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第八話
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ヘプタコルム『学園』大ホールでの演奏会は、マルシュアス王国楽団の協力もあって聴衆の拍手が鳴り止まない。ユージンの出番ともなれば、女子生徒たちが食い入るように見つめ、感涙していた——それを見てVIP席の偉い人々は苦笑していた。
しかし、司会の拍手を誘う定型句まで変えてしまうほど、観客席の人々は感動したようだ。
「素晴らしい演奏でした。皆様、万雷の拍手をありがとうございます」
名残惜しそうに、拍手はまばらとなっていく。
司会役の音楽教師が手元のメモを見て、次のプログラムへと移行の準備をする。
来た。舞台袖でカーテンに隠れて出番を待っていた私は、観客席最前列に堂々と座っている共犯者を見た。
やっぱり、ニキータはこの場で一番偉そうだ。うん、すごく。態度がすごい。足を組んで背を深く背もたれに預けて優越の笑み、もはやここの主人だろう。
それを見て私は緊張が解けた。きっとニキータは私が失敗するなんて思っていないだろう。もし失敗してもニキータは保険を用意していそうだが、そんな手間はかけさせない、と私は覚悟を決める。
司会が私を呼ぶ。
「ここで、ご報告がひとつございます。こちらへ、アスカーシャ嬢」
しんとホールは静まり返る。学生たちはなぜあの噂のメアリ・アスカーシャが、と言いたいだろうし、ヘプタコルムのお偉方は何か知っているかもしれない。招待された近隣の王侯貴族は、ああ、あのアスカーシャ王国の、見たことはないが、くらいに思うだろう。
何でもいいのだ。メアリ・アスカーシャは、ステージ上に飛び出る。
真ん中まで行って、一礼をして、私は久々に声を張る。
「私の元婚約者ユージン・ファーテイルの演奏、素晴らしかったですね。彼とは別の道を歩むことになりますが、どうぞお幸せに」
言った、言ってやった。
観客席はざわめく。私を知る人も、知らない人も、『元婚約者』という単語にはそういう習性を持っているかのように聞き耳を立てる。醜聞の気配を察した大人たちは興味津々だし、学生たちはざわめく。舞台袖にいるユージンの顔が見られないのは残念だ、楽団の面々の前でどんな顔色をしているだろうか。
これだけのお歴々の前で婚約者ではないと言っておけば、もう取り消せない。
私は、千を超える聴衆へ向けて自己紹介をする。
「私はメアリ・アスカーシャ。アスカーシャ王国第四王女です。このたびステュクス王国より次代の官僚の幹部候補生にとお誘いを受け、ステュクス王国に仕えることとなりました」
ざわめきが一層深く、広がる。
面白い、私の一言で人々へ面白いくらいに好奇の感情が波及していく。
「あのステュクス王国の官僚を……それほどまでの才女なのか?」
「しかし王女が? 婚約者、いや元婚約者はどうしている? ははっ、これはいい余興だ」
そんな声を、私は無視した。
ここからが重要なのだから。
「私は何の神の加護も由来する才能も持っておりません。しかし、ステュクス王国は私の能力や努力を認めてくださったのです。この世でもっとも聡明なる王と名高いステュクス王国国王アサナシオス陛下へ深く感謝を、そして私のあとに同じような境遇の人々が続くことを祈っております」
一気に言い切った私は、数瞬ののち、拍手の音を聞いた。
ニキータだ。ニキータが立ち上がり、ゆっくりと大きな拍手を打っていた。
そしてニキータは、能ある鷹は爪を隠していた、とばかりに、舞台俳優もかくやとばかりの声を大ホールへと響かせた。
「実にいい話だ。主神ステュクスは、神の加護や才能に驕る人間を好きになろうはずがない。その証拠に神託は下された。これより先の時代、神の加護とそれに由来する才能は失われていくだろう、と!」
ニキータは観客席へ向き直り、語りかける。ここは彼の独演場なのだ。すべての耳目がニキータに注がれる。
