは間違っている。ふとしたことで割ってしまったり、失くしてしまったりするかもしれない。タビだってそのくらいのことは十分に承知している。
だが、イフィクラテスは重々しくこう言った。
「学ぶということは、目標が必要なんだ。『共鳴器』はお前にとって錬金術を学ぶためのきっかけだよ。ただ漫然と知識を受け入れるだけでは、学びとはならない。幸い、お前は好奇心が強く、考える力がある。ならば、目標さえ与えれば、ほんの少し背中を押してやるだけで、自力で何でも学んでいくだろう。そう思ったんだ」
だからこそ、イフィクラテスはタビへ最高の目標ときっかけを、そして錬金術を学ぶ環境を与えようとしている。タビがそれを知るのはもっとずっと先のことだが、少なくとも、今のタビもイフィクラテスが自分のために何だかとてもすごい贈り物をしてくれたことは分かった。
親指でキラキラ輝くガラスの指輪をじっと見つめ、タビはそれが何であるか、どういうものなのかを考える。
『何だかすごいもの』はなぜすごいのかを理解しなければならない。『共鳴器』がなぜそんな名前なのか、エネルギーとは何か、錬金術はこれをどうやって使うのか——今はまだ、それは途中でつまづいてしまうが、タビは考えることをやめなかった。
イフィクラテスとイフィゲネイアは、そんなタビへ、仮面からはみ出るようなニッコリとした笑顔を見せる。
「もちろん、俺とイフィゲネイアは全力でお前に錬金術を教えるから、心配するな!」
「大丈夫、錬金術の基礎からしっかりと教えてあげるわ」
こうしてタビは、錬金術を学ぶにあたって最高の教師と出会い、錬金術師の誰もが羨むような教えを受けることとなった。
何を言えばいいか、一生懸命考えた結果、タビはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「ぼく、名前は、タビです。十歳です。えっと、北のほうから来ました」
タビには、そのくらいのことしか分からない。
たとえ自分のことでも、まともに分かるのは名前とかろうじて年齢だけだ。その他のことなんて、必要な生活をしていなかった。親の名前だって知らない。
ただ、『双生の錬金術師』の二人はそれだけで十分だとばかりに頷いた。
「なるほど。よし分かった、俺はイフィクラテス、こっちがイフィゲネイア。これからよろしく頼む。ところでタビ、文字の読み書きはできるか?」
「できないです」
「なら、そこからだな。それと、家事はできるか?」
「掃除洗濯くらいなら、何とか……でも、あんまり上手じゃないです」
「掃除は適当でいい。問題は洗濯だ」
イフィクラテスは立ち上がり、ツカツカと歩いて棚にあった大きな瓶を引っ掴んだ。大きな瓶の胴体には『Purgat』と書かれたラベルが貼ってある。中には、紫色の飴玉のようなものがたくさん詰まっていた。
「いいか、これは洗濯用の洗剤だ」
洗剤。タビは初めて聞いた単語だった。洗濯に使う石鹸なら知っているが、紫色の飴玉は似ても似つかないから別物だということだろう。タビはイフィクラテスが大きな瓶から取り出した紫色の飴玉一つを手渡され、指でつついてみる。意外にもベトベトせず、プヨッとしたそれは、強く掴むと潰れそうだ。割れる前に、タビは急いでイフィクラテスに返す。
「これを洗濯桶に放り込んで、水と洗濯物とを軽く混ぜる。少し置いて、すすいで絞って干す」
イフィクラテスはそう得意げに言うものの、いまいちタビは要領を得ない。洗濯物は板でこすったり叩いたりして洗うもの、という観念があるからだ。
タビは尋ねてみた。
「あの、洗濯物をこすらないんですか?」
「ああ。この洗剤は錬金術で作ったもので、水に入れると溶ける外膜と特殊な界面活性剤を使っていて、汚れは四半刻ほど浸けて放っておくだけで浮き上がってくるんだ。あとはそれを泡が出なくなるまで洗い流すだけでいい、便利だろう?」
外膜、界面活性剤、その単語の意味は知らないが、タビはイフィクラテスの言っていることをすぐに理解した。
なるほど、それは楽だ。タビは元いた家でやっていた洗濯の重労働さを知っている。川に行ってしゃがんで洗濯の板と格闘する毎日、腕や腰は痛くなるし、寒い日はあかぎれだらけになり、かじかむ手はものも掴めなくなってしまうほどだった。
それが、水と混ぜて少し放っておくだけで汚れが落ちるなんて、家事をやる人々が皆が皆、喉から手が出るほど欲しがりそうな代物だ。
