『奇跡の王女』と呼ばないで

ルーシャオ

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第一話 セレネの憂鬱

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 イースティア王国、王立貴族学校のとある寮の一室でのことだ。

「ああ、実家に帰りますと言えたらどんなにいいかしら!」 

 セレネは寮の自室でベッドに倒れ込み、シーツを両手で掴んで、ムニムニと揉みしだきながら独り叫んだ。

 ごく明るい金髪は見事な癖っ毛で、三つ編みにしているのにあちこち撥ねて先端まで光る。別に光らせているわけではないのだが、近くの照明や太陽の光を全部吸収してきたかのように、少しでも明かりのある場所では光っているように見えるのだ。それほど細く、明るい金髪をしている。

 それはさておき、むすっとした顔を上げたセレネは、本日の朝起きたばかりの不愉快な出来事を思い出す。先ほどから何度も思い出しては怒りのぶつけどころがなくてシーツを揉んでいるのだが、同室であり今は不在の同級生パラスティーヌには「お行儀が悪いからやめなさい、猫じゃないんだから」とよく叱られている。

 そう、セレネの怒りにはちゃんと理由があり、不条理さが怒りの矛先を失わせている。

「家に帰りたい……この理不尽な社会なんて滅びてしまえ……私のせいじゃないもん……」

 思春期真っ只中の十五歳の少女セレネは、社会に依存する貴族身分のくせにそんなことをのたまうのである。

 サンレイ伯爵嫡子、ベルネルティ公爵家預かりの貴族令嬢セレネ・サンレイ。それがセレネの貴族としての身分であり、名前だ。

 家の事情で遠縁のベルネルティ公爵家に預けられてはや十年。とっても厳しい養父のベルネルティ公爵が、世間を見てこいとセレネへ貴族学校入学を命じてまだ数ヶ月だが、すでにセレネは退学したくてしょうがない。

 なぜなら、セレネの婚約者候補であったジャン=ジャック・マードック——ド・ヴィシャ侯爵家預かりの天才が恋仲と思しき女性と歩いているところを見てしまったからだ。

 確かに、まだセレネはジャンの婚約者ではない。というか、諸々の家の事情があってセレネが実家に帰れないのと同様、ジャンもまたド・ヴィシャ侯爵の婚外子という微妙な立場から、さっさとどこかに婿入りする話を決めたいがためにちょうどいいセレネとくっつける話が出ているだけだ。

 つまり、外野が盛り上がっているだけで、セレネもジャンもまだお見合いすら行っていないのである。ジャンに至ってはすでに恋人がいるらしいのだから、いきなりどこぞの貴族令嬢の小娘を連れてこられても困惑するだけだろう。

 セレネだって、それは分かっている。社会の仕組み、物事の道理が分からないほど愚鈍ではない。

 だが、思春期の少女の心は傷ついた。

 つまり、それとこれとは話が別だ。

「あー、これみよがしに私の目の前でいちゃいちゃするカップルは全員国外追放とかにならないかな……そうすれば、ジャンと恋人のユーギットの顔を見ずに済むのに。というか、私が他所に行けばいいんだけどさ、だけどさ! だから実家に帰りたいのに!」

 もはや思考が支離滅裂になってきたが、セレネはシワだらけのシーツを握りしめたままだ。ぐるぐる勝手に回る思考をどうにか抑えたくて、でもどうすればいいのかさっぱり見当もつかない。

 はあ、と大きなため息がセレネの口をついて出てきた。世の中は理不尽である、何もかもが自分の意思とは関係のないところで突っ走る。

 ジャン=ジャックという男は、貴族学校の生徒ではなく、大学院生の数学教師だ。優秀な成績を収めた生徒が受けられる、王立大学校の授業料免除の奨学生スカラーであり、その頭脳を買われて貴族学校へ数学を教えに来ている。

 何だか歳を食っているように聞こえるが、ジャンの年齢は十六歳だ。セレネと一歳しか変わらず、なのにすでに飛び級で大学、大学院にまで進学し、天才の呼び名高い。数学は若いうちじゃないといい頭の働きができないそうで、彗星のごとく現れた若き天才はあちこちで引っ張りだこだ。

 ちなみに、ジャンはそこそこ顔もよく、十六歳だが大人びていて背も高い。すすけたような灰色の髪はいただけないが、将来有望であることは間違いないので女子の人気もある。

 そこまで考えて、セレネははたと気付いた。

「……そんな恵まれた人間が、私と結婚なんてする? するわけないでしょ! 人をバカにするのも大概にしてよね! まったく!」

 もはや、ため息さえ出ない。セレネが何をしようと、ユーギットという美人の伯爵令嬢に勝てないことも含め、何もかもが理不尽だ。

 しかし、セレネに何ができるかと考えても、何も思いつかないのだ。婚約が成立するにせよ、破談になるにせよ、それともジャンが婚約を受け入れて浮気を続けようと、ただの貴族令嬢にすぎないセレネに一体何ができるというのだろう。

 なので、こうすることにした。

「そうだ、やっぱり帰ろう。明日はお休みだし、一時帰宅くらい寮長も許してくれるでしょ……一応、お養父様とうさまにも連絡入れればまあ、連れ戻しにはこないだろうし」

 セレネにはもう、問題の棚上げしかできない。一旦考えることをやめて、リフレッシュしたほうがいいのだ。

 そうと決まれば、セレネの行動は早かった。さっさと荷物をまとめ、小型トランク一個を持って寮長のところへ向かい、適当に理由をでっち上げて一時帰宅の許可を得た。さらに走り書きの手紙を郵便ポストに放り込んで、準備完了だ。

 あとは素知らぬ顔で大通りにある待合馬車に乗り込んで、久々の実家に帰宅だ。

 そう、実家——サンレイ伯爵家ではなく、ベルネルティ公爵家でもなく——セレネの向かう先は、王都の郊外だった。
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