「諸君、メアリを見習いたまえ。優秀ならば出自は問わない。ステュクス王国はヘプタコルムの人材をいつでも受け入れる。ただし、当人が優秀ならば、だがね」
あのステュクス王国が、神の加護も才能もないただの少女を、その実力を認めて官僚に欲した。
この事実は、この場にいる誰もが認めがたいだろう。なぜ神の加護や才能に裏打ちされた優秀な人材ではなく、そいつなのか、と。そいつはそんなにも価値のある人間なのか、と。
しかし、たとえ常識や意思が拒んでいても、この場にいる人々は知ってしまっただろう。これから何が起きるか、神の加護が重視されなくなる世界になり、本人の能力だけが評価される世界となったとき——彼らは狼狽え、既得権益を守ろうとするだろうが、おそらく無駄な足掻きだろう。それに、ニキータが主神ステュクスを騙ることはあり得ないのだ。
なぜなら、彼の背負うその役目は、彼の身分は、彼の発言は、この場にいる誰よりも重い。
「申し遅れた。私はステュクス王国国王アサナシオスが一の家臣、ステュクス王家が末席に名を連ねる宰相ニキータ・ヘルメスだ」
私はちらっと、舞台袖を見た。
婚約破棄されたユージンの目を剥く表情、楽器を持ったままの楽団員たちが大口を開けて驚く顔。
観客席には思わず口を押さえる貴族の淑女、戦慄の表情を浮かべる貴族の集団、生徒たちの多くは何が起きたかも分かっていない。
ニキータの隣の席に座っていたベイリンが、私へ向けてウインクをしていた。してやったりの、イタズラ小僧の顔をしている。
この演奏会の主役をかっさらったニキータは、思う存分に喧伝する。
「端的に言おう。この大陸の覇権を握るステュクス王国の宰相は、天才メアリ・アスカーシャを部下に引き抜くためにやってきたようなものだとも。ははは、今日はいい日だ! あなたがたのその間抜け面が見たかったのだよ、この私は!」
何でそう敵役っぽいこと言うのかな、この人。
私の仕掛けた舞台のはずなのに、ニキータはすっかり衆目を集め切って大変ご満悦のようだった。
でも、これでよかったのだ。
ニキータのおかげで、重荷だった何もかもを捨てて、ここから出られるのだから。
しかし、司会の拍手を誘う定型句まで変えてしまうほど、観客席の人々は感動したようだ。
「素晴らしい演奏でした。皆様、万雷の拍手をありがとうございます」
名残惜しそうに、拍手はまばらとなっていく。
司会役の音楽教師が手元のメモを見て、次のプログラムへと移行の準備をする。
来た。舞台袖でカーテンに隠れて出番を待っていた私は、観客席最前列に堂々と座っている共犯者を見た。
やっぱり、ニキータはこの場で一番偉そうだ。うん、すごく。態度がすごい。足を組んで背を深く背もたれに預けて優越の笑み、もはやここの主人だろう。
それを見て私は緊張が解けた。きっとニキータは私が失敗するなんて思っていないだろう。もし失敗してもニキータは保険を用意していそうだが、そんな手間はかけさせない、と私は覚悟を決める。
司会が私を呼ぶ。
「ここで、ご報告がひとつございます。こちらへ、アスカーシャ嬢」
しんとホールは静まり返る。学生たちはなぜあの噂のメアリ・アスカーシャが、と言いたいだろうし、ヘプタコルムのお偉方は何か知っているかもしれない。招待された近隣の王侯貴族は、ああ、あのアスカーシャ王国の、見たことはないが、くらいに思うだろう。
何でもいいのだ。メアリ・アスカーシャは、ステージ上に飛び出る。
真ん中まで行って、一礼をして、私は久々に声を張る。
「私の元婚約者ユージン・ファーテイルの演奏、素晴らしかったですね。彼とは別の道を歩むことになりますが、どうぞお幸せに」
言った、言ってやった。
観客席はざわめく。私を知る人も、知らない人も、『元婚約者』という単語にはそういう習性を持っているかのように聞き耳を立てる。醜聞の気配を察した大人たちは興味津々だし、学生たちはざわめく。舞台袖にいるユージンの顔が見られないのは残念だ、楽団の面々の前でどんな顔色をしているだろうか。