そんなものを錬金術は作ってしまえる。まるで魔法のような技だ。しかし、それは現実に存在して、昨日イフィクラテスが言ったように——人を助けるために使われるのではないか。
タビは嬉しそうに顔を上げて、イフィクラテスを見上げる。
「それなら、できます」
「うん、えらいぞ。当番は週に二回だ」
「毎日じゃないんですか?」
「私たちは基本的に何でも当番制なの。公平にね」
つまりそれは、イフィクラテスとイフィゲネイアはタビを家事の手伝いのために連れてきたわけではない、という意思表示なのだ。
この二人は、本当にタビを錬金術師の弟子にしようとしている。そのことは、イフィクラテスの次の言葉ではっきりとする。
「さて、タビ。お前の当面の目標はこの指輪を使うことだ」
イフィクラテスは、さっきタビに見せたガラスの指輪を持っていた。すかさず、それをタビの手に押し付ける。
「これは錬金術で作った『共鳴器』というものだ。『共鳴器』とは、局地的にだが物質に対し共鳴現象を引き起こし、状態を励起させ指向性のあるエネルギーを生み出して、さらにその物質を安定化させるものだ。分かるか?」
「わ、分かりません」
タビは正直にそう告げた。ただでさえ難しい話をしているというのに、イフィクラテスの早口の解説など分かるわけがない。
しかし、イフィクラテスは気分を害した様子もなく、むしろ納得していた。
「そうだろうそうだろう。簡単に言えばだ、あらゆるものからこの指輪へとエネルギーを受け取ることができるようになる。つまり、錬金術の行使において必要なエネルギーは、すべてこれでまかなえる、ということだ」
そこまで言われても、タビはまだまだ理解できていなかった。イフィクラテスは仮面の下で笑って、タビの頭を撫でた。
「錬金術を学びはじめた今はまだ、これを持っているだけでいい。大切にしろ」
そう言って、イフィクラテスはガラスの指輪をタビの左手の親指にはめた。案外、それはぴったりで、日常生活で落ちたりはしなさそうだ。
「言っておくが、『共鳴器』の価値を理解できる錬金術師は、今現在この世界には俺たちを含め数人しかしないから、下手に他人に触れさせるな。もったいない」
「そうね。壊されても困るし、身を守るためにもあまり他人に見せないほうがいいわ」
それを聞いて、タビは困惑する。
「どうして、そんなものを、ぼくに?」
ガラスの指輪『共鳴器』がそんなに価値のあるものであれば大切に扱うべきで、まだ子供のタビに持たせることは間違っている。ふとしたことで割ってしまったり、失くしてしまったりするかもしれない。タビだってそのくらいのことは十分に承知している。
だが、イフィクラテスは重々しくこう言った。
「学ぶということは、目標が必要なんだ。『共鳴器』はお前にとって錬金術を学ぶためのきっかけだよ。ただ漫然と知識を受け入れるだけでは、学びとはならない。幸い、お前は好奇心が強く、考える力がある。ならば、目標さえ与えれば、ほんの少し背中を押してやるだけで、自力で何でも学んでいくだろう。そう思ったんだ」
だからこそ、イフィクラテスはタビへ最高の目標ときっかけを、そして錬金術を学ぶ環境を与えようとしている。タビがそれを知るのはもっとずっと先のことだが、少なくとも、今のタビもイフィクラテスが自分のために何だかとてもすごい贈り物をしてくれたことは分かった。
親指でキラキラ輝くガラスの指輪をじっと見つめ、タビはそれが何であるか、どういうものなのかを考える。
『何だかすごいもの』はなぜすごいのかを理解しなければならない。『共鳴器』がなぜそんな名前なのか、エネルギーとは何か、錬金術はこれをどうやって使うのか——今はまだ、それは途中でつまづいてしまうが、タビは考えることをやめなかった。
イフィクラテスとイフィゲネイアは、そんなタビへ、仮面からはみ出るようなニッコリとした笑顔を見せる。
「もちろん、俺とイフィゲネイアは全力でお前に錬金術を教えるから、心配するな!」
「大丈夫、錬金術の基礎からしっかりと教えてあげるわ」
こうしてタビは、錬金術を学ぶにあたって最高の教師と出会い、錬金術師の誰もが羨むような教えを受けることとなった。
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