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第十五話 大人の話は難しい

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 結局、タビはシノンを屋敷の中に上げてしまった。

 何せ、タビがここに来る客を見るのは初めてだ。誰も訪れない平和な聖域だったはずが、まさかの強面冒険者によって破られた。

「ど、どうぞ」

 シノンへリビングの椅子を勧め、タビはそそくさと立ち去ろうとする。

 そこへ、シノンは声をかけた。

「おい」
「ひゃい!?」

 飛び上がって逃げ出そうとするタビへ、シノンは呆れた表情でこう言った。

「別に取って食いやしないから、落ち着け。お前、ダンジョンに潜ったことは?」

 シノンは存外落ち着いた口調で問いかけてきたため、タビはほんの少しだけ警戒心を緩めた。

 イフィクラテスからは、外部の人間に錬金術やダンジョンについてあまり詳細に語らないように、と言われている。別にこだわって秘匿しているわけではなく、自分の身を守るために余計な情報を漏らさないほうがいい、ということだった。

 師匠たちの客なら、話しても大丈夫だろうか。タビは怖々、答える。

「ダンジョンは、このあいだ、初めて」
「ほう、すごいな。あの二人についていったのか」
「師匠……イフィクラテスさんと」
「よくあの人と一緒にいて被害に遭わなかったな……」

 何だか同情されている。ラハクラッツといいシノンといい、タビが思う以上にイフィクラテスを危険人物扱いしている。それがタビにはちょっとだけ不可解だった。爆弾は使うし爆破はするが、それは必要に迫られてだから、とタビの中では納得の行動なのだが。

「それで、モンスターには遭遇したか? 危ない目には……まあ、遭っているだろうが、どうだった?」

 シノンの言うところの危ない目とは、ダンジョンのせいでなのか、イフィクラテスのせいでなのか判断に苦しむが、タビは前者だと判断した。

「ソクラテアっていうモンスターがいて……それで」

 そこまで言って、タビは少し迷う。『ラハクラッツの森』を守るモンスターのことをそう簡単に言ってもいいのかな、と逡巡していると、シノンは少し驚いた顔を見せた。

「まさか、倒したのか?」

 タビは慌てて問い返す。

「だ、だめだったんでしょうか」

 シノンは首を横に振る。

「いや、そうじゃない。ソクラテアはそれなりに冒険者泣かせのモンスターでな、どうやって倒した?」
「えっと、それは、『共鳴器レソナトール』で、切りました」

 タビは自分の右手親指にはめたガラスの指輪を見せる。そういえば、師匠たち以外に見せても分からないんじゃないか。しかし補足する説明が思いつかない、エネルギーを収束させて振動を起こして分解して、などと言って理解してもらえるだろうか。

 ところが、シノンにはそんな説明も必要なかったらしく、タビの主張を信じて——我が事のように嬉しそうに褒めてくれた。

「やるじゃないか。そうか、あの二人の弟子ならそのくらいは朝飯前か。お前の姉弟子も大概だからな」

 褒められて、タビの顔がぱあっと明るくなる。イフィクラテスとイフィゲネイア以外から褒められたのは、ここ数年なかったかもしれない。

 しかし、シノンの言葉には、気になる単語もあった。

「姉弟子……って?」
「ああ、お前より早く、『双生の錬金術師』の弟子になったやつがいる。ロッタというんだ」
「そうなんだ。どんな人ですか?」
「それは」

 シノンが今まさに語ろうとしていたそのときだった。

 バタンバタンと玄関の扉、リビングの扉がほぼ連続して開き、イフィクラテスがばーんと現れた。シノンを見つけて、イフィクラテスはさらにテンションが上がる。

「もう着いたのか! 早くて何よりだ!」

 その後ろから、イフィゲネイアが静かに現れた。イフィクラテスのこの乗りに乗った調子を、イフィゲネイアは特に止めない。

 そんな中、シノンは常識的に挨拶から始めた。

「久しぶりだな、イフィクラテス、イフィゲネイア。あんたたちの手紙を受け取ったロッタに頼まれて手近にいた俺が冒険者として来たんだが、俺のことは憶えているか?」
「ああ、憶えているぞ、シノン。ロッタが今もお前に世話になっていると聞いていたからな、それでちょうどいいと思ったんだ。お前ほど腕の立つ冒険者はそうはいない」
「買い被りすぎだ。それで、仕事の内容は?」

 イフィゲネイアが一歩踏み出し、タビを手で指し示しながら答える。

「ダンジョンでのタビの護衛と指導、護身術の特訓をお願いできるかしら?」

 まったく寝耳に水の話に、タビはキョロキョロと大人たちの顔色を窺うばかりだ。シノンとダンジョンへ? イフィクラテスとイフィゲネイアは? 脈絡の読めない話を何とか理解しようと、必死に耳を傾ける。

 シノンはこともなげに、依頼を承諾した。

「分かった。その前にまず、やりたいことがあるんだが」

 そう言って、シノンはポケットから折り畳んだ地図を取り出した。リビングのテーブルに広げ、手書きの文字と丸やばつ印の記号がびっしりと記されている地図の左上あたりを指差す。

「ここから北西に『アングルボザの磐座いわくら』というダンジョンがある。知り合いから依頼を受けていてな、先にそこへ行ってきてもいいか?」

 イフィクラテスとイフィゲネイア、そしてタビは地図を覗き込む。その地図はラエティア全域を描いており、各所の丸よりもはるかにばつ印が多く、シノンの指差した地図左上の丸も小さな三つのばつ印が付されていた。

 ざっと見て、この屋敷から半日も行けば、その指差した先、『アングルボザの磐座』に辿り着くだろうか。タビはまじまじとほつれた地図を見つめる。

「ふむ。何をしにいくんだ? わざわざお前ほどの冒険者がただ攻略に、というわけでもあるまい?」
「『アングルボザの磐座』周辺でモンスターの異常繁殖が確認されている。その原因調査だが、『アングルボザの磐座』内部の探索調査も込みで頼まれているんだ。多少時間はかかるが、そちらも緊急の案件でな」

 頭上で交わされるシノンとイフィクラテスの会話は、タビにとっては何だか聞き慣れない、難しい話だった。錬金術の話なら多少は難しくても理解できるが、それ以外はまだまだタビも知らないことばかりだ。

 そこへ、イフィゲネイアが手を挙げた。

「なら、私も行こうかしら。もちろん、タビもね」

 ちょっと出かけてくる、とばかりに、イフィゲネイアはそう言った。

 危険なダンジョン行きなのに、とタビでさえ思う。シノンも顔にそう書いていた。

 イフィクラテスは「そうか」と一言で済ませてから、注文をつけた。

「二人ともいないとなると俺が寂しいから、なるべく早く帰ってきてくれ。一泊二日くらいで」
「善処するわ。さ、行くわよ、タビ、シノン」

 イフィゲネイアの中では、もうとっくにダンジョン『アングルボザの磐座』へ行くことになっていた。イフィゲネイアの決定は絶対だ、イフィクラテスよりもその意思は揺るがない。タビは知っている。

 そうと決まれば、タビは急いでダンジョン行きの準備のためにリビングから走って出ていく。

 その背後で、こんなやりとりが聞こえていた。

「よし、爆弾はいるか?」
「いらないから茶をくれ。さっき着いたばかりなんだぞ」

 そういえばそうだった、シノンの言い分はもっともだ。

 タビは引き返して、全員分のお茶を淹れることにした。
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