これだけのお歴々の前で婚約者ではないと言っておけば、もう取り消せない。
私は、千を超える聴衆へ向けて自己紹介をする。
「私はメアリ・アスカーシャ。アスカーシャ王国第四王女です。このたびステュクス王国より次代の官僚の幹部候補生にとお誘いを受け、ステュクス王国に仕えることとなりました」
ざわめきが一層深く、広がる。
面白い、私の一言で人々へ面白いくらいに好奇の感情が波及していく。
「あのステュクス王国の官僚を……それほどまでの才女なのか?」
「しかし王女が? 婚約者、いや元婚約者はどうしている? ははっ、これはいい余興だ」
そんな声を、私は無視した。
ここからが重要なのだから。
「私は何の神の加護も由来する才能も持っておりません。しかし、ステュクス王国は私の能力や努力を認めてくださったのです。この世でもっとも聡明なる王と名高いステュクス王国国王アサナシオス陛下へ深く感謝を、そして私のあとに同じような境遇の人々が続くことを祈っております」
一気に言い切った私は、数瞬ののち、拍手の音を聞いた。
ニキータだ。ニキータが立ち上がり、ゆっくりと大きな拍手を打っていた。
そしてニキータは、能ある鷹は爪を隠していた、とばかりに、舞台俳優もかくやとばかりの声を大ホールへと響かせた。
「実にいい話だ。主神ステュクスは、神の加護や才能に驕る人間を好きになろうはずがない。その証拠に神託は下された。これより先の時代、神の加護とそれに由来する才能は失われていくだろう、と!」
ニキータは観客席へ向き直り、語りかける。ここは彼の独演場なのだ。すべての耳目がニキータに注がれる。
「諸君、メアリを見習いたまえ。優秀ならば出自は問わない。ステュクス王国はヘプタコルムの人材をいつでも受け入れる。ただし、当人が優秀ならば、だがね」
あのステュクス王国が、神の加護も才能もないただの少女を、その実力を認めて官僚に欲した。
この事実は、この場にいる誰もが認めがたいだろう。なぜ神の加護や才能に裏打ちされた優秀な人材ではなく、そいつなのか、と。そいつはそんなにも価値のある人間なのか、と。
しかし、たとえ常識や意思が拒んでいても、この場にいる人々は知ってしまっただろう。これから何が起きるか、神の加護が重視されなくなる世界になり、本人の能力だけが評価される世界となったとき——彼らは狼狽え、既得権益を守ろうとするだろうが、おそらく無駄な足掻きだろう。それに、ニキータが主神ステュクスを騙ることはあり得ないのだ。
なぜなら、彼の背負うその役目は、彼の身分は、彼の発言は、この場にいる誰よりも重い。
「申し遅れた。私はステュクス王国国王アサナシオスが一の家臣、ステュクス王家が末席に名を連ねる宰相ニキータ・ヘルメスだ」
私はちらっと、舞台袖を見た。
婚約破棄されたユージンの目を剥く表情、楽器を持ったままの楽団員たちが大口を開けて驚く顔。
観客席には思わず口を押さえる貴族の淑女、戦慄の表情を浮かべる貴族の集団、生徒たちの多くは何が起きたかも分かっていない。
ニキータの隣の席に座っていたベイリンが、私へ向けてウインクをしていた。してやったりの、イタズラ小僧の顔をしている。
この演奏会の主役をかっさらったニキータは、思う存分に喧伝する。
「端的に言おう。この大陸の覇権を握るステュクス王国の宰相は、天才メアリ・アスカーシャを部下に引き抜くためにやってきたようなものだとも。ははは、今日はいい日だ! あなたがたのその間抜け面が見たかったのだよ、この私は!」
何でそう敵役っぽいこと言うのかな、この人。
私の仕掛けた舞台のはずなのに、ニキータはすっかり衆目を集め切って大変ご満悦のようだった。
でも、これでよかったのだ。
ニキータのおかげで、重荷だった何もかもを捨てて、ここから出られるのだから。
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